初めて車で行った記念すべき城です。
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2022/02/07 23:54
2022/02/07 22:40
整備されて堀底道が歩けた (2022/01/30 訪問)
東武東上線の森林公園駅から徒歩で25分。
まずはラブホテルの背後に空堀と土塁がありました。
古ぼけた標柱も立っているもののこの時季でも藪でした。
ここは再訪なのですが前回は夏で結構な藪でした。
今回はこの時季だからというか結構整備されていて深い堀底道を歩くことができました。
郭内は畑で高い土塁が囲んでいます。
扇谷上杉氏がここに陣を置いたとの記録もあるようです。
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2022/02/07 20:44
2022/02/07 18:42
2022/02/07 08:34
藪を抜けた先には… (2022/01/15 訪問)
富雄川西岸の尾根の先端に位置する丘城で、詳細は不明ながら、室町期に筒井氏の傘下にあった小和田氏が築いたとされます。
北麓の大和田集落のため池近くの道幅が広くなったあたりに路駐して登城開始。先人の投稿を参考に北西側からアプローチするも防獣柵の扉を見つけられなかったので、縄張図であたりをつけて倉庫の背後の藪に突入。藪を抜けると北西部の池が広がっていました。
池の東側には主郭北辺の横堀が東西にのび、東端で折れて南(東辺)に続いています。横堀は幅も深さもあり、なかなかのものです。主郭北辺の土塁はかなりの厚みがあって、土塁上の北辺をさらに低い土塁がめぐり、中央部は櫓台状になっています。主郭西辺にも土塁がのび、土塁の外は西尾根を遮断する堀切になっていて、土塁が途切れたあたりに土橋が見られます。ここが虎口だったようです。
土橋を越えて西尾根を進むと廃屋があり、その先の防獣柵の扉から出ようとしましたが、内側から探してもやはり扉は見つけられず、やむなく主郭まで戻って藪を抜けて城を出ました。全く整備されていませんが、その分遺構は状態良く遺っていて、諦めずに藪を突破した甲斐がありました。
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2022/02/06 22:22
陣屋と御殿 (2022/02/06 訪問)
奈良時代より遠江国の国府置かれていた場所ですが、徳川家康がこの地を支配していた頃、鷹狩の際に使う施設として、または移動時の拠点として御殿を建てたと言われています。家康の関東移封後、この地を支配した堀尾吉晴により陣屋が御殿に隣接する場所に築かれています。江戸時代は直轄領となり代官所となりました。磐田駅南口に「御殿遺跡公園」として整備されていて陣屋の石碑と案内板もあります。
市内にはそれぞれの門が移築され残っています。全部回ったことがなかったので、今回行って来ました。
中泉御殿の移築門
表門 西光寺
裏門 西願寺(門扉が新しくなっていますね)
中泉陣屋の移築門
表門 市内の個人宅
裏門 中泉寺
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2022/02/06 21:35
障子堀 (2021/12/19 訪問)
北条名物障子堀。これだけでも見る価値があります。
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2022/02/06 20:07
楯岩城 (2022/01/15 訪問)
【楯岩城】
<駐車場他>若王子神社側のルートは若王子神社前にゲートがありますので、ゲート前に駐車スペースがあります。ゲートを開けて神社内にも駐車できそうです。
<交通手段>車
<見所>石垣・大岩・竪堀・主郭南側の段曲輪壁
<感想>赤松氏の関連の山城攻め昨年からのつづき。楯岩城は行ってみたかった城、朝駆けで攻城した。
楯岩城は建武年間(1334年~1338年)に赤松則弘が築城しましたが、嘉吉の乱で一旦落城します。その後赤松貞村が入城し、その後5代続きますが、羽柴秀吉の播磨攻めによって落城しました。
登城ルートは西側の若王子神社からを選択しました。境内に登城口と案内板がありますのですぐ分かります。案内板の奥、山の谷間に方形の段曲輪があり壁面に古い石垣遺構が見られます、居館跡かと思います。登山道は広いので迷うことなく20分程で城跡の西端から入ります。東西に伸びる尾根上を切開いて削平地化しています。南北の斜面に竪堀を配して、二の丸・主郭の南斜面は石垣がかなり残っています。
最大の見所、主郭の南側に5段程の段曲輪がありますので是非ともストックと手袋を用意して下段まで降りて見て下さい。上から覗くとほぼ土の段曲輪のように見えますが段曲輪の曲輪壁すべてが岩と岩の無い部分は石垣で埋めています。下から見ると圧巻で楯岩城由来はここにあるかと思われます。今では崩落して欠落した部分が多いですが当時は岩と石垣で覆われていたことと思います。思うに岩の集中部分の上部を削平地にして段曲輪を造ったような感じがしました。
TV塔のある主郭は狭く、すぐ東側が城山(楯岩城大山構)との鞍部があり鞍部の中程南側斜面に石積み遺構があります。私見では城門跡と見ました。鞍部北側は竪堀が数条あります。大山構と呼ばれる場所にも行ってみました。主郭より標高が高く広い曲輪内に巨石が多くあります。地表には主郭周辺にあった人一人が持てるような岩が無く、巨石を並べて仕切壁のようにしているのでこちらも何らかの施設だったと思われます。
私見ですが、麓の居館跡と思われる段曲輪も東西に段になっているので大手道は西から居館跡を突き抜けてさらに東に山の谷間を登って城の真南辺りから方向を北に変えて登って行くと主郭から南に伸びる巨岩壁の段曲輪が待ち構えている。大手城門虎口はさらに東の主郭を超えた東側にあるので敵がそこまで辿り着くのは大変だ。山頂は大山構のある場所であり城門の入ったそばに主郭があるのは不自然なので主郭のみを最重要曲輪としてではなく、城の南側を特に強固な造りにして城全体を守る感じになっていたように思われます。
<満足度>◆◆◆
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2022/02/06 20:07
2022/02/06 19:15
[鎌倉殿の13人]関連史跡 しとどの窟 (2016/10/23 訪問)
散策自粛している今、丁度鎌倉殿の13人を放送しているので、ゆかりの史跡をご紹介したいと思います。
放送ではスルーされてましたが、石橋山合戦で敗北した源頼朝が身を潜めていたとされる場所が[しとどの窟]と呼ばれております。
(大泉洋さんの夢枕に西田敏行さんが登場したシーンの場所です(笑))
近くにある土肥城城主・土肥実平にこの場所に匿われた・・・んだそうな(ーωー;)
現地には解説版と雰囲気のある洞窟が残りますが、逆にそれだけなので行かれるかどうかの判断はお任せします。。。
湯河原駅からバスで[しとどのいわや]バス停で下車し、上に行くと土肥城、下に行くとしとどの窟に行けますのでセット訪問が良いかと。
ただこのバス思いっきり本数が少ないので、お城と史跡散策した後は急坂を下って土肥氏の菩提寺・城願寺も合わせて訪問するのがよいでしょう(バス停のところに駐車場あったので車なら問題ないかな)
ちなみにこの下りの道中、前にも土肥城UPした際に野生の猪と遭遇して危険な目に遭っておりますので要注意です。
(土肥城の記事にも猪ネタ以外にも上と同じような事書いてましたww)
余裕があれば今後も鎌倉殿の13人ネタ書くかもしれません(^^;)
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2022/02/06 18:16
2022/02/06 18:03
長篠城址 (2022/02/06 訪問)
攻城址🏯8城、攻城址4
何も無い。近くに飯田線と第二東名が見えました。
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2022/02/06 15:45
山城らしさがよく伝わります (2021/04/28 訪問)
八王子駅からバスに乗り、滝山城址下で降りればそれほど迷わずに行けると思います。
まずは加住市民センターで情報収集するとよいでしょう。
空堀や馬出しのダイナミックさがよく伝わります。
十分立派ですが、東西方向(街道と平行)にはかなり広い一方、それと比べて南北方向(街道と垂直)には相対的に小ぶりに見えなくもないです。
関東の中だけで勢力争いをするならまだしも、強大な豊臣勢を相手にするのに北条氏照がより堅固さを求めて八王子城に移った理由が分からなくもないです。
構造的にはだいぶしっかりしてそうに思えますがね。
初めての山城でもあり、写真はいまいちです。
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2022/02/06 14:49
2022/02/06 14:45
2022/02/06 12:03
奥平氏の苗字の地なのだ (2021/10/16 訪問)
豊前中津10万石の奥平氏の苗字の地。同じ上州出身ということになっている徳川氏にとってはそういう意味でも家康の実娘を送り込むには相応しい家柄だったのかもとか余計なことを考えるが、城自体は拍子抜けするくらい遺構が薄い。
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2022/02/06 10:42
【三河・大樹寺】愛知県岡崎市 ビスタライン (2011/03/24 訪問)
大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として名高く、桶狭間の戦いで今川義元が討取られ家康が大高城から大樹寺へ敗走し祖先の墓前で自害を覚悟するが時の住職に「厭離穢土、欣求浄土」の経文で諭され以後この八文字を旗印に戦って行く。深いつながりが有る寺です。
住所:愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 車は大樹寺の駐車場を利用
案内:以前TV番組で大樹寺本堂、山門、総門のラインから岡崎城を望むビスタラインの放映を受けて是非確認探訪したいと訪ね実感遠望しました、この間には眺望を遮る建物は立てないとの岡崎市民の心意気が約400年近く発揮され、この貴重な景観を今日見る事が出来ます。
寺院は本堂、鐘楼、多宝塔、山門、総門、松平八代墓所ここは秀忠公が修復再建、昭和44年には岡崎市民が隣接して家康公の墓と碑を建立、家康公の遺命により位牌は大樹寺におさめよと、以後歴代将軍14代まで等身大の位牌を安置して居ます、有料で文化財収蔵庫、位牌堂を拝観できます。
岡崎城登城の後に大樹寺ご参拝も宜しいかと、岡崎城のビスタライン遠望を兼ねて良い体験が出来ます。
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2022/02/06 10:19
雪の多賀城跡と歌枕を探訪 (2022/02/05 訪問)
昨日、東北歴史博物館をセミナー参加で訪問したついでに多賀城跡と付近の「歌枕」の地を訪れました。
多賀城跡は昨年12月の投稿にも記載したとおり、2024年の「創建1300年」にむけて、外郭南門(全面瓦ぶきの入母屋造り2重門)や築地塀の復元工事中です。前日からの雪で足場も悪いため政庁跡の主要部はパスして南門の工事現場と、歌枕として名高い「壺の碑」(多賀城碑)他を散策しました。
多賀城には陸奥国府や鎮守府が置かれたこともあり、都人あこがれの地として古くから歌に詠まれた歌枕の地が多く残されています。
浮島、沖の井(沖の石)、野田の玉川、おもわくの橋、末の松山、壺の碑、志引石(千引石)で、古今集や新古今集、山家集などにみえます。
元禄2年(1689)には西行の足跡を辿り芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、天明6年(1786)には菅江真澄が仙台行きの途上でこの地の歌枕を訪れています。
ほとんどが多賀城跡周辺に有りますから城址訪問の際に足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
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2022/02/06 07:27
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