2019/05/24
理文先生のお城がっこう 歴史編 第12回 南北朝時代の山城 1
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」歴史編。今回は、南北朝時代の悪党勢力がどのように勢力を増し、山城を築き、幕府を倒そうとしたのかについて解説します。
■理文先生のお城がっこう
前回「第11回 元寇のために築かれた防塁の跡」はこちら
元のフビライ=ハンが2度にわたって攻め寄(せめよ)せ、博多で戦った「元寇(げんこう)」によって、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の影響力(えいきょうりょく)は弱まることになりました。九州まで出陣(しゅつじん)し、元軍と戦った御家人(ごけにん)たちは多くの犠牲(ぎせい)をはらいながら、十分な恩賞(おんしょう)(領地やお金)がもらえなかったため、幕府(ばくふ)の政治(せいじ)に不満(ふまん)をいだくようになってきたのです。
幕府の力が弱くなったことで、西日本を中心に悪党勢力(あくとうせいりょく)(幕府や荘園領主(しょうえんりょうしゅ)に反抗する地頭(じとう)、御家人、非御家人(ひごけにん)、名主 (みょうしゅ)などの集団)がほしいままに振舞(ふるま)うようになりました。
悪党勢力の台頭
仕(つか)えるべき主人(しゅじん)を持たず、領地(りょうち)もなく、いろんな所にお金で雇(やと)われ一定期間(いっていきかん)、戦闘(せんとう)や闘争(とうそう)に参加する集団(しゅうだん)だった悪党(あくとう)は、やがて大きな勢(いきお)いと力だけでなく、お金までも身につけるようになったのです。悪党たちは、山の中から出ることなく、乱暴(らんぼう)な行為(こうい)によって、奪(うば)い取った生活をしていくうえで、必要(ひつよう)な品物や資材(しざい)を人目に触れないように隠(かく)しておきました。彼らのおもな活動場所は山の中で、待ち伏(ぶ)せや予想(よそう)しない襲(おそ)い方が便利な、険(けわ)しい場所だったのです。悪党(あくとう)たちは、山から出ないで生活するうち、いつしかそこが生活する場所となり、戦いに対応するための山の中の城になっていきました。幕府や荘園領主(しょうえんりょうしゅ)に従(したが)うことのない、武器(ぶき)を持った集団に近づき一緒(いっしょ)になって、幕府を倒(たお)そうと考えたのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)でした。
山々が連(つら)なる場所 悪党た ちの本拠地でした(写真は、吉野山に連なる山々)
後醍醐天皇と楠木正成
後醍醐天皇が後に、重要な仕事を任(まか)せて、高い地位につかせて用(もち)いた楠木正成(くすのきまさしげ)は、いうなれば悪党勢力を導(みちび)く役割を担(にな)うリーダーだったのです。正成の本拠地(ほんきょち)赤坂(あかさか)の地は、平地がなく狭い谷が金剛山(こんごうさん)の山中へ入る所でした。三方が山に囲まれる地形は、守りやすく攻めがたい地形でもありました。南北朝(なんぼくちょう)時代の山城(やまじろ)は、傾斜(けいしゃ)が急で険しい地形そのものが城だったのです。見晴らしや敵を攻めやすくするため、木を切って外に出し、芝居(しばい)や見世物(みせもの)を見るような仮(かり)の建物を造(つく)り、簡単な柵(さく)を設(もう)けただけでした。戦国時代の山城のように一つで城の役割りを果たせなかったため、尾根続きに造った簡単な砦(とりで)を、いくつも集めてできていました。尾根が続く場所の1つを出入口として、敵の攻撃(こうげき)を1つの方向に制限(せいげん)しておき、危険だと判断(はんだん)したら、すぐに尾根(おね)を伝わって安全な場所へ退(しりぞ)いて、さらに危険と思ったら山の中に隠(かく)れてしまうのが、彼らの普通(ふつう)の戦い方でした。
上赤坂城本丸跡の石碑(せきひ)。大阪平野(おおさかへいや)が一望できます
赤坂・千早城攻防戦
こうした守りやすく攻めがたい山城の性質(せいしつ)や地形をフルに生かした戦いが、よく言われる「赤坂・千早城攻防戦」です。幕府軍は、山を大人数で取り囲んで上赤坂城を攻め落として、千早(ちはや)城に圧倒(あっとう)するような勢いで近づきました。『太平記(たいへいき)』(南北朝時代の全40巻の軍記物語。作者は解っていません)が伝えるところによると、幕府軍は百万人にもの人数になっていたと言います。立て籠(こ)もっている千早城は、周りが4㎞にも足りない小さな城で、守っている人数はわずか千人ほどでした。
城は千早川に挟まれた地形を利用し、北に北谷、東南に妙見谷(みょうけんだに)、東に風呂谷(ふろだに)があって、四方を深い谷が囲(かこ)む要害(ようがい)です。わずかに城の後方(こうほう)に金剛山頂(こんごうさんちょう)へと通じる山の中の細い道がありました。小さな城でしたが、山の奥にあって険しい地形であったため、幕府軍は大軍(たいぐん)を持て余(あま)すだけだったと言われています。そのため、一度に攻撃可能な人数は、千人程度でしかなく、しかも斜面(しゃめん)の中腹(ちゅうふく)まで登らないと城へとたどり着くことができなかったのです。
幕府軍の武士(ぶし)たちは、馬に乗って戦うことがほとんどだったので、徒歩(とほ)で戦うことには慣(な)れておらず、この困難(こんなん)を乗り越えようと一心に頑張(がんば)りました。しかし、斜面に取りついていると、山の上から雨のように矢を射(い)かけられ、大きな石や巨大な材木が投げ落とされたのです。城攻めのための木製(もくせい)の梯子(はしご)の上には、油をかけられ火矢(ひや)で攻撃されました。野宿(のじゅく)していると、突然少人数で襲ってきては、すぐに逃げていきます。昼夜問わず、こうした戦いをしてくるため、幕府軍はどんどん死傷者(ししょうしゃ)が増(ふ)えて行ったのです。不利な戦いになったため、幕府軍は城を取り囲んで、敵方(てきがた)の食糧(しょくりょう)を補給(ほきゅう)する道をふさいで、ためている食べ物を失くす作戦に切り替(か)えました。そのため、戦いは時間をかけざるを得(え)なくなってしまったです。
千早城四の丸跡 。三方を深い谷が囲み、残りの一方は金剛山頂(こんごうさんちょう)へ連なる尾根となっています
鎌倉幕府滅亡
正成が必死(ひっし)に戦っているとの知らせに、西日本や九州では多くの豪族(ごうぞく)が次々と幕府に対して暴動(ぼうどう)・反乱(はんらん)を起こしたのです。後醍醐天皇も流されていた隠岐(おき)を脱出(だっしゅつ)し、船上山(せんじょうさん)で兵を集めて反乱軍を組織(そしき)しました。一方、高野山へ落ち延(の)びていた護良親王(もりよししんのう)は、御家人ではない人たち、悪党、山の中で生活して苦しい修行する修験(しゅげん)者を味方につけて、千早城を包囲(ほうい)する幕府軍の足りなくなった物資(ぶっし)を送る道を封鎖(ふうさ)しました。戦いに使う武器などは、山中の交通路に詳しい悪党どもが奪い取りました。こうした混乱の中、足利高氏(あしかがたかうじ)が幕府の命令に背き、幕府の京都の拠点(きょてん)であった六波羅探題(ろくはらたんだい)(京都にいる朝廷を監視し、西国(尾張より西)の武士を取り締まるため、鎌倉幕府が京都に置いた役所のことです)を攻め落としたのです。六波羅が攻め落とされたことを知った千早包囲(ほうい)軍は、ばらばらになって逃げたため、城攻めは失敗(しっぱい)してしまいます。その頃、鎌倉では新田義貞(にったよしさだ)軍が攻め込み、執権(しっけん)・北条高時(ほうじょうたかとき)らが自害(じがい)してしまいます。こうして鎌倉幕府はあっという間に滅(ほろ)び去ってしまいました。
船上山合戦のようすを描(えが)いた絵(琴浦町観光協会(ことうらちょうかんこうきょうかい)HPより)
船上山屏風岩 (びょうぶいわ)を望む 。 大山系の1つで標高 687m。 山岳霊場(さんがくれ いじょう) として、 奈良時代に 赤衣上人 (あかぎぬしょうにん) か智積上人 (ちしゃくょうに ん) によって 、智積寺(ちしゃくじ)として 創建(そうけん) されたと伝えられています(琴浦町観光協会提供)
南北朝の山城
後醍醐天皇を中心にした貴族(きぞく)の政治は、長続きすることなく乱れた世が続く時代が始まりました。吉野へ逃げた後醍醐天皇を中心とする南朝勢力は、密教(みっきょう)(空海(くうかい)・最澄(さいちょう)が伝えた真言宗(しんごんしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)の教えで、特に災難(さいなん)や病気などから身を守るために山に籠って心身を鍛え、神仏に祈ることが重視された教え)勢力と一緒になって再び山へと籠ることになります。
後醍醐天皇は、戦いを始めた時から、笠置寺(かさぎでら)(京都府笠置町)を城として利用したり、船上山城(鳥取県大山町)へ入ったりと元々密教寺院と深い関係を持っていました。これ以後、全国各地のあちこちに散らばっている深い山の中にある密教系寺院を利用して城に改修し、戦いを続けること南朝の重要な作戦になっていきます。
城に改修(かいしゅう)した代表的な例として、霊山城(りょうぜんじょう)(福島県霊山町)や大平城(おいだいらじょう)(静岡県浜松市)、摩耶山城(まやさんじょう)(兵庫県神戸市)などがあります。こうした、山岳密教系寺院は、修験(しゅげん)のための寺であったため地形がけわしく守りに有利な場所に位置しており、僧侶(そうりょ)が集まって、仏道(ぶつどう)の修行(しゅぎょう)をするための建物があったため、城に改修するのは難しいことでなかったのです。
天皇家(てんのうけ)に近い僧(そう)や修験者が常に住んでいたこと、お寺同士の特別なネットワークも使うことが出来ました。また、修験者が行き来する山の中の道は、誰も知らない秘密の移動ルートだったのです。谷に囲まれた山奥(やまおく)の地形を上手に使って、山の中に籠ったのです。身に危険が迫れば、普通の人が知らない隠れた山の中の道を使って、別の安全な山へと移り住んで反抗を繰り返したのです。山の中へ入ったまま出て来ないでいることが、南北朝の山城の特別な性質だったのです。
霊山(りょうぜん)は 福島県伊達市(ふくしまけんだてし)と相馬市(そうまし)との境(さかい)にそびえる標高(ひょうこう)825mの山です。 平安時代初期(しょき)に円仁 (えん にん) によって開かれ、 天台宗(てんだいしゅう) の拠点(きょてん)として栄え、最盛期(さいせいき)は 3600坊(ぼう)があったそうです(画像は伊達市観光物産交流協会: だてめがねより転載)
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。