宇陀松山城からの転戦です。麓に余楽カンジョ古墳があります。きれいな竹林の葉が黄色く色づいていました。そのうち、一斉に枯れてしまうのでしょうか。大量の笹の枯葉が登城路に積もっていました。竹林の先の登城路には倒木なんかもあって主郭周りもちょっと草が伸びてきている状態でしたが、とりあえず、この時期に登城しても問題はなさそうな城でした。
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2026/05/13 06:39
2024/11/02 05:34
公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:貝吹山城 (2024/10/01 訪問)
久米田駅から徒歩10分ちょっとで、公園入口(34.458975、135.409983)に着きました。
1561年(永禄4年)三好実休(義賢)によって築かれました。
高屋城を三好に奪われて敗走していた畠山高政が再起をはかって岸和田城を攻めると、これの後詰として三好実休がきて久米田寺を本陣とし貝吹山城に陣を構えました。
翌1562年(永禄5年)に畠山高政に攻められ、三好実休が討ち取られ三好勢が敗れました。
貝吹山城は前方後円墳の古墳を利用した陣城であったようです。
現在は公園として整備されています。攻城した時、ゲートボール会場になっていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伯太陣屋を目指す為、久米田駅から電車で信太山駅に向かいました。
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2024/08/10 21:38
故郷は遠いねぇ (2024/02/25 訪問)
永禄5年(1562)の「久米田の戦い」の際に貝吹山古墳の上に三好実休が本陣を敷いたとされています。実休はこの戦で討死し、長慶の実弟であり右腕ともいえる実休を失ったことで三好氏は大きな痛手を受けたとされています。この時、実休を討取ったとされるのが根来衆徒の往来右京という人物であったとされています。
城址は現状・古墳で遺構らしきものは残っていません。
草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰(ココ)ニメクリ来ニケリ とは実休が前日に読んだ辞世の句とされています。
自らが阿波国主・細川持隆(氏之)を殺害したことを気にかけていたようで、自身を草を枯らす霜に例えたようです。後世の創作ととらえる向きもあるようですが、実際のところはどうなんでしょう?
弟・安宅冬康の返しの歌が
因果トハ遙車ノ輪ノ外ニメグルモ遠キ三芳ノ原
とのことですが‥しんちゃん流に直訳してみると
「因果なんて知ったこっちゃねーけど故郷は遠いよなー」になりました。ひどいポンコツ直訳ですがこれでいいんでしょうか?
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| 分類・構造 | 平山城(古墳利用) |
|---|---|
| 築城主 | 三好義賢 |
| 築城年 | 永禄4年(1561) |
| 主な城主 | 三好氏 |
| 遺構 | 消滅 |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 大阪府岸和田市池尻町644 |