筑紫広門の続き(3/6)です。八女市黒木町にある猫尾城(黒木城)を訪れてきました。勝尾城の戦いの前に、広門の不可解な行動ついてお話します。
猫尾城は、矢部川と笠原川に囲まれた標高240mの山城です(写真①)。JR羽犬塚駅から黒木行の堀川バスに乗り50分、終点黒木で下車します。そこから山頂の本丸まではさらに徒歩で50分です。途中には有名な「黒木の大藤」がありましたが(写真②)、藤の花はすでに散っていたのが残念でした。大藤の横の水路には鯉が泳いでいました(写真③)。酒蔵や白壁もあり、黒木町は城下町の雰囲気がよく残っています。
この大藤を過ぎてすぐにある、黒木中学校の横から登城します(写真①)。車の方はもう1km先を左折すると頂上近くまで行ける道路があるようです(地図⑧)。徒歩での登城路は枯れ葉が多いも舗装されていたので歩きやすかったです(写真④)。山頂に着くと神社がありました。ここが猫尾城本丸です(写真⑤)。大友との戦いで討死した黒木氏家臣を弔う慰霊碑がありました(写真⑥)。神社とその向側には算木積みの石垣がありました。江戸時代にはここに街道の番所があったので、この石垣はその時のものかもしれません(写真⑦)。この石垣で本丸は囲まれていたようです。本丸以外は野面積でした。山頂本丸からは眼下には黒木町の町並みが、遠くには筑後平野や有明海までもかすかに見えました(写真⑨)。
広門はここを訪れてはいませんが、間接的にここであったある戦いが、実は広門の人生のターニングポイントにつながったと言っても過言ではないと思ったので、今回私は訪れました。
1584年に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津家久に討ち取られると、同年すぐに大友義統(宗麟の嫡子)は、龍造寺に奪われた大友の領地を奪還するため、まず龍造寺配下の黒木氏の猫尾城を攻めます。しかしなかなか落ちません。そこで、立花道雪と高橋紹運が北から援軍として駆け付け、猫尾城はついに落城します。そして次に、道雪と紹運は同じく龍造寺配下であった蒲池氏の柳川城攻めにとりかかります。しかし何とここで道雪が病死してしまうのです。
この隙に広門は、島津の命で手薄になっている紹運の宝満山城と岩屋城を背後から襲い、難無くこれらを攻め落とします。しかし私がわからないのはここからです(🤔?)。広門はこのままこの二城を支配し島津軍の到着を待つのかと思えば、何と・・・道雪の跡を継いだ道雪の娘婿で紹運の実子(長男)で立花山城の城主となった「立花宗茂」と和睦の交渉をします。そして、宝満山城主で宗茂の弟である「立花直次」に自分の娘(加祢姫)を嫁つがせる事で紹運も同意したため、和睦は成立しました。なぜ広門は耳川の戦い(1578年)に負け、没落中であった大友氏に近づこうとしたのでしょうか? ここが未だによくわかりません。なぜ島津氏を裏切って大友氏と手を組み、北上してくる島津氏に対抗しようとしたのでしょうか? しかしこの判断は、結果的には裏目に出てしまいます。
そしてその2年後1586年、島津は九州制覇を目指して北上を開始します。当主の島津義久は裏切った広門を絶対に許す気はありません。義久の命を受け九州を西上する島津忠長(島津四兄弟の叔父)は、2万の大軍をもって真っ先に広門が籠る勝尾城を包囲します。対する筑紫軍はわずか3千! もはや絶体絶命です。さあどうする広門! 次は勝尾城の決戦に続きます。
位置関係が分かりにくいと思いましたので地図を作ってみました。よければ参考として下さい(写真⑩)。
【余談】この黒木町は女優「黒木瞳」さんの出身地で、猫尾城の登城口にある黒木中学校の卒業生だそうです🤔(写真①)。
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