みんなの投稿

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BUCHI38

写真追加 (2022/01/08 訪問)

投稿し忘れていた写真を投稿します。

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todo94

財部麓・財部地頭仮屋(鹿児島県曽於市) (2021/12/28 訪問)

龍虎城のほど近く、財部小学校の校門脇には地頭仮屋跡の標柱が立っていました。此処は財部麓です。さすがに日本遺産「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成資産にはなっていませんが。

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POYO58

フォロワー20人を超えました。皆さんありがとうございます。

ついに私の目標を達成しました。って言ってもまだ始めてから5ヶ月しか経っていないのに。
カルビンさん新しい投稿が見たいです。
T-Shiroyamaさん洲本城最高です。
他の人にもメッセージを書きたいですが、今日はこの辺で。
まだ冬ですが、そろそろ桜の時期もやってきます。早く桜とお城を一緒に見たいです。
今回はお礼に去年の3、4月頃に撮った桜の写真をお見せします。よかったらいいねお願いします。
これからフォロワーが何人か達成したらその時までに行った城のマイランキングを提示しようと思います。
では今回は20人を超えたのでランキングを記します。
1位 掛川城
2位 松本城
3位 犬山城
4位 岩村城
5位 伊賀上野城
6位 大垣城
7位 郡上八幡城

今私は福知山城と黒井城に行きたくてたまりません

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じゅんじん

関東七名城 (2022/01/15 訪問)

太田小学校が城跡になります。城址碑がありました。特段遺構はみられませんでした。

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じゅんじん

ずら (2022/01/15 訪問)

常福寺横から裏手にかけて曲輪、堀、土塁があります。

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じゅんじん

土塁♪ (2022/01/15 訪問)

宝幢院を囲むように土塁と堀があります。お寺の門横に説明板、城址碑があります。

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T-Shionoya

洲本の山の石垣遺構にワクワク (2021/11/24 訪問)

昨年11月の旅行で寄った城の1つ目。

淡路島の東部、洲本川河口の南に位置する標高133mの三熊山を城郭とした洲本城。
山の南側は、淡路島経由で都と四国各地を繋ぐ南海道の通り道。
室町後期に三好氏の重臣で熊野水軍の安宅氏が築城し、信長と秀吉の四国侵略時代には仙石秀久、脇阪安治が城主となり石垣の城に改修。江戸期に徳島藩の所領となると、蜂須賀氏の重臣稲田氏により麓の城(下の城)が築かれました。

現在は下の城が資料館や裁判所に。
上の城は東の端から西の端まで曲輪が石垣で補強されており、続100名城として整備が進められている様子。
天守台に立つ模擬天守は風変わりですが、本丸を始めとする石垣は予想以上に立派なものでした。

小天守台や残念石のある場所、東の武者溜などは眺望が良く、青い大阪湾の向こうに薄っすら高層ビル群。
かつては大坂城の天守が見えたのでしょうか。

私の城巡りの114城目。
洲本はドラクエを生み出した堀井雄二氏の出身地でもあり、ゲームの世界観にも影響しているかのようでした。

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チェブ

笑っちゃうよ。 (2022/01/03 訪問)

千葉県の「城城」、鎌倉時代に六崎氏が、築きました。

「城城」なんて名前だけは『King of 城』です。
住所も『佐倉市 城』。近くは『佐倉市 城内』
期待度、上がります。

、、、と、到着すると住宅地。
「城城」に関する遺構は、 ありません。住宅の裏手が遺構っぽいけど、入れません。
石碑や説明板もありません。
辺りの写真をパチッとして退陣です。
笑っちゃうくらい、なーんにも収穫なしです。
もしや、住所の『城』や『城内』は近くにある100名城の「佐倉城」からか、、、?

六崎氏もどんな方だったのか分かりません。
六崎氏の活躍より、なんで「城城」と名付けたのか?と、聞いてみたい「城城」攻めでした。

ヒロケンさん、大変でしたね。
私の会社や取引先などにも、コロナに感染した方がいます。
私はコロナ感染を、対岸の火事のように思っていたようで、急拡大に、あたふたしてる 情けない現状です。

ヒロケンさんの楽しい投稿を、ゆっくり待ってますね。
お大事にして下さい。

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久しぶりに烏帽子形城を攻城して (2022/01/29 訪問)

昨日、烏帽子形城を訪問しました。
烏帽子形城は、標高180mの烏帽子形山の山頂部に位置して、北と西は断崖で下には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいる。
よって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で、外堀の役割を果たしている。
また、付近には京からの東高野街道、大阪の平野からの中高野街道、堺からの西高野街道の合流地点がある他、河内国から和泉国に抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、
大和国へは大沢越えの道が分岐しており、交通の要衝でありました。
城郭の規模は、東西約180m、南北約150と比較的小規模な方である。
但し、多彩な構造物が施されており、瓢箪型の主郭とそれを取り囲む逆L字型の帯曲輪を中心に土塁と横堀が造られて、尾根に堀切、主郭の北側には切岸が設けられています。
周辺の諸城では、堀切が用いられるのが多いのに対して、烏帽子形城は、土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっております。
現在の城郭は、織豊系城郭の三要素のうち、瓦の使用と礎石建物の構造が当てはまることから、中世の土塁を中心とした城郭から発展していく過渡期のものであると推定しています。

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ヒロケン

全てが見所 (2016/11/05 訪問)

戦国時代、大阪城の地には浄土真宗の石山本願寺があり、大阪御坊と呼ばれていました。大阪御坊では法主顕如を戴、11年にわたり織田信長公と死闘を繰り広げていましたが、天正8年に信長公と和睦し、紀州に退去。この時に、大阪御坊は焼失しています。
この後、信長公が本能寺の変で横死した後の天正11年豊臣秀吉公が、大阪城築城に取り掛かり、当時の日本の城の概念を一変させる大城郭を築いています。(この時の大阪城は徳川時代の大阪城の4倍の広さがあったとされています)

大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣氏を滅亡に追い込んだ徳川氏は、西日本の大名を動員し、既に堀を埋め立てていた城を更に破壊し、埋め立て後に嵩上げを行い、巨石を大量に使用した石垣を築き築城、これが4分の1のスケールとなったが、現在の大阪城です。
現在は、国指定特別史跡、大阪城公園として復興天守があり、二の丸の1番櫓と6番櫓・西の丸の千貫櫓と乾櫓・大手門などが現存。また、巨石を使用した本丸・二の丸の高い石垣・深く広い堀が残り、城の全てが見所と云えると思います。

私事ではありますがこの度、コロナ感染症に感染し、入院・軽症者療養施設を経て、現在、自宅にて療養しています。暫くの間、城巡りを止めおとなしくして居ようと思っております。(職場内で感染したものですが、娘から諭されコロナが落ち着くまで外出禁止です。)
この大阪城も含め古いものになり、参考にはならないと思いますが投稿させて頂きたく、宜しくお願い致します。
入院・入所中は皆さんの投稿を拝見し、勇気づけられておりました。あさんの鹿伏兎城攻城で、感謝とのことでしたが、此方こそ参考にして頂き感謝です。
歴史的背景等間違いがあると思いますが、ご容赦お願い致します。

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カズサン

境目の城総石垣造り (2011/05/07 訪問)

 亀居城は福島正則が関ヶ原後戦功で安芸、備後50万石の太守として国境の支城を整備しその一つ、長門、周防毛利氏との国境の直近、大竹市小方に総石垣で築城した。
 しかし築城完成3年目に幕命で一国一城令前に破城され、幕府の総石垣の壮大城郭、福島正則に対する豊臣恩顧の大名への猜疑心も遇いまった事が重なったのでしょうか? 約400年土に埋もれたままに成ってしまいました。
 
 10年前の平成23年5月上旬、長門、周防、安芸、備後、播磨2泊3日の城廻り3日目、前泊した防府から山陽道経由、大竹ICを降りて亀居城の裏側登城通路の途中に在る専用駐車場を目指し、同駐車場に駐る。
 亀居城の認識は歴史読本の県別ベスト10、学研のよみがえる日本の城7(広島城福山城)で紹介が有り、圧巻は学研の戦国の堅城Ⅱの安芸亀居城、樋口隆晴氏解説、イラストは香川元太郎氏の推定復元亀居城俯瞰図、俯瞰図をしばらく眺めて是非訪ねたいと思い込んで約5年目の今回はの企画に入れ初登城が実現しました。

 探訪ルートは駐車場から三の丸下登城口から、発掘復元石垣が直ぐに目に入って来ます、登城路も石垣で囲み、三の丸、二の丸、二の丸虎口も小型の枡形、内部には演舞台付きの建物、本丸、本丸虎口は小型桝形4連で凝り切ってる、内部に入って南側に大天守台、左に小天守台、右に石階段付き多聞櫓台、天守台多聞櫓台には登れません、北東角に隅櫓台、北西は連続虎口、本丸石垣をぐるっと回る、東の二の丸下に詰の丸、詰の丸下に破城時の残存石垣が多数散見されました、登城口三の丸下に戻り有の丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸方向を散策探訪、石垣は破城時のままか土の剥き出し、切岸、土塁、残存石垣、復元石垣が見られます、イラスト復元図に在る、鐘の丸、妙見丸は探訪してません。
 
 亀居公園としてよく整備されています、所々に詩歌の石碑が多数ありますが趣味違いで素通りさせて頂きました、又桜の時期は過ぎて葉桜でしたが桜の時期は天守閣本丸から眺める景観は亀居城が桜に浮かんだような素晴らしい絶景が見られる事でしょう。
 大竹市、教育委員会の約400年過ぎた亀居城の発掘調査、石垣復元、公園整備の御尽力には大感謝です。
 続々百名城の制定企画がもし有りましたら是非亀居城の選定をお願いしたい。
 素晴らしい城です。
 

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BUCHI38

写真追加 (2022/01/08 訪問)

本アカウントで投稿出来なかった写真を追加します。

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POYO58

現存天守、国宝の漆黒の城! (2022/01/08 訪問)

1月の初期に私がずっと行きたかった松本城に行きました。松本城はなんと石落としが12箇所あります。そしてお城には鉄砲で抵抗するため幾つもの穴がありました。天守内を登るのがすごく大変でしたが、すごく立派でした。松本城は最初徳川家康の家臣、小笠原氏の城でした。この頃は深志城という名前でした。その後徳川家康が秀吉により江戸に領地を移すと豊臣秀吉の家臣、石川氏が松本城と名前を変え、天守を築きます。その後戸田氏が城主となり代々受け継がれていきます。私が一番すごいと思ったのは、本丸御殿と二の丸が炎上しているにも関わらず、天守は現存していると言うことです。そこにはある伝説があり、松本城の天守に祀られている神様が守ってくれたということです。ちょっと不思議ですが。またこの城は戦国時代のものと江戸時代のものに分かれているのもこの城の特徴です。ぜひ行ってみてください。

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POYO58

明智光秀の母、お牧の方の墓 (2022/01/29 訪問)

明智光秀は丹波攻めのとき波多野氏の裏切りに遭います。その後光秀は波多野氏に八上城を明け渡し講和をするよう持ち掛けます。しかし波多野氏はなかなかそれを信じませんでした。そこで光秀は母であるお牧の方を八上城に入れ、保護することを誓います。すると波多野氏は満足し、安土城へ向かいます。しかし、織田信長は裏切りを許せず、はりつけにして殺してしまいます。怒った波多野氏の家来は八上城にいたお牧の方を殺してしまいます。その遺体がこの場所に埋められています。墓には石碑がたっていて敵は本能寺にありと書かれています。おそらくこのことが本能寺の変に繋がったとか。

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北風の又三郎

関ヶ原いざ出陣! (2022/01/29 訪問)

戦国のクイズをするため、関ヶ原に行きました。

説明をしておくと、この関ヶ原は東軍家康と西軍三成が戦った場所です。最初は、西軍が優勢でしたが、小早川秀秋などの裏切りにより、西軍は崩れて行きました。この後、家康は江戸に幕府を開きました。

最初は、関ヶ原笹尾山交流館に行きましたが、開いていませんでした。予約すれば甲冑体験をできるそうです。
次は、岐阜関ヶ原古戦場記念館に行きました。新しい建物で、面白そうな展示がしてありました。予約していなかったので、また来れたらなと思いました。また、ここはあの有名な小和田哲男さんが館長だそうです。
そして、東首塚にも行きました。いろいろ説明が書いてありました。
最後に観光交流館に行きました。グッズがいっぱいあって楽しめました。僕は裏切りスナックという、小早川秀秋をイメージした物を買いました。味も見た目を裏切る焼き肉味です。余談ですが、間近で東海道本線を見ることができます。

関ヶ原は、松尾山城など戦いに関する場所がたくさんあるので、また行きたいです。のどかでいい所なので皆さんも来てください。🙇
#関ヶ原の戦い #記念館 #城 #首塚 #広い

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ぴーかる

福岡城 (2022/01/09 訪問)

【百名城60城目】
<駐車場他>舞鶴公園駐車場有料あり。
<交通手段>車

<見所>天守台・下之橋御門・門跡・多聞櫓・石垣
<感想>1泊2日国土防衛筑前国の旅5城目。2日目、朝駆けで来城した。舞鶴公園第一駐車場に駐車し最初に母里太兵衛長屋門を鑑賞、大手門交差点から下之橋御門と(伝)潮見櫓→名島門を見て黒田如水邸跡、三の丸広場から大濠公園に出て北に回り北側の外堀を端から端まで堪能。上之橋御門跡を入ってむかし探訪館(無料)へ。次に鴻臚館入館とスタンプ押印した。鴻臚館跡は礎石建物跡と推定復元建物があり昨日見た大野城の礎石群にこういう建物が建っていたことが連想でき勉強になった。東御門跡から二の丸跡→表御門跡、祈念櫓台石垣、本丸跡→天守台をじっくり堪能、やはり礎石が残っているのだから天守が存在したと私は思います。熊本城にも匹敵する大きさの天守台、どんな天守があったか妄想をかきたてます。小天守台も本丸石垣の出隅にして高さをとって見応えがあります。天守台周辺を一回りして南二の丸、多門櫓へ。福岡城も現存建物が全て中に入れないのが残念。南二の丸の外側一回りして石垣と下から見上げる多門櫓を堪能、本丸南側石垣を観察し北へ戻って裏御門跡、松の木坂を北へ下って、最後に城跡の北東隅に「外堀の石垣」という地下にある展示室があるので見に行って終了した。北にある2つの枡形御門跡、高さのある石垣囲みの主要部、内堀が無い代わりに外堀の西側に巨大な大濠があったりする特徴的な縄張り等見応え十分な城跡でした。

<満足度>★★★★★

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ばばよ

空堀跡は残っている (2022/01/29 訪問)

志村三丁目駅のすぐそばに志村城山公園があり、公園の坂を登った先に二ノ丸跡でもある熊野神社があります。
確かに神社の西側には空堀の跡がみてとれますが、写真ではわかるようには撮れませんでした。

●アクセス 都営三田線志村三丁目駅 徒歩約5分

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ばばよ

案内板が2つ (2022/01/29 訪問)

赤羽駅西口方面は赤羽台という小高い台地になっており、そこの端にあります。
赤羽駅の地図や案内には城や静勝寺がないのでスマートフォンの地図を頼りに。
駅西口のロータリーから南に向かう道を進むと突如路地の奥に石碑が見えてきます。
交通の要所を少し高台となった場所から見下ろすような城だったのでしょう。
遺構らしいものはあまりありませんが、都の旧跡でもあるため、東京都と北区それぞれが案内板を出しています。

●アクセス JR赤羽駅から徒歩5分

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ばばよ

案内板がないと城跡とはわからない (2022/01/29 訪問)

上中里駅を降りた目の前に蝉坂があります。
坂を登って行くと両側が切通風になっています。
その右手側が平塚神社です。
坂を登りきり本郷通りにぶつかるあたりに案内板があります。

●アクセス JR京浜東北線上中里駅から300m(案内板まで、徒歩5分)

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todo94

三重堀切 (2021/12/28 訪問)

志布志城に向かう途次に立ち寄りました。レンタカーを借り受けてすぐに向かったのですが、国道10号の事故渋滞の所為で10時近い到着になってしまいました。駐車場の一角に城址碑があり、ここからの桜島の眺望は一見の価値ありかと思います。登城路は駐車場入口側から伸びていますが、すぐに三重堀切がお出迎え。整備の手が余り入っていなくて登城路がわかりにくく、主郭にたどり着くのには少々苦労してしまいました。主郭の土塁の上には石の祠がありました。

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