《新井城の戦いまでの背景》
三浦親子(道寸、義意)最後の地である、新井城に行ってきました。
この城は、北条早雲の相模平定における最後の戦いがあった城です。
北条早雲は小田原城を落とした後、三浦半島一帯に勢力を持ち、
関東管領家とのかかわりの深い三浦氏を攻めるべく三浦半島へ向かいました。
まず最初に1512年の永正の乱に乗じて、相模岡崎城を落城させ、
次に鎌倉と逗子の市境にある住吉城、そして最後にこの新井城を攻めました。
この戦いがいわゆる新井城の戦いです。
《三浦道寸と扇ガ谷上杉氏の関係》
三浦道寸は、元々扇ガ谷上杉氏の出で、三浦氏に養子として、
三浦時高の新井城に行きました。
しかし時高に実子・高教が産まれると不和となってしまいます。
なので、一度 小田原城主である大森氏頼をたより、
その時元々の名前である義同(よしあつ)から、出家したあと道寸と名乗りました。
そして大森氏の力を借り、時高・高教父子を滅ぼして、
無理やり三浦家当主となりました。
《新井城の戦い》
1512年、三浦氏の城を落城させながら三浦半島に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)は、
ついに1513年(永正10年)道寸の本城である、新井城を攻めました。
宗瑞は、力攻めではなく兵糧攻めをしました。
その時に上杉氏の侵攻を防ぐべく築かれたのが玉縄城です。
(玉縄城の投稿もしているので、ぜひ見て下さい!)
北条軍は1513年9月29日、扇ガ谷上杉氏の援軍である、太田資康
(太田道灌の息子で、道寸の娘婿)をうち、ますます三浦軍を孤立させました。
しかし、さすがの北条軍も新井城には難攻し、1516年(永正13年)、兵糧がなくなり、
息子の義意は潔く城外にでて討ち死に。道寸ほか一族も自害しました。
道寸の辞世の句は、
討つ者も 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけた後は もとの土くれ
という、討つ者、討たれる者も砕け散るかわらけのようだ という意味の句です
《その後》
落城後は、北条家の城となりました。
しかし豊臣家の北条討伐のより廃城となりました。
【城情報】
・形式 ❙平山城
・築城年 ❙鎌倉時代ごろ
・廃城年 ❙1590年(天正18年)
・築城者 ❙三浦氏
・最後の城主 ❙北条家
・廃城理由 ❙豊臣家が北条家を滅ぼし、使われなくなったため
・主な城主 ❙三浦氏→北条氏
・遺構 ❙ 曲輪、土塁、堀など
・主な建築物 ❙なし
・説明看板、石碑 ❙両方有
・駐車場、トイレ ❙なし
・天守 ❙なし
・保存状態(自身判断)❙歴史的な意味では重要で、遺構もあるため良
❙普通
・備考 ❙・遺構は少ない
❙・遺構は東京大学の研究施設にある。
❙道寸祭りには見れる
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