せんとうがみねじょう

千頭峯城

静岡県浜松市

別名 : 城山
旧国名 : 遠江

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堀切
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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:千頭峯城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の14城目は千頭峯城です。
堀川城から転戦。城駐車場(34.818952、137.560573)に駐車しました。

千頭峯城は三岳城の支城として井伊氏一族の奥山氏によって築かれた城で、西方最大の拠点でした。
1339年(暦応2年)奥山朝藤が守る城を、北朝方の高師兼によって攻められ、3ヶ月の攻防の末に落城しました。
戦国時代には、今川氏が本坂峠及び奥三河筋に対して構えた境目守備の城でした。
桶狭間合戦で今川義元が討死したあとの1562年(永禄5年)には、今川氏真の将・朝比奈氏が今川家を離反する東三河の西郷氏の三河五本松城を攻撃した時、当城は駐屯地として利用されたようです。
また、徳川家康の遠江侵攻以後にも利用されたようです。

現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っています。
トンネル手前に駐車場と説明板があり、登城口はその先です。堀切、土塁などの遺構が残っています。
雨が降り始めた為、本曲輪から引き返しました。
攻城時間は35分くらいでした。

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姫街道

千頭峯城とその砦 (2020/04/05 訪問)

二回目の登城。千頭峯城は立地や城主に諸説あり、今回はそのモヤモヤを晴らすべく現千頭峯城(本城)・中千頭砦・鯉山砦と尾根つたいにY型の先端に配置されてつながっている三ヶ所を登城した。
まず鯉山砦。現千頭峯城は鯉山砦の支城だった説もある。Y字の南端に位置し、登城も「崖を登る」と言う言葉がピッタリだった。
立地やその険しさから、こちらが本城だったと言われても何ら疑いはない。
中千頭峯城は、立地的に現瓦塔遺跡だと私は思う。元摩訶耶寺があった場所で、古城だと思う。前面に浜名湖畔・右前方には鯉山砦を見る事ができ、寺の形状をそのまま城形状に活用したのではないかと想像した。現本城は上記二ケ所と比べると尾根形式や立地が圧倒的に劣る。今川氏が徳川侵攻に備えて増築し、さらには徳川が武田信玄の侵攻に備えて増築した説が肯ける。
私は、中千頭峯城→鯉山砦→千頭峯城と本城が移って行ったのではないかと想像した。
築城者や支配者についてだが、
千頭峯城は南北朝時代に井伊氏分家の奥山氏築城と言われ井伊氏の本城である三岳城の支城と言われているが、私は今回の登城で否定的な意見に賛同する事にした。鯉山砦の麓には浜名氏の菩提寺である金剛寺や浜名氏が祖神太田命を祀った浜名惣社神明宮があり、南北朝の戦時、一時的に奥山氏に支配されていた時期はあったかもしれないが、基本的には浜名湖北一帯を支配していた浜名氏やその分家がこの城郭群を長きに渡って支配していたのではないかと感じた。

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井伊氏の支城 (2020/03/28 訪問)

 東曲輪から井戸曲輪、二の曲輪、本曲輪、西曲輪、南曲輪と散策しました。堀切、竪堀、土塁、切岸などを見ることができます。二の曲輪は本曲輪の東と西に表示があり2ヶ所あるのかと思いましたが、歩いてみると本曲輪の北側で一段低い所を挟んでつながっていました。
天竜浜名湖鉄道より徒歩にて約30分で登城口に着きます。城址は比較的整備されていて、曲輪の標識もあり概ね散策しやすい城址です。ただ所々倒木があり歩きにくかったり、シダ類が多く遺構が見にくい所もあります。

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姫街道

井伊家の本城である三岳城における西の支城 (2020/02/01 訪問)

本曲輪を中心に、まずニの曲輪が北側に左右対のように配置され、
東は第一から第三曲輪と段々に尾根沿いに曲輪が伸び、西は本曲輪と西側曲輪の間に堀切があり、西側曲輪からは南側に帯状曲輪が段々に配置されている。
南は、綺麗な縦堀が残っており、南曲輪には土塁が丸馬出しのように配置されている。
それぞれ各方向で曲輪の作りも違っていて凄く楽しい!保存状態や整備状況も適当に良く、個人的に好きなお城だ。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 南北朝時代
主な城主 奥山朝藤
遺構 曲輪、土塁、堀切、井戸
指定文化財 県史跡(千頭峯城跡)
再建造物 説明板
住所 静岡県浜松市北区三ケ日町摩訶耶字城山
問い合わせ先 浜松観光コンベンションビューロー
問い合わせ先電話番号 053-458-0011