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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:知立城 (2022/08/03 訪問)

重原陣屋からの転戦です。知立駅より徒歩5分くらいで、西町児童公園前(35.009607、137.040604)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永見氏によって築かれました。 永見氏は知立神社の神主で、その居館が知立城の始まりとされます。
戦国時代には刈谷城水野氏との関係を深め、台頭してきた松平清康、ついで今川義元に仕えますが、今川義元が桶狭間に倒れると敗走した今川軍を追った織田方によって落城しました。
天正年間(1573年~1592年)に刈谷城主水野忠重によって御殿が建てられ、将軍上洛時の宿泊施設となっていましたが、1699年(元禄12年)の大地震により倒壊しました。

西町児童公園に石碑と案内板が設置されています。電車の時間が近いので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安祥城を目指す為、電車で知立駅から南安城駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:重原陣屋 (2022/08/03 訪問)

刈谷城からの転戦です。重原駅より徒歩10分ちょっとで、重原陣屋碑付近(34.988933、137.019852)に着きました。

この地は元々、刈谷藩領でしたが、1790年(寛政2年)に起こった土一揆により、幕府に福島藩領との領地替えが命ぜられました。
福島藩板倉氏は天明の飢饉(1783年)などによる財政の圧迫により幕府に領地替えを嘆願しつづけ、刈谷藩領13,000石と福島藩領10,000石そして天領3,000石が替え地となりました。
この飛領地を管理するために、1792年(寛政4年)陸奥国福島藩板倉氏によって築かれたのが、重原陣屋です。

陣屋で使われた門が、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されているようですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=知立城を目指す為、電車で重原駅から知立駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:刈谷城 (2022/08/03 訪問)

緒川城からの転戦です。緒川城から境川/逢妻川に架かる橋(橋の名前はわかりません)を通り、刈谷球場を経由して、徒歩30分位で亀城公園入口付近(34.988196、136.984480)に到着。
そこから、本丸の十朋亭(34.989115、136.984585)まで徒歩2~3分くらいです。
刈谷城址碑は城町交差点のこの位置(34.987857、136.985101)にありました。亀城公園入口付近のすぐ先です。

刈屋城(刈谷城)は徳川家康の母方の祖父にあたる水野忠政の居城です。
家康の生母、於大は忠政の死後、兄である信元が今川氏を離れ織田氏についたため、松平広忠に離縁されました。
江戸時代には頻繁に城主が交代しますが、1747年(延享4年)より土井氏が入封して9代支配したのち、明治維新を迎えています。

遺構は水堀くらいしかありませんでしたが、残っている城絵図や調査を元に江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀を復元する計画が進んでいるそうです。
また妙福寺(碧南駅から徒歩10分くらいの所のようです)に辰巳櫓が移築現存しているようですが、時間の都合でパスです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=重原陣屋を目指す為、電車で刈谷市駅から重原駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:緒川城 (2022/08/03 訪問)

丸根砦からの転戦です。緒川駅より12~13分くらい歩き、古城児童遊園(34.979034、136.966906)に到着。
古城児童遊園(松平広忠の正室「於大出生地」の石碑あります)横の石段を登ると「緒川城址」の石碑、説明板と土塁があります。

緒川城は水野信元の弟である水野忠守によって築かれた城です。
1580年(天正8年)に織田信長は佐久間信盛を高野山に追放し、もともと水野氏が支配していた緒川の地を与えました。忠守はここに城を築き、居城としました。
江戸時代には緒川藩が成立し、水野分長が城主となりましたが、新城藩移封に伴い、1606年(慶長7年)に廃城となりました。

コンパクトに石碑、説明板と土塁を確認することができました。
町役場の西にある乾坤院は、水野貞宗が建立した水野氏の菩提寺で、水野氏四代の墓と緒川城の現存移築城門を確認できるようですが、時間の都合でパスしました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=刈谷城をここから徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:丸根砦 (2022/08/03 訪問)

大高砦の大高保育園脇道路付近から15分くらい歩き、丸根砦入口付近(35.064836、136.945164)に到着しました。
山方向に向かう道の横に、「丸根砦跡➡」の標識が立っていますが、小さいので見落としそうになりました。
そこから坂を上り、右手にある階段を登ると砦に着きます。
砦中央付近に「丸根砦殉難者の碑」、南側斜面下に砦阯碑、砦周辺の帯郭、説明板を確認できます。

説明板によると、永禄2年(1559年)織田信長が、今川義元の上洛に備え鷲津砦などと共に築いた砦の一つで、
桶狭間の戦いのとき、佐久間盛重を将とした織田方が立て籠もったが、松平元康(家康)の軍と激戦の末全滅したそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=緒川城を目指す為、電車でJR大高駅からJR緒川駅に向かいます。

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キンヤ

模擬天守内にプラネタリウムがある城 (2022/09/04 訪問)

藤橋城と呼ばれる模擬天守ですが、なかなか立派な彦根城風で面白く天守を見ると嬉しくなりました。
天守の中にプラネタリウムがあり綺麗な星空を見れました。

実は藤橋城という城があった訳ではなく、南北朝時代にこの辺りには杉原砦があり、南朝方の新田義貞が築城したとされ、戦国時代には杉原家盛が守っていたとされます。
藤橋城は、歴史を伝え藤橋地域の再興を願って天守を建造されたようです。

杉原砦の実際の場所は不明ですが、藤橋城の南東側にある山の尾根に堀切などの遺構があり砦跡ではないかともされるようです。

道を挟んで北側の歴史民俗資料館には茅葺民家や池があって雰囲気が良かったです。

その西側隣りの武山神社前に七人塚があり、斎藤氏に攻められて杉原砦を死守した杉原家盛を逃がそうとした7人の家臣の塚とされます。
地元では、この武山神社辺りが杉原砦跡とも言われるそうです。

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赤い城

上原城の支城 (2022/08/15 訪問)

国道20号線の山手に看板があり、その方向に向かって上って行きます。
と女には咳と説明板があり、さらに車でも行けそうですが砂利道で細く急。
車はここに置き徒歩で行くことにしました。
10分くらい登ると城域に、さらに登ります。
首塚の案内板があります。
さらに進むと主郭と二郭の間の堀切に出ます。
上原城の支城で諏訪氏の居城。
武田信玄に攻められ諏訪頼重が籠城、自害した城です。
主郭から諏訪湖を望むことがです。
この日は曇ってて眺望は今ひとつでしたが晴れていたら綺麗なのでしょう 

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POYO58

福井旅行part3 福井城 (2022/08/14 訪問)

一乗谷城の後、雨が止んだのでホテルに近い福井城に寄りました。福井城はもともと柴田勝家が築いた城があったが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の次男、結城秀康が大改修し、今の福井城が完成しまぢた。石垣にハラミが出るなどの不備はあるが、石垣が良好な状態で残っています。また使われている石垣がなんと一乗谷城付近の足羽山でとれる笏谷石が使われていることが判明!笏谷石は水に濡れると鮮やかな青色に光る性質を持っています。このような石垣はこの城でしか見られず大変貴重です。

現存する建物はありませんが、御廊下橋が復元されている。石垣は切り込み接ぎが中心ですが、一部打ち込み接ぎも存在します。

続日本100名城スタンプは市役所(福井城内にある)に設置してあります。休みの日でも、インターフォンを押せば許可をもらうことができます。

評価
遺構:4
建物:3
行きやすさ:4
全体:4

攻城時間
約30分

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朝田 辰兵衛

押印スペースがない… (2020/11/14 訪問)

登城口のスタンプ設置場所に,押印スペースがないのが気になりました。私は晴天に恵まれましたが,悪天候時にはかなり苦労されるハズ。あらかじめ,押印台になりそうなモノを持参されるとベターです。厚めの書籍とか…。
竪堀は全く確認できませんでした。

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トク

秋の津和野城とSL山口号 (2019/11/26 訪問)

3年前ですが、SL山口号に乗り秋の津和野城に行ってきました。

「新山口駅」からSL(C57)に乗り出発、汽笛の音を楽しみながらのんびり揺られて2時間、「津和野駅」に到着します(写真⑧⑨)。降りると駅前には動かないSL(D51)が展示されていました(写真⑩)。津和野城下は、きれいでとても落ち着いたたたずまいの街でした。白壁と水路に鯉が泳ぐ街並みを鑑賞しながら30分程歩くと太鼓谷稲荷神社(亀井氏が守り神として建立した神社)があります。その赤い鳥居の中をくぐりながらさらに10分歩くと登城用のリフト(兼スタンプ場所)に着きます(写真①②③)。そしてリフトの上からは本丸まで20分程です。リフトから先は誰にも会いませんでした。紅葉と城と城下の景色を一人占め! とても気持ちよかったです😊(写真⑤⑥⑦)。

津和野城は、鎌倉時代より吉見氏の居城でしたが、1601年に関ケ原の恩賞で坂崎直盛が3万石で入り三重の天主と石垣や櫓などを整えました。そして直盛は大坂夏の陣(1615年)の恩賞で4万3千石に加増。しかしこの翌年、ある事件で坂崎家は改易されたため、その後(1617年)に入った亀井氏は麓に館を移し、幕末まで亀井氏の居城となり、現在の美しい城下町が形成されたと伝わっています。

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余談:【坂崎直盛と千姫事件】
彼は本当にストーカーだったのか?

坂崎直盛(出羽守成正)と言えば🤔?
そうです! 大坂夏の陣で千姫を大坂城から助け出したあの人物です!

1615(元和元)年、大坂夏の陣で燃え落ちる大坂城を見た徳川家康は、豊臣秀頼は滅ぼしたいが、かわいい孫の千姫は何としてでも助けたい。よって「千姫を助けた者には嫁に与える」と思わず言ってしまいます。よって果敢に大坂城へ飛び込み、顔にやけどを負いながら千姫を助け出し家康の元へ届けたのが坂崎直盛でした。家康は大変喜び、直盛には褒美として津和野を4万2千石に加増しました。

でも最悪なのは、直盛はその時に千姫に一目惚れしてしまった事です。津和野城を改修しながら、千姫と夫婦になりここで暮らせる日々を夢見ていました。ところがいつまでたっても千姫はやって来ません。それどころか、千姫は姫路城主「本多忠政」の嫡男「忠刻(ただとき)」に一目ぼれ。父の徳川秀忠は二人の結婚を許します。(姫路城の西の丸に長局や化粧櫓がこの時に作られたのは有名ですよね!😊) 直盛は話が違うと秀忠に直談判。しかし取り合ってもらえません。直盛はあきらめられず、夜な夜な千姫の屋敷へ(これって今で言うストーカー?) でも門前払い(😱~)。千姫にとって直盛は好みのタイプではなかったようです(助け出した時の顔のやけどで醜かったとか・・・無骨な直盛より忠刻のようなイケメンタイプが好きだったとか・・・)。ならば強硬手段! 忠刻への嫁入り行列を襲撃し千姫を強奪してやろうと計画。しかし、これを知った秀忠は超激怒! 直盛に切腹を命じましたが、愛想を尽かされた家臣から切られたそうです(柳生宗矩に斬られたという説もあります)。

私は津和野城の最も高い三十間台石垣の上に立ち城下を眺めて見ました(写真⑤⑥⑦)。彼は、この景色を千姫と一緒に見ながら幸せに暮らせる日々を、ただ純粋に夢見ていただけなのではないでしょうか?

以上、哀れな男の物語でした😩。
 

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おっちゃん

物集女城跡周辺の地形と発掘調査トレンチ配置 (2017/04/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

福知山城下町今昔地図 (2016/03/20 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

福山城(17世紀後半の姿) (2013/05/10 訪問)

現地案内板より抜粋

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ぴーかる

桜生城 (2022/09/04 訪問)

【桜生城】
<駐車場他>野洲市歴史民俗博物館駐車場(来館前提)
<交通手段>車

<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅2城目。桜生(さくらばさま)と呼びます。築城年代は定かではないが澤氏によって築城されました。現在も末裔の方の個人宅になっているようでそっと見てきました。水濠が良く残っています。西側の土塁は先達の方々の時より鬱蒼としていました。

<満足度>◆◇◇

<周辺観光>野洲市歴史民俗博物館は別名銅鐸博物館とも呼ばれ北西側にある大岩山から出土した銅鐸の現物と複製が沢山展示されています。この辺りの地域は昭和に発見された銅鐸が有名です。その大岩山古墳群からは日本最大の高さ134㎝の銅鐸も出土したそうです。圧巻です。2Fには城びと登録のある永原館の復元模型が展示されています。一般入館料200円。

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ランフランコ

#18 別名なし (2022/09/04 訪問)

明智光秀が築城したようです。非常に見晴らしの良い高台にあります。さぞや気持ちの良いお城であったろうと思われます。

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まっちゃん88

現地説明会 終了しました (2022/09/05 訪問)

障子掘の堀の始まりの様に見えます。
駐車場となる予定の為、記憶遺産としてしっかりと展示等お願いしたい。

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カズサン

特別公開見学後の西の丸と菱の門 (2022/08/28 訪問)

 特別公開の見学を終えて菱の門まで戻って来ましたので、ビュースポットの一つ西の丸から眺める天守群を見ようと西の丸に登る、人も多く順番待ちで撮影、大変絵になるスポットです。
 西の丸の渡櫓は時間も無くパス、以前見てるからいいかと外より眺める、西の丸内部からは桜が茂り過ぎて建物を撮る事が難しい、途中の二階渡櫓と千姫の化粧櫓を写して、菱門へ人が多く菱門の上だけ、人も入れて撮るが中々投稿写真に出来ず、入城ゲートから出て西の丸角のカの櫓を撮影、菱の門を一部入れて撮影、乾小天守から見た西の丸別写真も投稿します。
 

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カズサン

特別公開からの下城路 (2022/08/28 訪問)

 姫路城特別公開、大天守閣を最上階まで登り、登り階段と下り階段は別々なったのですね、天守閣を降りた所に今回の公開案内が出てる、乾小天守東小天守イ・ロ・ハ渡櫓を圧巻興奮の見学で終りる。期限は8月の末までその4日前の見学。
 
 登閣口と同じ水の五門から下城する、備前丸へ降りて南西からの天守群、南からの天守群を撮影、人は多く、一瞬のタイミングで備前丸広場に人影のない大天守閣南面を撮影、備前丸から備前門を通り、帯の櫓前を通り、井戸曲輪から備前丸の東側石垣沿いに天守閣を仰ぐ、また備前丸東面石垣に短冊形の石が立と横2個で纏まった長方形石垣が?これはなんだろうか?不思議のまま、リの門を通り、リの門脇櫓ヘの櫓(太鼓櫓)を確認。
 お菊の井戸の有る上山里曲輪へ、お菊井戸、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓を確認し、リの渡櫓には明治、昭和、平成大修理で天守鯱を都度作り直した鯱のレプリカが展示してある。ぬの門三階櫓門を通り枡形へ、ここには人面で有名な石垣が残ってる、備前丸南西の角高石垣を見上げて、をの門跡を通り二の丸へ、菱門裏三国堀からまたビュースポットの天守群を仰ぎ見る、素晴らしく絵に成りホッとします。
 
 

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イオ

味土野女城(京都府京丹後市弥栄町須川味土野) (2022/07/23 訪問)

味土野女城(城びと未登録)は、役行者が開いたとされる修験道の修行場・金剛童子山の山裾の小高い丘の上に位置し、細川忠興が本能寺の変により謀反人の娘とされた細川玉(後のガラシャ)を幽閉した城館で、玉は清原マリアら侍女達とともに、羽柴秀吉の取り成しにより大坂屋敷に移るまでの2年弱をこの地で過ごしました。

味土野は丹後の山深い地であり、味土野女城の前まで車で行けるものの、道幅は狭く対向は困難です。とはいえ、こんな山奥を訪れる物好きは限られるだろうし、そう滅多に対向することはないんじゃないか…と思いきや、折悪しく2台と遭遇し、一度は退避場所まで30mほどバックする羽目になりました。

味土野女城の前の駐車スペースに車を駐めて登城開始。主郭の一段下の曲輪は休憩所(ガラシャの東屋)になっていて、主郭の南下には「細川ガラシャ夫人隠棲地」の説明板があり、その左脇には「ガラシャの古井戸」がありました。奥に回り込むと北西隅から主郭に上ることができ、主郭には細川忠興夫人隠棲地の石碑や細川ガラシャ略伝の説明板、ベンチが設けられています。また、谷を隔てた向かい側の尾根には玉の警護のために設けられた味土野男城があり、主郭から見渡すことができます(案内板あり)。主郭の北下には馬場があり、馬水飲地もあったようですが、時季的に藪に沈んでいて突入はやめておきました。

味土野の主要スポット案内図によれば、周辺にもガラシャの名を冠した地があり、味土野女城の少し手前で分岐した先にはガラシャの化粧水場が、徒歩10分ほど下った谷には落差50~60mの味土野ガラシャ大滝があり、展望台と駐車場が設けられています。

麒麟がくる紀行の一環として味土野を訪れてみましたが、山奥(宮津から車で1時間弱)なのは想像通りながら、車2台と対向し、ガラシャの東屋にもガラシャ大滝にも先客があり、味土野女城少し手前の宿泊施設(ガラシャ荘)にも数台の車が駐まっているなど、思っていたよりずっと人気スポットだったようです。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:大高城 (2022/08/03 訪問)

鷲津砦公園南入口付近から15分くらい歩き、大高城跡公園北側入口小道(35.065392、136.935977)に到着し、大高城跡公園に入りました。
本丸に向かう途中に城址碑、堀らしき溝を経由して本丸に着きました。
本丸の北西側には城山八幡神社が祭られていました。
本丸➡二の丸➡三の丸へと進み土橋、土塁、横堀が確認しながら南下すると大高保育園脇道路(35.062974、136.935484)に出ます。

説明板によると、室町時代、永正年間(1504~21年)に花井備中守によって築かれたようです。
自分的には、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際、大高城に今川方の松平元康が兵糧を届け、鵜殿長照に代わり元康が城の守備につき、
鵜殿長照に桶狭間に向かう織田信長の背後を攻めるよう命を受けたが、元康が固辞した話が記憶に残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=丸根砦を徒歩で目指します。

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