(10人目)は「竹中重門」です。
菩提山城の麓にある「竹中陣屋」を訪れてきました。
竹中重門の父は、あの有名な軍師「竹中半兵衛」です。亡き半兵衛は背後に見える菩提山城を居城としていました(写真④の背後の山の頂上)。そしてこの関ケ原一帯は実は竹中氏の領地でした。
重門は当初は西軍に加わり犬山城を守ります。しかし黒田長政に説得されて東軍に寝返り、長政と共に石田三成と戦いました。
黒田長政は幼少(松寿丸)の頃、父の黒田官兵衛が荒木村重の三木城から帰らぬのを(実は三木城で幽閉されたのを)織田信長は謀反と勘違いし、信長は秀吉に「松寿丸を殺せ!」と命じます。しかし、秀吉は殺す事はできず半兵衛が密かに匿います。その匿ったとされる五明神社が陣屋から300m南の地にありました(写真⑦⑧⑨)。ここで幼少の頃の重門と長政は出会っていて、次第に気心の知れた仲になったと思われます。よって長政からすれば重門をこの時から弟のように思っていたのでしょう。岐阜城が落ち、犬山城の戦いが始まってから徳川に寝返ったのでは遅い! 何としても重門を死なせるわけにはいかない! と急ぎ説得したようです。そして、自分の陣(岡山烽火場)に招き入れ、一緒に西軍と戦ったという既成事実を作って家康を納得させようとしたものと思われます。
そして重門は伊吹山中に逃げる小西行長を捕らえるという功績を上げ、これで家康からも認められました。さらに戦後、家康の命により、東塚と西塚を造り、戦死者を東軍西軍分け隔てなく弔いました。そして農民には当面年貢を免除し、家康からもらったお金を領民に分け与え、戦で荒れ果てた田畑の復興に尽力しました。
関ケ原から後、重門は菩提山から麓の現在の場所に陣屋を構えます。そして旗本となり幕末まで竹中家は続きました(写真①)。重門が建てた陣屋にもかかわらず、なぜか?半兵衛の銅像がありました(写真②)。駅前にも半兵衛の銅像が?(写真⑩) 地元への貢献度は重門の方がはるかに上だと思うのですが・・・、半兵衛の方が垂井の人々にとってはスーパースターなのでしょうか?(重門がちょっとかわいそう・・😩)
〈アクセス情報〉
垂井駅前(半兵衛銅像前)の観光案内所で自転車を500円でレンタルすることができます。また同じく駅前から1時間毎に、菩提山方面行や南宮山方面行のコミュニティバスが走っているので便利です(1回100円先払い:いずれも写真⑩の場所)。私は雨だったのでバスを利用し菩提山(竹中陣屋)や南宮山(吉川広家陣跡)を訪れました。
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