本日は、1/8に福井での講演会からの感想を話します。
越前一乗谷朝倉氏遺跡は、日本の中世を代表する遺跡であり特別史跡になっています。
居館や城下町の山麓部分の発掘調査はずっと続けられているが、山城跡はまだ一度も発掘調査が実施されていません。
だから、山城のことは余り分かっていません。
一乗谷城の特徴である畝状竪堀群の構築年代については、従来、畝状竪堀群は戦国時代後半の発達した防御施設とされてきたが山城の大半で虎口や土塁に発達した構造が見られないのですね。
だから、戦国時代後半には畝状竪堀群はすでに用いられない防御施設になっていたと考えざるを得ません。
千畳敷には、建物の礎石があるので屋敷があったと考えられます。
観音屋敷や赤淵神社などは宗教施設かと思われます。
朝倉氏は、この山城を聖地と捉えていたのではないでしょうか?
美濃の篠脇城は、山頂の曲輪を全周する畝状竪堀群のある山城ですが、この畝状竪堀群は東氏によって造られたものではないようです。
朝倉氏によって攻められてこの居城を追われた東氏が、赤谷山城に移ってから朝倉氏によって築かれた可能性が高いですね。
また、小谷城に浅井長政の救援に来た際に今のままでは小谷城は守れきれないと判断し、大嶽の曲輪を改修した。
この際の改修では畝状竪堀群は導入されていません。
明らかに篠脇城とは違っておりますね。
戦国時代後半には、畝状竪堀群ではなく分厚い土塁と喰違虎口の導入に変わっていったと考えられます。
築城技術が折の効く土塁や横堀が用いられたのでしょう。
一乗谷城では折の効く土塁や横堀、喰違虎口は見られていません。
朝倉義景は、織田信長の侵攻に対し小谷城ように山城を改修して戦おうとはしなかった。
むしろ、山城を放棄したと考えるべきであろう。
このように見てくると、朝倉氏が何故一乗谷を本拠地としたのかが今までとは違った視点で捉えるべきです。
私は、朝倉義景が織田信長と戦いたくなかったのではないかと推察しています。
織田信長と戦いを避けたかったが、避けられなかった。
朝倉義景は、一乗谷を京以上の都として繁栄させ続けたかったのだろう。
しかしながら、弱肉強食の戦国時代でそれは叶わなかったのです。
にのまるさん、明日に一乗谷城のクイズを出します。
お願い致します。
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