理文先生のお城がっこう 歴史編 第13回 南北朝時代の山城 2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、南北朝時代の山城の2回目。南北朝時代にはどんな戦いが行われていたのでしょうか。戦いや山城(やまじろ)について解説します。



■理文先生のお城がっこう
前回「第12回 南北朝時代の山城 1」はこちら

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)、地方ではどんな戦いがくり広げられていたのでしょう。その代表的な例(れい)として、南朝方の活動の中心の一つであった遠江(とおとうみ)・駿河(するが)(現在の静岡県)の様子を見ておきたいと思います。前回で触(ふ)れたように、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、密教(みっきょう)を信仰(しんこう)する寺院(じいん)の集団と強い関係を持っていました。そのため、各地の山深い地に散らばっていた寺を城(しろ)のように改修(かいしゅう)して、山の中での戦いを続けたのです。遠江で有名な南朝方の活動場所は、鴨江寺(かもえじ)大平城(おいだいらじょう)三岳城(みたけじょう)千頭峯城(せんとうがみねじょう)などでした。

三岳山
標高(ひょうこう)約467m三岳山山頂に城が築かれていました。城が築(きず)かれるより以前から山の中で修行(しゅぎょう)が行われており、御嶽(みたけ)と呼ばれていました

遠江南朝方の戦い

鴨江寺(静岡県浜松市中区)は、元弘3年(1333)に、後醍醐天皇より「寺が持っている領地(りょうち)を保証します」という綸旨(りんじ)(天皇の命令書)を受けており、南朝勢力(せいりょく)のお寺でした。

大平城(浜松市浜北区)からは、平安(へいあん)時代末~戦国期にかけての焼き物や器が見つかり、さらに身分の高い僧侶(そうりょ)たちが使用した中国で焼かれた焼き物も見つかっています。高い山の中ではなく、比較的、登りやすい山腹を選んでつくられたお寺の跡(あと)と考えられています。

三岳城(浜松市北区)も、山頂部で見つかった焼き物や器から、現在中腹にある三岳神社より以前の神社の建物があった場所だと言われます。現在、千頭峯城(浜松市浜北区)と言われる城は、戦国時代の堀(ほり)や土塁(どるい)が残っており、南北朝時代の城ではないことがわかっています。

南北朝時代の千頭峯城は、周囲に広がる山の上にあったと推定(すいてい)されます。現在の城跡(しろあと)の西側の山中、標高200mの場所で、伝・真萱寺跡(まかやじあと)が確認されており、周辺域(いき)に中世段階(だんかい)のお寺があったことが確実です。

大平城
大平城の看板と説明版 
三岳城の東側を守るための支城で、暦応2年(1339)、遠州灘から上陸した高師泰(こうのもろやす)が率(ひき)いる北朝軍の攻撃を受けますが、持久戦で1年近く耐(た)え抜きました。遠江南朝で最後に落城(らくじょう)した城です

このように、南朝に味方した遠江の武士たちは、古くから残っている山の中の寺を城に改修して守りを固め、北朝方と張(は)り合っていました。遠江の南朝方は、山中で修行する密教の修行者たちが使う山の中の道を利用し、拠点(きょてん)としていた城々を山の中にある尾根を伝わる道で結び付けて、連絡網(もう)を作っていたと考えられます。

宗良親王(むねよししんのう)(後醍醐天皇の皇子(みこ))が、三岳城から大平城、そして信濃へと北朝方に見つかることもなく移動しているのも、山深い修行者たちが使う道を利用していたためと思われます。

駿河南朝方の戦い

駿河の南朝方の拠点・安倍城(あべじょう)(静岡市葵区)は、安倍本城を中心にここから四方に延びる尾根の上に小さな砦網を設けていました。本城の西尾根続きに久住砦(くずみとりで)、南に千代砦(せんだいとりで)、羽鳥砦(はとりとりで)を、東に西ヶ谷砦(にしがやとりで)、そして北側山麓(さんろく)の内牧城(うちまきじょう)が普段の館であったと考えられ、山全体を非常に上手に使っていたのです。

ここだけではなく、安倍城の西から南へ流れる藁科川(わらしながわ)沿いに小瀬戸城(こせとじょう)・水見色砦(みずみいろとりで)、東を流れる安倍川沿いに湯島城(ゆしまじょう)・松野城(まつのじょう)・津渡野城(つどのじょう)などが築かれ、安倍城を中心に周囲に広がる高く険しい山々がそびえる地域全域にかけて城や砦(とりで)が広がっていたのです。

駿河南朝方も、遠江同様険しい地形の山々に重要な活動場所置き、その時々の動きに応じて移動を繰り返し、守護今川氏に対抗していたと考えられます。

安倍城
安倍城は、標高435mの山の頂を中心に、周囲に広がる山々に数多くの砦網を構築(こうちく)した駿河南朝の中心的な城でした

現在の城跡の状況

それでは、現在これらの城跡はどうなっているのでしょう。大平城は、都田川(みやこだがわ)の支流である灰ノ木川(はいのきがわ)の中流域の北岸の標高約104mの小高い丘の上に築かれ、南を流れる灰ノ木川に沿って天竜・浜北方面から浜名湖の北岸へと続く街道が通る交通・軍事などの、重要な場所に位置しています。

城は、堀切を含め、戦国時代に改修を受けたことが確実で、南北朝時代の姿は残っていません。この城が、記録通り北朝方の攻撃に対して、最後まで妥協せず徹底(てってい)的に戦った城とは思えません。それは、地形が険しく攻め入るのが困難(こんなん)ではないからです。仮に、ここを中心に戦いを続けたなら、柵(さく)とか建物とかで守りを固めていたとしか思えません。

三岳城は、標高465mの山頂本曲輪(くるわ)を中心に築かれた城ですが、堀切や土塁、石塁などは、戦国時代の改修によるものです。大平城同様、南北朝時代の城の形は残っていません。しかし、本曲輪からの見晴らしはすばらしく、西遠江一帯を見渡すことができます。さらに、大平城、千頭峯城の背後(はいご)の山々も見下ろせますので、この見晴らしを求めて、南朝方が城を置いたと思われます。

千頭峯城については、南北朝時代の同城と現在の城とはまったく別の城で、南北朝時代の城は現在の千頭峯城の周りに広がる山々の山頂部に位置し、三岳城と尾根伝いで行き来できる場所にあったのではないでしょうか。

三岳城本曲輪
三岳城本曲輪からの眺望(ちょうぼう) 磐田原台地から浜松の街全域(ぜんいき)と、遠州灘・浜名湖までの景観(けいかん)が手に取るように見えます

駿河を代表する安倍城は、標高435mの最も高い場所を中心に尾根に沿って約200mにわたって平らな場所が見られます。山頂部から南西250m程下の中腹の尾根の上に平らに削った場所が残り、ここが久住砦になります。

城跡に見られる堀切(ほりきり)や主郭(しゅかく)の虎口(こぐち)状の跡は、文明8年(1476)の今川義忠(いまがわよしただ)が戦死した後に起こった、後継ぎを巡る争いの時か、天文5年(1536)の氏輝(うじてる)死去によって起きた花倉の乱と呼ばれるお家騒動の時のものか、さらに後の戦国時代のものかははっきりしませんが、南北朝時代のものではありません。南北朝時代の城の姿や形は、はっきり認められませんが、頂上に行くまでの傾斜が急で険しい地形が、南北朝時代に造られた城は、こうではなかったかと思わせます。

現在、これらの城跡から南北朝時代の城跡の姿を探すことは、とても難しいことです。しかし、『太平記』などに書かれている合戦の記録などから、ある程度推定することが出来ます。南北朝時代の山城は、険しく急な斜面や崖(がけ)という地形そのものが城だったのです。

見晴らしを良くして攻撃を有利にするため樹木(じゅもく)を伐採(ばっさい)し、敵方が斜面に隠れたり、つかまったりすることをできなくしていたのです。小屋のような建物を建て、簡単な柵(さく)を作って、敵兵が近づくと、矢だけでなく大きな石や材木を投げ落としたのです。城は、一カ所だけでなく、尾根伝いの平らな部分に広がっていました。城にずっと籠(こも)って戦うのではなく、危険が迫(せま)れば尾根を伝わって逃げ、山の中に姿(すがた)をくらますという戦い方をくり返し続けていたのです。

千頭峯城跡、久住砦、安倍城
浜名湖から望んだ千頭峯城跡と周囲の山々(左)と久住砦から安倍城へと続く尾根道(右)



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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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