本願寺蓮如が北陸の布教拠点として開いた御坊。
山麓に無料駐車場があります。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2022/03/14 12:43
本願寺蓮如の開いた御坊跡 (2022/03/12 訪問)
本願寺蓮如が北陸の布教拠点として開いた御坊。
山麓に無料駐車場があります。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2022/03/14 12:30
北陸唯一の現存天守 (2022/03/12 訪問)
北陸唯一の現存天守をもつ丸岡城。
角度のきつい天守内部の階段は横から撮影すると2階の階段と一緒に撮影できるようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2022/03/14 12:14
本丸の高石垣は圧巻 (2022/03/12 訪問)
久しぶりに福井城へ。
当日は山里口御門が工事なのか枡形内部を見ることが出来なかった。通り抜けや櫓門の中には入れます。
周囲を水掘りに囲まれた高石垣は圧巻です。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2022/03/14 12:03
久々の攻城を計画中 (2018/10/22 訪問)
2か月ぶりの投稿です。9カ月くらい攻城していません。
今年の春に青春18きっぷを利用して四国一周を計画していましたが、コロナで断念。
しかし、自身の3回目ワクチンの接種が終ったこと&コロナ感染状況も落ち着きを見せ始めたので
6月に対馬&五島&北部九州(福岡&佐賀&熊本&大分)を遠征することにし、
フェリーを除く手配(航空券/レンタカー/ホテル)が完了しました。
フェリーは予約が1ヶ月前からなので、まだ取れてません。
熊本では復興した熊本城を見てくる予定です。(投稿写真は2018年10月22日に撮った復興途中の熊本城の写真です)
その後、コロナ感染状況が悪化しなければ、夏に青春18きっぷを利用して北陸と四国に行く予定です。
予定より、1年遅れましたが、今年中に続100名城を制覇したいと思っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/03/14 10:51
2022/03/14 08:40
堀切パラダイス(東曲輪群) (2022/02/26 訪問)
南北朝期に玉置大宣が築き、和佐玉置氏の本城として200年にわたりこの地を治めました。玉置氏と同じく室町幕府奉公衆を務めた日高川西岸の湯川氏とは縁戚関係を結んで共存していましたが、羽柴秀吉の紀州攻めに際して秀吉方についたことから秀吉に抵抗しようとする湯川氏に攻められて落城。秀吉の紀州平定後に復帰するも、関ケ原の戦いで西軍についたために改易され、廃城となったようです。
日高川東岸の城山を中心に東、北、西にのびる尾根に曲輪群を配した県内最大級の山城で、西麓の日高川河畔に玉置土居と呼ばれる居館、日高川上流に田尻城などの支城群を設けて日高川流域を支配しました。
県内の山城めぐり第2弾は手取城へ。案内表示に従って山道に入り、土取場に造成された駐車場に車を駐めて登城開始。古城行道の石碑のあたりから道路沿いに堀切や竪堀っぽい地形が見られ、笹藪と化した溜池を横目に進んで東の丸に到着。細長くのびる東の丸の北辺には分厚い土塁が長く続いています。東の丸東下には周囲を土塁で囲んだ腰曲輪があり、その先は二重堀切で尾根を遮断しています(ただし外側の堀切はシダの中…)。東の丸南下の帯曲輪の南斜面には竪堀が何条かあるようですが、浅くなっていてよくわかりませんでした。東の丸北下の帯曲輪の北斜面には三条の竪堀を落としており、その帯曲輪を北西に進むと北尾根の付け根に至ります。
北尾根は四重の堀切といくつかの竪堀により遮断され、堀切はそれぞれ状態良く遺っていますが、中でも最も内側の堀切は幅も高さもあり、本丸側は急峻でとても登り降りできません。また北尾根側の曲輪にも土塁を巡らせて厳重に防備されています。
北尾根を往復した後は本丸へ。堀切からは直登できないので、西側に回り込んで登って行くと、北西斜面には石垣が広がっていました。そして本丸北下の腰曲輪と帯曲輪を経て、裏手から天守台とも呼ばれる本丸に到達。本丸には建物礎石群が見られ、西側の眺望が開けています。本丸南下の二の丸は公園として綺麗に整備され、城址碑やテーブル・ベンチが設置されています。二の丸の南下には三の丸が広がっており、三の丸北西端から大堀切を越えて西曲輪群に向かいます(続く)。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2022/03/14 01:08
一夜城 (2022/03/11 訪問)
駐車場が分かりにくいです
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2022/03/14 01:03
2022/03/14 00:14
躑躅ヶ崎亭への道
こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
武田神社の東、大手のすぐ外にある丘・躑躅ヶ崎はかつてツツジが咲き誇っていたと言われていて、武田氏館の通称「躑躅ヶ崎館」の元にもなってます。
この躑躅ヶ崎の尾根には、かつて信玄公があずまやを構えて風景を楽しんだと伝えられ、現在は案内板と小さな祠が残されています。
このあずま屋跡はgoogleマップに「躑躅ヶ崎亭」の名で掲載されてますが、行った当時は案内表示が設置されてなかったので道順を紹介します。
①龍華池の階段を登って、中腹部分で右に曲がってください
階段を登りきると池が見られますが行き過ぎなので降りてください
②橋を渡って林道へ歩いてください
③右手に保安林の看板が見えたら10mほど歩くと分岐点を左に登ってください
案内表示がなく一見獣道なので見落とさないようにご注意を
④道なりに歩くと祠と表示板が見えます
到着です♬
あずま屋跡へは山道に入ってから10分足らずで行き着けますが、林道からの分岐点を見落としやすくて、うっかり見落とすと30分近く登山道を歩いて「躑躅ヶ崎園地」まで迷い込むので注意が必要です。
迷い込んだ本人が言ってるので間違いありません。
「躑躅ヶ崎の森」と書かれた大きな案内板が見えたら、行き過ぎてるので引き返してください。(E)
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/03/13 19:02
解説に砦の説明あるの知らなんだorz (2021/12/05 訪問)
現在の高安寺が砦跡で有る事はお城巡り始めた当初より知っており、真っ先に訪問済だったのですが・・・砦を示すものが遺構を含めて何も無いと思っていた為にupしておりませんでした。
つい最近になって高安寺が砦跡だった事が解説に書かれていると知ったので、京王線府中駅からすぐの場所にある称名寺が源頼朝の遠縁の源八幡太郎義家の居館跡であると聞いた事も合わせて12月に一緒に訪問致しました。
高安寺の開祖が足利尊氏と言う事ですが、府中には他にも徒歩圏内に分倍河原古戦場や府中御殿&武蔵国府もあり、いろいろな時代の史跡が残っている場所・・・と言う事はこの地は利便性等を考慮して時代が変わっても重要な拠点だったんだろうなぁ・・・と思われます。
最近これらの史跡が整備されて見やすくなっているので、大國魂神社への参拝も含めてまとめて訪問されるとお得です。
競馬ファンの方なら競馬場も目と鼻の先にありますよ~
オマケに八幡太郎義家関連の写真も合わせて掲載させて頂きました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2022/03/13 17:57
2022/03/13 17:54
2022/03/13 17:49
2022/03/13 17:42
2022/03/13 17:33
2022/03/13 17:28
2022/03/13 17:22
2022/03/13 17:20
日本三大水城の一城 (2014/09/13 訪問)
高松城は、豊臣秀吉公から讃岐12万石を与えられた(後に17万6千石)、生駒親正が現在の地に築城着手した水城です。縄張りは、黒田孝高とも細川忠興とも云われています。数年の歳月を費やし完成した高松城は、海水を外堀・中堀・内堀に引き込んだこの城は、日本三大水城の一つとされています。
生駒氏の統治は54年間続きましたが、生駒騒動により讃岐を召し上げられ出羽に移封となった後は、水戸光圀公の兄、松平頼重公が12万石を与えられ高松城主として入城しています。その後は、松平頼重公以来、松平氏の治世が228年間続き、明治維新を迎えています。
現在の高松城は玉藻公園として、数棟の現存櫓や天守台・石垣・曲輪が残っています。着見(月見)櫓・続櫓・水の手御門・渡櫓・丑寅櫓等が重要文化財に指定され、見所の多い城跡です。
2月26日放送の「ブラタモリ」で高松城が紹介されており、水の手御門は城主が参勤交代に出るときにのみ使用されたとの説明で、「なる程、そうだったのか」と画像を見返しました。
自分が登城した2014年9月13日の折は、玉藻公園駐車場に駐車、移築櫓の丑寅櫓を見学、本丸・月見櫓・水の手御門を見学し、二の丸から天守台に向かったと記憶しています。見所の多い城なので是非お薦め致します。
POYO58さん 体の心配をして下さり誠にありがとうございます。また、私の拙い投稿を評価して頂き感謝です。私も、POYO58さんの投稿を楽しみに拝見させて頂いております。POYO58さんは、まだお若いですが健康に気を付けて、お互いに城巡りに勤しんでいきましょう(#^^#)
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
2022/03/13 16:41
主郭には伯耆根神社 (2022/03/06 訪問)
玉生公民館に車を駐めさせていただき伯耆根神社に。
鳥居から急な石段を登って行くと伯耆根神社があり、ここが主郭。
背後に高い土塁があります。
さらに進むと広い二郭があり、周囲を二重の横堀が囲んでいました。
横堀はそれぞれ南側に向かって竪堀のように落ちていました。
導線かもしれません。
あまり大きな城ではありません。
宇都宮氏家臣の玉生氏の築城とされます。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2022/03/13 14:16
置塩城 (2022/02/23 訪問)
【置塩城】
<駐車場他>登城口前駐車スペース
<交通手段>車
<見所>曲輪・土塁・石垣
<感想>赤松氏の山城攻め本拠地攻略。置塩城は文明元年(1469年)に没落して加賀半国の支配から播磨・備前・美作の三国守護に返り咲いた赤松政則によって築城されたとされる。本格的な改修・整備がされたのは16世紀中頃の城主である赤松晴政・義祐の時代であったようです。現在残る遺構もその頃のものです。置塩城は城主則房の時、秀吉の中国攻めの際に降伏して廃城となりました。
麓から城跡までの登山は1~18丁の表示があり城跡入口の南曲輪群上段まで18丁=約2㎞あります。城跡内も広いのでハイキング装備の方が良いでしょう。登城口ゲート前にパンフレットが置いてあります。また月に1度城跡内で御城印の頒布があるようです。
置塩城の中心部は二の丸と呼ばれる曲輪でそこから尾根伝いに段曲輪が多方向に派生しています。本丸は二の丸の北東の位置に山の鞍部を隔てた独立した場所にあります。私が思うに本丸はたしかに最高所で広い曲輪であるけれども、城の鬼門の位置にあるのはおかしいと思うので二の丸と呼ばれる曲輪が主要部であって本丸はかつては違う役割で呼び名であったように感じました。
城跡は二の丸は仕切り石積み・土居を備えた東西に広い、南北に数段ある曲輪群となっています。二の丸の北側に台所跡、二の丸北曲輪群があり、北東側に鞍部を隔てて本丸があります。本丸は帯曲輪を備え南側に段曲輪があり本丸虎口付近と曲輪壁南側に石垣が残っています。鞍部に巨石を利用した石垣が広く残っていたようなのですが最近崩落してしまいシートが掛けられていました。残念。二の丸の北西側に三の丸があり三の丸から北側に大きい北曲輪群、三の丸から西側に小さい三日月状の西曲輪群が十数段あります。最下部付近に枡形状の大手門跡があります。西曲輪群(大手道)は道がロストしているのでストック要です。二の丸の西側に広い馬場があり、二の丸・三の丸の高い切岸が見れていい見応えです。二の丸の南西側に舌状の南西曲輪群があり大石垣が残っています。二の丸の南東側に南曲輪群があり上段に茶室跡と呼ばれる曲輪があり、石垣が多く残っています。城跡の入り口はここからになります。
曲輪だけでも60以上、入り込める曲輪が50くらいはあるので巨大城跡を十分堪能できます。石垣も露出している所と草木で隠れた箇所とあるので石垣や石垣跡を探索するのも楽しいです。竹田城といってもいいですが、置塩城も赤松氏の盛期の城で赤松氏山城の最終形態といってもいいでしょう。百・続百名城に負けていない城跡です。
<満足度>◆◆◆
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。