永山城の築城者は「小川光氏」です。父の小川祐忠は、あの関ケ原では西軍に属し、大谷吉継の与力でありながら小早川秀秋の裏切りに呼応して吉継を裏切った男です。父の祐忠は家康から認められず改易隠居となりましたが、子の光氏は許されて豊後日田2万石が与えられ、1601年この地に丸山城の築城を開始します。
その後、光氏に嫡子無く、1616年大坂の陣の戦功で美濃大垣より「石川忠総」が6万石で入り、丸山城を永山城と改名し、現在のような城郭を築き、花月川に橋を架け街道と城下町(豆田町)を整備しました(写真⑦の二本の橋が街道、橋の先が豆田町、手前が陣屋跡)。しかし忠総は1633年に下総佐倉へ移封となります。これより日田は幕府直轄地(天領)となり陣屋と代官が置かれました。
現在の永山城跡は、本丸には伝天守台(写真④⑤)がありますがおそらく天守は建てられず、櫓台跡(写真③)に天守代用の櫓が建っていたものと思われます。二ノ丸には月隈神社があり(写真⑥)、三ノ丸は月隈公園と日田林工高校の敷地になっていました(写真⑧)。大手門跡の前には水堀が残っており、おそらく当時は四方が水堀に囲まれた縄張りであったのではないかと推測されます(写真①②)。
最も有名な城主は、その後1682年に播磨姫路より7万石で日田へ入った「松平直矩」です。しかし直矩は、わずか4年後に、またもや出羽山形へ移封となりました。彼の4年間だけは日田藩として復活しその後また天領に戻ります。
村上→姫路→日田→山形→白河、実はこの松平直矩が、あの映画「引っ越し大名」のモデルとなった殿様です。私も映画を見ましたが、舞台は姫路から日田への場面でした。引っ越し奉行に任ぜられた、主役の「星野源」さんの演技などは、とてもおもしろかったです!(写真⑩)。遠距離の引っ越し費用をどうやって工面するか、また彼は書庫番だったため段取りもよくわからず、禄高が低いため皆をまとめるのにも苦労し、この時に藩の石高が15万石から7万石に半減されるためリストラや倹約も任され、家臣たちからの不満の板挟みになりながらも、何とかこれを成し遂げて行くという物語でした。当時は本当にこんな風に、大名の引っ越しというものは大変だったのでしょうね。
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