高野山は平安初期に弘法大師空海が開創した真言密教の聖地で、標高1000m超の峰々に囲まれた東西5km、南北1kmの盆地に総本山金剛峯寺を中心とする数多の寺院が建ち並んでいます。高野山は戦国期には寺領17万石、3万の僧兵を擁し、根来寺や粉河寺と並ぶ紀北地方の一大宗教勢力であり、高野山自体は城郭ではないものの、周辺に小規模な城をいくつも配して防衛していたと考えられます。織豊期には織田信長の侵攻を受け(本能寺の変で頓挫)、羽柴秀吉の紀州攻めでは根来寺や粉河寺は焼亡しましたが、高野山は木食応其の仲介により武装解除して降伏し、その後は秀吉や徳川幕府の庇護を受け、江戸期を通じて寺領2万1000石が維持されました。
この日は高野山での仕事が思いのほか早く済んだこともあり、高野山霊宝館の企画展「鎌倉時代の高野山」を見学しました。一番のお目当ては一昨年に約80年ぶりに再発見された「承久記絵巻」で、承久の乱を描いた現存唯一の絵巻物であり、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の肖像を伝える絵画はこれだけなんだとか。江戸前期の作とのことで、本人に似ているかどうかは疑問ながら、精緻な筆致で色彩も鮮やかに描かれており、なかなか見応えがありました。その他、高野山だけに仏像が多く展示されていますが、仏像に全く疎い私でも快慶作の四天王立像(重文)には流れるような動きと迫力を感じました。
撮影禁止のため霊宝館内の写真はありませんが、まだ少し時間があったので、壇上伽藍から金剛峯寺までぶらりとひとめぐり。壇上伽藍は開創当初からの高野山の中心地で、開創1200年記念事業で再建された中門、高野山の総本堂たる金堂、日本最初の多宝塔とされる巨大な根本大塔、根本大塔と二基一対として建立された西塔、国宝の不動堂、空海が高野山の地主神として丹生明神と高野明神を祀った御社などが建ち並び、高野山町石道の起点として一町の町石が建てられ、空海が唐から帰国する際に真言密教布教の地を求めて投げた三鈷杵が架かっていたと伝わる三鈷の松(そのためこの松葉は三鈷杵のように三又に分かれています)や、落雷で焼失した大塔の再建を任じられた平清盛が空海と対面したと伝わる対面桜、西行手植えの西行桜など様々な伝承にちなんだ史跡が見られます。
蛇腹路を抜けて金剛峯寺へ向かう道中の石垣の上に建てられている鐘楼は福島正則が父母の菩提のために建立したもので、現在も午前6時から偶数時に撞かれることから六時の鐘と呼ばれています。金剛峯寺は秀吉が大政所の菩提のために建立した青巌寺を前身とし、主殿の柳の間は豊臣秀次が自刃した部屋として知られます(この日は外観だけで主殿には入っていませんが)。
他にも徳川家霊台や金剛三昧院、奥之院にも行きたいところですが、寄り道し過ぎるわけにもいかず、この日はここまで。近場ではあるので、休みの日にでもまたじっくりと訪れたいと思います。
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