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スプラNNNN

大正村 (2020/07/05 訪問)

風情ある町並みがあります。
西洋と和風が混ざったような町並みだった。
まさに大正時代のような町並みだ。

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スプラNNNN

明智光秀ゆかりの地 (2020/07/05 訪問)

明智光秀ゆかりの地ということで行ってみた。
あまり遺構が残ってなさそうだなと思ったが、意外に堀の跡、土塁がきれいに残っててよかった。
城オタなら行ってみたほうがいいと思います。

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小城小次郎

特異なエリアにあって極端に発達した城が生まれたということか (2020/03/17 訪問)

極端に発達した城がぎっしり詰まった鹿沼エリアの中にあってもひときわ際立つメリハリの効いた堅城なのだが、有力国衆がひしめく下野だけに、こうした城が育った背景にはきっと壮絶な軍事的緊張感があったのだろう。

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赤い城

跡地には小さな石碑がひっそりと (2020/07/12 訪問)

北鴻巣駅から徒歩で7分。
館跡には小さな石碑がひっそりと佇んでいますが遺構はありません。
近くには古墳がありますが関係はどうかと。
氷川八幡社に箕田氏の説明板が立っています。
海無し県だけど鴻巣市は川幅が日本一、川幅うどんなるひもかわよりも幅広なうどんがあります。
訪れた際にはどうぞ。

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カルビン

大久保長安陣屋 [東京都八王子市小門町] (2014/07/19 訪問)

徳川家康に使え江戸を発展させた三代官の一人、
その能力で徳川家だけでなく己にも多大な蓄財をし、亡くなった際には黄金の棺に入れられたとされる(徳川幕府に見つかり、長安が家老を務めていた主君の松平忠輝にまで影響を及ぼしてしまったらしい・・・)日本一のおごり者と呼ばれる様になる大久保長安。

元々は釜無川や笛吹川等の河川の氾濫に手を焼いていた武田晴信により治水の技術を買われて召還された人物で、その際に手柄を認められて土屋姓を賜って土屋十兵衛と呼ばれていました。(山本勘助が推挙したと書かれた小説もありますね)

元々は猿楽師で山師の技術も持っていた事から甲州の金山を一手に任されていたものの、武田勝頼の代に冷遇された事により徳川家からの触手に乗ったとの事。。。(穴山信君の裏切りは土屋十兵衛の手によるものともされています)

そしてその手腕を家康に買われて大抜擢に答えたって事です。
大久保忠隣の推薦で徳川家に仕える事になった経緯で大久保姓を名乗るようになった・・・らしいw

その後各地の金山奉行を兼任する事になるのですが、欧米の技術(アマルガム法・水銀流し)を取り入れた事により枯渇したと思われていたものを含めて各金山の産出量が爆発的に増えたのも長安の功績の1つとされております。
(徳川埋蔵金の話はここから出ているらしい・・・が、三代将軍家光が日光東照宮建造等で蓄財されていた多大な金銀のほとんどを消費してしまったらしい。。。)


といろいろエピソードのある大久保長安ですが、武田家滅亡後に晴信次女・見性院(穴山信君正室)や4女・松姫の面倒をみたり、千人同心設立を家康に進言して取り入れられ、その人物に旧武田家の下級武士を充てたりと、心酔していた武田晴信への恩返しのつもりで徳川家に仕えつつ武田家の旧臣や関係者達の面倒を見る為に八王子に拠点を構えていたとされております。
(八王子市は隠れ長安推ししてます・・・所々に大久保長安のアピール看板ありますのでw)


肝心の大久保長安陣屋は松姫の菩提寺・信松院からJR中央線を挟んで直線距離で北東400m程の所にあります。

現在は産千代稲荷神社となっており、碑石と解説と陣屋井戸(見る限りは現存ではなく復元井戸)があります。

信松院とのセット訪問推奨で御座います。(信松院経由なら西八王子駅からの方が近いかと)

※ちょっと距離ありますが、徒歩圏内に城びとに登録されている横山党館や、先程書きました千人同心関連の史跡等、西八王子~八王子駅間に転在してますので、興味のある方は1日かけて散策されるのも良いかも。


しりとりで使用濃厚の場所なのですが、大久保長安に関してはう ん ち く(←NGワードにされたw)書きたい内容多くて先出させて頂きましたwww

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街道おじさん

竹田城登城 (2020/07/16 訪問)

久々の城巡りで以前から行きたいと思っていた竹田城に登城。
姫路駅前のビジネスホテルに前泊、早朝の播但線で竹田駅に9時9分着。
早速駅で100名城スタンプ押印。徒歩3分の情報館『天空の城』でご城印とマグネットを購入。
竹田駅前10時5分発の天空バスで竹田城跡に10時25分着。そこから登り坂を歩くこと20分。
ようやく竹田城到着。
かなり苦労して辿り着いたが、来た甲斐があった。
期待通りの素晴らしい山城。二の丸から見た本丸、本丸から見た南千畳、南千畳から見た本丸いずれも惚れ惚れする。
是非もう一度見てみたいと心から思った。

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カズサン

先達の情報頼りに初登城 (2020/07/16 訪問)

 昨日西尾城の二の丸木造復元丑寅櫓と復元続き屏風折れ土塀、土塁を11日公開後初めて見学探訪し、その帰路往路を逆に岡崎バイパス、23号線バイパスを経て高縄城初登城。
 老津駅近くの踏切を渡る辺りに城下の字が有り近くに城跡が有るのだとと言うワクワク感、前情報が女学校「家政高等専修学校」と有るのでうろうろも出来ず、前の道も狭く露駐出来ず、車を停めれそうな北側の道に入り学校裏西か?行き止まりで幅広道に路駐、体育館の横です。

 そこに出ると皆さんの投稿写真に在る土塁?と曲輪(畑)?西側と南側は崖上で下がって居り段丘の先端を利用して城郭を造った様、グーグルマップの航空写真を確認すると渥美半島付け根の丘陵先端と良く分かります。
 戸田氏が渥美街道の見張り、田原城と二連木城の中間拠点の抑え城と活用した城なのかと想像する。
 学校外側周辺を回って投稿写真に在る案内標柱を探しますが見つからず学校正面門を撮影して同じ丘陵、または以前は高縄城の城域か?と思われる太平寺に寄る。
 
 太平寺は案内板によると臨済宗妙心寺派寺院で田原城主の戸田氏、今川氏の帰依、後家康吉田城攻め(永禄7年1564年)により徳川支配となり篤く保護された。
 寺域は広く方丈は荘厳で大きく庫裏、鐘楼、門も二つ有り格式を感じる立派な寺院です。

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イオ

雑賀合戦の地 (2020/07/11 訪問)

戦国後期、雑賀御坊として紀伊国の一向宗の中心となった地で、織田信長の雑賀攻めに際しては、雑賀孫一が秋葉山全山を城砦化して本拠としました。弥勒寺山城を舞台としての戦いでは雑賀衆は勇戦しましたが、戦力差は如何ともしがたく降伏。しかし、織田軍が撤兵するとほどなく蜂起するなど、一筋縄ではいかなかったようです。

城跡の秋葉山は公園として整備され、遺構はありませんが、山頂部の歴史と風土の丘には、顕如上人桌錫所の碑が建ち、その説明板と秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡の説明板が並んでいます。山頂西下の広場には遊具があり、広場北西端の展望台からは雑賀庄が一望できます。山頂南下には梅園が広がっていて、公園化で地形は改変されているにしても山上にはなかなかの規模の曲輪を設けられたものと思われます。また、麓からつづら折りの遊歩道を上っていくと、切岸の上から横矢が掛かるっぽく感じる箇所もあったりで、妄想しながら楽しく登っていくことができました(笑)

周辺には雑賀衆ゆかりの地が数多くありますが、秋葉山の麓から西に徒歩6分の矢宮神社は八咫烏を祭神とし、雑賀衆の守り神として雑賀合戦に際しては雑賀孫一が戦勝を祈願したと伝わります。
 

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三浦の晃ちゃん

想像以上 (2020/07/16 訪問)

城崎温泉のついでに、行きました。裏から、入ったのですが、途中まで、自家用車で、入れました。また、そこから、バスか、タクシーだけを使って、さらに、途中まて、入れました。そこから、徒歩でした。タクシーの運転手に、よると、駅前から、行くよりも、裏から、行く方が、良いそうです。下調べが、たいせつだなと、思いました。

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todo94

福島第2原発 (2020/07/11 訪問)

城びと登録城郭の中では最も福島第2原発に近い城です。JAの茶色い建物はなくなっていて駐車場が広くなっていました。常磐富岡ICからのった常磐道の放射線量表示は最も高いところで2マイクロシーベルト/時でした。2015年4月、小高城からの帰りの時は5.4でした。

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朝田 辰兵衛

巡視結果異常ナシ。 (2020/07/11 訪問)

豪雨災害巡視結果,JR宇土駅から城跡までは異常ナシ。しかし,災害復旧ボランティアの活動拠点とするには,(この後に向かった)八代市街地のほうがベターだと感じました。被災地への公共交通は,路線バスのみ運行を開始しておりました。ただし,最新情報は自分で調べてから乗り込んでください。基本,自己完結で。
なお,ボランティア保険は,地元のボランティアセンターで加入しておいてください。

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dougen

2019.39.31登城 (2019/03/31 訪問)

姫松館から県道17号を南下し、岩出山駅付近から国道457号をさらに南下すると国道347号の交差点付近に長興寺があり、中新田城址となります。

遺構は残っていませんが、城址の石碑と斯波家兼の像が建てられています。

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カズサン

二の丸丑寅櫓と続き土塀完成公開 (2020/07/16 訪問)

 待ちに待った西尾城二の丸丑寅櫓木造復元、天守台との続き屏風折れ土塀復元が合わせて令和2年7月11日に公開に成りました、12日に千田教授のツイッターを閲覧してましたらフォロワーの方のツイートに7月11日に公開との内容でしたので梅雨の晴れ間の今日16日浜松より地道、環状線、1号線バイパス、23号線バイパス、岡崎バイパスを利用して出掛けてきました。
 車は西尾城二の丸の駐車場に停める8割方の混みよう。

 2層3階?の木造復元丑寅櫓、本丸にも丑寅櫓3層3階が以前より聳えてます、屏風折れ2か所の続き土塀も同時に完成公開されましたが二の丸丑寅櫓には入場できません.。(建築基準法の関係とか)
 二の丸丑寅櫓を東西南北から探訪写真撮影、続き土塀は二の丸側、堀跡の道路側、天守台から眺め撮影、西尾市良く頑張って復元してくれました只々感謝です、次は天守閣3層4階の木造復元を期待してしまいますが20、30億円は必要かな?相当寄付を募らなければ?
 昼は車で家内手作りの弁当を二の丸丑寅櫓を眺めながら食べ昼過ぎ駐車場の車が殆ど無くなり急いで写真撮影2時間ゆっくり過ごしました、まだ二の丸丑寅櫓のパンフレットは有りませんでした。

 帰り道の途中に豊橋市未登城「高縄城」を訪ねました。

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チェブ

【家×お城】登城したお城しりとり(255)

良いパスの時だけ、すいません。
久しぶりに、しりとり参加させて下さいね。
朝田 辰兵衛さんの「江迎城」から
「向羽黒山城」続100名城

残り、1城となってしまいました。
どんな、お城で繋がっていくか楽しみです。
では、お次は「ま」「山」で、お願いします。

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カニカニ

鳥居強右衛門 夜の川を下る (2013/08/10 訪問)

長篠城を抜け出した強右衛門が上陸したと伝わる地点まで辿ってみた。


私は何度かこの川をリバーカヤックで下ったことがあるので、川面からいつも本丸を見上げ、これは登れんなー、すごい崖だなー、と思っていた。
飯田線鉄橋の水面からの高さをみれば、この城が断崖で守られていることが実感できると思うのだが、皆さんはどうですか?

そして、私はこの川のどこの瀬がヤバいのかを知っている。

牛渕橋から下流の写真をみてほしい。  中洲の左側が白く波立っているのが少し見て取れるだろうか。
その瀬に行くまでは深い淵で穏やかなのだが、そこは落差が大きく、大岩がゴロゴロあり、波がうねって暴れる、ヤバイ場所なのだ。(私の川下りのカヤックテクニックでは)
写真は水量が少ない時期だし遠目には大したことはなさそうに見えるが、どうしてどうして、これでも実際はかなりの急流なのだ。
しかも当時は梅雨の真っ只中。     増水した川にライフジャケットも着けずに身ひとつで突っ込むなど・・・。
(ジャッケットとヘルメットをおまけしてくれても 絶対に ム~リ~~!!。)
それが戦国の世、戦の最中と言われればそれまでだが・・・。

旧暦五月十四日はほぼ満月だが、当夜は霧雨が降っていたと言われており、ほぼほぼ真っ暗であったろう。 激流の轟音が近づいてくる闇の中、行く手に恐怖はなかったのだろうか。(通常水量でさえ瀬音はかなり大きく響くので、ビビりの私にはとても考えられない。)
日本の川は、ふつうなら何度も瀬と瀞場を繰り返すのだが、増水時は瀞場は皆無。 ただただ急流に翻弄されながら、ただただ流されただけだったはず。
波にたたかれ、岩にぶつかり、川底に引き込まれ、しこたま水を飲まされたことだろう。 (長良川で経験済みなので、実感です。)
 
上陸場所は連吾川の流れ込み地点と言われている。  その場所に行ってみた。(もちろん今回はカヤックではない)
勝楽寺の参拝者用駐車場を拝借し、軽く(?)参拝を済ませ、伝山本勘蔵信共の墓の前を通り、豊川(寒狭川と大野川が合流してからは名前が変わる)にぶつかるまで南進。
橋があるが渡ってはダメ。   しかし川沿いに道はないので少し戻って、今度は連吾川にぶつかるまで西進。
そこには、それと分かる標柱が、ひっそりと待ってくれていた。
水上のカヤックから眺めていたとしても、うっかり通り過ごす、何でもない川岸だ。
廣瀬渡という地名も残っており、朽ち掛けた船が放置されていたので最近まで「渡し」があったのかも。 
 
この連吾川の上流は設楽原の決戦場である。 ここから飯田線の線路に交差するまでは、深く切り立った峡谷なのをご存じだろうか。 馬防柵のある設楽が原の連吾川の下流とは、とても思えない様相なのだ。
ここまで来なくとも、決戦場からのんびりと田園風景の中、飯田線線路直下まで行って覗いてみてはいかがでしょうか。

ちなみに線路の北側付近は、大久保忠世、忠佐兄弟と、山県昌景が対峙した場所だという。
昌景の討ち死に場所は、もう少し北の地点なので、よほど縦横無人に駆け回ったのであろう。
この古戦場一帯には、討ち死にした武将たちへの鎮魂墓碑や地元の皆さんが苦心して考えた『いろはかるた』四十八句の句碑が其処かしこに建てられているので、あわせて散策するのも良いと思います。
(かなり広範囲です。鵜の首にも建っているので歩くと、かなりキツイが、滝(??)を眺めていれば疲れが飛ぶかも)

ネット投稿というものを、生まれて初めてしてみました。  
過去に多くの方々が長篠城を紹介しているので、ビビッて城と関係ないものになっちゃいました。
写真は、数回分の抜粋です。

こんな内容でも容認されるのかな~??      やっぱり、疲れた~。

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イオ

鈴木佐太夫の城 (2020/07/11 訪問)

戦国期に鈴木重意(佐太夫)が築いた城で、織田信長の雑賀攻めの際には弥勒寺山城とともに抵抗の拠点となり、一度は織田方の大軍を撃退するも、衆寡敵せず降伏しました。

妙見山頂から北に続く尾根上の台地(千畳敷)あたりが城域とされますが、遺構らしきものは特に見られません。それでも山頂に立てば和歌浦から紀伊水道を一望でき、交易の拠点だったことがうかがえます。

登城口は妙見山東麓の津屋公園の奥にあります。北麓には徳川頼宣(紀州徳川家初代)が母・養珠院の位牌を安置するために建立した養珠寺があり、妙見山頂には養珠寺妙見堂が建てられています。

ところで、鈴木佐太夫というと、信長の野望・戦国群雄伝で紀伊国に攻め込んだ際に鉄砲隊に散々にやられ、「この鈴木なんちゃらって何者だ?」と思って調べてみて、雑賀孫一(鈴木重秀)の父親(諸説ありますが)だと知り、それ以来、雑賀衆には少々思い入れがあったりしますので、遺構は特になくてもその鈴木佐太夫の城を訪れるのは楽しい経験でした。
 

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dougen

2019.3.31登城 (2019/03/31 訪問)

真坂城址の向かい側の丘陵にある姫松館森林公園が姫松館跡となります。

一迫川を天然の濠とする丘陵に位置しており、自然地形を利用した大規模な山城となっています。

遺構も整備されていることもあって、堀切や竪堀などが良く残っており、オススメです。

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朝田 辰兵衛

【家×お城】登城したお城しりとり[254] (2020/07/12 訪問)

todo94さんの「え」からリレーします。
三連水車の「江迎城」で。
次は,東北最大級の山城で,福島の続日本100名城をお願いします。

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チェブ

二の丸公園と外掘公園。 (2020/06/20 訪問)

本丸跡が、利根川の大洪水で過去に崩落してしまった「石倉城」に行きました。
各地の河川の氾濫はTVで報道されているので、「石倉城」の崩落も想像はできます。
自然災害には抗えないです。残念です。

「石倉城」は上野国守護代 長尾 憲景さんが築城しました。
その後、討死した憲景さんに代わり 長景さんが城主になります。
この頃、武田 信玄さんが上野国に侵略して来ます。
長景さんは「厩橋城」を守ってました。留守の間に「石倉城」は武田氏に。
その後は上杉 謙信さんが攻め落としました。
で、取り返す武田氏!
武田氏滅亡後は北条氏、と忙しい「石倉城」です。

まずは「石倉城二の丸公園」に行きました。
こちらには石碑と縄張図がありました。
遺構のようなものは分かりません。
見ようによれば見えてくる、程度です。
縄張図には、川の水を引き入れた掘が描かれてます。
そして、石碑。
なんだか、味わいのある文字。彫ったと言うより削ったような筆跡でした。
、、、福田元総理の文字でした。
次に「石倉城外掘公園」です。
掘を埋めたのか、縄張図のどの辺りかも分かりませんでした。
そして、ちょっと怖い、遊具がありました。
どのように遊ぶのか、悩みます。

【業務連絡?】
朝田 辰兵衛さん、お帰りなさい。九州の河川氾濫報道で心配してました。
おかげで、福島県のお城に繋がりますね。
お疲れ様でした。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり【253】 (2018/09/15 訪問)

教来石民部館、実は未訪なんです。遠くにばかり行きたがって近場はかなり抜けています。木曽の城も一つも攻略していないほどですから。さて、しりとりです。「きょうらいしみんぶ」から【福江城】。個人的には石田城の方がしっくりくるのですが。次は「え」で、筑後川近くの攻城を完遂された朝田辰兵衛さん、よろしくお願いいたします。

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