河後森城は、伊予と土佐の国境地帯の山間部に位置し、四万十川の支流広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた独立丘陵上にある大規模な山城で、最高所の本郭を中心として、山の稜線部には馬蹄形に曲輪が展開しています。中央を南北に通る風呂ヶ谷を取り囲むように、本郭から西は九つの曲輪があり、東は古城を含め七つの曲輪、南には新城の曲輪群が階段状に連なっています。いづれも、南側の土佐方面の守りを意識した堅固な構えで、古城、本城、新城と城域が順次拡張されていったものと推測されています。
平成3年から発掘調査が開始され、貿易陶磁器・備前焼等の豊富な遺物が多数出土しています。本城では瓦も出土し、礎石も確認されていることから、瓦葺建物の存在が推測されています。小規模な石垣遺構も検出されていることから、豊臣系の築城技術が導入された可能性が考えられているとのことです。
河後森城は川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々居城しており、天文後期から天正年間にかけて機能し、1580年から翌年の間に、城主城主・渡辺教忠の近習だった、芝源三郎が謀略により当城を奪っています。1583年の四国の役後、戸田勝隆公により芝源三郎は放逐されたとのことです。その後、この地を治めた藤堂高虎公は当城の天守を移築して宇和島城の月見櫓にしたという話も残っています。1614年に伊達秀宗公が宇和島藩を立藩した際、付家老の桑折氏が河後森城に入り、その後、1615年の一国一城令により廃城になったとされています。
この城の見所は、本郭を中心に馬蹄状に展開された曲輪群と西第十曲輪・古城双方からみた景観であろうと思います(私見)また、再建されている建物に関しても、手作り感満載で予土国境最前線の城としての緊張感とのギャップがあり、ほっこりさせてくれます(#^^#)
河後森城へは初めての訪問で、石垣好きの自分としては、若干期待薄でしたが各曲輪を巡っているうちに、在りし日の城の姿を妄想し、さすが続100名城と納得の訪問でした。
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