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牛若丸

雪の中で幻想的 (2021/02/16 訪問)

昨日、20時頃に訪れました。
今回で3回目の登城になりますが、冬のしかも夜に訪れるのは初めてです。
雪の中でライトアップされており、昼間とはひと味違ってとても幻想的でした。

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pascal

今も阿久沢氏の末裔が守る  (2014/10/25 訪問)

群馬東部の山間で、今も城主一族の末裔が大切に守り続けている神梅(阿久沢or深沢)城です。

【アクセス(車)】
 渡良瀬川沿いにR122を遡り、渓谷鉄道の『本宿駅』を過ぎた宿廻の交差点を左後方に大きく回り込む形で県道335に入り、登り坂を約1km登ると『➡深沢城』の看板があるので、右折して行くと『正圓寺』という寺があり、この境内が神梅城址です。
城名がいろいろ有ってややこしいのですが、地元では『深沢城』で統一されてる様ですね。

 本堂前の道路沿いにお寺の広い駐車場が有るので停めさせて貰います。
日曜日の朝、ちょうど地元の方(檀家さん?)が総出で周囲の草刈りをしていたので、『城址を見学させてもらいます』と挨拶して、探訪に入りました。

【城の歴史】
築城は意外に新しく、永禄年間(1558~70)の阿久沢彦次郎に依る…とされています。
阿久沢氏は黒川谷(渡良瀬渓谷)に土着する“黒川郷士”の一人でしたが、当時の一番の有力者だった様ですね。
 この頃、上野は上杉謙信と北条氏康が攻防を繰り広げる戦場になっていましたが、赤城山西麓の利根川沿いは北条氏が多くの城砦で固めていたので、謙信は東麓に間道を拓き、この黒川谷に出て来て南下していた様です。
おそらく謙信が土地の郷士達に命じて、築城し守らせた城なのでしょう。

その後北条方となった阿久沢氏は金山の由良氏の傘下となり、小田原征伐では籠城のため41名の郷士が小田原城に向かいましたが、小田原開城降伏後は神梅城も廃城となり、みな近郷で帰農したそうです。

【見どころ】
 南向き斜面に築城された城は、50m四方ほどの本丸を広い堀が囲い、南の裾に小曲輪を幾つか重ねており、南からの攻撃に備えています。
背後の北側も本丸を取り囲む様に広い郭が造られて、大外を空堀が走っています。
つまり、本丸は北の外郭から見下ろす低地にあるのです。
三島の山中城は有名ですが、敵の攻め口が特定できる場合、こんな城の選地と縄張りも有り得る訳ですね。

 しかし、一番凄いと思うのは、公的な史跡指定のないこの城址が、綺麗な状態で維持されている事です。
本丸は約750坪の平坦地ですが、住宅にも耕地にもならずにそのまま維持されています。
帰農した阿久沢氏の末裔の人達は、北の郭に移してきた正圓寺とともに、“先祖の遺産”として大切に守ってるが故の事でしょうね。

【感想】
 阿久沢氏は蝦夷の末裔という伝承があります。
前九年の役で勝利した源義家は、捕縛した安倍宗任を京に連れ帰りますが、宗任を慕う蝦夷の人達は、その後ろからゾロゾロ付いて来て、その数は700人に上りました。
困った義家は、この地で蝦夷を説得し、『此処に連絡役として数十名を住まわせ、京での宗任の動静は彼らに伝えるから、安心して帰れ!』と蝦夷達を帰らせました。
その連絡役として残ったのが、阿久沢氏および黒川郷士だと言うのです。

 真偽の程はともかく、此処の人達が、より先祖を崇め尊ぶ、文化的なDNAを持っているのだとすれば、有り得る事かな?…と思ったりしました。 

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イオ

いつ行くか? 今でしょ! (2021/01/31 訪問)

甲賀郡中惣遺跡群として国史跡の指定を受けていますが、築城時期、城主など詳細は不明です。

杉谷川東岸に築かれた方形単郭の城で、主郭を高さのある四方土塁が囲み、南部と北東部に虎口が開口し、西辺から北辺にかけての土塁外周を横堀がめぐっています。

倉治城から北西に徒歩7分、竹中城の南にある民家の西辺の竹塀沿いに奥に進むと南側の虎口に至りますが、気付かず通り過ぎてしまい、土塁外周の南西部にたどり着きました。西側の横堀はとりあえず整備されていて堀底を進むこともできましたが、北側の横堀は竹藪で進めず、土塁は急峻で高さがある上にびっしりと竹が伸び盛り、取りつく隙間も見当たりません。それでも南西隅から何とかよじ登って主郭内を見てみると……めっちゃ整備されてるやん!

先人の投稿にあるように、その名の通りの「竹藪の中の城」を覚悟して訪れたのですが、主郭内の竹藪は大規模に伐採され、整然と積まれた大量の竹からはこれまでの壮絶な竹藪ぶりが窺えます。伐採は大変なご苦労だったと思いますが、おかげさまで主郭内に立ち入ることも見渡すこともでき、高土塁に囲まれた甲賀の城を堪能することができました。年初のじゅんじんさんの登城時には竹藪だったようですから、最近伐採されたばかりだと思いますが、竹が伸びるのは早いので、登城されるのであれば早いうちがおすすめです。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑫:千本城(ラスト)➡城びと未登録(千葉県君津市) (2019/06/26 訪問)

秋元城から転戦。車で30分くらいでした。
近くの大戸城と千本城が同じだと勘違いして、千本城攻城で大戸城を攻城済としていましたが違うようなので、大戸城を未攻城に修正しました。
国道410号線の千本城跡入口の石碑前(35.259523、140.064274)から小道に入り登城口付近に駐車して攻城しました。

築城については、1488年(長享2年)に里見氏の里見義実が築城したとされるが、不明な点が多いそうです。
久留里城の南方を防御する支城で、里見氏の武将、東平安芸守がこの城に住んでおり、娘が里見義弘へ嫁いで梅王丸を生んだと推測されるようです。
1578年(天正6年)5月に里見義弘が亡くなった後、里見義頼と里見義重(幼名は梅王丸)の「天正の内乱」の際には、反義頼勢力は久留里城、千本城を拠点としたとされます。
戦いは義頼の勝利に終わり、里見義重(幼名は梅王丸)は出家させられます。
城は義頼の管轄下に置かれたが、小田原征伐の後の1590年(天正18年)に、里見氏は豊臣秀吉によって上総を召し上げられたため、廃城となりました。
城址には堀切等の遺構がきれいに残っており、主郭には1488年(長享2年)に里見義実が寄進したといわれる北野神社が建てられています。

登城口より北野神社を目指す途中、倒木が道を塞いでいるが横をすり抜けて進むと素晴らしい堀切が見れます。
堀切のオンパレードに堀切好物の自分は拍手喝采。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑪:秋元城 (2019/06/26 訪問)

滝田城から転戦。途中ナビが通信不可となり、誤った所に誘導された為、正確な時間は不明。
秋元城跡駐車場(35.255242、139.993494)に駐車して攻城しました。

秋元城は里見義豊が、1504年-1521年(永正年間)に臣下の秋元義正に命じて築かせた城だといわれています。
しかし義正の子である義久の時代の1564年(永禄7年)「第2次国府台合戦」により北条軍に攻められ落城したと伝えられています。
その後は北条氏の城として、斎藤正房を城代として置いていましたが、1590年(天正18年)の「小田原の役」で浅野長政が率いる房総別働隊によって攻められ、廃城となりました。
現在も城趾には土塁や堀切などの遺構が良好な状態で残っているそうです。

駐車場はありますが、トイレはありません。
滝田城から車で転戦しましたが、途中ナビが通信不可となり、誤った所に誘導された為、正確な時間は不明。
レンタカー返却の時間が気になり、道路わきの案内板の写真を撮り撤退。
着いた時点で予定の65分オーバでした。
攻城時間は5分くらいでした。

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キンヤ

模擬城門・物見櫓が撤去されるとの情報を知って急遽再訪 (2021/02/14 訪問)

東条吉良氏の居城です。
鎌倉時代から三河吉良荘を領した吉良氏は東条と西条の二家に分かれて対立していましたが、今川義元により東西の吉良家は統一されました。
吉良氏当主の吉良義昭の時に、桶狭間の戦いの後に三河で独立した松平元康と対立し、攻められ落城したといわれます。

模擬城門・物見櫓が老朽化により撤去されるとの情報を知って、8年ぶりに再訪しました。
まだ取り壊されてなくて良かったです。
特に城門の復元で、喰い違い虎口や横矢掛りなどが分かり易く、前回行った時から好きな城でした。
ふるさと創生資金で復元されましたが、恐らく維持費がかかり、壊れてきて危険で撤去を決めたと思われますが、是非もなしでしょうか。
具体的にいつ取り壊されるか分かりませんが、行った時は城門から本丸へは立ち入り禁止でした。

+αで周辺の古戦場と砦にも行きました。

【史跡名】鎧ケ淵古戦場
1561年4月に元康が吉良氏を攻め、善明堤の戦いでは吉良方が勝ったとされます。

【砦名】小牧砦(後に小牧陣屋)
同年の9月、元康は小牧砦を本陣にして東条城を攻略したとされます。

【史跡名】藤波畷古戦場
9月13日の藤波畷の戦いでは、吉良氏家臣の富永伴五郎が討死するなど敗北し降伏したとされます。

【史跡名】富永伴五郎一族討死の地
1717年、村民は憐れんで伴五郎討死の場所に地蔵尊を祀ったとのことです。

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赤い城

斎藤美濃守館 (2021/02/06 訪問)

毛呂駅から徒歩で10分ちょっと、最寄りは武州唐沢駅かな?
民家の周囲を土塁が囲んでいます。
今でも末裔の方がお住まいのようで立派な門がありました。
周囲は住宅地と畑になっていました。

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小城小次郎

心意気には感ずるばかり (2020/12/06 訪問)

ここ数年は地道な景観整備が行われてきたが、大手門が出来たことで一気にお城らしさが蘇った。通行の支障をも顧みず、敢えて原位置に巨大な大手門を作った水戸市の心意気には感ずるばかり。

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みかわのひで

犬山城下に残る徳川家康も飲んだ酒!忍冬酒

城好きで酒好きの方に朗報!

日本100名城で国宝天守の犬山城の城下町に創業400年以上の酒蔵があります。

ここの忍冬酒(にんどうしゅ)は、尾張藩を通じて徳川家康に献上されたこともあり、家康も好んで飲んだといわれています。  

飲んだ感想ですが、歴史本などでは甘いリキュールのような味と紹介されていますが、個人的には【和風ウイスキー】といった感じですね(和風というのがポイントw)

犬山城に行った時に是非、チェックしておきたい酒です。

http://sake3193.com/?p=33

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dougen

2017.11.5登城 (2017/11/05 訪問)

野辺地城から国道279号を北上し、むつ市街から、国道338号を西へ進むと蠣崎地区があり、旧蠣崎小学校の背後の丘に錦帯城公園があり、蠣崎城址となります。

城址公園として整備されていますが、特に解説板とかはありませんが、登城道や主郭などは整備されており、問題なく散策できます。

主郭からは陸奥湾が望めます。遺構は不明瞭ながら、土塁や堀切っぽい地形が確認できます。

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dougen

2017.11.5登城 (2017/11/05 訪問)

野辺地市街にある図書館や歴史民俗資料館が建つ場所が、野辺地城址となります。

遺構らしい遺構はありませんが、野辺地川を天然の堀とした立地が往時を偲ばれます。

また、江戸時代は代官所があった様で、野辺地代官所の標柱が設置されています。

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登城できるようになってました (2021/02/14 訪問)

本郭から南側に逆Vの字に二筋の尾根があり、郭群が連なっています。登城道は、尾根の間を進み、ついで、つづらおれで右手の尾根に登って行きます。
よっぴーさんが、昨年4月に訪れた際は、台風による被害でつづらおれ手前に立ち入り禁止の表示があったとのこと。現在は、表示は畳まれて、登れるようになってました。右手の尾根の最初の郭は展望が開けているのですが、崩れる危険があるので、崖(切り岸)に近づかないよう、表示とロープがありました。
本郭の背面は、土塁、土橋付きの念が入った堀切。竪堀となって下っていく先には岩盤を穿ったところも見えました。郭のそれぞれもけっこう広いです。
本郭に立つ石碑は、山下城でなく、獅子山ノ城とありました。下調べしてると、「当時は山下城とは呼ばれてなかった」と熱く語る資料あり。

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pascal

戦国の攻城兵の気分になって (2018/03/08 訪問)

『小幡城を観ずして土の城を語る勿れ!』…とまでは言われていませんが、マニアに大人気の小幡城です。

【アクセス】
3年前の訪城でしたが、とにかく交通は不便な場所です(^^;
クルマでしか行けませんが、ナビが頼りです。 
道路も狭いので、近隣へのマナーとしても軽自動車がお奨めですね。
駐車場は当時は北東の堀底道の入口に停めましたが、その時に城の北側で造成工事をしてたので、もう専用駐車場が出来てるはず。

【城の歴史】
 ほとんど記録資料が無い城で、素性も不明な点が多いのですが、応永24年(1417)に大掾詮幹の三男:義幹による築城という説が有力な様です。(異説あり)
 城は湿地帯に付き出した台地の先端を堀で断ち切って縄張りされています。
郭内は七つの郭が空堀で仕切られた連郭の城ですね。

 大掾氏だと、水戸城の支城という扱いでしょうか。
しかし上杉禅秀の乱で大掾領は江戸氏に与えられますから、戦国末期まで江戸氏が改修し使った事でしょう。
廃城後は、湿地帯の小丘という環境が上手く作用し、山に還って遺構は破壊を免れて、良好な状態で今日に伝わりました。

【見どころ】 
 見学の登城口は北東の空堀から入る様になっていて、堀底道を彷徨いながら七つの郭を見て行きます。
何がそんなに大人気なのかと言えば、城内に入った時から感じる“戦国疑似体験”なのですよね。
遺構の状態が良いので、両側に立ちはだかる土塁の底を歩いていると、なぜか上から狙われてる様な、妙な緊張感に襲われてしまうのです(^^;
そして、堀底道は絶妙に曲がっていて、枝分かれを繰り返すので、同じ様な景色の繰り返しで、最後には今何処にいるのかさえ判らなくなる…まるで迷路の世界ですね。
いったい本丸は何処なんだ!?

【感想】
 病的なマニアとしてはすぐに、この城は何処からどう攻めたら良いのか…などと考え悩んでてしまいます。
しかし、縄張り図をよくよく見ると、東と南は当時は沼なので、多くの舟が無いと押し渡れないので、実質の攻め口は地続きの西と北からに限られます。
つまり、いきなり堀底道から攻め込むというシチュエーションは元々無いのです(^^; 

ただ、狭い土塁で堀底を仕切った“二重堀”などはとても良く考えられた構造で、攻めにくい絶妙な縄張りなのは間違いないですね。
実戦の記録は不明ですが、一見の価値がある城です。

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イオ

倉治城(滋賀県甲賀市甲南町新治) (2021/01/31 訪問)

詳細は不明ながら、倉治城は室町期に倉治氏(甲賀五十三家)が築いた城と伝わります。

倉治城は磯尾川の西岸段丘上に築かれた城で、城域は現在では住宅地と農地になっていますが、西側と南側(北東部も?)に立派な土塁が残っています。

甲南町新治由来記の説明板がある県道の交差点から北に徒歩3分、汁善寺池から東に入ったあたりが城域です。甲南町新治由来記の地図(縄張図)を参照しながら歩けば、迷わずたどり着けるかと。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑩:滝田城➡城びと未登録(千葉県南房総市) (2019/06/26 訪問)

平松城から転戦。車で10分くらいでした。
南側のトイレがある滝田城址駐車場(35.058410、139.896350)に駐車して攻城しました。

滝田城の築城年代は定かではありませんが、里見義豊の妹婿である一色九郎が城主をつとめた記録があります。
1533年(天文2年)から1534年(天文3年)にかけての「稲村の変」の際には里見義豊の義弟とされる一色九郎が城主を務め、義豊側の拠点の1つであったとされ、通説では義豊の滅亡とともに廃城になったとされます。
また、義豊を倒してこの乱に勝利をした里見義堯が滝田城を本拠としたとする説もあります。
また滝田城は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」で里見義実の居城のモデルとなった城としても有名です。
そのため城址にある展望台付近には「伏姫と八房の像」が建てられています。

南側のトイレがある滝田城址駐車場のトイレは水は出ますがちょっと怖い。
尾根をひたすら進み、伏姫の像を確認し、さらに進めば展望台に到着。
櫓台の城碑は折れて倒れてました。北側に進む気力がなく引き返えした根性なしです。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑨:平松城 (2019/06/26 訪問)

稲村城から転戦。車で10分くらいでした。
県道296号城址標柱前(35.026176、139.909777)に路駐して攻城しました。

平松城は1180年(治承4年)源頼朝の安房入国の時最初に参向した安房の豪族安西三郎景益の城址と考えられています。
安房を里見氏が支配していた時代にはその家臣・安西式部の館跡ともいわれています。
主郭には平松城址の石碑があります。

駐車場もトイレもありません。
県道296号城址標柱前から山に向かって行き、落ち葉が積もった舗装された道をひたすら進むと主郭までいけました。
物見台、石碑、土塁、虎口が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。

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三浦の晃ちゃん

地元の城 (2021/02/15 訪問)

15年以上、三浦市に、住んでいますが、初めて、場所を確認しました。

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小城小次郎

恵まれた素養が、いつか必ず花開く (2020/12/05 訪問)

敷地のほぼ全域が更地で残っていたり、移築書院が国道に面したところにさらっと残っていたり。この陣屋は石垣だけじゃない。全国的にも稀に見る恵まれた素養が歴史遺産として観光資源として近い将来必ず花開く時が来るはずだ。

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だめなこ

やっと♪ (2021/02/14 訪問)

前回は隠し扉?部屋?があるのを知らなくて
時間もなくてパパッと帰ったから
今回はそれが見たくて足助城へ\('ω')/

やっぱいいなー♪
帰り・・・戻るとき油断しててコケたけど
しっかり整備されてるから歩きやすいし(・∀・)イイ!!

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ぴーかる

下土井城 (2021/01/10 訪問)

【下土井城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.846844, 134.434841>の地点に1台程度停めれなくはない。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪掘
<感想>緊急事態前の駆け込み攻め城2城目。下土井城跡は案内板・説明板・表示もないので攻めるのに少し躊躇しますので、まずルート説明をします。山全体に鉄の防獣柵が張ってあるのですぐ入れません。柵の扉はいくつかあるようですが、地元の方に尋ねて<34.847636, 134.436149>の地点の先に扉があるのでそこを利用しました。城跡への道はありません。間違っても扉からすぐ城跡のある南の方へ向かって山の斜面を直登しないように(私は行きは2回3㍍程ずり落ちながら登ってしまった)して下さい。扉を開けて入ると果樹園がありますので少し右寄り東南東くらいの向きで抜けます。先に廃墓地がありますのでそこも右寄りに抜けます。右手の山方向へはさらに網が張ってありますので、適当な場所でくぐって入ります。東南東の向きで行き着いた所にこんどは東南方向に山の斜面に道跡のような、豪雨の時に出来た川跡のような枯葉の堆積した溝がつづら折れでありますのでそこが緩やかで一番楽に登れると思います。登りきったら尾根の小道に出ますのでそのまま尾根道を南西方向に100~200㍍ほど南下すると城跡に入ります。
 城跡は矢野川と小河川の間に挟まれた山地の南端にあり、山の尾根上を削った細長い曲輪が2、3あるだけの小さい城です。北東方向に3重堀切を備えているので尾根道から南下するとまずこの3重堀切にぶち当たります。見事な3重堀切でここから道が無いので本当に堀切を攻めることになります。堀切は南方向に避けて登ると曲輪に入り込めます。曲輪は3重堀切のある北東端に土居があるのみで内部は特に遺構は見られなかった。曲輪両サイドの斜面も灌木のみかと。城跡の南西端(尾根の終わり部分)から曲輪を囲むように横堀とその下に南・西・北方向へ数条竪掘りが長く落ち込んでおり、岩場と重なっていて見応えがあります。
 戻りは前述した道を発見して楽に下って降りれました。行きは知らずに後日すごい筋肉痛になりましたが、3重堀切と竪掘り群は登り甲斐のある見応えでした。

<満足度>◆◆◇

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