いばらきじょう

茨木城

大阪府茨木市


旧国名 : 摂津

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①復元櫓門
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:茨木城 (2024/10/05 訪問)

茨木市駅から徒歩10分くらいで、復元櫓門(34.820507、135.572192)に着き、その後、片桐氏茨木在城碑(34.820778、135.571164)➡茨木城移築搦手門がある茨木神社東門(34.817770、135.5702210)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1336年)楠木正成によって築かれたとも云われています。
1568年(永禄11年)城主茨木佐渡守は摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵されましたが、1571年(元亀2年)池田衆との合戦に破れ滅びました。
1577年(天正5年)には中川清秀が入城し、本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えたが、1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で大岩山砦に布陣していた所を柴田勝家の武将佐久間盛政によって急襲され討死しました。
家督は嫡男中川秀政が継ぎ、1586年(天正14年)播磨国三木に150,000万石で加増転封となりました。
1601年(慶長6年)片桐且元・貞隆兄弟が入りますが、大坂の陣の前に徳川氏への内通の疑いを掛けられ豊臣氏と決別、大坂の陣の後は且元が40,000石、貞隆が16,400石の大名となりました。
1615年(元和元年)且元が死去し貞隆は大和国小泉に転封となり、一国一城令によって破却されました。

現在の茨木小学校一帯が城址といわれます。 小学校には現在、慈光院に移築された茨木城楼門を複製した校門が建てられています。
茨木小学校構内にある片桐氏茨木在城碑はフェンスで見えませんでした。
茨木神社周辺に石垣が確認できます。
バスの時間が迫っていたので、駆け足で廻り攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=目垣城を目指す為、茨木市役所前バス停から京阪バスで目垣バス停に向かいました。

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イオ

城下に遺る痕跡 (2023/12/16 訪問)

楠木正成が築いたとも安富氏とも福富氏とも云われ詳細は不明ですが、室町中期には茨木氏の居城となっていました。茨木氏が白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀らに敗れると、茨木城には中川清秀が入って大規模に改修。中川氏が播磨国・三木城に移封されると豊臣秀吉の直轄地となり、関ケ原の戦いの後には片桐且元・貞隆兄弟が城主となっています。大坂夏の陣の後、片桐且元は大和国・龍田城に、貞隆は小泉城に移封になり、一国一城令により茨木城は廃城となりました。

阪急・茨木市駅から徒歩で登城開始。市街化により遺構はほとんど見られませんが、茨木小学校周辺が本丸跡にあたり、小学校前には慈光院(奈良県大和郡山市小泉町)に移築された櫓門が復元されています(櫓門の説明板もあります)。櫓門の奥には城址碑もあるようですが、校内に勝手に立ち入るのはためらわれたので未確認です。また、門の脇には旧殿町の旧地名標柱が立てられており、城ノ町や東馬口引町、柴屋町などあちこちで標柱を見かけ、阪急本通商店街には旧地名の案内板もありました。廃城になった後も続く歴史ある城下町なんですね。

本丸の周辺もぶらぶらと。茨木城の西側を流れていた茨木川の跡地は緑地になっていますが、西辺を画する堀代わりだった様子が今も窺えます。緑地沿いの上泉児童遊園には旧佐助屋敷の標柱が立てられており、中川期には古田織部こと古田佐助(佐介、左介とも)の屋敷があったようです。中川清秀の妹婿ですもんね。緑地の少し上流には、茨木川から屋敷に水を引いていたと伝わる佐介樋の石碑が建てられている…はずですが、見落としてしまいました。見落としたといえば、小学校の南にある梅林寺には中川清秀の墓所があるようですが、墓所への行き方がわからず未確認です。

元茨木川緑地沿いの茨木神社には茨木城の搦手門が東門として移築されています(門の内側に説明板あり)。かつては小学校北東の妙徳寺にも脇門が移築されていたようですが、今や茨木市内に遺るのはこの門だけとあって貴重な遺構です。また、茨木神社には茨木城から移設された石垣があるそうですが、矢穴などわかりやすくこれだな、と思えるような石垣は見付けられませんでした。茨木神社から南へ進むと、茨木高校の門前が城下町の南口にあたる兵桝(武者だまり)で、常夜燈と兵枡地蔵が建てられています。城とは関係ありませんが、兵桝のすぐ東には茨木童子ゆかりの貌見橋の石碑が、高校の門脇には貌見橋の説明板がありました。

兵桝から元茨木川緑地をさらに南下して、茨木市立文化財資料館にも行きました(南茨木駅からのほうが遥かに近いですが)。資料館は入館無料で、旧石器時代から近世以降に至る茨木市の歴史と文化財が紹介されていて、茨木城についてもパネルや城下町からの出土品などが展示されています。なお、資料館裏手の東奈良史跡公園には、白井河原の戦いで討死した和田惟政の供養塔が移設されていました。

遺構はほとんどないものの、歩き回ると思いのほか痕跡があり、これはこれで楽しめました。
 

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しんちゃん

深ぼりするといろいろ出てきそうです。 (2023/07/18 訪問)

茨木城は13世紀中ごろからこの地方に台頭していた茨木氏の城で
戦国時代には織田信長方に属していましたが、荒木村重に攻められ
城主重明が討死、茨木城も落城し茨木氏は滅びたと伝わります。
現在は市街地化していますが、搦手門が茨木神社に移築され
旧本丸の茨木小学校の前には櫓門が復元されています。
この櫓門、オリジナルとは少々異なりますが(屋根が瓦葺、
オリジナルは茅葺)なかなか良い雰囲気をしています。
かつては東西を流れる川が天然の堀の役目を果たしていたと
思われますが西の川跡がそのまま道路の形状(川瀬通り)に残っています。
車で散策していて思ったのですが北西の田中稲荷大明神周辺の土盛りは
かつての土塁の名残だったのではないでしょうか。
他にも茨木神社周辺の石垣を眺めていると、このあたりに城の
遺構が残っていないかな‥と思ったりもします。


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赤い城

茨木小学校 (2023/05/19 訪問)

帰りの新幹線まで少し時間があったので高槻から茨木に移動。
阪急茨木市駅から徒歩で10分くらい、住宅地の中にある茨木小学校が城跡です。
小学校には模擬門があり、その後ろ側に石碑があるはず。
明らかに不審者の挙動、中を覗くと職員の方?がいらしたので声を掛けて入れてもらいました。
「城好きの人は門は見向きもせず石碑の写真を撮りに来るね」と快く。
無事に石碑の写真を撮り、移築搦手門のある茨木神社へ向かいました。
移築門の他、この神社の石垣には城の石垣が移築されたものもあるのだとか。
後で知りました。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明(天守台あり)
築城主 茨木長隆
築城年 室町時代
主な改修者 中川清秀
主な城主 茨木氏、中川氏、片桐氏
廃城年 元和2年(1616)
遺構 移築門(茨木神社)
再建造物 復元櫓門、石碑
住所 大阪府茨木市片桐町