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カズサン

南部氏城廻りⅡ、九戸政実の乱で有名 (2015/05/25 訪問)

 平成27年5月南部氏の城廻り第二弾、三戸城を終えてレンタカーで国道4号線を南下天気も良く新緑、アカシアの満開大変気分の良いドライブでした、二戸なのに九戸城か?と思いながら町中に入り二戸郵便局辻から東入り九戸城へ案内看板在り。
 車は二の丸駐車場へ、側にプレハブの資料館在り説明を聞きパンフレットゲット(現在は新しく城西麓に資料館と駐車場完備)
 早速城内探訪、事前情報、写真で九戸城本丸の高石垣、蒲生氏郷の改修と脳内認知していましたが現地は本丸石垣は草に覆われ高さもそれ程で無く成程こうなんだと確認、でも素晴らしい造りです本丸、二の丸、二の丸西、南の河岸段丘の絶壁は絶大な切岸、まだ探訪時は続100名城選定2年前、大変見応えの有る素晴らしい城郭です。

 九戸城は九戸政実の乱で有名で南部氏宗家の相続問題から九戸政実などが異を唱え南部氏では収拾が付かず奥州仕置き後でも有り秀吉の介入により奥州再仕置きで九戸政実の乱は鎮圧さて、九戸城は蒲生氏郷に改修され三戸南部宗家に引き渡された、宗家は三戸城から九戸城に移り後領地の北端により中心地の盛岡城に総石垣造りの城郭に移転、九戸城は廃城に成った。

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カモン掃部

100年に一度の (2020/07/14 訪問)

今は石垣のお直しで本丸の中心部に移動している天守。百年に一度のことに立ち会えたことに感謝。
やっぱり青森は夏でも涼しげでした。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり【251】 (2013/02/16 訪問)

「広島城」から【松前城】(愛媛県松前町)「まつまえ」ではなく「まさき」ですので、次は「き」になります。カルビンさんの教来石、よろしくお願いいたします。

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だめなこ

リベンジ(๑•̀ㅁ•́๑)✧ (2020/07/12 訪問)

前回は激しく台風だったからか
ググったら営業中になってたのに行ってみたらお休みで
( •́ω•̀ )ショボーンってなったけど
今回はちゃんとお城に入れたヽ(・∀・)人(・∀・)ノゎーぃ♪

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朝田 辰兵衛

当初の予定日より2日遅らせました。 (2020/07/12 訪問)

今回の九州遠征では,前日までスケジュール変更していました。それを,初日のホテルで最終チェックを入れ,江迎城はベストコンディションで登城できました。
JR吉野ヶ里公園駅から徒歩約50分。筑後川が氾濫してゾッとしましたが,対岸側の久留米市に浸水被害がありました。支流との合流エリアです。とはいえ,水田地帯なので,増水時には警戒すべきと慎重に計画をたてました。
無事にミッションクリアで安堵してます(もうひとつも水害チェック要となりましたが…)。
それでは,福江城までの流れを宜しくお願いいたします。

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にのまる

とうれぎ土塁 (2019/01/02 訪問)

撮りっぱなしで放置していたSDカードの中身を何とかしなければと見ていて写真を見つけました。
一昨年の年末から新年にかけて九州のあちこちを巡っていたときのものです。
この日は佐賀城と吉野ケ里に行き、実家に帰る途中で基山で途中下車。基肄城には登れそうにないこと、スタンプ置き場も閉館していることは察しがついたのですが、続100名城スタンプ開始後初の年末年始のため確かな情報がなく「もしかしたら休日窓口みたいなところがあるかもしれないし、守衛さんがいらっしゃるかもしれない」という淡い期待を抱いて基山町民会館を目指してみたのです。期待はあえなく空振りとなりましたが(※現在は年末年始もスタンプ対応ありのようですが行かれる方はお確かめください。)、駅への帰り道、ビビビっとくる盛り土を見つけました。近づいてみると説明板があり、基肄城に関連する土塁の一部であると記されていました。うれしい出会いです。土塁は向平原丘陵と千塔山丘陵を結び全長350メートルだったと考えられるとのこと。いつになるかわかりませんが、山頂からこの土塁を見下ろし、350メートルを思い描いてみたいと思います。

…なので、基肄城は未登城、未行ったポチ、未スタンプです。

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前ちゃん

村重逃亡の城 (2020/07/14 訪問)

有岡城(伊丹)の籠城から逃げ落ち、花隈城で身を潜めてから、毛利側へ亡命

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小城小次郎

天正時代まで壮絶な攻防戦が展開された (2020/03/17 訪問)

後北条氏(佐野氏)の侵攻を皆川氏が必死で奪い返す壮絶な攻防戦は、真田氏が後北条氏と沼田を巡ってごたごたしていたのとほぼ同じ頃の出来事だった。一歩間違えばこちらが小田原の役のきっかけになっていたのかもしれない。

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赤い城

忍城水攻めのための堤防 (2020/07/12 訪問)

北鴻巣駅から徒歩で30分。
新幹線沿いに石田堤史跡公園がありここから行田市に向けて土塁が続いています。
忍城水攻めのために総延長28kmの土塁を築きながら落とせず、忍城恐るべしです。
堤が決壊したとされる堀切橋、さらに行田市方面に歩くと石田堤歴史の広場、駐車場もありました。
忍城の戦いも梅雨時期ですが当時はこんな豪雨では無かったんでしょうね。

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とりの子

和霊神社から山道を登った先に (2020/06/20 訪問)

福山城といえば、広島県福山市にある城が真っ先に思い浮かぶと思います。でも、広島県のお隣の岡山県の総社市にも福山城があります。
このお城は、広島の福山城とは違い、山城です。和霊神社の近くの登山口から登ります。しばらく登ると、「史跡 福山城」と書かれた石碑が見えてきて、やれやれと思ったのですが、そこから本丸跡が思いのほか遠かったです。井戸跡などの遺構が見どころです。
登山の際は、スズメバチに注意!

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カズサン

南部氏城廻りⅠ (2015/05/25 訪問)

 青森県は飛行機で桜装う弘前城、北海道の五稜郭、松前城を巡って以来一城のみ5年前の平成27年5月家内とフルムーンパスを利用して南部氏の主な城跡を巡りました。
 東北新幹線はやてで八戸駅、レンタカーで先ずは三戸城へ向かう、山や丘、街道は白い房成りのアカシヤの木々で覆われ新緑と相まって美景素晴らしい道中です、近付くと城山と分かる独立丘陵そのころからワクワクして来ます、レンタカーで丘陵上部本丸へそこは駐車場に成って居り周辺の空いた所に停める。
 城郭ハンドブック等に載ってる模擬天守、石垣城門を探すが分からず余湖図コレクションさんの俯瞰図を元に探訪、模擬天守閣、資料館と巡り当日は月曜日で休館、入場出来ず、本丸跡、三階櫓跡、搦手側、鶴池、亀池、車で下って路駐し有名な綱御門、物見台と巡る。
 三戸城は丘陵全体を城域とし半日で4城こなすには広すぎる城郭です、中世城館と近世石垣を使用した城跡と合わさった城郭で大切に保存管理もされており大事にしたい城です。
 南部氏は甲斐源氏の出身で山梨県南部町に故郷が有ります南部町には大きく南部氏発祥地と看板が有り、頼朝の奥州藤原攻めで功績が有り南部氏が甲州南部氏と奥州南部氏と分かれ奥州南部氏宗家は三戸城から蒲生氏郷が修復した九戸城を経由して南部領地の中心地岩手県盛岡城に移転、盛岡城の石垣も豊臣家臣などに指導を受けた様子。
 三戸城は以後城代、代官を置いて明治まで継承された。
 桜の時期は全山桜の覆われ約1600本の桜花でさぞ見事な事でしょう!

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Lokigirl

織田信長様を巡礼します (2018/06/23 訪問)

織田信長様のご誕生日を巡礼します

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dougen

2019.3.31登城 (2019/03/31 訪問)

川辺館から、県道4号で西へ、栗駒小学校の裏山にある館山公園が鶴丸館跡となります。

城址公園と整備されており、遺構の散策も本来ならできるところ、山の上ということもあって積雪のため、散策は諦め、主郭のみの登城となりました。

城域はかなりの広さの様ですので、次回登城する機会があればゆっくり散策したいところです。

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城好きのメガネ

「青ヶ台城」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
青ヶ台城は鎌倉幕府の執権であった北条貞顕が築いたとされる。北条貞顕は、金沢流北条顕時の子で、六波羅南方に任じられる。その後、北条高時が病気で執権職を辞職して出家すると、高時の子・邦時が成長するまでの中継ぎとして擁立され、15代執権に就任する。しかし、北条高時の弟・泰家や安達氏の反発にあい、わずか10日で執権職を辞して出家した。1333年、新田義貞が鎌倉に攻め寄せた。この時、貞顕の嫡子の貞将らは、巨福呂坂で討死にした。貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り、新田軍と善戦した後、自刃した。現在、遺構は消滅している。

*金沢文庫は、金沢北条氏の北条実時が創設した武家の文庫である。顕時・貞顕・貞将の三代にわたって受け継がれた。金沢北条氏が滅亡後、文庫は隣接する菩提寺の称名寺(国史跡)によって管理された。金沢北条氏歴代(実時、顕時、貞顕、貞将)の肖像画(いずれも国宝)は必見である。

<アクセス>
京急電鉄 金沢文庫駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「笹下城」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
笹下城は後北条氏の家臣である間宮信元が築いたとされる。その後、信元の子・康俊が改修したとされる。間宮康俊は北条氏康・氏政・氏直三代に仕えた。小田原征伐では、松田康長とともに山中城を守備し、戦死する。徳川家康の関東入封後、間宮氏の多くは徳川家に仕えたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
京急電鉄 屏風浦駅 徒歩25分

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キンヤ

主郭を囲む横堀・土塁が良好に残る城 (2018/05/04 訪問)

土豪の稲葉氏の城で、石山本願寺に味方して織田信長に対抗しましたが、織田軍に攻められ落城したそうです。

阪和自動車道の岸和田和泉インターに近い菅原神社の西側裏手に城跡があり、アクセスし易いです。

街のそばにある小さな城跡ですが、主郭の北西側は谷の天然の要害で、それ以外の周りを囲む横堀・土塁が良く残っていました。
切岸も鋭くカッコ良かったです。

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城好きのメガネ

「野庭関城」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
野庭関城は後北条氏の家臣である石巻康敬が改修したとされる。石巻康敬は、北条氏直の御馬廻衆の1人で評定衆として活躍した。小田原征伐後、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
横浜市営地下鉄ブルーライン 上永谷駅 徒歩20分

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カルビン

左入城 [東京都八王子市左入町 787 八王子インター際] (2014/05/18 訪問)

国道16号線・中央道八王子インター傍の村内家具の入口の所に左入城の解説碑があります。

村内の7代目社長がその地にお城があった事をわざわざ碑石にして残した様です。

遺構は残っておりませんが、すぐ北側に窪地があり、更に北に高台があって地形的にもお城がここにあったのは濃厚のようです。

更に窪地を超えた北東の広い高台がイオンモール建設予定地となっています(とはいえ看板でてから3年くらい放置されているw)が、そこで整地時に史跡が見つかったらしく発掘調査が行われていたようで、左入城に関わる物では?と思われます。

更に更に北の高台にある宗徳寺には北条氏照のお墓があるという話もあり、左入城が後北条家に関わるお城であったのは間違いなさそうです。

google mapにも載っていないお城なので検索に引っかかり辛い場所ですが、話のネタに訪問されるのも面白いかもです。
※他に何も無いので、バーター訪問地にして下さいw


ちなみにここから南にあるひよどり山上の住宅に北島三郎さんのご自宅があります。
健康の為に歩いてご自宅付近に行った事ありますが、周辺の家々はどこも大きなお宅ばかりで・・・どうやらセレブが住まわれる一帯のようです(^ω^;)ゞ
※挙動不審にしていると通報される可能性大なのでご注意を(汗)

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城好きのメガネ

「伝畠山重保館」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
鎌倉時代の武将・畠山重保の居館とされる。畠山重保は北条時政の妻・牧の方の女婿 平賀朝雅との口論事件がきっかけとなり、北条時政・牧の方によって畠山重忠・重保父子討滅計画が進められた。稲毛重成の招きにより武蔵国より鎌倉に出てきた重保は、謀叛人として討たれた。また、父・重忠は事情を知らず菅谷館より軍勢数十騎ほど率いて鎌倉に向かう途中、二俣川付近で北条義時、安達景盛、和田義盛らの数万の軍勢に囲まれた。重忠は奮戦するも愛甲季隆の矢に当たり戦死し、畠山一族は滅亡した。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
横浜市営地下鉄ブルーライン 踊場駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「岡津城」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
扇谷上杉定正・朝良の居城とされる。その後、後北条氏の支配下に入るが小田原征伐で落城する。徳川家康の関東入封後は彦坂元正が陣屋を築く。彦坂元正は家康からの信任も厚く、徳川五ヶ国総検地の奉行となる。江戸町奉行や相模・伊豆の代官などを歴任する。伊奈忠次・大久保長安とともに三目代の1人とされた。年々の豊作、凶作によって徴収額を変える「彦坂流」を採用した。1600年、鎌倉八幡宮の普請に関連して閉門を命じられ、貢金横領が発覚して改易された。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
相鉄線 緑園都市駅 徒歩25分

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