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賣太神社 (2022/06/23 訪問)

賣太神社周辺のみを散策しました。

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天満神社 (2022/06/23 訪問)

木の標識は見つけましたが、案内板には諸事情により行けませんでした。

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片桐貞隆 (2022/06/23 訪問)

 JR大和泉駅から徒歩にて登城しました。石碑2カ所、移築門(小泉神社、金輪院)等を見て回りました。

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箸尾氏の城 (2022/06/23 訪問)

 近鉄田原本線箸尾駅から徒歩10分くらいの所に石碑と案内板があります。

 城とは関係ありませんが、箸尾城のある広陵町は竹取物語に出てくるかぐや姫の里としてアピールしています。

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平野長勝 (2022/06/23 訪問)

 近鉄橿原線田原本駅より徒歩約10分くらいです。田原本役場の隣にある町民ホール駐車場と途中にある水仙会館に案内板がありました。

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十市氏の城 (2022/06/23 訪問)

近鉄橿原線新ノ口駅より徒歩にて登場しました。石碑がありますが、遺構はないと思われます。

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小城小次郎

披雲閣に入れるかは運次第という (2022/01/22 訪問)

城内にある披雲閣は同名の藩主御殿があった場所に旧藩主家が大正時代に規模縮小して再建したもの(それでも国重文)。貸館方式なので入れるかどうかは運次第だが運が良かった。次は桜門を見に行く感じかな。

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おっちゃん

大椎城案内図 (2017/10/07 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

小谷城跡縄張り図 (2017/02/12 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

出石城跡周辺案内図 (2017/05/14 訪問)

現地案内板より抜粋。

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前ちゃん

3連休みが取れたので (2022/06/21 訪問)

最終日、千葉城(亥鼻)で鎌倉殿を堪能、前日に上総一ノ宮もセットで

遠征の打ち上げは、西船橋で、小松菜ハイボール

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にのまる

古城址 (2022/05/21 訪問)

小径に入り見えてきたのはお社の建つ小さな土壇ですが、説明板の「市指定史跡」の文字に居住まいを正し読んでみると、平安・鎌倉・室町時代にかけていくつもの説や歴史をもつお城とあり、大切に守られている場所だということを知りました。安城古城の名称にも得心です。
側面から見ると、城目線で見てしまうこともあり土塁跡だろうかと思ってしまうのですが、そうであってもなくても、大事なのは土地の歴史を後世に伝えることなのだと思いました。

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赤い城

公開日もあるようだが (2022/06/12 訪問)

近くに駐車場はありません。
水田の中に建っている感じです。
北側の入口付近に説明板がありますがロープが張ってあり入れませんでした。
中を覗くと右側に水堀があるのがわかります。
南側の水田越しに屋敷の屋根が見えました。
中世の土豪、和井田氏の館跡で江戸時代には名主を努めています。
公開日もあるようですので興味があれば事前の確認が必要ですね。

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零汰

よく掘りましたね 3 (2022/01/04 訪問)

東側に天然の崖と川があり、西側は空堀を配置して、大手が南側にある城跡です。滞在時間30分強、歩行距離720m、累計高低差100m足らずの城跡です。その時は整備も行き届いていて散策が楽でした。毎度の如く場所だけの確認で現地での一発勝負の訪問です。勿論城跡の歴史的背景は今でも把握していません。

道路面に面している大手から階段を上がると左前方に大きな空堀が見えてきます。右側に折れると城内に続きます。早速空堀をチェック、西側を遮断しています。小さな曲輪や土塁、切岸に囲まれた城内を進んで行くと三郭の虎口に辿り着きました。そこは随分広い曲輪です。二郭に登り高さ10m程の切岸に施された九十九折の虎口を登ると主郭に辿り着きます。北側に祠らしい物を設置している20畳ほどの土壇が有りました。そこで土壇裏の北側を意識して確認するのを忘れて折り返しました。自然地形の斜面かも知れませんが何か遺構が有ったかも知れません。




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藩主 掛川鷲之助

彦根城下のローストビーフ丼 (2022/03/29 訪問)

彦根城を攻城した後に時計を見ると12時ぐらいだったので城下町でお店を探すことにしました。彦根城近くのお店に看板で「近江や蔵」と
書いてあるのを見つけてそのお店に行く事に決めました。ずいぶんとお店を探した後やっと近江や蔵を見つけれました!すごく疲れたので水をいっぱい飲みました。頼んだメニューは、食べないと後悔するローストビーフ丼を頼みました。中にはお客さんがいっぱい‼
              
            是非一度 食べないと後悔するローストビーフ丼を食べてみてください。
                 本当に食べないと後悔しますよ!

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ぴーかる

安田城 (2022/05/21 訪問)

【安田城】
<駐車場他>安田城跡前に無料数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>水堀・土塁
<感想>1泊2日富山城の旅3城目。安田城は1585年、秀吉が越中の佐々成政を攻めた際に秀吉本陣の白鳥城の支城として築城され、前田家家臣の岡嶋一吉が入城しました。佐々成政が降伏したのちは前田家の前線拠点として使用され、成政転封後も白鳥城の支城として使用されたが慶長年間に廃城されたと思われます。かなり当時の遺構がそのまま残る城として国史跡に指定されています。
 まず資料館に入りました。じゅんじんさんの投稿通り富山県の山城の縄張り図資料が無料で頂けて明日攻める城々の参考になりました。館内は安田城の歴史と発掘調査、出土品などが展示されています。2Fのテラスから城跡が一望できます。
 城跡は全体を水堀で囲み、主郭を含む大きい土塁囲みの曲輪が3つあります。主郭の土塁はひときわ高くなっており、土塁断面の展示室があります。水堀には白蓮が沢山咲いていました。なかなかいい、美しい土の平城でした。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):岩屋城 (2022/06/11 訪問)

太宰府からの転戦です。路側帯(33.525720、130.519903)に路駐し、登城口(33.526079、130.519909)に向かいました。
登城口と道路を挟んで南に100mくらい降りると「高橋紹運公の墓」があります。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われています。
高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より、筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めました。
高橋鑑種は武勇に優れた武将でしたが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付きました。
しかし、1569年(永禄12年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退しまする。
これにより、後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪されました。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継ぎましだ。
1586年(天正14年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城しました。
岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死しました。
その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けましたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、1587年(天正15年)破却された。

本丸には「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑があり、北背後に土塁と堀切が残っています。
本丸からの眺めはいいですが、当日は強風の為、写真はブレまくり何枚も写真を撮りました。
高橋紹運公の墓に行きましたが、綺麗に整備され地元の方に愛されているのが、よくわかります。
信長の野望での高橋紹運は戦闘能力が非常に高く、島津軍5万の軍勢を居城にて7百の兵で遊撃、敵兵多数を道連れ玉砕した話は有名です。
高橋紹運の息子である立花宗茂も知勇兼備の武将です。息子の方がちょっと有名ですね。
攻城時間は20分くらいでした。次に高鳥居城&稲居塚城を攻城する予定でしたが、遠征疲れもあり、ここで遠征を終了することにしました。
よって、今回の遠征(対馬/五島/福岡/佐賀/熊本)は、ここがラストになります。
レンタカー返却時間まで、かなり時間がありますが、レンタカー返却の為、西鉄久留米駅に向かいます。
その後、博多に向かい、お土産を購入(遠征を許可してくれた妻へ)&食事をして、福岡空港から千葉の自宅に戻ります。

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こず

桜と福知山城

仕事の途中で寄った時に
桜が散りはじめてましたが
天気も良く綺麗でした

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):太宰府 (2022/06/11 訪問)

乙隈城からの転戦です。太宰府政庁跡駐車場入口(33.513425、130.514148)から進入して駐車しました。

7世紀後半に天智天皇により築かれました。
百済と結んで朝鮮半島で新羅と唐の連合軍と戦ったが破れ、百済は滅ぼされ日本水軍は白村江の海戦で大敗しました。
これにより日本は新羅・唐からの侵攻に備え各地に城を築くことなり九州の統括などを行うため政庁が置かれました。

大宰府は「都府楼跡」の名でも親しまれ、7世紀後半から12世紀後半にかけて、九州を統括する行政機関として機能し、西の都としての役割も果たしました。
地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として大宰府の中心地に政庁が建設されました。
政庁の建物は失われていますが、古い建築基礎は今も遺されており、現在は史跡公園として整備されています。
公園の入り口近くにある「大宰府展示館」(入館料は200円)では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府を紹介しています。

攻城時間は20分(強雨の為、早めに切り上げました)くらいでした。次の攻城先=岩屋城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):乙隈城 (2022/06/11 訪問)

秋月城からの転戦です。石碑と説明板付近(33.432690、130.580773)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、 1300年(正安2年)北条光時が鎮西探題に任ぜられ、九州へ下向した際に乙隈村に居城を構えたのが乙隈城だと云われています。
戦国時代には肥前国の龍造寺氏の支城でした。

現在は田畑や住宅地となっており遺構は残っておらず、石碑と説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=阿志岐山城に向かう予定でしたが、雨の為、攻城を断念して太宰府に向かいました。

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