石山本願寺が信長襲来に備えて設けた50か所を超える出城の中のひとつなのだが正確な場所はわからないしもちろん痕跡も何もない。ただ地図で見ると大坂城への補給路(大川)をしっかり押さえる場所にあって「なるほど」とは思う。
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2022/01/17 23:14
地図で見るとなるほど、と思う (2021/09/20 訪問)
石山本願寺が信長襲来に備えて設けた50か所を超える出城の中のひとつなのだが正確な場所はわからないしもちろん痕跡も何もない。ただ地図で見ると大坂城への補給路(大川)をしっかり押さえる場所にあって「なるほど」とは思う。
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2022/01/17 22:56
正木氏初期の拠点 (2022/01/09 訪問)
白滝不動尊から登城。
不動尊裏手に浅間方面の案内板があり、そこから登りました。
結構急な細い道を登ると途中小さな鳥居があります。
さらに七曲状の道を登ると祠があり、この辺りから城域になる感じ。
この少し先に土橋状の尾根道があり、門のように石が両脇に置いてありました。
その背後に物見のような櫓台があり、土塁が続いていました。
土塁沿いの道を進んで案内板がある所の右手を直登。
曲輪や土塁が見られますが倒木が多くあるきにくい。
正木氏初期の城であまり手の込んだ城ではなさそうです。
正月で鈍った体にはちと堪えました。
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2022/01/17 22:38
【能登・軍艦島】能登半島見所探訪 (2011/06/04 訪問)
富山城、越中安田城、七尾城、小丸山城登城を終えて以前から是非とも訪ねたいと思って居た軍艦島/見附島を目指し恋路海岸と繋がりの見附島を散策撮影しました、軍艦が波を切って動いているかの如く素晴らしい景観です、海岸側には恋人と鳴らす鐘も備わって恋人達のメッカに成ってます。
夏の日は長く能登半島先の千枚田を目指し、車は道の駅を利用、道の駅の展望所、少し歩いて近くに撮影場所を探してウロウロ、日本海に近い海岸まで耕され先人の苦労がこの素晴らしい千枚田、景観を残してくれた事に感謝です、今後の保存整備も関心事。
泊りは輪島、郷土料理と地酒でほろ酔い、店の方、お客さんと話してる内に当日は輪島の花火大会、港で20分間に2万発の花火を打ち上げるとの事、短時間での打上数が日本一との事、偶然にも花火大会に遇い素晴らしい体験をしました、度肝を抜く素晴らしさ大満足でした。(平成23年6月4日)(写真は居酒屋から花火大会でカメラ携帯せず取れませんでした)
翌朝の朝市は朝市通りを一通り散策しましただけで終了。
翌日(平成23年6月5日)、能登有料道を通って大国主命を祀ってる気多大社を初の参拝と探訪しました、ここも何時か参拝したいと思って居た神社です。
能登観光探訪を終えて陽も有り高速道、東海北陸道経由郡上八幡城を目指す。
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2022/01/17 21:48
沼城 (2022/01/16 訪問)
対織田戦の境目七城の中心的城郭で、城主は清水宗治。
ハス池の下に城跡と思っていたが、住宅側にあると知ったごく最近。
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2022/01/17 21:35
藤堂高虎のお城 (2022/01/16 訪問)
築城の名手、藤堂高虎のお城。日本三大水城の1つ。鉄御門に多聞櫓が枡形で迎えてくれ、鏡石も魅力的です。
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2022/01/17 19:47
2022/01/17 19:45
三草山城 (2021/12/25 訪問)
【三草山城】
<駐車場他>三草山畑登山口駐車場数十台分あり。
<交通手段>車
<見所>曲輪・石垣跡
<感想>赤松氏関連の山城攻め、この日の3城目。三草の地は源平合戦の方が有名でこの三草山の麓で合戦が行われ敗れた平氏が屋島に退去することになります。三草山城の築城年は定かではなく建武年間(1334~1338年)頃に赤松出羽守則友が城主だったようです。その後の城がどうなったのか不明のようです。
三草山はハイキングコースとして憩いの場となっていて登山コースは三草・鹿野・畑の3つのコースがあります。鹿野コースは訪城時は閉鎖されていたので三草・畑コースが通れます。三草コースは2.5㎞ありますので畑コース1.3㎞がベターかと思います。長い登山道ですが見れる遺構があるのは山頂部一帯のみで頑張って登ってそろそろ山頂近いかと感じられた所に、表示はないですが明らかに木戸か虎口跡のような礎石があり石垣跡の土塁・曲輪がある削平地に出ます。登山時は気づきにくので下山時にその虎口手前の曲輪斜面に石垣が数個わずかに残っていますのでご確認を。登山道の石が転落石を踏んで登ってきたことに妙味。ここから段曲輪が数段、曲輪の法面に石垣跡がありますがほとんど崩落してしまっているようです。山頂の主郭部は狭く物見程度だったかなと思われます。ちょうど山頂部到着と同時に雨に見舞われ木陰で雨宿り。眺望は抜群だが写真的には遠く木漏れ日が写るいい感じのものが撮れました。
この日はこれにて終了。1城目に善防山城を予定していましたが整備通行止めとなっていました。1/30頃まで吊り橋を渡っていくルートへは行けません。赤松攻略にはもう少しかかりそうです。
<満足度>◆◆◇
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2022/01/17 19:39
2022/01/17 17:42
2020年の夏の小諸城 (2020/08/09 訪問)
仙石秀久が築いた小諸城の大手門ですね。
実践的な城門で華美な装飾を省いた質実剛健な建築物は、東日本を代表する大手門と言えよう。
重要文化財で、平成の修理を終えて創建当時の姿が蘇った。
にのまるさん、
雪だるまくんなのですが、おぼろげながら分かったのですが指摘出来ません。
一乗谷クイズは、全問正解ですね。
少しだけ補足しておきます。
上城戸と下城戸の内側に朝倉家にお仕えしていた家臣である武士や職人や商人など身分を問わず一緒に住んでいたのですね。
一乗谷が繁栄した100年間に約1万人の人達が住んでいたのです。
これは、すごいことですね。
一乗谷の山城には千畳敷が有りますが、約100平方メートルの礎石建物があったとされております。
山城の方は、まだ発掘調査が一度も成されておりませんので、当然出土品もないのです。
だから、これは山上の御殿ではないかと推測しております。
これからでも発掘調査して欲しいですね。
一乗谷という山麓の城下町は、上城戸には朝倉街道がありこれが北国街道に繋がり京の都に行くことが出来ます。
下城戸には美濃街道があり北に行けば三国湊に、南に行けば尾張まで行くことが出来たのです。
谷あいなので雨も多く、水が潤沢に確保出来たのもその要素です。
殆どの家に井戸やトイレがあったんです。
また、100年に渡って繁栄が続いたのは余り争いがなかったことと水路を利用して大量に物資が行き交う交易が盛んだったことが挙げられますね。
最後に、京の都を模して戦国の庭が造られていたのです。
朝倉館は、将軍の館と全くそっくりであった。
朝倉義景は、京の都の都を意識して京の都以上のものを一乗谷に造ろうとしたと思います。
経済的にも文化的にも素晴らしい城下町が出来上がったのですね。
ただ、惜しまれるのは織田信長との戦いに勝てるチャンスが有りながら取り逃がしたことが致命傷になりました。
また、一乗谷の山城を放棄したのも軍事面から残念です。
また、夜には昨日の京都新城の講演会の報告を致します。
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2022/01/17 13:24
「山口城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★★★☆☆
山口城は武蔵七党の村山氏の流れをくむ山口氏の居城とされる。南北朝時代には、上杉憲顕に攻められ落城する。山口高忠は、武蔵国守護代の大石氏に従う。上杉氏が没落すると後北条氏の傘下に入る。小田原征伐で落城し廃城となる。現在、土塁等が遺されている。
<アクセス>
西武狭山線 下山口駅 徒歩15分
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2022/01/17 13:16
「北秋津城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
北秋津城は歴史的な背景が伝わっていないため詳細は不明である。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
西武池袋線 所沢駅 徒歩15分
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2022/01/17 10:59
2022/01/17 09:21
小諸城大手門雪だるまクイズ…
全部見つけたけど,表現の仕方がムズくてお手上げ…DEATH。
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2022/01/17 08:48
「百姓持タル城」 (2021/12/16 訪問)
詳細は不明ながら戦国期に築かれた城で、羽柴秀吉の紀州攻めに際しては神前是光を守将として根来寺に与しましたが、根来衆の籠る千石堀城が落城したことにより自焼して退去しました。
根来出城配置図によれば、近木川北岸の畠中集落を二重の堀で囲み、中央部に方形の居館を配した平城で、神前氏の子孫であり、江戸期には岸和田藩の七人庄屋に数えられた要氏の庄屋屋敷が比定地とされますが、要氏屋敷の発掘調査では畠中城の存在を示すものは発見されず、その所在地は明らかになっていません。
この日は貝塚市郷土資料展示室で企画展「貝塚八城めぐり」が開催されており、近くに来たついでに企画展を見学し、さらに徒歩圏内の畠中城(比定地の要氏屋敷)を訪れました。要氏屋敷は周囲を土塀で囲み、南東辺に長屋門を設けた広大な庄屋屋敷で、北西辺の損壊した土塀の内側には竹藪と化した土塁が見られ、これがそのまま畠中城の遺構ではないとしても、往時の姿をイメージさせてくれました。また、要氏屋敷から南東に徒歩2分行くと、神前氏と要氏の菩提寺である長楽寺がありました。
ところで、企画展の畠中城の展示によると、要氏に伝わる記録では畠中城は集落から少し離れた位置にあったとされ、発掘調査で土器や瓦が多数発見された寺院跡を城としたとも考えられるようです。一応、その推定地(市役所の北西部)にも行ってみましたが、全くの住宅地で何の痕跡も見られず、事実はどうあれそれらしい雰囲気がある分、要氏屋敷のほうが訪れる価値はありそうです。
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2022/01/17 06:58
2022/01/16 23:19
クイズのこたえともんだい
1) 上城戸と下城戸に囲まれていた土地には基本的に朝倉氏の家臣、武士も職人も商人も一緒に暮らしていた。
2) 千畳敷の礎石建物は100平方メートル超と考えられる。
3) 山の地形を利用して守りやすく、交通の要衝であり、生活用水も潤沢で、戦国の理想都市をつくることができる場所だったから。
4) 一乗谷は日本海交易の要の役割を果たしていたから。
5) 権威のアピールであると同時に、独自の文化の力を持っていた。
ということが番組内で解説されていました。
では、ここでクイズです‼
下の10枚の写真は本日の小諸城の大手門ですが、それぞれ1体ずつ雪だるまくんが隠れています。どこにいるでしょうか⁉
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2022/01/16 23:13
2022/01/16 21:17
2022/01/16 21:05
岐阜の山城から見た関ヶ原合戦の講演会を聴いて見て
元々のタイトルは、関ヶ原合戦と岐阜の山城なんですが、中井先生がタイトル変更したので。これで進めます。
中井先生の山城から見た関ヶ原合戦は、新しい見方を示して頂いたと思っております。
松井山城は、曲輪、切岸、土塁、堀切、土の枡形虎口等を有する堅固な山城で単なる小早川秀秋の陣城ではなかったことで有ります。
伊藤盛正が築城したのを小早川秀秋が不法占拠したのだという話も頷けますね。
南宮山の毛利秀元の本陣は完成された陣城であったこと、関ヶ原方面は望むことは出来ないこと、大垣側に設けられた土塁と堅堀から大垣を望むために築かれた陣城で有ること、
このようなことから、西軍の作戦は大垣決戦で、東軍が大垣城を攻め包囲すればその背後を突き、後詰めに持ち込む手筈だった。
また、菩提山城は竹中氏の居城で、巨大な堀切や堅堀、馬出し曲輪、外枡形の虎口等を有し、戦国時代後半の特徴を示している点も興味深い。
この発達した縄張りがいつ構えられたかという点は、浅井長政と織田信長の江濃国境の軍事的緊張により、1570年に竹中重治によって改修されたという見方と1600年8月10日以降に大垣の軍事的緊張により、竹中重門によって改修されたという見方が有ります。
私は、1570年に竹中重治によって改修されたと今のところは見ています。
玉城についてであるが、これは絶対に新発見なんかではありません。
また、巨大な堀切や堅堀に対して土塁や折が認められない点から、関ヶ原合戦よりも古い縄張り構造を示しております。
だから、豊臣秀頼や毛利輝元の為の本陣である筈がないので有ります。
縄張りから見てみると、西側を防御正面としていることから1570年以降に江濃国境を監視し守るために、織田信長によって築かれた山城と見るのが正解に近いと思っております。
そこで、松井山城は国史跡の範囲として追加指定されるべきだと感じました。
中井先生のいう関ヶ原合戦が平和を呼んだのではなく、軍事的緊張を呼んだのだという点も興味深いですね。
さて、にのまるさん
天王寺城に行かれたようですが、あの近くには天王寺七坂という坂があります。
あの付近は寺町で80ぐらいの寺が存在しています。
逢坂を除いて、他の坂は狭く石畳の階段になっています。
上町台地との高低差があり、上町断層も有ります。
ここからが一乗谷クイズです。
1問目は、上城戸と下城戸に囲まれた土地に住んでいる人達はどんな人達だったでしょうか?
2問目は、一乗谷の山城にある千畳敷に建物の礎石が列を成して残っているのですが、何平方メートルの建物があったのでしょうか?
そしてそれはどんな建物だったのでしょうか?
3問目は、何故朝倉氏は福井平野ではなく一乗谷という谷の部分に城下町を造ったのか?
4問目は、何故一乗谷は経済的に繁栄をすることが出来たのか?
5問目は、何故一乗谷の山麓の城塞都市に17つも戦国庭園が造られたのか?
以上が質問です。
宜しくお願い致します。
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2022/01/16 20:21
利家と松子の像がお出迎え❣ (2011/06/04 訪問)
七尾城を充分堪能し市街地に在る小丸山城へ、車は国道北東奥の駐車場を利用、駐車場より本丸へ登る道を進み本丸内部には、史蹟前田利家小丸山城址と刻まれた城名石碑、先の大河ドラマ「利家とまつ」平成14年放映の前年時に建立された「利家と松子」像が馬を従え立って出迎えてる様、建立の経緯を刻んだ石碑、小丸山城と前田利家の案内解説板も揃い充分なる解説も有りがたい。
本丸と天性丸の間には大堀切で切断、現在は鉄橋が架かって居り行き来は安全、国道249号線に本丸も一部削られ、大念寺山曲輪との掘割は国道と成ってる、本丸西には宮丸を構え小丘陵を連郭式に構えた城郭の様子が案内解説板に描かれた居ました。また本丸南西には三層の櫓が描かれて居り櫓が在ったのか?想像が膨らみます。
信長に能登一国を与えられ七尾城から交易に便利な七尾麓に構えた小丸山城は利家には小さ過ぎないかとも思ったりもしますがどうでしょう?
でも越中の佐々成政を倒した後に加賀二郡を秀吉から与えられ加賀百万石の金沢城へ移り、現在の素晴らしい金沢城を見る事が出来るのです。当初は金沢城にも金箔瓦五層の天守閣が聳えていたとか?
当日は富山城、安田城、七尾城、小丸山城を終えて陽も有り、前々から訪ねたかった能登観光の軍艦島で有名な見附島、日本海に面した千枚田、輪島に泊まり郷土料理と偶然にも20分に2万発の日本一の花火を鑑賞する事に、度肝を抜かされました。
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