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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):秋月城 (2022/06/11 訪問)

永山城からの転戦です。秋月博物館付近の有料駐車場(33.468479、130.6935)に駐車しました。
駐車場から、瓦坂(33.466520、130.694538)➡移築黒門(大手門)(33.465410、130.695160)➡長屋門(裏門)(33.465731、130.695005)➡秋月博物館(33.468699、130.693778)の順番に廻りました。

1624年(寛永元年)黒田長興によって築かれました。
長興は福岡藩初代藩主黒田長政の三男で、1623年(元和9年)父長政が没したとき、その遺言により50,000石を分知され秋月藩を興しました。
秋月藩黒田家は代々50,000石を領して明治に至っています。

秋月城は現在の秋月中学校、垂裕神社一帯(今回は行っていません)に築かれており、観光地として賑わっています。
秋月城は南北に伸びた水堀に二ヶ所の橋が架かり虎口となっていました。
北の虎口は瓦坂と呼ばれ、瓦を敷き詰めた橋で、その先に枡形の大手門がありました。
この枡形は現在埋められていて残っていませんが、ここには垂裕神社参道にある黒門があったようです。
南の虎口は長屋門のある所で、長屋門は元の位置に現存する唯一の建物だそうです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=乙隈城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):永山城 (2022/06/11 訪問)

玖珠城からの転戦です。豆田北駐車場(33.332661、130.937016)に駐車し、月隈神社参道入口(33.331504、130.935822)に廻り登城しました。

1601年(慶長6年)小川光氏によって築かれました。 関ヶ原合戦後、光氏が入封し古城を改修して丸山城と改め居城としました。
1616年(元和2年)美濃国大垣より石川忠総が60,000石で入封すると永山城と改称しました。
しかし、1633年(寛永10年)に下総国佐倉に転封となり、豊前国中津藩小笠原長次と豊後国杵築藩小笠原忠俊に分割して預けられ、1639年(寛永16年)再び天領となりました。
1682年(天和2年)播磨国姫路から(越前家)松平直矩が70,000石で入封、このとき山上は破棄され麓に館を築きましたが、完成を待たず出羽国山形に移封となります。
その後は、再び天領となり小川氏が代官となりました。

現在は月隈公園となっています。
麓に三の丸の石垣と横堀(水堀)があり模擬土塀が築かれていますが、写真を撮るのを失念しました。わざわざ月隈神社参道入口に廻ったのに悔しいです。
古代の横穴を見ながら登ると二の丸に着き、本丸の櫓台が見えてきます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=秋月城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):玖珠城 (2022/06/11 訪問)

久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町)からの転戦です。伐株山園地駐車場(33.264582、131.138300)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に築かれたと云われています。
1336年(建武3年・延元元年)に南朝方の小田氏、魚返氏、高勝寺の僧兵などが立て籠もっていました。
これに対して北朝方の一色頼行が玖珠城を攻め、数か月に及ぶ激戦の末にこれを落としたそうです。
1586年(天正14年)島津軍が北上すると、玖珠城には中嶋氏、魚返氏などが立て籠もって対抗しました。
島津軍は攻めあぐねますが、山田伝九郎が内応して城に火を放ったため落城しました。

玖珠城は標高685.5mの伐株山に築かれていました。
玖珠城はこのなだらかな地形が拡がる山頂部に、第1土塁から第7土塁と呼ばれる土塁囲みの方形曲輪を設けていました。
ちなみに各土塁のGPS座標の目安は以下になりますが、雨&強風の影響で早めに切上げた為、第1/第2土塁しか見ていません。。
現地に土塁の説明板がない為、投稿写真の位置が誤っていたならゴメンなさい。➡第3土塁は通り過ぎていたようです。
①:第1/第2土塁(33.266298、131.138479)駐車場の北側
②:第3土塁(33.264974、131.137702)駐車場の北側
③:第4土塁(33.264397、131.138657)駐車場の東側
④:第5土塁(33.264407、131.139605)駐車場の東側
⑤:第6土塁(33.263608、131.139046)駐車場の南側
⑥:第7土塁(33.262639、131.139465)駐車場の南側

攻城時間は雨&強風の影響で早めに切上げた為、20分くらいでした。次の攻城先=永山城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町) (2022/06/11 訪問)

宿泊ホテルから、末廣神社駐車場(33.302841、131.158121)に着きました。
旧久留島庭園の北に角牟礼城があります。
以前(2019年10月14日)角牟礼城を攻城した際、わらべ館で続100名城スタンプを押印し、三島公園を散策しました。
その時は時間がなく、久留島陣屋を攻城できませんでしたので、今回はリベンジになります。

1601年(慶長6年)来島長親(康親)によって築かれました。
関ヶ原合戦の後、長親は伊予国来島城から豊後国森に転封となり、2代通春の時、久留島と改めました。
森藩は14,000石で城主格ではなかった為、角牟礼城を廃し南麓に陣屋を築きました。
1837年(天保8年)通嘉の時、三島神社の改築として陣屋を城郭風に改修し、天守の代用とも云われる茶亭の栖鳳楼を建て現在の状態になったそうです。

久留島陣屋は末廣神社、三島公園一帯に築かれていました。
旧久留島氏庭園のある所が陣屋の御殿があった所で、その背後に末廣神社があります。
北側から御長坂と呼ばれる登石垣(雨の中、滑って転んでしまいました)のような参道があり、それを登ると石垣造りの神社境内に出ます。
神社境内には栖鳳楼(せいほうろう)と呼ばれる二階建ての茶亭があり、これが天守代用の象徴として建てられたそうです。
西側には丸木御門、清水御門があり石垣や白壁があるようですが、時間なし&強雨の為、今回は行っていません。
ちなみに、GPS座標は以下になります。
①:旧久留島庭園(33.303473、131.157628)24H
②:栖鳳楼(33.303442、131.157117)24H
③:清水御門(33.303169、131.155575)末廣神社➡今回は行っていないのでGPSの確認はできていません。

攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=玖珠城に向かいます。

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todo94

県内の城めぐり2022㉚ (2022/05/28 訪問)

国道117号からセブンイレブンの手前で脇道に入りアプローチしました。平成の大合併で現在は長野市となっていますが、ここまで北上すると善光寺平という感じはもうありません。千曲川河畔に立地していて、古城の佇まいを感じることが出来ました。説明板と標柱が建っているだけでもありがたいものです。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):日隈城 (2022/06/11 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に散歩がてら日隈城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょとで、亀山公園入口(33.315489、130.928105)に着き、日隈神社への階段に向かいます。

1594年(文禄3年)宮城豊盛(宮木長次郎)によって築かれたと云われています。
豊後の大友義統が改易となった後、豊臣秀吉の蔵入地となった豊後の日田郡と玖珠郡の管理を宮城豊盛が支配し、5,000石を賜り、築いたのが日隈城です。
1596年(慶長元年)毛利高政が20,000石の所領を賜って日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修しました。
関ヶ原合戦後、毛利高政は20,000石で佐伯に移りますが、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地しました。
1639年(寛永16年)天領となった日田地区の代官所は月隈城へと移り廃城となりました。

日隈城は比高30m程の日隈山に築かれた、天然の三隈川を堀とした城で、山頂の主郭には日隈神社が鎮座しています。
かつては五重の天守があったと云われる日隈城ですが、現状では公園となっています。
遺構として確認できるのは大手枡形虎口の石垣くらいでしょうか。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町)を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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赤い城

公園ではあるが (2022/06/12 訪問)

この日は車で訪問。
近くに駐車場はありません。
早朝でしかも見学に時間はかからないので公園前に路駐。
柵に囲まれた堀跡と土塁っぽい部分の写真をササッと撮って退却しました。
興津氏陣屋とも呼ばれていて、興津氏は家康が関東に入ったあとに配下となりここに陣屋を築いたそうです。
時期的なこともあり、公園は草が伸びていて子供が遊ぶ場所とは思えませんでした。
せっかくの憩いの場何でしょうけど。

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零汰

模擬天守 (2019/06/21 訪問)

模擬天守と復元天守、現存天守があるとを知らない訪問を始めたばかりの3年前に行た城。初めて模擬天守を自覚出来た城です。それまでも幾つかの天守を見たはずだったがここでの出来事は忘れられない。

天守の1階は児童クラブのような様相で子供が何人かいました。説明を聞いて上に上がろうとするとそこから驚きの連続。「え!ELVあるの?」「誘導灯ついてるよ、非常照明もスプリンクラーも」ELVで最上階まで登り降りてくる。「中身は普通の建物じゃん」恥ずかしながらそのころの自分は天守は全て当時の物と思っていたのかもしれない。

航空写真を見て各曲輪を廻った、中の城には神社があり周囲には土塁が確認できる。新城との間には堀切道が大きな口を開いていたので進めなくなるまで中に入って行った。新城に無理くり登って確認したが撮った写真では曲輪を確認することが出来ない。周囲を見渡すとどこもこのような状態だったので諦めて終了しました。

その頃は写真を今ほど多くは撮っておらず天守や神社の写真は1枚もない。多分初期で城跡訪問の際の要点が分からなかったのだと思います。



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にのまる

12/12城目 (2022/05/20 訪問)

丸根砦から東へ800メートル。江戸時代に形づくられた城下町の面影を残す町並みを通って15分くらいでした。
公園となっている広場は廃城後に設けられた館跡を整地したものだろうと思いますが、松平元康の兵糧入れが桶狭間合戦のターニングポイントであったことを思うと、この場所に立てただけで感慨深かったです。

最終的に約28km、4万歩で12城まわれました。いつかやってみたいと思っていた2城5砦徒歩めぐりも叶い、うれしさも一入です。また、歴史とは過去に起こった事件や事象を指すのではなくその時代に生きた人々のことであるとの思いを強くした一日でもありました。
山城登城のきつさや怖さはないとはいえ、右も左もわからない土地でしたので、みなさまのご投稿に大変助けられました。ありがとうございます。

→2日目につづく

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にのまる

11/12城目 (2022/05/20 訪問)

鷲津城から東南に400メートル。JRの線路沿いから住宅地のアスファルト坂を上った右手の緑地が砦跡で、外堀跡らしい通路と小さな曲輪が認められました。「丸根砦戦殉難烈士之碑」に、この土地に暮らす人にとって砦跡は過去の出来事を学ぶ場所なのではなく、他所から訪れる者にはわからない様々な思いをもって共生する場所なのだろうと感じました。

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にのまる

10/12城目 (2022/05/20 訪問)

中島砦から徒歩20分くらいで北側の入り口に着きました。
「公園」とか「遊具広場」とか書いてありますが、そんなかわいいものではないのは一目瞭然の森が後背に待ち構えています。
城址碑を確認し少し進むと堀跡らしきものが見えてきました。460年前の戦いを伝えるものかと思うと身震いがしてきます。
文字で得た知識も実際に現地に赴き足と目で確認することで現実のものとして記憶に留めることができるのだと実感しました。「多くが討死し砦は落ちた。」の一文の中にある数多の生命のやりとりに改めて思いを致した次第です。
遊歩道を南に下り、丸根砦へ向かいました。

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朝田 辰兵衛

レトロ感がとてもステキです。 (2022/06/11 訪問)

この日の鳥取県の天気予報は,曇りのち雨。午前中が勝負と判断し,予定より1本早い電車に乗り込みました。
若桜駅から,徒歩約10分で八幡広場登城口到着。八幡広場登城口から一気に本丸を目指しました。
下山ルートは,六角石垣を廻り,第一町民会館登城口へ。登城ルートと下山ルートは途中で交差します。足取りは,若桜駅を起点に8の字を書いたようなイメージです。
登城時にはまだ若桜駅前の観光案内所が営業時間前だったので,二の丸小屋でスタンプペッタン。状態は問題ありませんでした。
若桜駅前の観光案内所へは登城後に立ち寄り,パンフレットを入手。
レトロな街並を満喫でき,難読駅名の郡家(こおげ)駅も体感でき,プラスアルファ感はありました。

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mass

圧巻でした! (2022/06/20 訪問)

念願の姫路城。
期待に胸を膨らませて行きましたが
それを遥かに上回る、圧巻のスケール
美しさに感動しました!

素晴らしいお城でした!

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駿府城

静岡市歴史博物館のプレ広報誌を発行しました!

旧青葉小学校跡地に現在建設中の静岡市歴史博物館は令和4年7月に1階がプレオープンします。

1階に露出展示する「戦国末期の道の遺構」や、展示について紹介するプレ広報誌を作成しました。
静岡市の歴史の流れや、駿府に暮らしていた徳川家康公、今川氏についてもわかりやすく紹介し、子どもでも楽しく読める内容になっています。ぜひご覧ください。

http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2022/05/post-85.html
↑こちらからPDFが見られます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:杷木神籠石 (2022/06/10 訪問)

赤司城からの転戦です杷木神籠石見学者用駐車場(33.355703、130.823589)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、7世紀前後に築かれた古代山城の一つといわれています。

駐車場から南の国道386号線から少し入ったところに案内板があり、第一水門と第二水門の場所が書かれています。
第一水門は案内板があるところにある用水路(33.355339、130.824752)のところです。
第二水門は農道を歩いた場所(33.357224、130.826084)にありますが、このGPSではグーグルのナビでは辿り着けない為、第一水門左側の舗装道を進み、後は案内標識に従って進んで行けば着きます。
第二水門確認の後、杷木神籠石入口(33.354338、130.825225)に廻りました。

杷木神籠石入口から登った主郭は神籠石案内図によると、鵜木城(城びと未登録 福岡県朝倉市)になっています。
以下、鵜木城(城びと未登録 福岡県朝倉市)について記載します。
 築城年代は定かではないようですが、戦国時代に秋月種実によって築かれました。
 種実が大友氏への備えとして築いた長尾城の出城として築かれたもののようです。(ちなみに今回は時間の都合で、長尾城は攻城しませんでした)
 国指定史跡杷木神籠石の最南端にあり、国道を挟んだ丘となっています。
 頂部は削平され、その下側に土塁が残り横堀のようになっています。

杷木神籠石+鵜木城の攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:赤司城 (2022/06/10 訪問)

高良山神籠石からの転戦です。納骨堂入口(33.356666、130.606385)から進入し、納骨堂駐車場に駐車しました。
その後、徒歩で城址碑(33.356105、130.605037)➡赤司八幡宮入口(33.356704、130.606932)と廻りました。

築城年代は定かではないようですが、赤司氏によって築かれました。
赤司八幡宮の前身は平安時代以前からといわれ、筑後川流域の肥沃な土地と交通の要所としての位置付けから、勢力争いが繰り広げられ、度々戦火によって焼失したそうです。
これを防ぐ為に八重の堀と七重の築地を巡らした城郭が形成されたそうです。
江戸時代になると、久留米城主田中吉政の家臣田中左馬尉清政が城主となりましたが、元和の一国一城令で廃城となりました。

赤司城は赤司八幡宮一帯に築かれていたようです。
本丸は南の納骨堂の辺りで、石碑は納骨堂の前から西へ進んだ道路にあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=杷木神籠石に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:高良山神籠石 (2022/06/10 訪問)

福島城からの転戦です。高良大社二の鳥居前(33.302515、130.558134)に駐車しました。

高良山神籠石は標高313mの高良山に築かれた古代山城です。
ほかの神籠石にさきがけて学会に報告されたこともあり「神籠石」という名称の由来となったことから「元祖神籠石」ともいえる存在のようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=赤司城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:福島城 (2022/06/10 訪問)

猫尾城からの転戦です。民家前空スペース(33.212028、130.556022)に駐車し、八女公園櫓台階段(33.211873、130.556095)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1587年(天正15年)頃に筑紫広門によって築かれたと云われています。
豊臣秀吉による九州征伐の後の国割りによって、上妻郡には肥前国勝尾城主であった筑紫広門が封ぜられます。
このとき広門は山下城を居城とし、福島城を支城として築いたそうです。
1601年(慶長6年)関ヶ原合戦によって西軍に属した筑紫広門は改易となり、田中吉政が筑後一国を与えられ柳河城を居城としました。
このとき福島城には城代として田中康政が30,000石で入り、城が大改修されました。
1620年(元和6年)田中忠政が嗣子なく没して除封となると破却されました。

福島城は現在の八女公園一帯に築かれていました。
八女公園にある櫓台へ上がる階段横に福島城の石碑があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高良山神籠石に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:猫尾城 (2022/06/10 訪問)

城村城からの転戦です。城山公園駐車場入口付近(33.216730、130.683080)を曲がらず直進すれば駐車場に着きます。

築城年代は諸説あるようですが、1167年(仁安2年)大蔵大輔源助能によって築かれた説が有力とされます。
助能は徳大寺家の請いによって瀬高荘を管理する為、大隅国根智目(根占)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したそうです。
この末裔が黒木氏を称し大友氏に属していたが、家永の時に龍造寺氏に従った為、1584年(天正12年)大友宗鱗によって攻められ落城、黒木氏は滅ぼされました。
柳河城に田中吉政が入封すると家臣辻勘兵衛が城代となりますが、元和の一国一城令によって廃城となりました。

猫尾城は現在、城山公園として整備されています。
主郭は山頂にあり、東端に彦山神社が祀られていますが、東端と西側は石垣によって一段高い土壇となっています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福島城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:城村城 (2022/06/10 訪問)

山鹿城からの転戦です。入口付近の駐車スペース(33.045344、130.674281)に駐車しました。説明板があります。

築城年代は定かではないようです。 菊地氏の家臣城氏の居城といわれています。
1550年(天文19年)熊本古城の鹿子木寂心が菊地義武を助けて大友氏に叛いて没落すると、城親冬は城村城から熊本古城へ移り、一時廃城となっていました。
その後、隈部城に入った隈部親永の子親安が城村城に入ったと云われています。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後国に入部した佐々成政は秀吉によって禁止されていた検地を実施すると、隈部城の隈部親永はそれに反発、佐々成政によって隈部城を攻められ落城し逃れました。
その後、隈部親安を中心とした国人一揆衆が城村城に籠城して佐々成政に対抗します。成政は付城を設けて城村城を包囲しますが、居城の熊本古城が国人一揆衆によって攻められ引き上げました。
秀吉は小早川秀秋や立花宗茂に成政救済を命じ、結局は城村城を明け渡す事で和議が成立しました。

台地の北東端を本丸とし、南に二の丸、三の丸などを配していたそうです。
本丸は公園で石碑と説明板が設置されており、南の二の丸との間にわずかに低くなった堀切跡が残っていましたが、城跡全体が草に覆われいました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=猫尾城に向かいます。

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