やぐらじょう

矢倉城

岡山県加賀郡

別名 : 矢倉畦城、矢蔵畦城、桝形城
旧国名 : 備中

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備中の覇者 三村氏所縁の城を巡る (2021/01/09 訪問)

2019年9月にトーダイさんが登城しようとされ、城域近くまで車で行くものの、車1台がやっとの細い山道で駐車場所なし、夕暮れが迫り藪蚊に襲われ断念したとの由。
この道は、矢倉城から伸びる尾根が鞍部になったところを越え、南からの登城口と北からの登城口を繋ぎます。矢倉城には、峠の最高部から尾根をたどって行きます。トーダイさんのレポートを参考に山道の初めのほうの少し道幅があるところに駐車して、歩いていきました。
本郭には、切岸、土塁がしっかり残ります。一段下の郭には、井戸跡も。ただし、夏場は藪と化すと思われます。
この地域の最大の城であり、三村氏の本拠にもなった、備中松山城は、高梁川東側の山地に築かれていますが、その山地の東側には開けた谷があり、さらにその谷の東の山に矢倉城があります。備中松山城には山中を行き、裏手の東側からたどり着けるでしょう。三村氏が毛利氏に亡ぼされた備中兵乱では、矢倉城の守備兵は、落城後、備中松山城に引いたとあります。
岡山県HPには、「矢倉城は、車で頂上近くまで行ける」と紹介されています。間違いではないものの、いかがなものか。

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トーダイ

冬に再登城です (2019/09/26 訪問)

この山を矢倉山と呼ぶ。元々、鎌倉時代に矢倉神社が鎮座していたが、南北朝時代に
頂上に堅固な「矢倉畦城」が築かれた。初の城主は竹井氏であったが、元弘の乱頃は
田中氏が奪守して居城としていたらしい。室町から戦国時代に移ると戦乱が絶えず、
備中松山城の前衛城の役割を担っていたが、天正2年(1574)毛利氏に攻められて
松山城へと退いている。(案内板より)

他サイト情報から登城口<34.8419296,133.6922873> をナビに入力して着いたのが
案内板が立つ北登城入口<34.8470845,133.6874298>、車幅しかないが、舗装された
小道を進めば登城口と安心したのが大間違い、待っていたのは石コロ・小枝が積もる
約600mの悪路(上り坂)でした。

登城口に着くも駐車スペースは無し、登城口付近を確認しようと下りるとヤブ蚊群、
夕方で暗くなり、悪路を戻る根性は無く、そのまま悪路(下り坂)を約200m走り、
南登城入口<34.8421791,133.6948482>に辿り着きました。

南登城入口付近に路駐、冬に再登城です。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 田中盛兼
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 田中氏、難波氏(毛利氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、井戸跡
指定文化財 町史跡(矢倉城跡)
住所 岡山県加賀郡吉備中央町納地