サンライズで高松着。高松城でお堀の鯛にエサあげてから絶品朝うどん。四国旅行のルーチンです。このあとは南風で高知に向かいます。城と鉄道の組み合わせタマラナイ。
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2020/12/07 21:13
高松城 (2017/08/21 訪問)
サンライズで高松着。高松城でお堀の鯛にエサあげてから絶品朝うどん。四国旅行のルーチンです。このあとは南風で高知に向かいます。城と鉄道の組み合わせタマラナイ。
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2020/12/07 21:00
高知城 (2017/08/24 訪問)
いちばん好きな城かも。夏に訪問。アイスクリン美味しかった。
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2020/12/07 20:52
鴻臚館 (2020/12/06 訪問)
福岡城訪問と同時に鴻臚館も見学しました。
福岡城があった場所は平安時代、「鴻臚館」という外交施設があったとされています。
鴻臚館は平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置されていました。
「古代アジアの玄関口」と称される鴻臚館の名前は、古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝え告げるという意味があるそうです。
「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していました。
なかでも筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、688年(持統2年)には新羅国使全霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記述や、736年(天平8年)に筑紫館で遣新羅使が詠んだとされる歌が『万葉集』に収められています。
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2020/12/07 20:50
福岡城 (2020/12/06 訪問)
2回目の福岡城へ行ってきました。
やたら人が多いと思ったら福岡国際マラソンが開催される予定で福岡城内のグラウンドがスタートでした。
福岡城むかし探訪館で御城印を購入しました。
福岡城は黒田孝高(官兵衛)・長政父子によって築いた城で、江戸時代を通じて福岡藩黒田氏の居城として知られています。城の規模としては九州一の巨城で、築城の名手と謳われる加藤清正もこの城を評価しています。現在、城跡の大半は舞鶴公園として、当時の外堀が大濠公園として整備されています。また、重要文化財に指定されている多聞櫓のほか、祈念櫓や名島門などの遺構が残っており、当時の様子をうかがうことができます。
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2020/12/07 19:50
尼崎城 (2020/10/06 訪問)
駅からぶらっと散歩にちょうどいい。出張中の訪問で御城印入手できず。
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2020/12/07 18:04
2020/12/07 16:50
薩摩半島先端開聞岳池田湖の杉林山中 (2020/11/23 訪問)
鹿児島市内に3泊し日の出時間を待って今回の主目的、鶴丸城復元御楼門を探訪撮影して朝食後指宿スカイラインを終点頴娃ICを降り鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り11城目の頴娃城を目指す、取り敢えず頴娃小学校を目途にガイドの城郭放浪記さん古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報でGoogleMap航空写真等微調整して県道236号線沿いの登城口(36°14'21.6"N130°30'59.5"E)にナビを合わせ走行小学校から東に約1.2km程右手に頴娃城入口の白い標柱が有る、それに依ると林道1.6km程と有る最初は舗装されてるが後半砂利道と成る道はそれなりに広い、案内板が左手主郭下虎口に在る。車は林道の幅の広い所に路駐、私は1台分の虎口空堀手前のエリアに停める。
資料を準備して行きましたが案内板の下に資料箱が有り頴娃城のパンフレットの縄張り図、情報で探訪出来ます。
案内板の虎口を登って第一曲輪、南、東に大堀、第一曲輪内は広く草は刈られてるが猪の荒らした跡があちこち、城名標柱と石碑、南側と東側に土塁、東側に一部石積土塁が有る、土塁の大きく広い所南東角は櫓台、北に堀切を挟んで第二曲輪、堀切を歩くが第一曲輪の北虎口は有るが第二曲輪への登城口は不明登れず、南北の林道を挟んで小さな第三曲輪と第四曲輪が有る第四曲輪には入れる、それ以外に曲輪が主要曲輪が10以上、他の曲輪が数え切れず20以上と広大な城跡ですが第一曲輪本丸以外は探訪困難シダに草、樹木等に覆われてる、ここも南九州特有のシラス台地を切り刻んだ群郭式の山城です。
林道がやや広く本丸まで車が通り本丸および周辺の探訪が出来るだけで十分満足です、これからも発掘調査が続くのでしょうが南九州市文化財課の皆さん地域の皆さんのおかげです有難うございました、でも兎に角遠い!
歴史的には:室町時代に頴娃を治めていた平姓穎娃氏が島津氏に滅ぼされ、その後治めた大隅肝付氏の一族が穎娃氏を名乗り伴姓穎娃氏と呼ばれた、伴姓穎娃氏が領主と成った頃(応永年間)に築城されたと言われる。
天文15年(1546年)ポルトガルの商人ジョルジュ・アルヴァレスが頴娃城と考えられる城を訪れ、それをフランシスコ・ザビエルに伝えています。頴娃城は日本で最初にヨーロッパに紹介された城に成ります。
8代領主で伴姓穎娃氏の支配は終わり島津氏が治めるようになり頴娃町郡地区に麓(武家屋敷群)を構え治政の拠点と成る。(パンフレット抜粋)
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2020/12/07 12:28
六角氏による水攻め (2020/12/05 訪問)
城跡の石碑のそばに肥田城の説明板が立っていますが、正面からの写真が投稿されてなかったのでアップします。
肥田城は、南を愛知川、北を宇曽川に挟まれた湿地帯に作られた平城。城主の高野瀬氏が、佐々木六角氏から浅井氏側に主人を変えた際に、六角氏が水攻めした。三成の忍城水攻めと同じく堤防が決壊して失敗したと。
肥田城の下流側の聖泉大学近くに水攻め堤防跡があるが、その地点の宇曽川対岸にも堤防跡(2枚目の写真)があった。当時よりも宇曽川の流れが南に寄ったため。
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2020/12/07 08:11
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑩ (2018/10/22 訪問)
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の10城目は鹿児島城です。
100名城スタンプは「鹿児島県歴史資料センター黎明館」で押しました。
城びと入会時、「つぶやき」で投稿しましたが、ちゃんとしたメモも写真も残していなかったので再度投稿します。
鹿児島城は江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた城で、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴山城で構成された平山城である。
麓の屋形(本丸、二の丸、出丸)には石垣が築かれたが、交渉「77万石」の大名としては天守など高層建築や高石垣は築かれなかったそうです。
大手口の櫓門(御楼門:2020年3月に再建されました➡自分が攻城した時は工事中)、1重2階の兵具所多聞櫓、角櫓などがあったそうです。攻城時間は60分くらいでした。
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2020/12/07 07:01
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑨ (2018/10/22 訪問)
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の9城目は人吉城です。
100名城スタンプは「人吉城歴史館」で押しました。
人吉城は相良氏の居城として知られています。幕末に築かれた石垣の一部には「はね出し工法」を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。これは防火の為に造られたようです。
この工法は函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例見られる西洋式の石垣です。
現在、城跡は人吉城公園として整備され、櫓や塀が復元されています。攻城時間は70分くらいでした。
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2020/12/07 01:42
2020/12/07 01:39
2020/12/06 21:46
2020/12/06 15:22
2020/12/06 12:21
南九州の桶狭間と言われるシラス台地群郭式山城 (2020/11/22 訪問)
都城を終えて都城ICから宮崎道に乗り九州道えびのICを降りる、今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り第9城目加久藤城を目指す、ナビは宮崎県えびの市大字小田字城内1100-1をGoogleMapで微調整し大手門付近に合わせ走行するがえびの市松原交差点の少し西の路地を北入り集落の加久藤城の指示板に迷うが道なり奥に進む車を停めて徒歩確認を二回ほどして大手門標柱の有る所に到着、標柱は倒れて石垣の下。
ガイドが城郭放浪記さん古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの助けで大手門跡、登り廃屋の有る屋敷に車と停めて車困難な逆クランク登り道を通り(何とか小型車でも通れそうでしたが?)、登城路が本丸神社まで綺麗に清掃されて居ました、何か行事が有ったのでしょうか?徒歩で周辺を探訪、大岩が虎口枡形を形どり、急峻なシラス台地を削ってる、登城路に曲輪群が横矢掛け、城名標柱、案内解説板が立ってる、本丸と二の丸の間を虎口で守る、本丸虎口の後ろに枡形か?神社広場か?、本丸は神社と梅園、二の丸は熊笹の広っぱですが両方とも杉が林立してる。
都城を過ぎてから雨が降り出し加久藤城では降ったり止んだり傘を差しての探訪、夕刻に近く雨で暗く成り短時間で終了しました、登城路は狭いですがコンクリート舗装、四駆のタイヤ痕が有りましたので車の登り降りは有る様です。
歴史的には伊東氏の侵食が激しく領主北原氏を転封し永禄7年(1564年)島津義弘が入り久藤城に中城と新城を縄張りに加え加久藤城と名を改める、加久藤城は飯野城の支城。
「木原崎の戦い」が起き、元亀3年(1572年)6月伊東祐安は加久藤城に3000の兵で攻め掛り、義弘の囮作戦など300の兵で果敢に対応し伊東軍は初戦退敗し、暑さに池尻川で水浴びしてる伊東軍を島津軍が襲い掛かり大激戦、伊東氏の大敗で士分の多くを失いこれが伊東氏の衰退の原因と成って行く、島津軍も8割が討ち死にする激戦であり、少数の兵で大軍を打ち破った事からこの戦いは南九州の桶狭間とも言われてる。
義弘は30歳から56歳まで加久藤城、本城飯野城で過ごし各地を転戦し九州制覇あと一歩の処まで行く、天正18年(1590年)栗野城に移る、元和の一国一城令で廃城、義弘は元和5年(1619年)加治木館で生涯を終えた享年85歳。
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2020/12/06 10:29
石倉城 [群馬県利根郡みなかみ町石倉1788] (2015/05/23 訪問)
群馬県の厩橋城(前橋城)の利根川を挟んで対岸には城びとに登録されている石倉城がありますが、同じ群馬県のみなかみ町に城びとには登録されていないもう1つの石倉城があります。
上越線上牧駅から約1.5㎞北にありますが、電車の運行本数を考えると車の方がよさそうです。
そもそもこの石倉城、実は新潟県の荒砥城リベンジしに行った際に戻りがてら上毛高原駅傍の小川城に立ち寄ろうと水上ICで降りた際、道案内を偶然発見してそのまま立ち寄った場所になります。
石倉城は上杉vs長尾の上杉側の拠点として設けられた崖端城だったようで、解説によると曲輪の他に堀切が残っているらしいです。
が、現在城址は田畑になっており、この時農家の方が丁度作業していた為に堀切は確認出来ませんでした。
お城の規模としてはそれ程大きく無いので、何かの遠征の際についでに立ち寄る程度で宜しいかと。
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2020/12/06 08:40
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑧ (2018/10/22 訪問)
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の8城目は熊本城です。
100名城スタンプは「城彩苑」で押しました。
攻城したのは2018/10/22なので、いまから2年2か月くらい前です。(城とらさんが攻城された2018/11/02とほぼ同時期になります)
2016年4月に発生した地震から、いまだ大天守は復興中、戌亥櫓の石垣は崩れたままでした。
手元にある「熊本市観光ガイドブック2018 9月号」は被災と復興状況が記載されています。現在、天守は復旧していますが、まだまだ復旧は続くようです。自分も攻城時、復旧・復元へ若干ですが支援の寄付をさせて頂きました。
熊本城へは島原城からの転戦ですが、移動は島原外港から熊本新港までカーフェリーにて有明海を船旅(約30分)でした。天気があまり良くなかったので景色はグットとは言えませんが、以外と近いのには驚きました。
写真は2018/10/22のものなので古いですが、被災および復興途中の状況として投稿します。最新写真は他会員の皆さんの写真を参照願います。攻城時間は60分くらいでした。
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2020/12/06 07:49
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑦ (2018/10/22 訪問)
「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の7城目は島原城です。
100名城スタンプは「島原城受付窓口」で押しました。
島原城は江戸時代に松倉重政によって築かれた城です。天草四朗を総大将にする1637年の島原の乱では一揆軍の攻撃を受けましたが、しのぎました。
1618年から7年の歳月をかけて完成した島原城は、層塔風総塗込の五重の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ錬塀で取り囲んでいたそうです。4万石の大名には過分な城です。
現在は城址公園として整備されており、現在の天守は1964年に復元されています。攻城時間は45分くらいでした
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2020/12/06 07:32
雨中の攻城 (2020/11/07 訪問)
午後は雨という天気予報通り、ついに雨が落ちてきてしまいましたが、傘なしでもなんとか耐えられる程度の小降りだったので攻城に踏み切ってしまいました。山頂に立つ櫓風展望台からの眺望はあいにくの天気のため望めませんでしたのでまた機会があったら再訪したいと思います。この日の攻城は此処で切り上げ、この後は麒麟がくる可児大河ドラマ館をたっぷりと楽しませていただきました。前売り券を第4回お城EXPOにて購入してありましたので。
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2020/12/06 06:45
たまたまのぞいた神社に由緒書きあり (2020/12/05 訪問)
現地の教育委員会設置の説明板は、まーやんさん投稿のように朽ちてしまって読めません。同じく、まーやんさん投稿の2枚目の写真にある、多武木神社をのぞいてみたところ、浅小井まちづくり委員会が作った該神社の説明書に浅小井城と歴代城主についての記載があったのでアップします。多武木神社は、浅小井城の守護神として城の南東角に置かれたのが、始まりと。
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