校門前に城址碑がありました。
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2022/03/18 23:05
学校 (2022/02/28 訪問)
校門前に城址碑がありました。
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2022/03/18 18:39
岩倉城跡 (2022/03/17 訪問)
岩倉駅から徒歩10分程で本丸跡に着きました。駐車場は有りませんが通り向にトイレはあります。遺構はありませんでしたが五条川沿いから山内一豊誕生の碑などとあわせて散策しながら当時の様子を勝手に想像しながら1時間程でした。桜はまだまだ蕾も固そうでした。満開の時に行きたかったです。
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2022/03/18 17:05
武家屋敷と郷土資料館 (2010/04/17 訪問)
村上城山頂の郭群を下城し、途中の七曲道にはカタクリなどの山野草が目に付きます、一文字門跡に駐車した車を郷土資料館駐車場に駐車し、郷土資料館に入り見学、村上城の立体模型が有り俯瞰した形で見る事が出来、探訪して来た現地と対比しながらの観察はより体験が深まりました、模型の山麓の藩主居館が現地の探訪不充分でしたが模型でよく理解できます、居館にも隅に三重櫓が在ったのですね! また村上城はCG復元の映像がユーチューブなどで見る事が出来理解もさらに深まります。
展示資料を閲覧し城下町散策へ近くに武家屋敷若林家、歴史文化館、市役所、商家町並みをぶらぶらして17時を過ぎましたので、瀬波温泉の予約したホテルへ、日本海の磯の匂い、当日は曇りでしたので夕陽は拝めず、大浴場からの日本海の眺め、夕食は地元料理と地酒にビールを美味しく頂き、車の長距離走行と城歩きの疲れも有り心地よい眠りと成りました。
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2022/03/18 16:26
石垣造りの本丸が素晴らしい (2010/04/17 訪問)
先に七曲登城路から三の丸編を投稿させて頂きましたが、続き二の丸から本丸を投稿させて頂きます。
村上城は独立峰臥牛山の山頂に石垣造りの織豊系城郭城郭で本丸、二の丸、三の丸と連郭式。上杉氏時代は本庄氏が城主を務め、上杉氏会津に国替えの後は堀氏与力大名村上氏が入り中世山城を織豊系城郭に改修した、元和4年(1618年)堀直奇が入封し、更なる整備拡張が成されて総構、城下、山頂の丸の石垣も改修し三層の天守黒(下見板張)も輝き一新した。その後寛文3年(1663年)松平直矩が更なる修築しこの時天守も新造され白漆喰造りで二回天守が造られている、寛文7年天守は落雷で焼失し以後再建されてない。
探訪ルート:三の丸四ツ御門、二の丸御鐘門、出櫓台、本丸、本丸冠木門虎口桝形、本丸天守台、多聞櫓台、本丸石垣下の曲輪を廻る。 山頂に高石垣をよくも積み上げたものです、良く残ってる高石垣城郭を今後も大切に守って行きたい名城です。また中世城郭土の城も残存してる稀有な城郭です。
桜はまだつぼみから膨らみかけ、翌日訪ねた新発田城は満開でしたが山頂部は満開の桜は1週間後位、投稿時の現在までに村上城は5回ほど登城してますが満開の桜を体験して居ません、新発田城と村上城は登城タイミングをずらさないと無理の様です。
この後下城して郷土資料館、城下町散策、武家屋敷見学と村上城を3時間超過ごし瀬波温泉泊り。
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2022/03/18 16:15
大河ドラマ巡り行ってきました!②北条寺周辺 (2022/03/06 訪問)
大河ドラマに関係する遺跡や寺に行ってきました!
【北条寺】
北条義時の長男である安千代を供養するために建立された寺です。
安千代は勉学に励むため珍野村の千葉寺にかよっていた。
だが安千代が11歳の時、家に帰る途中にある大池の堤で大蛇に襲われ、
溺れて亡くなってしまった。
このことに義時は大いに怒ったが、大池の仕業なためどうしようもなかった。
ですがある時に義時は大蛇の左目を弓で射た。
そうしたら大池の水量はどんどん減り、田んぼになったという伝説があります
今ここには、北条義時とその三人目の後妻である伊賀の方の墓があります。
【北条義時館(江間公園)】
ここは少年時代の義時が屋敷を構えた場所といわれています。
義時が江間小四郎といわれていたのは、この屋敷の土地の名である江間からです。
今ここには江間公園が建っており、石碑があります
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2022/03/18 12:00
大河ドラマ巡り行ってきました!①守山地域 (2022/03/06 訪問)
今大河ドラマで有名な北条氏邸の近くにある守山砦とその周辺の遺跡に行ってきました!
【守山】
守山は北条氏邸を守る要害です。
ここを拠点に北条氏はこの地域を支配しました。
いまは後程紹介する守山砦と御所の内遺跡と願成就院遺跡の三か所で分かれています。
【守山砦】
守山砦は、北条氏邸の南に位置する守山の大部分をしめる場所です。
北条氏邸の防衛を行ったりしていたと考えられます。
守山はのぼれるので、特に遺構はありませんが行ってみてはいかがですか。
〔砦情報〕
・築城年 ❙1100年頃?
・廃城年 ❙1180年頃?
・廃城理由 ❙北条家が源頼朝とともに鎌倉に移ったため
・築城者 ❙北条家
・城主 ❙北条家
・最後の城主 ❙北条時政?
・遺構 ❙無し
・トイレ、駐車場 ❙トイレ無し、駐車場は北条氏邸後か真珠院か願成就院
・評価(自己判断) ❙遺構は残っておらず全体的にわからない
【堀越御所】
堀越御所は応仁の乱の時に坂東で起こった戦争をおさめるために
足利幕府第八代将軍足利義政によって送られた足利の一族が、坂東に入れず
堀越に御所を作り堀越公方と名乗ったのが始まりです。
知っておられる方もいると思いますが、母と弟を殺して公方に成り上がった
足利茶々丸はここに住み、その後伊勢新九郎(北条早雲)に殺されました
【北条政子産湯の井戸】
隣には北条氏邸、前に堀越御所があるこの井戸で北条政子は洗われ
その後もこの地域ではこの井戸で生まれた子供を洗う風習がありました
いまは水は入っていません。
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2022/03/18 08:41
藪の先は藪… (2022/02/26 訪問)
日高平野西部を流れる西川とその支流の間にある南北に細長い独立丘(入山)の「城山」「本丸」と呼ばれるふたつのピークに築かれた城で、「城山」は戦国前期に三好義長が小坊子城の支城として築き、「本丸」は羽柴秀吉の紀州攻めで湯川直春が亀山城を退去した後に青山一矩(由定)が築いたと伝わりますが、詳細は不明です。
西麓の入山公民館に車を駐めさせてもらって登城開始。公民館の少し南には入山城の説明板が設けられています。公民館から東の三宝寺に上って行くと、城山へ続く登城道が墓地の脇を通っています。なお、三宝寺は亀山城主・湯川直光の菩提所で、墓地には墓石と説明板があり山門前には石碑が建てられていますが、城山の南麓にあたることから城山を築いたのは三好氏だったとしても直光の時代には亀山城の支城となっていたと思われます。
三宝寺からなだらかな尾根道を北に向かうと馬場と呼ばれる細長い曲輪が広がり、そこから数分で城山から西にのびる尾根の付け根に到着。まず西尾根の先の竪堀(堀切?)を確認してから城山の主郭部へ。城山と西尾根の間には堀切が設けられていますが、戦時中の防空壕により大きく改変されているようです。主郭部の外周には西辺から北辺にかけて二段の帯曲輪がめぐり、帯曲輪の北斜面には竪堀と竪土塁が見られます。竪土塁から主郭北西下の曲輪を経て主郭へ。どちらの曲輪も周囲を土塁が囲んでいますが、木々が生い茂っていて曲輪内さえほとんど見通せません。主郭南辺の大きな土塁を回り込んで南下の曲輪に下りると一段と藪が激しくなってきましたが、この先に南尾根の三重堀切があるはず! とかすかな踏み跡を頼りに藪を突破した先は……さらなる藪でした。一応、一条目の堀切と土橋は確認できましたが、藪に沈んでいてほとんど見通せません。それでも気力を奮い起こして残る二条の堀切を確認しようとするも、鋭いトゲトゲの木(タラの木?)の群生に行く手を阻まれて気力が尽きました…。
三宝寺まで戻って、今度は本丸へ。尾根伝いの道を南に進み、舗装道を越えて民家の倉庫裏手の藪に埋もれた道を登って行くと本丸に至ります。本丸は主郭の周囲に曲輪群を配した造りですが、すっかり竹藪と化していて見通しがきかないばかりか、まともに歩き回ることもできない状態で、何とか主郭南部の虎口だけは確認したものの、城山で気力を使い果たしていたためこれ以上竹藪を探索する気になれず、キンヤさんの投稿にある石積みは見逃してしまいました。
先人方の投稿で藪の中は承知していましたし、必要とあらば藪漕ぎも辞さず! のつもりで臨みましたが、城山、本丸とひたすら藪が続き、遺構もよく見えないとなると、さすがに心が折れますね。もう少し整備されれば見どころはあると思うんですが…。
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2022/03/18 08:11
地震
私もニュースを見てびっくりしました。
5年前の地震から未だ復興途中の熊本城を見ているので本当に地震は怖いと思いました。遠い九州の地から、一日も早い復旧をお祈りいたします。(写真はニュース映像より抜粋したものです)
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2022/03/18 02:26
松尾山城 (2022/03/11 訪問)
関ケ原駅から徒歩20分~25分程で駐車場です。駐車場の大きさはあまり大きくはありませんでした。6~7台程停めれると思います。トイレは駐車場から徒歩5分程名神高速を潜った先にあります。駐車場から徒歩40分位で主郭に着きました。登山道は整備されていて歩きやすくとても良かったです。当日は主郭からの眺望は良く関ケ原方面を一望出来ました。此の場所で合戦当日小早川秀秋さんはどれ程悩んだのかと想うとなんともいえない気持ちになりました。主郭南側の枡形虎口に暫し見惚れてしまいました。ほかにも見応えのある遺構がいくつもあり大変満足いく一日になりました。主郭西側の曲輪とその南側の曲輪は残雪の為に行けず次回に持ち越しとなりました。帰りにはまつのやさんにてお菓子を買って帰りました。
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2022/03/17 22:01
再訪することもないけれど (2022/03/06 訪問)
以前訪問したけど近くを通ったので再訪。
わざわざ行くことも無いと思います。
跡地は遊具のある公園になっていて、入口に重厚な黒い石碑があります。
子供達が遊ぶ公園には似つかない感じですね。
横田越中守頼業が築いた城で五稜形の城郭だったとされます。
遺構は残っていません。
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2022/03/17 21:07
2022/03/17 20:57
2022/03/17 18:44
富士山の見える名城 (2022/02/27 訪問)
足柄城は、足柄峠(矢倉沢往還)の要所であり、そして見晴らしがよい城です!
城に行ったのですがあまり情報がありませんでした。
なので調べたところ、足柄城は16世紀ごろに後北条氏によってつくられた山城で、
永禄12年ごろから度々普請を行っているのでそのくらい重要なかなめだったらしいです!。
ですが1590年の豊臣秀吉の北条征伐で落城し、廃城となりました。
〔城情報〕
〔城情報〕
・築城年 ❙16世紀ごろ
・廃城年 ❙1590年(天正18年)
・築城者 ❙後北条氏
・最後の城主 ❙後北条氏
・廃城理由 ❙後北条氏が滅亡し、城主がいなくなったため
・主な城主 ❙後北条氏
・遺構 ❙堀、石垣、曲輪、土塁
・主な建築物 ❙無
・説明看板 、石碑 ❙石碑だけあり
・駐車場、トイレ ❙駐車場だけあり
・天守 ❙無
・保存状態(自身判断)❙遺構はあるが予想が出来ない
・備考 ❙・富士山が大きく見える
❙・県境
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2022/03/17 18:14
地震
昨日の地震の影響で仙台城の石垣が崩れたり、伊達政宗像が傾いたりしたそうです。死者や怪我人も出たということを聞き、地震の恐ろしさをを痛感しました。
#仙台 #地震 #石垣
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2022/03/17 18:13
河村城に行ってきました (2022/02/27 訪問)
障子堀が有名だと聞き、行ってみました!
河村城の築城者の、河村氏が秀郷流藤原氏の一族である波多野遠義の次男、
波多野秀高が山北を領し、河村と名乗ったのが始まりといわれています。
源平争乱の1つの戦いである石橋山の戦い(大河ドラマでもやっていますね!)
で秀高の子である義秀は、平氏に味方したため領を没収されますが、
鎌倉の源頼朝に流鏑馬で妙技を見せ、河村に復帰しました。【吾妻鏡によると】
そして、南北朝時代には足利尊氏軍との戦いの時に、新田義興が籠城しますが
新田軍は河村城を退去しました。【太平記によると】
戦国時代、河村城は足柄峠が近くにあり、南西には今川家、北西には武田家の
領があったため、小田原北条氏にも注目され、出城として活躍しました。
その為、北条氏の城によくある障子堀(例・小田原城・山中城など)が確認されています。
しかし1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めによって廃城となりました
★現在は河村城址歴史公園として整備され保存状態がよく、遺構が見やすいのでお勧めです!
なので県内の山城としては初めて、県指定史跡になっています。
〔城情報〕
・築城年 ❙平安時代末期
・廃城年 ❙1590年(天正18年)
・築城者 ❙波多野秀高(河村秀高)
・最後の城主 ❙北条氏
・廃城理由 ❙北条氏が滅亡し、城主がいなくなったため
・主な城主 ❙河村氏、(新田氏)、北条氏
・遺構 ❙堀、障子堀、切岸、曲輪、土塁
・主な建築物 ❙展望あずまや(大庭曲輪辺り)
・説明看板 、石碑 ❙有
・駐車場、トイレ ❙両方有(きれいに整備されています!)
・天守 ❙無
・保存状態(自身判断)❙保存状態がとてもよく、遺構が良好に残っています。
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2022/03/17 13:10
大和高原を行く (2022/03/13 訪問)
先に投稿した畑城から更に大和高原を南西に進みます。古城盛衰記さんが、「県道782号線より北に行った、防火水槽横西側にコンクリート舗装の幅1.5mほどの道があり、行き止まりの廃屋右手に登り口」と教えてくれてますが、たまたま出会った麓の村の住人が「なにもないし、誰も行かないので道もない」と言われたことから、城の南西の谷を登る細い舗装道路を行って、城の背後から最短距離で直登することにしました。山の尾根筋は檜の植林で、下草はなく、難なく城域に着きました。
まず、城の背後を守る、高くて急峻な土塁と横堀のセットに圧倒されました。登るすべがありません。土塁を回り込んで本郭に進入。本郭を最高点にして、村落側の南西に郭群が配置されています。南東の尾根に二重の堀切があり、帰りは、そこを越えて山を下ってみました。古城盛衰記さんが教える、廃屋横に降りられましたが、最後のあたりは道が失われつつありました。
大和高原の小盆地と耕地、村落の一例の写真を添付しました。
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2022/03/17 12:17
2022/03/17 11:20
七曲り登城口から三の丸 (2010/04/17 訪問)
桜を追って新発田城と村上城を1泊2日で平成22年4月中旬、高速を飛ばして出掛けました前日に村上城を攻めますが雨上がりの曇り日どんよりして写真撮影条件悪し、到着は午後2時過ぎ、車は以前駐車した登城口の一文字門跡にやっと1台駐車出来ました。
現在グーグルマップで見ると一文字門跡の南西50m程の所に大型駐車場が完備してる様子、便利楽に成りました。
登城ルート:一文字門跡、七曲登城路、四ツ御門跡、三の丸・調練場跡・靭櫓・玉櫓の探訪と写真を投稿します。
三の丸内部は昨日来の雨で草が濡れて居り、盛りのカタクリの花も雨でしぼれていました、周囲は低い石垣で構えられています、四ツ御門跡は石垣で構え特殊な造り、戦国時代村上城土の城の埋め門、その下に中世山城の郭群が存在しています、埋め門から覗いただけです、二の丸桝形虎口御鐘門の石垣は厳重な造りです。
続きに本丸編へ
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2022/03/17 08:00
みかんと梅(出城) (2022/02/26 訪問)
(続き)
南東の小曲輪群を抜けて山道を下って行くと、登城道から分岐した舗装道に至ります。案内表示に従って鳳生寺の方向に進むと5分ほど歩いたところで右手に梅園が広がり、その奥の竹藪が出城です。梅園の南縁を奥に進み、丸木橋を渡って出城へ。出城は主郭の周囲に腰曲輪、帯曲輪を配し、北辺に横堀をめぐらせ、東端は三重堀切により東尾根を遮断しています……が、竹藪と雑木林と化していて探索しづらい状況です。
梅園ではちょうど時季的に梅が綺麗に咲いていましたが、本城はみかん山、出城は梅園の奥というのは、有田みかんと南高梅の両産地の間に位置する日高地方らしいなぁ、などと春の訪れを感じつつの亀山城登城でした。
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