備中松山城から高梁川を遡ること30kmあまり、もう少し行くと鳥取県に至る位置にあります。三村氏の同盟であった児島の常山城から楪城まで、備中の国全体を勢力下にし、まさに備中の覇者と言えるでしょう。
楪城は、新見市の平野部から、高梁川沿いに少し山あいに入ります。180号線沿いに道案内板があったので、城の南から西側に回り込む道を行きました。細道に恐れず道標に沿って最後まで行くと、登城口前の駐車場に着きます。ここから登ると本丸の北側に至ります。大手道は、180号線をもう少し進み、城の東側から登る道です。
楪城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなりますが、それぞれの間は開いており、特に二ノ丸と三ノ丸の間は距離があるとともに、間の尾根に大手道がとりついています。従って、二ノ丸の大手側、三ノ丸の大手側に、大きな堀切が設けられています。三ノ丸は、三村氏が新設しました。本丸、二ノ丸からは、新見方面は眺望できませんが、尾根先の三ノ丸からは、新見を望むことができると。
楪城の斜面は急ですが、特に高梁川側は、とても急峻で、崖かと見えるほどです。そんな要害ですが、三村氏が毛利氏に滅ぼされた備中兵乱では、二ノ丸、三ノ丸の守将が、寝返り、本丸だけの戦いをしいられました。二ノ丸と本丸の間は平坦でかつ比較的広幅(11m)の80mの帯郭で繋がっており、長期に耐えられるものではありません。
三ノ丸には井戸跡があります。吉備高原は、準平原を河川が激しく浸食した地形ですので、山並みの頂上が揃っています。サイホン効果で比較的高い場所にも水が湧くのだと思います。
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