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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:舞子台場 (2022/07/20 訪問)

兵庫城からの転戦です。舞子駅から徒歩5分くらいで、明石藩舞子台場跡(34.633320、135.032289)に着きました。

明石藩舞子台場(舞子砲台)跡は1863年(文久3年)明石海峡の防備を目的として、淡路島北端(淡路市)に1861年(文久元年)に築造された徳島藩松帆台場と対をなして、両岸から海峡を通過する黒船を挟撃する目的で建設されましたが、一度も使用されることはなかったそうです。

台場の一部と石垣の一部が確認できます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船上城を目指す為、電車で舞子公園駅から西新町駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:兵庫城 (2022/07/20 訪問)

花隈城からの転戦です。中央市場前駅から徒歩5分くらいで、兵庫城跡石碑前(34.665370、135.172633)に着きました。
途中、イオンモールで模擬石垣(34.666876、135.175495)を確認しました。

兵庫城は「有岡城の戦い」「花隈城の戦い」で荒木村重を討伐する際に活躍した池田恒興が摂津国の大守となり築いた城です。
摂津国の大守になった池田恒興は、1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築きます。
1583年(天正11年)池田恒興は、わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城しました。呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されました。
1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれたそうです。

イオンモールに模擬石垣があり、新川運河のほとりに石碑が建てられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=舞子台場を目指す為、電車で中央市場前駅から舞子駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:花隈城 (2022/07/20 訪問)

七松城からの転戦です。花隈駅から徒歩5分くらいで花隈公園(34.688147、135.182951)に着きました。

毛利勢から石山本願寺への補給路を絶つため織田信長が、荒木村重に1567年(永禄10年)荒木村重に築城させたようです。
荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」で敗走したのちに、さらに籠城して戦った「花隈城の戦い」の舞台となった城です。
1578年(天正6年)村重が信長に叛くと、1580年(天正8年)池田恒興らによって攻められ落城しました。 その功により、この地を与えられた池田恒興は当城を廃し兵庫城を築いて移ったそうです。
花隈城はこの合戦で城を落城させた池田恒興が、その功により花隈城を与えられますが、恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となりました。
兵庫城の築城にあたっては、花隈城の部材を転用したと伝えられています。

城址の一部が公園になっています。公園には石碑のほか、模擬石垣や模擬天守台がありますが、いずれも当時のものではないそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=兵庫城を目指す為、電車で花隈駅から中央市場前駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:七松城 (2022/07/20 訪問)

三宅城からの転戦です。立花駅から徒歩7~8分で七松八幡神社の落城石碑前(34.735066、135.403789)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
環濠集落で陣城として利用されており、織田軍が有岡城の荒木村重を攻めた時に陣が置かれ、有岡城落城後は一族家臣は七松城で処刑されたそうです。

七松城は現在の七松八幡宮一体に築かれていたそうですが、遺構はありません。
七松八幡宮には『荒木村重公ゆかりの地』の幟旗がたち、『七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑』が建立されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=花隈城を目指す為、電車で立花駅から花隈駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:三宅城 (2022/07/20 訪問)

自宅最寄り駅から電車を8回乗り継いで10時間以上かけて千里丘駅に着きました。
千里丘駅から徒歩7~8分で城跡碑前(34.792992、135.556742)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1504年(永正元年)三宅出羽守国政によって築かれたと云われています。
1547年(天文16年)三宅出羽守国村は細川晴元に敵対した細川氏綱に味方したが、晴元の軍勢によって攻められ開城しました。
その後、晴元の家臣香西元成が三宅城に入り、晴元も在城したが、晴元と不仲となった三好長慶によって攻められ、晴元は丹波へ落ちていったそうです。

蔵垣内公園北西隅に「旧跡三宅城跡」の石碑と説明板が建てられています。 
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=七松城を目指す為、電車で千里丘駅から立花駅に向かいます。

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カズサン

戦国初期木造模擬天守再現の綾城 (2006/11/16 訪問)

 綾城は戦国初期の城楼建物を再現した木造模擬天守閣が尾根東端の本丸に昭和60年(1985年)造られて居ます、天守資料展示の綾城の模型によると、北を流れる綾北川と南を流れる本庄川の合流の尾根上に東端を本丸、西に二の丸、三の丸、四の丸と各郭を堀で切り刻んで居る山城です。
 
 16年前の平成18年11月中旬、宮崎県えびの市の関連協力企業に出張の折、宮崎道小林ICから常緑樹林帯の山間地山越え道を綾町の綾城を目指し専用駐車場に駐める。
 
 駐車場からは案内道なりに、綾・国際クラフトの城の施設へ入り入場料を払う、施設内には陶芸、ガラス工芸、切子グラス等の販売、作業場が有りました、二の丸模擬城門を潜って本丸への空堀に架かる橋を渡り、長年城郭誌で眺めて居た木造模擬天守閣がドンと控えて、誌面からは二十数年振りの本物初対面でした。
 天守閣周囲を眺めて天守閣の登りました、黒く塗り分けた木造天守閣、内部の木組みも大きく重厚感に溢れています、1、2階の資料展示、3階の展望も素晴らしい眺めです。
 木造物に目が行きがちでしたが、堀切、空堀、土塁も良く残って居り見応えも有ります。

 歴史は建武の頃足利尊氏の命で細川氏が綾を領有し、綾氏と名乗り十代近く継承するも、伊東氏に従い、伊東48城の一つに、天正5年(1577年)伊東氏は島津氏に追われ日向を去る、以降島津氏の支城に成り元和の一国一城令で廃城と成る。(資料案内抜粋)
 

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カズサン

冬枯れの岸和田城 (2007/01/20 訪問)

 岸和田城は本丸、二の丸が残り本丸の周囲に内濠が囲み、二の丸も百閒掘なる濠が良く残っており、各郭の石垣も綺麗に残って居ます。
 また、昭和29年には大小天守閣が模擬復興して居り、昭和44年には本丸隅櫓、続多聞櫓、櫓門、土塀も復興して居り四季それぞれの美しさを放って居ります。
 15年前の平成19年、関西に在住してる故郷の中学校卒業同級生の恒例新年会を明日に控えて、宝塚の兄に車を出して貰い、兄と登城しました。
 天守閣に登り、館内資料の閲覧、天守閣最上階より四方の眺めを堪能し、二の丸、本丸を壕越しに眺めながら撮影しました、冬枯れで樹木には葉っぱも無く寂しい感じですが良く観えます、本丸石垣下の犬走、東面の虎口の様な石組み、濠の広さ、石垣の眺めを楽しみながらぶらぶら散策。
 北側には岸和田市役所、南側には五風荘の料亭、東側は岸和田高校が取り巻いて居り、城を護って居るようです。
 駐車場は南西側に有りました。
 

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ガチャピン

雷雨 (2022/08/04 訪問)

台場までは行けませんでした。残念。

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シェル

常陸国府の跡=府中城の跡 (2022/08/04 訪問)

JR常磐線石岡駅から徒歩12分程度
旧石岡市民会館(現在は閉館しています)の手前に江戸時代後期に作られた陣屋門があります。
そこから道をまっすぐ行き、石岡小学校の校門付近に府中城の土塁が良好に残っています。
また陣屋門の正面の道を左に行くとふるさと歴史館の入口があり、石岡小学校の敷地内にふるさと歴史館があります。
常陸国府や常陸大掾氏について詳しく取り扱っていました。(入場無料)

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織田晃司

非常にきびしーっ! (2022/07/28 訪問)

夏の登城は夏草に覆われすべてを探索することができません…
登城は夏以外で!

それでも深さと広さのわかる一ノ堀は素晴らしい。

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朝田 辰兵衛

私の七難八苦は… (2020/09/20 訪問)

私の七難八苦は,往路も復路も米子とのイエローバスに縁がなかったこと。誰かの祈りが間違って降りかかってきたのかな…?
しかし,天候に恵まれ,汗とともに吹っ飛んで行きました。

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織田晃司

リアルガチで (2022/07/28 訪問)

熊の生息域なので山頂の愛宕神社は諦めましたが麓には遺構がたくさんあってそれだけで満足です。

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赤い城

跡地にあった公民館もなくなっていた (2022/07/18 訪問)

藤沢駅から徒歩で15分。
以前は藤沢公民館が建っていましたが更地になっていました。
前にあった説明板も無し、周辺を歩いて見ました。
近くの川には御殿橋がかかり、小さな説明板もありました。
御殿跡は更地から藤沢市民病院までの辺りまでだったようです。
市民病院の前には堀跡の説明板もありました。
近くには源義経ゆかりの白旗神社もあるのでセットで訪問ですね。
御殿は徳川将軍の宿泊所で家康が鎌倉に行く際に泊まっており、家光も使ったそうです。
更地ですがこのあと何ができるのか楽しみです。

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織田晃司

棚倉中学校に行くと (2022/07/28 訪問)

グラウンドの斜面に二の丸石垣が残ってます。
学校関係者にことわりを言うと快く許可してくださいました。
ありがとうございました。

本丸は公園になっていて水堀と高土塁が見どころです。

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カズサン

城壁が完全復元した二郭のグスク (2007/02/10 訪問)

 今帰仁城を終えて途中の名護へ降りる途中の道沿いにある沖縄そばの店で昼食、名護ではあの辺りが名護城かな?と遠望しながら読谷村の座喜味城を目指す。
 座喜味城も平成12年12月沖縄のグスク世界遺産に登録されて居ます。
 15年前の平成19年2月上旬座喜味城登城しました。

 車は座喜味城南側のビジターセンター駐車場を利用。

 探訪ルート:駐車場、北に登る琉球松林が美しい、過ぎると二の郭、城壁、アーチ門、門の手間には蘇鉄の並木に成っている、二の郭アーチ門から二の郭内部へ、一の郭城壁が高く聳えてる、二の郭西への行き止まり郭部、一の郭のアーチ門を潜り、一の郭内部へ、一の郭城壁に登る階段が有り、一の郭城壁上部を歩く、各郭と石垣城壁の復元が完璧に整って居る、曲線の城壁で出隅部が一の郭5ヶ所、二の郭4ヶ所と在り横矢が充分に掛けられる構造。
 一の郭二の郭の二郭でこじんまりしてるが琉球石灰岩で積み上げられ美しい造りです。
 約1時間探訪を堪能しました。

 那覇への帰りに近くに在る残波岬を訪ねました、泡盛の残波はプレミアも付く中々飲めない銘酒、その名に引かれたのかしれませんが?

 沖縄の城は首里城、中城城、勝連城、今帰仁城、座喜味城の5城のみの登城ですが、まだまだ浦添城、糸数城、玉城城など30城を越えるグスクが存在して居ますので沖縄の未踏の城廻りをと考えていますが、武漢コロナウイルス感染拡大からここ三年特に沖縄は人口当たりの感染者数が多く、登城の時期タイミングも有り行きそびれています、年齢による足腰の問題も躊躇し行きそびれかも?
 

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カズサン

石狭間が護る正面平郎門が見所 (2007/02/10 訪問)

 前日、中城城、勝連城を終えて那覇に宿泊、国際通りをぶらつき琉球民謡酒場で唄と泡盛を堪能、翌朝早くレンタカーで沖縄北部山原の手前、本部半島北側にある今帰仁城を目指す、今帰仁村から南に登る道そ進むと緋寒桜の並木道丁度時期的に桜満開で素晴らしい景観でした。
 車は交流センター前の駐車場を利用。

 今帰仁城も平成12年12月沖縄のグスクとして世界遺産に登録されて居ます、15年前の平成19年2月上旬登城しました。
 探訪ルート:駐車場から、今帰仁城の野外模型展示、南側に曲線で圧巻の城壁が聳えってる、ここが一番の見所かなと思った、主要部の正面になる平郎門跡、琉球石灰岩で積み上げられた四角いアーチ門、左右に石狭間が二ヶ所で計4ヶ、右手の西側にアザナ見張台が備わってる、東は字と大隅郭の北側褶曲城壁に続いてる、本丸への登城路は緋寒桜の並木道、これも素晴らしい、本来の登城路から登りやすいように直線の階段登城路に改良した様子。
 主郭の大庭、御内原、本丸と回り南奥下部の志慶真郭に降りる、東側の志慶真川へは絶壁と成って居る、志慶真郭の東側城塁城壁の連なり、西北にある本丸城壁を見上げと素晴らしい琉球グスクの石灰岩城塁が東、西、北へと連なる景観を目にする、生憎の曇り気味霞気味で真夏の青々とした空、白い雲、エメラルドグリーンの海を遠望する事は出来ませんでした。
 約2時間堪能しました。
  

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朝田 辰兵衛

発掘現場のある日。 (2019/12/21 訪問)

ちょっと長い時間が経過しましたが,発掘現場のある日を…。
そうそう,トイレの入口をふさぐように喫煙コーナーが設置されていて,がっかりしました。仕切りもなく…。現在は改善されていることを期待します。

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赤い城

大手門跡のみ訪問 (2022/07/11 訪問)

中尊寺から盛岡に帰る途中、花巻に立ち寄りました。
目的は花巻東高、菊池雄星選手と大谷翔平選手の母校です。
二人がメジャーのオールスター出場のモニュメントが設置されていました。
何よりも驚いたのは野球部の選手達。
隣の球場で高校野球の県予選をやっていたのですが案内を部員が。
とても親切な対応でした。
練習中の部員も動きを止めて挨拶してくれました。
ここが教えているのは野球だけではないと思いました。
で、花巻城ですが立ち寄る予定もなく本丸には行ってません。
花巻東高のあとマンホールカードをもらいに市役所へ立ち寄ったら大手門跡の石碑が立っていました。
せっかくなので行ったことにしておきます。
47都道府県中未踏はこれで秋田県のみ、計画立てねば。

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にのまる

城ナガスクジラ…… (2022/06/09 訪問)

天守台の目の前に木々の間から関門海峡を見下ろす鯨の巨大モニュメントがあります。何年か前に久しぶりにここに来た時に見つけて「おぉ鯨!無事だったのか!!」とめちゃ感動しました。
城址に隣接する医療センターやイオンがあるあたりにかつてマリンランドという市内随一のレジャー施設がありました。マリンホテルと遊園地の大観覧車、そして水族館のこの鯨がそのシンボルだったのです。その頃とすっかり様子が変わってしまった今、この鯨だけが当時を懐かしむ縁となっています。
城址に鯨はしっくりこないかもしれませんが、天守台から海峡を望むと、大きな鯨が今まさに泳ぎ出さんとしているように見えます。鯨の尻尾越しに海峡を眺めながら、壇ノ浦の戦いや幕末のあれこれに思いを馳せるのも良きひとときです。
海岸に下りると断崖っぷりや海を見張る物見台として絶好の場所だったことがよくわかります。しかしそれゆえ狙われたらおしまい。幕末に内陸の勝山御殿造営へとつながった歴史を感じとることができます。
お城の遺構のいちばんの見どころは大手門二重櫓跡といわれる石垣です。高さ8メートル、総延長140メートルの石垣。その上には(゚д゚)!

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小城小次郎

統一的で洗練された縄張 (2022/02/19 訪問)

両端を二重堀切で画し、主郭南面横堀を半周して反対側から主郭に至らせる導入路や主郭北面の連続竪堀など、統一的かつ洗練された縄張を持つ。普通に武田と考えたいところだが、葛山氏の頃ははてどんなお城だったのか。

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