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todo94

恩徳寺 (2020/10/04 訪問)

恩徳寺後背の土塁はかなりの比高がありとても立派です。堀を隔てた公園にも土塁が残っています。城址碑は公園側にあります。説明板は恩徳寺門前と公園、双方にありました。この日の9日後、この城にほど近い飯豊町内の地区で熊らしき生物が目撃されています。

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ぎりょう

関ヶ原の前哨戦 白石合戦の舞台 (2020/11/08 訪問)

立冬も過ぎた8日、「古文書を読む会」の仲間たちと白石城に登城しました。この城は元和の一国一城令の後も仙台城以外に仙台藩の城として認められ、幕末まで片倉小十郎家(御一家18,000石)の居城として続きます。城は明治7年に解体され、野づら積みの石垣までも売りに出されたということです。平成7年に三階櫓(天守)と大手一ノ門、二ノ門、土塀、石垣が復元され往時の面影を残す。初冬のこの日も多くの人々が訪れていました。現状を見るだけで十分楽しめるのですが、今回私の関心は、現在学習中の文書「記録抜書」(高祖父輝宗曾祖父政宗祖父忠宗記録抜書)に記載された、白石合戦です。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦として、政宗は当時上杉景勝方の白石城を攻めます。文書には「・・・七月廿一日政宗人数を引連北目を出陣、名取郡岩沼江陣を構、廿三日柴田郡四保ニ着陣、翌朝刈田郡白石之川向平山ニ致着陣候処・・・」とあります。家康の命により上杉対策として京より戻され、現在の仙台市外れに有った北目城(当時未だ仙台城は無く、岩出山城が本拠地)から、岩沼、四保(現柴田町船岡)を経て白石川を挟んだ対岸、現在の陣場山に陳をしき激戦の末に白石城を落城させます。
私のこの日の目的は白石城と陣場山との距離や方角を確認することでした。それぞれの地点からの画像も投稿していますが、その距離わずか1.5kmといったところです。当時と片倉氏改修後では縄張も大手の位置も違い、三階櫓も無かったのかも知れません。
この時政宗33歳、秀吉亡き後家康に組みしてはいたが、刈田・伊達・信夫郡などの旧領回復はもちろん、天下びとへの野望を捨ててしまっていたとは思えない。
車での訪問の場合、白石城は市役所隣の城下広場駐車場に、陣場山は南蔵王白石線の路側帯への駐車となります。 

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しろちゃん

伝、亀井六郎の館跡 (2020/11/11 訪問)

亀井館は、鶴見川と真福寺川に挟まれた丘陵部の台地上にある。
よく通学で通っており、日本城郭大系にも出ていたので、地形は、三方(東、南、西)が急な斜面となっており、北側には、窪みが昔からあるので、元々の地形を活かしたのか、もしかしたら、堀を設けていたかもしれません。北西部が虎口の様になっている感じです。
日本城郭体系には、応仁の乱で苦悩に喘ぐ領民の為に、亀井館の卯の方(東)に社殿(月読神社)を設けたとあります。現在は、宅地となっている為、遺構は有りませんが、地形を見ることで偲ぶことが出来ます。
亀井六郎とは、源義経の家来の四天王と呼ばれていたそうです。

所在地は、神奈川県川崎市麻生区上麻生にあります

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ぴーかる

河合城 (2020/10/25 訪問)

【河合城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>河合城は現地案内板に、赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。嘉吉の乱の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。城域は東西約四百メートル、南北約三百メートルの大城郭でしたが、現在はほ場整備事業等により、その景観は失われています。
 かつては堀井城や小堀城と水路でつながっていたそうです。石碑案内板の奥にあるのが水路跡のようです。城跡は現在は畑や田圃・宅地のなかに埋もれてしまっていて、ぱっと見はよくわかりません。石碑案内板のある周辺は駐車スペースが全くないので、石碑案内板の前に一瞬だけ停車して4枚撮影しただけとなった。近くにある堀井城(城びと未登録)に大駐車場完備があるのでそこに駐車して散策するのがよいでしょう。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

中山氏と加治神社。 (2020/11/07 訪問)

ネットで調べ、「中山氏館」って城びと未登録のお城だなぁ、と思いナビを設定して向いました。
到着すると「中山家範館」。
城びとにちゃんと登録されてます。しかも、2回目の城攻めです。
こちら住宅街に石碑と説明板があります。
写真③が「中山家範館」=「中山氏館」です。
写真は前回 写しました。色褪せてますが2年前の写真です。説明文の方が色褪せていたので、目を細めないと読めません。
「中山家範館」から500~700m位の場所に加治神社があります。説明板に「中山氏」と書いてあったので関係がある神社のようです。
こっちの中山氏は、中山 家範さんの次男、信吉さんでした。
秀吉さんの北条征伐で、家範さんは八王子城で討死しました。
その後、家康さんが治めます。
家範さんの次男、信吉さんは徳川家傘下、水戸藩の付家老になりました。

石碑しかなかった「中山家範館」。
もう来る事はないだろうと思ったけど意外な歴史を見つけました。

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赤い城

竪堀パラダイス (2020/11/07 訪問)

パトリアおがわの駐車場から道を挟んだところに登城口があります。
整備された登城路を登ると堀切があります。
その先の城域は竪堀や空堀が多く複雑な構造になっています。
麓へ落ちる竪堀はほとんどが私有地に繋がっているようで立入禁止。
他にも見所は多く素敵な山城でした。
松山城主上田氏の家臣、山田氏の居城となります。

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カズサン

二の丸石垣と空堀は壮大で凄い! (2020/10/27 訪問)

 仙台市の若林城を駐車場の関係で瞬時に終えて、三陸道、東北道を乗り継いで約120km程南の福島県郡山市の守山城を目指す、途中国見SAで休憩しお気に入りの桃源郷と自身思ってる伊達方面を眺める、国見SAの新しい休憩施設が明日開設と言う時期でした、途中土産を買えなかったので仙台の笹かま、牛タンの燻製酒の肴です、を購入。
 郡山ICを降り国道49号線を磐城方面へ守山小学校南側の細い通り石垣の在る辺りにナビを合わせ走行、細い道に入る辺りが三差路でちょっと迷いましたが無事到着、石垣と堀の大きさにびっくり! 車は神社下に停める。
 本丸跡の神社に登り、本丸周りに土塁確認、二の丸の南側は草原、北は住宅、二の丸内堀南側石垣が高い長さ約70m程、高さ6m程、堀幅約20m程写真で見ていた時より現場では大変大きく壮大に見えます、凄いの一言! 北側内堀は埋められて三ノ丸と合わせて守山小学校のグラウンド、校舎に成ってる、三の丸外堀も埋まってるが車で登って来る時に傾斜を感じた辺りが外堀大手虎口なのか?と感じたり、以前から内堀石垣、堀を見たいと思ってましたので叶いました、石垣の上部は崩れて居ります修復するのか青いシートが掛ってました。
 この石垣は奥州仕置き後の蒲生氏郷、上杉景勝の支城としての改築改修、関ヶ原合戦辺りに造られたようです、多分蒲生氏の野面積が妥当の様な気がします?
 
 帰りに近くの守山陣屋跡が有るので寄りましたが宿場町の雰囲気は有りましたが遺構は有りません。

 これで今回の下越奥州城廻りは終了、28城廻り4泊5日約2000kmの走行でした。

 宇都宮に居る孫の所に寄り夕食を一緒にし深夜浜松無事到着!!

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前ちゃん

道路工事で素早く退散 (2020/11/09 訪問)

看板のある小学校前の道路が舗装中だったので、素早く退散

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しろちゃん

豊臣秀吉、小田原征伐拠点の一夜城 (2020/11/09 訪問)

30年振りに行って来ました。以前は、木に囲まれ視界が悪く、鬱蒼とした感じで、特に、井戸曲輪は、木で覆われて、薄暗く不気味さを感じていましたが、今回行ってみると非常に、公園として整備され、視界も良く、小田原城🏯天守閣が、ハッキリ見えるほどで居心地が良かったです。

この一夜城は、小田原城の西側にある早川の南岸の箱根外輪山から相模湾の方面にある嶺にある笠懸山に築かれた山城です。

歴史は、豊臣秀吉が、九州征伐を完了し全国の諸大名に対して、惣無事令をだし、領土拡大禁止を発令し、京まで挨拶諸大名を上洛させ、降参の意思表示する様に、発令しましたが、東国には、奥州の伊達政宗も白旗を挙げていなかったのもあり、関八州の北条氏は、無視をした挙句、群馬の真田領の名胡桃城を攻略してしまいます。これにより、命令を無視したとして、小田原征伐が敢行されます。
この小田原城は、難攻不落の城で、上杉謙信率いる10万の城攻めや、武田信玄からの攻撃も、落ちませんでした。両者とも、最初から落とす気は無く、北条氏の領土拡大を牽制する為だったと思われます。また、秀吉も、小田原城は、簡単に落城しないと踏んで、自分の権力を誇示する狙いもあり、22万もの大軍で攻め込んで来たという事になりますが、激しい攻防戦は行わず、側室の淀君や千利休を呼んで、茶会を開く程の籠城戦となりました。
そんな中、北条方に精神的にダメージを与える為、この石垣一夜城を築城が完成後、夜間に木を伐採し、夜明けと共に城が出現したことで少なからず北条方では、動揺が広がり降伏に繋がりました。
アクセスは、城跡前に、五十台位の無料駐車場があります。交通機関は、近くにバス停はないので、麓から登ることになります。

スタンプは、駐車場にある公衆トイレの入り口にあります。
この駐車場の隣には、鎧塚さんのケーキ屋さんもあるので、城跡を散歩してから、食べてみては如何でしょうか。

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カズサン

政宗の隠居城、数分で退散 (2020/10/27 訪問)

 日和山公園、石巻城を終えて急峻な道を避けて西方面の緩やかな道を通って三陸道石巻港ICより高速へ仙台東方面から若林城を目指す、仙台市、仙台城は城廻り、家内との旅行、出張などで何拾回と訪ねてますが中々若林城には足が向かず今回の城廻りで探訪に加える。
 GoogleMapの航空写真を拡大して見ると、現刑務所の通り沿いに駐車場が有り一時停止は出来るのではとナビを同駐車場に合わせ走行し駐車場に入れるが駐車出来そうに無く、案内板、標柱の所に一時停止させ写真撮影と刑務所の中央門を眺めただけ、どこか駐車場に停めるか公共交通機関で訪ね探訪するしか無いようです、数分で退散。
 若林城は現在宮城刑務所に成ってますが伊達政宗が隠居城として寛永4年(1627年)築城、土塁で四方を囲み周囲も濠で囲む、横矢構えを四方に造り、虎口は枡形造りこじんまりした良い造りです。(余湖図コレクションさんの俯瞰図による)

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カズサン

葛西氏の城跡、東日本大震災避難所 (2020/10/27 訪問)

 千石城を終えて千石城跡の大城跡の興奮が覚めぬ中東へ約30km程の石巻市石巻城(日和山公園)を目指す、ナビは公園駐車場に合わせ走行するが市役所を過ぎ北上川護岸辺りから示す方向が狭い急峻な道、ここをと思いながらギヤをローにして一気に登る、登り切った所に無料駐車場、トイレ完備、昼前で満杯状態何とか駐車出来ました、車で昼食を取りいざ探訪。
 城郭放浪記さんのGoogleMap頼りに探訪開始、頂部に鹿島御児神社、参拝して周辺散策、芭蕉の句碑、見慣れてる大鳥居、門前下に石巻城の石碑、案内看板、神社の裏手から遺跡が出たとの情報、日和山公園は曲輪群なのか?近年の作庭か?良く分かりません、神社山手の方向に石列が有ったり?良く分かりませんが山全体が城跡防御の拠点なのでしょう。

 9年前の東日本大震災、津波の被害も大きく山頂部より北の北上川中州は砂州に成り以前の住宅街は消滅、南の海辺の方は復興工事中、以前の写真が展示され現状と対比出来ます、神社に参拝しながら被害に合った方々に黙礼を致しました、まだまだ復興は先の様です。

 歴史的には秩父平氏の流れ関東の葛西氏が源平の戦いで軍功上げ更に奥州合戦の手柄で陸奥に領地を得て日和山に拠点を置いたとか。
 

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/10 訪問)

犬山城からの転戦です。犬山駅(名鉄小牧線)から電車を乗り継ぎ名城公園(名古屋市営名城線)下車。そこから名古屋城へ徒歩移動。
名古屋城は3回きています。1回目が2016/09/17に次男と二人、2回目が今回一人で、3回目が2020/03/03に夜景を撮る為に一人(投稿済)で攻城しています。
1回目の攻城は城内に入りましたので、今回は外堀沿いに攻城することにしました。外堀(水堀)御市に見る西北隅櫓や石垣は素晴らしい。
城びと未登録ですが、名古屋城築城前には「那古野城」があり、信長の叔父である小田信光や重臣の林秀貞が城主を務めていたそうです。名古屋城の二の丸に石碑があります。攻城時間の予定は2時間でしたが、早めに切り上げて、もう1城(蜂須賀城)攻城することにしましたので45分でした。

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イオ

坂本の町史跡めぐり (2020/10/24 訪問)

(前回からの続き)

坂本城下は穴太衆の石積みの町として知られますが、町並みを楽しみながら散策すると、坂本城や明智光秀ゆかりの史跡があちこちに見られます。

天台真盛宗総本山・西教寺は比叡山焼き討ちにより全焼しましたが、光秀が坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建するなど復興に努めたことから、大本坊(現在の建物は昭和に改築されたもの)には光秀と妻・熙子の位牌が安置され、境内には光秀と明智一族、熙子の墓、妻木一族(熙子の実家)の供養塔が祀られています。また、書院の隣には明智光秀公資料室が設けられ、光秀が寄進した坂本城の陣鐘(非公開)、戦死した家臣を弔う光秀直筆の供養米寄進状、光秀所持と伝わる硯箱、明智秀満の湖上渡りの際の鞍と鐙など、ゆかりの品が収蔵されています。その他、総門は坂本城から、客殿は伏見城からの移築されたもので、客殿庭園は小堀遠州の作庭によるもの。大河ドラマ放送期間は西教寺内の禅明坊光秀館でびわ湖大津「麒麟がくる」展と近江の光秀ものがたり展が同時開催されるなど、見どころ盛り沢山です。

聖衆来迎寺には坂本城の移築門のほか、宇佐山城主・森可成の墓があります。志賀の陣の際にこの地で討死した森可成を敵方にあたる天台宗・聖衆来迎寺の住職が弔ったことから、後の比叡山焼き討ちの際にもこの寺だけは被害を免れたと伝えられています。

また、明智寺とも呼ばれる盛安寺は穴太積みの石垣が見事なお寺で、境内には光秀の供養塔や位牌が祀られ(未確認)、光秀ゆかりの陣太鼓が伝えられている……んですが、陣太鼓は来年2月まで大津市歴史博物館で展示されていて、この日は目にすることができませんでした。

他にも、四ッ谷湖岸緑地から県道沿いに北に徒歩1分の志津ケ池は、光秀が坂本城で茶会を催したときに使用した霊水と伝わるなど、坂本の町を歩くと、光秀が確かにこの地にいたことを実感させられます。
 

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/10 訪問)

宿泊先のホテル(アパホテル岐阜羽島駅前)から新羽島駅(名鉄羽島線)➡笠松駅(名鉄名古屋本線)➡名鉄岐阜駅(名鉄各務原線)➡犬山遊園駅に到着。そこから徒歩で15分弱で犬山城です。犬山城は今回2回目です。1回目は2016/09/18に次男と二人できました。
犬山遊園駅から歩きながら、「前日、上茜部城攻城後、岐阜駅周辺に宿泊していれば、名鉄岐阜駅と新羽島駅(岐阜羽島駅)間の移動にかけた往復1時間以上で、もう1城は攻城できたなあ」と、ぼんやり考えていたら犬山城到着。
攻城当日、犬山城付近で「ランニングフェスティバル」があるようで自分が着いた時は関係者の皆さんが準備されていました。
自分は犬山城の空破風と付櫓が好きです。空破風は正面から見ると口を開け鼻下に髭を生やしているように見えて愛嬌があります。
天主正面右手前の東南付櫓。平屋の切妻造りだから「切妻付櫓」。破風に梅鉢懸魚が施されています。
もうひとつ、西北隅にある西北付櫓(今回写真を撮っていません)。こちらも東南付櫓と同じで平屋の切妻造りだから「切妻付櫓」。破風に梅鉢懸魚が施されています。あと、袴腰型の石落しが外から確認できます。
「白帝城」と呼ばれるほど木曽川の対岸から見る犬山城は美しいと言われているので、次回は木曽川の対岸から見てみたいです。犬山遊園駅からの徒歩ルートでは見ることができないので、新鵜沼駅か鵜沼宿駅から木曽川を渡るルートがよさそうです。攻城時間は70分くらいでした。

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うさぎ屋

算額 (2020/01/13 訪問)

冲方丁の『天地明察』は、この神社を舞台に始まります。
原作を読んだときはあまり意識しなかったのですが、
映画を見たとき、作品の舞台になっていることに、
あらためて気づかされました。

天文方の渋川春海(安井算哲)と関孝和が出会うフィクションで、
作品中、この神社の算額が度々出てきます
(城勤めの場面では江戸城も出てきます)。

この神社には奉納された算額が3点展示されています。
大抵は長方形ですが、扇型の珍しい形のものが見られます。
状態の良い算額なので、書かれた問題や図も読めます。
そのうちの一点は、関流の門人が奉納したもので、
和算の問題としては、よく見る典型的な易し目のものです。
実物の算額は幾何学で、色彩もあり、興味深く感じます。

かつて和算は広く普及していたものの、明治になると廃れました。
今では知る機会も少ないため、
特定の人しか興味を持たないものになっています。
貞享暦の誕生、寺院や城郭建築にも欠かせない学術だと思います。
和算を知ることで、あらためて江戸時代の人の視点も分かります。

都内の神社や上野の博物館で、偶に算額を見ることができます。
ただ、城址で算額を見られるのはここだけだと思います。

渋川春海(安井算哲)の墓も少し離れますが、
品川の東海寺墓地にあります。

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todo94

朝駆け (2020/10/04 訪問)

米沢のホテルをチェックアウトし、朝駆けしました。なかなか良い感じで土塁が残されています。そして土塁の上には小さいながらも城址碑もありました。この後、近くのローソンにて朝食を調達しました。1週間後、この城にほど近い川西町の住宅近くで老人が熊に襲われるニュースが報道されました。

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橋吉

熊出没注意 (2020/10/25 訪問)

岩櫃山は、群馬県東吾妻町のシンボルで、標高802.6mの奇岩・怪石に覆われた山です。南側の正面は高さの200m断崖絶壁となっています。

平沢登山口の近くに広い駐車場があります。

少し歩いたところにある平沢登山口観光案内所で、続日本100名城のスタンプを押すことができます。
所在地: 群馬県吾妻郡東吾妻町原町1965-2
開館時間: 9:00~16:00(4/1~11/30)

東吾妻町ではここの観光に力を入れているようで、ポケットティッシュとボールペンを配っていました。

さらに、沼田城・名胡桃城とあわせて続日本100名城の真田三城を訪れたことを言うとクリアファイルがもらえました。

岩櫃城は、岩櫃山の中腹に位置するので、観光案内所から10~15分で本丸跡に着きます。

左は尾根通り、右は沢通り、どちらからでも本丸にいけますが、登りは尾根通りで下りは沢通りを選択しました。

栗がたくさん落ちていました。
中には実をほじくり出した形成も見られます。
人ならば現地でこんなことはしないので、熊のしわざでしょうか。
登山口には「熊出没注意」の表示もありましたし、今年は熊野被害があちこちから報告されていますので気をつけなければいけません。
もちろん、熊よけの鈴はつけています。

所要時間52分でした。

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にのまる

津軽富士と。 (2020/09/30 訪問)

「眺望クイズ」第1弾1枚目の写真で解説していただいた『今なら岩木山と天守の2ショット写真が撮れる』がずっと頭の片隅にあり、その姿を眺め、写真を撮るのを楽しみに向かいました。一昨年の訪問時には現存天守、櫓、門の計九つの建築遺構と烏賊の石と竪石を見る(探す)というミッションを掲げていて、でもそれがなかなか大変(北門と丑寅櫓が見つけにくかった)で、風景を楽しむ余裕が全くなかったのです。
 なので今回の第一目的地は天守のある有料区域の中なのですが、たどり着くまでに櫓や門、水堀、石垣といった数々のステキポイントがあり、それらに引きずり込まれてどんどん天守から離れていってしまいました。たくさんの遺構がある本当に素晴らしい城跡です。
 そして念願叶い展望デッキから天守と岩木山を望むことができました。太宰治の「津軽」を思い出します。弘前城は津軽の人たちの心の拠り所であり、太宰自身にとっても故郷の大切な場所であることが熱く語られ、また津軽の歴史についてもその地に暮らした人間の目と思いで綴られている津軽愛に溢れる紀行小説で、本州最西端出身の私の最北端の地への憧憬も含んだお気に入りの一冊です。
 弘前城、前回は夏、今回は秋の訪問だったので、この次は桜や雪の時期に行けたらいいなと思うのですが…。

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カズサン

岸壁切岸、堀切が凄い大城郭です (2020/10/27 訪問)

 彫堂七館を終えて南に約4km程の千石城を目指す、千石城も4年前素通りした城、今回初登城です、城跡の松山御本丸公園頂部まで車で登れるとの情報でナビを御本丸公園に合わせ走行、頂部の前に三段に成って駐車場が在るので三の丸直ぐ下の駐車場を利用、トイレ完備。
 標高70m程、駐車場から三の丸へ御本丸公園と成って居りコスモス園とも、コスモスの盛りは過ぎてましたが花は残ってます、駐車場には熊注意の看板、コスモス園のスピーカーから音楽が流れて居り熊予防に成ってる。
 丘陵先端が広い三の丸、西奥に大きな櫓台の様な展望台、南側の高みに向かって続曲輪、堀切、二の丸、堀切、本丸と続く、南側は崖、三の丸より本丸に向かって切岸下に通路が通ってる、特に二の丸南側は岸壁を削った様な垂直な切岸で絶品である、現在各曲輪は橋で繋がってる。
 本丸南側、東側下にも曲輪群が備わって居り、本丸南下に大堀切が有るとの情報でしたが登り降りが大変なので頂部の曲輪のみ、また三の丸周辺には土塁の跡が残って居り三の丸北側にも曲輪群が備わってる、丘陵全体を要塞化したような大城郭です、ここを探訪するまでこれ程の大きさとは想像もしませんでしたチョイ寄りは難しい。
 案内説明板は駐車場、三の丸、各堀切下、本丸に在ります。
 兎に角いい城です東北宮城にお越しの節は是非とも寄って見て下さい車で上がれて便利です。

 歴史的には鎌倉時代遠藤氏によって築かれた、戦国期伊達氏の対大崎構えの城、北の鳴瀬川が境か?奥州仕置き大崎葛西一揆を経て伊達領に遠藤氏は御一門として登米に移封、伊達家臣が城主と成り、麓に館を造り城主は移り、三の丸に城番が務めたと。

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shige

米沢城、上杉神社へご参拝! (2020/10/18 訪問)

上杉神社にお参り、参道には上杉謙信公、直江兼続公、上杉鷹山公と銅像がお出迎えしてくれ、撮影スポットになってます。伊達政宗公の生誕の地でもあるようです。

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