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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金田城 (2022/06/06 訪問)

金石城➡レンタカー会社経由で、登山口付近(34.294401、129.278206)に駐車しました。
続100名城スタンプは美津島地区公民館(34.267775、129.316676)で押印しました。
帰路は厳原港(15:25発)から九州郵船/フェリーきずな(227便)で博多港(20:10着)に向かう予定。時間があるので対馬観光も行いました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①万関展望台駐車場(34.301920、129.352919)

667年(天智天皇6年)大和朝廷によって築かれた朝鮮式古代山城です。
663年(天智天皇2年)白村江の戦いで敗れた大和朝廷は朝鮮半島からの侵攻に備えるため、対馬・壱岐・筑紫などに烽を設けて防人を常駐させ、各地に古代山城を築きました。
文献に残るだけでも、665年(天智天皇4年)に大野城、基肄城、長門城、667年(天智天皇6年)高安城、屋島城を築いています。

遊歩道が整備されています。遊歩道は山頂はもちろん、三ノ城戸、ニノ城戸、一ノ城戸を経て周遊できるようになっていますが山頂には行ってません。
金田城は城山山頂から北東側一帯に石塁を築いて城域としており、一ノ木戸、二ノ木戸、三ノ木戸、南門、ビングシ土塁、ビングシ山などの遺構を見ることができます。
水門は一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸にあり、高石垣や門の礎石なども見所です。
ビングシ山の所には土塁があり、ここにも門跡として門礎石が左右両方とも残っています。
石垣や石塁はほぼ一周するように残されています。すばらしい光景です。
攻城時間は130分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで、明日の福江城攻略の為、厳原港から九州郵船/フェリーきずな(227便)で一旦、博多港に戻り、その後、博多港➡福江港(今夜も船中泊の移動です)を目指します。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金石城 (2022/06/06 訪問)

清水山城の登山口から櫓門(34.203513、129.287121)に着きました。
まずは金石城攻城の為、櫓門(34.203513、129.287121)見学と旧金石城庭園(朝早いので閉まってます)の外周を歩きました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)
③対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

1528年(享禄元年)宗将盛によって築かれました。
1526年(大永6年)対馬島主15代宗将盛は、池の屋形を築いて居所としましたが、1528年(享禄元年)豆酘郡主の一族が謀叛を起こし池の屋形は焼失しました。
この乱の後に将盛が新たに築いたのが金石城の前身である金石屋形です。
その後、代々宗氏の居城でしたが、20代宗義智のとき、豊臣秀吉による朝鮮の役が勃発し、金石城の北に聳える清水山に清水山城が築かれ、金石城もまた近世城館として改修されました。
1678年(延宝6年)22代宗義真のとき桟原城を築いて居城を移しましたが、その後も金石城は存続していました。

金石城は東の櫓門跡、西の搦手門跡、旧金石城庭園などがあります。
東の櫓門は大正期まで現存していましたが、今は復元されたものだそうです。庭園は貴重な遺跡として国指定名勝となっていますが、朝早いので閉まってました。
金石城の西側には萬松院があり、その北の山腹に対馬藩宗家墓所がありますが、朝早いので閉まってました。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカー会社が開くので、そちらに立ち寄り、それから次の攻城先=金田城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:清水山城 (2022/06/06 訪問)

10Kgの荷物を背負い桟原城から徒歩で、登山口(34.205352、129.287239)に着きました。

清水山城は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で肥前名護屋から朝鮮半島への重要拠点として、1591年(天正19年)に築かれました。
築城者は対馬に常駐していた秀吉の軍監毛利高政とする説が一般的のようですが、対馬の宗氏を主として相良長毎、高橋直次、筑紫広門が助力したという説もあるそうです。

対馬歴史民俗資料館から登山道への道標があります。
10Kgの荷物を背負って2850mの山道を登るのは、70才近いおじさんにはキツイので登山口で攻城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=金石城へ徒歩で向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:桟原城 (2022/06/06 訪問)

博多港を0:05出航の九州郵船/フェリーちくし(218便)で厳原港に4:45分に着きました。
まだ、レンタカー会社が開いていないので、港で荷物を預けて徒歩で、桟原城を攻略しようとしましたが、コインロッカーがありません。事前調査ではあったはずなのですが、港の人に聞いたらないと云われました。
しかたがないので、10Kgの荷物を背負い攻城することとしました。
厳原港➡高麗門(34.210830、129.290202)➡案内板(34.216009、129.287156)➡駐屯地前(34.216580、129.288311)の順番で巡りました。
厳原港から駐屯地前まで徒歩30分くらいかかったと思います。

1678年(延宝6年)宗義真によって築かれました。
宗義真は対馬府中藩3代藩主で金石城からこの桟原城へと居城を移し、藩の基礎を固め、格式も100,000万石になりました。
対馬藩は対馬だけではなく肥前にも飛領地があり田代代官所で管理していました。
対馬府中藩は以後代々桟原城を居城として続き明治に至ります。

桟原城は、現在陸上自衛隊対馬駐屯地となっている所に築かれていました。入口の写真を撮ったら、自衛官の人に削除してくださいと云われました。基地の写真は不可だそうです。
国道沿いに「桟原館跡」の道標が出ているものの、案内はこれだけです。西の国道と南の道路から見える部分に石垣があります。
桟原城の高麗門は対馬歴史民俗資料館に移築されていたが、今は厳原幼稚園に移築されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=清水山城へ徒歩で向かいます。

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ぎりょう

南部藩南の拠点 (2022/06/11 訪問)

この城の歴史は古く平安時代に安倍氏により築城され、戦国時代は稗貫氏の本拠地鳥谷崎(とやがさき)城と呼ばれた。天正18年の奥羽仕置で稗貫氏が改易された後は南部藩の領地となり、藩政期を通して城代が置かれ花巻城として存続した。
城の構造は、北上川、豊沢川の河岸段丘上に北から本丸、二の丸、三の丸を配した梯郭式縄張だったが、現在は本丸以外は都市化により遺構は消滅しているようだ。
本丸には復元された西門、土塁、台所門の枡形、菱櫓台、井戸跡などが残り、本丸西の馬出曲輪、本丸南の水堀、空堀、旧三ノ丸の大手門跡(市役所脇)や円城寺門(搦手門)からかつての威容を偲ぶことができる。

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三浦の晃ちゃん

ライトアップ (2022/06/12 訪問)

小田原城址公園で、あじさい菖蒲祭りを、やっていました。また、夜間のライトアップを、していました。ふだんは、見られない景色でした。

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にのまる

<続き> (2022/05/20 訪問)

表二之門より本丸を出て、西の丸の発掘現場、鵜の首、剣塀を確認しつつ御深井丸へ。
深い木立の静けさの中に佇む西北隅櫓(清須櫓)の南面・東面の素朴な面持ちに日本ならではの引き算の美を感じます。
名古屋空襲の前に本丸御殿の障壁画や天井画を避難させ焼失を防いだ乃木倉庫。たくさんの人たちの機転と行動で貴重な宝が守られてきていることに思いを致し、感慨も一入でした。
城内見学エリアはここまでとし正門から退出して二之丸大手二之門へ。ガードレールに守られた門扉から枡形を抜けた二の丸跡地に現れたのは愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)。この北側がスタート地点の二之丸庭園ということで名古屋城めぐりはここで終了。見学を飛ばしたところもありますが、充実の1時間でした。

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零汰

そこに城があるから行ってみた:2  銀鏡(しろみ)城:宮崎県西都市 (2021/05/29 訪問)

熊本を通る国道3号線から宮崎を通る国道10号線を八代市から宮崎市迄を結ぶ国道219号線。熊本と宮崎の県境の横谷峠より東、国道265号線の交わる場所に村所城、そこから直線距離6kmあたりに小川城、更に5km東に今回訪問した銀鏡(しろみ)城がある。昨日投稿した雄八重城は銀鏡城から更に東に6km辺りに位置する。この地は維新以前は肥後藩であり、維新後より宮崎県に属するそうだ。

初代は肥後での争いに敗れてこの地に来た名門の菊池氏の嫡男、その頃から米良氏を名乗るようになり、維新後菊池に戻す事が許された。初代の父親が争いで亡くなったのは1504年、その後今回訪問した銀鏡城を築城し、村所城を経て小川城に移った。雄八重城の城主も米良氏で伊東48城のうちの1つである。尚、ここにあげた4城のうち雄八重城以外は伊東48城に入っていない。するとその頃は雄八重城を本城としていたのではないかと勝手に想像してみる。(この辺の情報は良く分からなかった)初代は1551年没、当然1551年以前に銀鏡城はあったと思われる。熊本との県境から国道219号線沿いの東の4城は全て米良氏所縁の城となる。(村所城は今だ訪問はしていない)

本文(訪問直後)
グーグルマップで雄八重城と同時に気が付いた銀鏡(しろみ)城に雄八重城の訪問後に向かった。おじさん壱に教えられた道路を通り山間の道路を走る事4・50分、直線距離6kmの所を山を大きく迂回するので時間がかかった。無事到着して早速散策を開始する。
そこは西側・東側が川、天然の堀に挟まれた土地だった。城域に入って1分もたたないうちに石積の連続、これでもかと石が積んである。驚きと喜びで足取りは軽く石積を追うように坂を上り、藪の中を進んで行く。「曲輪だ、虎口だ」とても楽しい時間だ。大手を登っていくと神社が見える、山は後ろに続いているがここがおそらく主郭だろう。大手が右に大きく迂回している。

何故こんな城跡が・・・・。と雄八重城の時と同じ事を考えながら訪問を終えて帰宅した。

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赤い城

烏川の流れ (2022/06/04 訪問)

倉賀野駅から徒歩で10分。
公園に石碑と説明板が立っています。
公園の周辺は住宅地で遺構はありません。
蛇行して流れる烏川の流れは見どころですね。
三の丸には井戸八幡が建っています。
この下に井戸があるそうで一晩で湧き出したとか。
地形的には段差もあり城らしい感じです。
戦国時代には上杉氏、武田氏、北条氏が配下としました。
交通の面から見ても重要な拠点だったのでしょう。
北条氏の滅亡により廃城となりました。

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T-Shionoya

こちらの松山城も悪くない (2022/05/05 訪問)

好きな城の1つが愛媛県の松山城ですが・・・
ゴールデンウィークは埼玉県吉見町の松山城を訪問してきました。

比企の丘陵地帯の東端部、市野川が丘陵地から関東平野に流れ出るポイント。
西と南はその市野川が天然の堀となる比高約40mの丘を城郭とした松山城。
扇谷上杉氏の川越城と山内上杉氏の鉢形城および平井城のほぼ中間に位置し、関東戦国の攻防戦において重要なポジションだったことでしょう。

主に上田氏が城主を務め、1500年代前半までは扇谷上杉氏、後半は小田原北条氏に従属。
秀吉の小田原征伐の後、間もなくして廃城となりました。

現在は城郭南東部が失われているものの、主要部の遺構は健在。
笹曲輪の東から入城すると、あっという間に本曲輪の下に到着。太鼓曲輪やその南側に行くことはできず、曲輪4方面へ。
見所は曲輪4から本曲輪周囲に掛けての見事な空堀。畝堀の畝のような土橋があり、三ノ曲輪から二ノ曲輪、そして本曲輪へは横矢が掛かっているのも更なる注目点でしょうか。
ヤブ化し廃城感があるものの、曲輪4と三ノ曲輪間の堀は歩くことができ、その大きさを体感可能。

信玄がもぐら攻めを行ったとも伝わる城が、私の城巡りの125城目となりました。

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しろきつね

津川城案内図 (2021/07/08 訪問)

津川インターより直進。
麒麟山酒造を過ぎて城山橋通過すると麒麟山。
左手に駐車場。トイレあり。登山口あり。
ハイキングコースはお稲荷様まで。
それより上は登山靴必要。岩滑りやすい。
山頂付近からの眺望はみどころあり。

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道案内役の城 (2022/06/12 訪問)

 小牧長久手の戦いにおいて三河中入りをする池田恒興、森長可の案内役を務めたとされる落合氏の城です。
竹藪の中に案内板と城址碑があります。竹藪に突入すると土塁、空堀と思われる遺構を見ることができますが、写真にすると竹が多くよくわかりませんね。
 名鉄小牧駅からあおい交通のバス(2022年6月現在交通系ICカード使用不可)に乗り上末バス停下車。徒歩1~2分で案内板のある場所に行くことができます。

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城好きのメガネ

「仙台藩 龍ヶ崎陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
仙台藩龍ヶ崎陣屋は1606年、江戸幕府から仙台藩・伊達政宗に与えらえた飛び地である。当地は戊辰戦争により代官をはじめ陣屋役人が仙台に戻るまで仙台藩による支配が続いた。廃藩置県以降は陣屋跡には学校の敷地となり、現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
関東鉄道竜ヶ崎線 竜ヶ崎駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「馴馬城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
馴馬城は、南北朝時代に南朝方であった春日顕国が拠点としたとされる。現在、遺構は消滅している。私有地であるため見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
関東鉄道竜ヶ崎線 竜ヶ崎駅 徒歩15分

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)1日目:須崎台場 (2022/06/05 訪問)

御飯ノ山城からの転戦です。天神駅から徒歩12~13分で、須崎台場石垣付近(33.598177、130.398326)に着きました。

1863年(文久3年)に福岡藩によって築かれた台場の一つです。

須崎台場は県立美術館の前にある須崎公園の辺りに築かれていました。
この須崎台場と波奈台場は福岡藩が築いた台場の中でも一際大きなもので、福岡城の北の海を東西から固めていました。
須崎公園の南北にある石垣が遺構で、かつては海に面していたそうです。
攻城時間は5分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで、明日の対馬攻略の為、博多港に向かいます。
船中泊での移動なので、博多埠頭第2ターミナル近くにある「みなと温泉 波葉の湯(9:00~25:00)」で入浴してから乗船します。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)1日目:御飯ノ山城 (2022/06/05 訪問)

蔦ヶ嶽城からの転戦です。香椎駅に着いた時は小雨になっており、そこから徒歩25分ちょっとで、香椎台おいの山公園説明板付近(33.655560、130.458666)に着きました。

詳細は不明のようです。立花城の支城とも考えられており、城主は一万田弾正と云われています。

御飯山城の遺構は残っておらず、香椎台おいの山公園に説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=須崎台場を目指す為、電車で香椎駅から天神駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)1日目:蔦ヶ嶽城 (2022/06/05 訪問)

元寇防塁からの転戦です。教育大前駅から徒歩15分くらいで、城山登山口(33.814491、130.591442)に着きました

蔦ヶ嶽城の別名は赤間山城、蔦岳城、蔦山城と云います。
築城年代は定かではないようですが、1200年(正治2年)には宗知宗が赤間山城に住んだとされています。
1336年(建武3年・延元元年)宗像氏俊は九州落ちした足利尊氏を宗像館に招き、赤間山城を修築して蔦山城としました。
1551年(天文20年)大内義長の支援を受けて白山城を拠点とした宗像氏貞は、1559年(永禄2年)宗像鎮氏の侵攻を受けて大島へ逃れました。
1560年(永禄3年)毛利元就の支援を受けた氏貞は鎮氏の拠点である許斐岳城を攻略して旧領を回復し、蔦山城を大改修して現在の規模にし岳山城としました。
1569年(永禄12年)大友氏と争っていた毛利氏が周防に侵入した大内輝弘の為に筑前から撤退すると、氏貞は飯盛山の陣を引き払い岳山城に籠もりました。
毛利勢を追撃した大友の軍勢は岳山城の麓を取り囲み岳山城を攻めたが落とすことができず、大友氏は城の明け渡しなどを条件として和議を結ぼうとしたが氏貞はこれをのまず、若宮・西郷の地を割譲することで和議が整った。

登山道はハイキングコースになっていますが、大雨の為、登城することを諦め、登城口で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=御飯ノ山城を目指す為、電車で教育大前駅から香椎駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)1日目:元寇防塁 (2022/06/05 訪問)

小田部城からの転戦です。下山門駅➡生の松原地区石塁(33.585758、130.308483)➡小戸公園南土塁(33.590611、130.313544)➡姪浜防塁石碑と土塁(33.592676、130.322755)➡姪浜駅に向かう予定でしたが、GPS投入の順序を間違えました。
最初に小戸公園南土塁に向かってしまったことを現場について気づき、慌てて生の松原地区石塁に向かいましたが、大雨の中、姪浜防塁石碑と土塁に向かう気力はなく、下山門駅に戻りました。

1276年(建治2年)鎌倉幕府が九州の御家人に命じて築かせました。
1274年(文永11年)元によって侵攻された鎌倉幕府が、元の再侵攻に備え海岸線に石の防塁を築きました。
現在元寇防塁と呼ばれる防塁は、当時は『石築地(いしついじ)』と呼ばれていたようです。
1281年(弘安4年)に再侵攻してきた元軍は、防塁の築かれた博多湾からは上陸することができませんでした。
九州の御家人は各国ごとに割り当てられた区画があり、所領に応じて防塁を築く長さが決められていました。
生の松原の元寇防塁は肥後国の御家人が分担し、所領一町につき一尺の長さを担当したそうです。

福岡市には12か所、現行防塁が現存するようですが、自分は2か所(生の松原地区、向浜地区(小戸公園))を見学しました。
①生の松原地区:肥後国が製造を担当。当時の石塁は埋められていますが、復元されています。
②向浜地区:石塁はなく、説明板のみです。
攻城時間は移動時間も含めて35分くらいでした。次の攻城先=蔦ヶ嶽城を目指す為、電車で下山門駅から教育大前駅に向かいます。

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小城小次郎

感動しかない (2022/01/10 訪問)

あの琵琶湖のほとりのあれではなく、姫路市書写にある赤松氏の守護所だったところ。14世紀に始まり16世紀はじめに廃絶したと思われる有力大名の守護所が現在も地表面にその痕跡を残していることには感動しかない。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)1日目:小田部城 (2022/06/05 訪問)

自宅最寄り駅から飛行機と電車を乗り継いで6時間かけて次郎丸駅に着きました。
次郎丸駅から徒歩14~15分くらいで、有田宝満神社(33.560615、130.334965)に着きました。

詳細は不明のようですが、大友氏時代に安楽平城主となった小田部氏の本貫地で、小田部氏の館城とも考えられているようです。また、それ以前の大内氏の時代に庄崎氏が居たとも云われています。
小田部城は月城、堀内城などと呼ばれており、現在の福岡講倫館高校付近に築かれていたと云われています。

有田集会所に『月城通り』に関する案内板があり、高校の地に「月城」があったと記しています。
現状は宅地などとなって遺構は残っていないようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=元寇防塁を目指す為、徒歩で室見駅へ向かい、そこから電車で下山門駅に向かいます。

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