理文先生のお城がっこう 歴史編 第11回 元寇のために築かれた防塁の跡

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、文永の役(えき)・弘安の役と二度にわたって行われた、元(げん)による日本侵攻(しんこう)、元寇(げんこう)。それにより築(きず)かれた防塁(ぼうるい)の跡について解説します。

文応(ぶんおう)元年(1260)、元の初代皇帝(こうてい)フビライ=ハンは、付き従(したが)うようになった高麗(こうらい)(=10世紀から14世紀に朝鮮半島に存在した王朝)を通じて、日本に使者(ししゃ)を派遣(はけん)してきました。鎌倉幕府(かまくらばくふ)と朝廷(ちょうてい)は、合計4度も送られてきた国書(こくしょ)(一国の元首(げんしゅ)(=国の代表)がその国の名をもって発する正式な法律的な効力を持つ文書)を無視(むし)して取り合いませんでした。無視され続けた元は、対話(たいわ)は無理だと判断(はんだん)して、ついに武力(ぶりょく)をもって攻(せ)め入ることを決定します。

文永の役

文永(ぶんえい)11年(1274)、3万の元軍(げんぐん)が博多湾沿岸に上陸しました。元軍は、火薬を使用し兵士が個々でバラバラに戦う我が国とは違い、陣形(じんけい)(=隊列(たいれつ))を組んで、互(たが)いに組織的(そしきてき)に戦うという集団戦法で日本軍を苦しめました。夜になって、船に戻った元軍ですが、突然(とつぜん)(おそ)ってきた暴風(ぼうふう)で大打撃(だいだげき)を受けたため、戦うことが出来なくなり退却(たいきゃく)したと言われています。後にこの戦いは、文永の役(えき)と呼(よ)ばれました。

年が明けた建治(けんじ)元年(1275)から弘安(こうあん)2年(1279)にかけて、元から数度使者が来日しましたが、時の執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね)は見せしめのために、全員の首を切り落としています。正式な使者が、見せしめのために殺されたことに腹を立てたフビライは、もう一度日本に攻め寄せることを計画します。弘安(こうあん)4年(1281)、前の戦いの3倍にもあたる14万人の軍隊を組織し、元軍は再び日本へと向ったのです。


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『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)(国立国会図書館ウェブサイトから転載

竹崎季長(たけさきすえなが)が志賀島へ向けて、生の松原(いきのまつばら)を出発する場面です。赤い鎧(よろい)の騎馬武者(きばむしゃ)が季長で、その奥で石築地(いしついじ)に腰掛(こしか)け、赤い扇子(せんす)を手にしているのは肥後国(ひごのくに)の有力御家人(ごけにん)菊池武房(きくちたけふさ)です。

石築地の構築(こうちく)

再び元軍が襲って来る場合に備え、幕府は我が国を守るための仕組みを整えていました。元軍の上陸が予想される博多湾(はかたわん)沿岸(えんがん)の今津(いまづ)から箱崎浜(はこざきはま)まで約20㎞にわたり、簡単に上陸出来ないようにするための「石築地(いしついじ)」(後に元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ばれます)を組み立てて築き上げました。

築地が築かれた場所は、福岡市の名島(なじま)から東には無いとか、長崎県の平戸(ひらど)から今の山口県にあたる長門国(ながとのくに)まで築かれたなど、様々な説があります。石築地は、九州地方に領地(りょうち)を与(あた)えられた各御家人に割り当てられ半年で完成したと言われています。

生の松原地区、元寇防塁
生の松原地区の修理・復元(ふくげん)された元寇防塁。右側が、現存(げんぞん)する石築地で、左側約50mが当時の高さに復元された石築地です

石築地は、与えられた領地一段(約300坪、3000㎡)につき、一寸(3㎝)を築くように割り当てられました。命令された御家人たちが、自分のやり方で積み上げたため、そこかしこで積み方が異なっています。その後も、異国警固番役(いこくけいごばんやく)(=守護の命令に従い、一定期間博多湾など元が襲って来そうな海岸線を警備する役目)として交替(こうたい)で警備(けいび)にもあたっています。警備体制は、弘安の役の後も、元の三度目の襲来が予想されたためそのまま続けられました。

石築地も崩れるとすぐに修理(しゅうり)されたり、海岸線が移動すると、それに併(あわ)せて改築(かいちく)されたりしています。石築地の大きさは、高さが2~3m、幅が2m程で、内側に砂と粘土を詰(つ)めて突き固め、守備する兵士が自由に移動出来るように、幅1間(約1.8m)ほどの通路を設けていました。西南学院大学構内(こうない)で発見された石築地は、通常の石塁(せきるい)だけでなく、約1㎞内陸側に石塁と並行(へいこう)する土塁を造(つく)って、2列にして守るという珍(めずら)しいタイプでした。現在も、地中に埋もれたままの防塁も多く、今後さらに調査が進めば、より詳(くわ)しい状況(じょうきょう)が判明(はんめい)してくることと思われます。

石築地
修理・復元された石築地の背後。海側に石を約2.5mの高さに積み上げ、後ろは土と砂を突き固めていました。発掘調査の結果などにもとづき、一段下がった通路が復元されています

弘安の役

弘安の役(弘安41281)では、この石築地を造り上げたことで、元軍も簡単に上陸することが出来ませんでした。また、文永の役で一度元軍の戦法を経験していたため、鎌倉武士団たちは、その時その場に応じて奇襲や待ち伏せするなどの、相手をかき乱す戦法を使って、戦いを優位(ゆうい)に進めていました。

遅れてきた江南(こうなん)(=中国の長江の南岸地域)軍が合流して体制が整った直後、暴風雨が博多湾を直撃しました。蒙古(もうこ)軍の大船隊(せんたい)の大部分は大波で海中に沈み、多くの兵士は溺(おぼ)れ死んだと言われています。再び、日本は救われたのです。

この戦の後、幕府は元軍がまた攻めてくることに備え、御家人の指導や制限を進めて、地方の武士を戦いのために集める権限(けんげん)をもち全国的支配(しはい)を確立(かくりつ)しました。しかし、元軍と戦うために九州まで出陣(しゅつじん)した御家人たちは多くの犠牲(ぎせい)をはらいながら、十分な恩賞(おんしょう)(=領地やお金)がもらえませんでした。そのため、貧乏(びんぼう)な暮らしをするようになり、幕府への不満をいだくようになったのです。幕府のお金も、元と戦う準備や戦い、再び襲って来る時に備えた支出(ししゅつ)によって行き詰(つま)ってしまいます。貧乏暮らしが続いた御家人たちは、幕府の政治に不満を持つようになり、悪党(あくとう)(=幕府や荘園領主の命令に従わず反抗した武士集団)の活動なども活発になりました。こうした動きが鎌倉幕府滅亡(めつぼう)に繋(つな)がっていくことになります。


〈コラム〉逃(にげ)の浦の石塁

長崎県松浦市の城山(刈萱(かるかや)城跡)山麓(さんろく)の鷹島(たかしま)に面する海面と陸地の境界(きょうかい)線には、石を積み上げた石塁が北岸の金倉から約1㎞に渡って残り、昔から元寇の時につまれた防塁だと言われてきました。しかし、昭和の初めの台風被害で、近くの星鹿浦(ほしかうら)防波堤(ぼうはてい)(=海から打ち寄せる波を防ぐために海の中に造られた構造物)が決壊(けっかい)してしまいます。修理に際(さい)し、沖合にたくさん残る石材を運んだそうです。また、第二次世界大戦の時にも石材が運び出されたといいます。こうしたことによって、大波が直接防塁に当たるようになったため、多くが崩れてしまったそうです。そんな中「逃(にげ)の浦の石塁」と呼ばれる箇所だけが、原形を保った状態(じょうたい)で残ったと言われます。

「逃の浦の石塁」は、海面側の高さ約2mで、石塁の幅が50㎝前後、内側の高さは1m程です。現在残る石塁の総延長は300mほどです。石塁の内側には幅5mほどの平坦地が残り、ここを御家人たちが攻撃スペースとして使ったと言います。こうした石塁は、松浦市から平戸市田平(ひらどしたびら)の海岸にかけても、多く残されているそうです。

地元の伝承(でんしょう)では、異民族(いみんぞく)(=元の兵士たちのこと)から自分たちの郷土(きょうど)を守るために、領民(りょうみん)までもが領主(りょうしゅ)に協力して築き上げた「元寇防塁」とされていますが、残念なことにしっかりとした証拠(しょうこ)は見つかっていません。

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逃の浦の石塁(元寇防塁)長崎県松浦市星鹿町岳崎免。現存しているのは、300mほどですが、ほとんどが藪(やぶ)に埋(う)もれてしまっていて観察するのが困難でした。実際に石塁だとわかるのは20mほどです


歴史編 次回は、「南北朝時代の山城1」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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