あかじじょう

赤司城

福岡県久留米市


旧国名 : 筑後

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todo94

ミラーレス一眼レフのデビューの地 (2024/07/13 訪問)

献血プラザ佐賀に献血の予定を入れてあったため、九州行きを取りやめることはしませんでしたが、この海の日の3連休の天気は雨予報でした。連休初日だけはなんとか天気が持ちそうだったので、予定を変更して城めぐりに勤しむことにしました。連休二日目の最後に行く予定だった赤司城を献血前に攻めてみました。赤司八幡宮の説明板はすぐに見つかりますが、城址碑は見つけるのが難しい場所でした。トクさんの投稿を拝見していなかったらスルーしていたと思います。貴重な情報、ありがとうございました。この城が新たに購入したミラーレス一眼レフのデビューの地となりました。

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トク

「筑後赤司城」と「太刀洗平和記念館(ゴジラ-1.0)」 (2024/05/15 訪問)

筑後赤司城を訪れてきました。西鉄甘木線大城駅から北へ徒歩10分の所にあります。

平安時代に赤司八幡宮が建立され、鎌倉時代に赤司氏により赤司城が築城されたとされていますが、年代や詳細は定かではないようです。赤司八幡宮(写真②)の境内の南にある一段高くなっている場所が本丸とされています(写真①)。八幡宮には説明板がありました(写真③④)。過去に何度か戦があった場所のようですが、今回は立花道雪にゆかりがある城と聞き、さらに別の理由もあってここを訪れました。

1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗れると、大友義統(宗麟の嫡子)は大友配下であったが龍造寺に寝返った筑後一円の豪族たちの鎮圧に乗り出します。大友家の重臣である立花道雪(立花山城主)と高橋紹運(岩屋城主)は黒木氏の猫尾城を攻め落とした後、蒲池氏の柳川城攻めに向かいます。しかしその途中に、何と道雪の病が悪化したため反転帰途に。本陣を高良山城(モトさん5/14投稿の場所)から赤司城に移すも、紹運らに見守られながらこの地で息を引き取ったという説があります。その死に際に道雪は、「我が死体には鎧兜を着せ高良山に頭を柳川に向けて埋めよ」という遺言を残したとか、よほど蒲池氏が憎かったのでしょうか? しかし宗茂が、敵地に埋めるには忍びないと立花山へ運び帰るよう命じたそうです。

その後に豊臣秀吉から、道雪の実娘「誾千代」とその婿養子で紹運の実子の「宗茂」には、蒲池氏の居城であった柳川城(8万石)が与えられるので、これも何かの皮肉と言うか因縁めいたものを感じます。

関ケ原後は、筑後柳川に入った田中吉政の弟で田中清政が城代となり、赤司城は現在のような城郭になりました。しかし一国一城令で廃城となったようです。そしてその石垣や廃材などは、後に筑後久留米に入った有馬豊氏により、久留米城の一部に使われたそうです。

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【余談】太刀洗平和記念館
ここからは、実はここを訪れたもう一の理由です。

この赤司城から北へ3kmの広大な一帯には、太平洋戦争中には日本陸軍の「太刀洗飛行場」がありました。その場所には現在は平和記念館が建てられています(写真⑤)。ここから沖縄へ向け飛び立った特攻隊員たちの遺書や遺影、マーシャルから引き揚げられた実物の零戦32型などが展示され、また当時の飛行場の様子やB29の空襲で犠牲となった31名の小学生たちの悲しい物語などがシアターで語り継がれています。もし機会がありましたら、皆さんにも合わせて是非一度は訪れていただきたい場所です(甘木鉄道太刀洗駅前に記念館はあります)(パンフレット⑥)。

実は、この記念館を訪れたかった理由は、最近の映画「ゴジラ-1.0」(写真⑨)の撮影で実際に使用された戦闘機「震電」が、今何とここに展示されているというので見に来ました(写真⑦⑧)(🤔デカい!)。震電は当時日本で3機試作されましたが終戦となり、実際に戦闘に出る事はありませんでした。その震電を映画のために忠実に再現したそうです。私もその映画を見に行きました。特攻隊員の生き残りを演じる神木隆之介さんがこの震電に乗り、1000kgの爆弾を抱え、そして日本を救うため、ゴジラの弱点とされる口の中めがけて突入して行ったラストシーンは衝撃でした(😱お~!)。その震電が今ここに展示されています! そして最後はどうなったのか!・・・それは映画を御覧あれ(え?😲教えてくれないの?)。
 

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:赤司城 (2022/06/10 訪問)

高良山神籠石からの転戦です。納骨堂入口(33.356666、130.606385)から進入し、納骨堂駐車場に駐車しました。
その後、徒歩で城址碑(33.356105、130.605037)➡赤司八幡宮入口(33.356704、130.606932)と廻りました。

築城年代は定かではないようですが、赤司氏によって築かれました。
赤司八幡宮の前身は平安時代以前からといわれ、筑後川流域の肥沃な土地と交通の要所としての位置付けから、勢力争いが繰り広げられ、度々戦火によって焼失したそうです。
これを防ぐ為に八重の堀と七重の築地を巡らした城郭が形成されたそうです。
江戸時代になると、久留米城主田中吉政の家臣田中左馬尉清政が城主となりましたが、元和の一国一城令で廃城となりました。

赤司城は赤司八幡宮一帯に築かれていたようです。
本丸は南の納骨堂の辺りで、石碑は納骨堂の前から西へ進んだ道路にあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=杷木神籠石に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 赤司永直?
築城年 鎌倉時代
主な改修者 田中清政
主な城主 赤司氏、秋月氏、田中氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 福岡県久留米市北野町赤司