岩作は「やざこ」と読むようです。全く知らないノーマークの城址ですが長久手古戦場散歩をしていたときに長久手市市役所で石碑を見つけました。城びとには未登録の城です。詳しい歴史はわかっていないようですが、昭和60年に発掘調査が行われ、方形単郭の居館であったようです。14世紀後半に築城された今井氏の城とのことです。遺構はありません。
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2022/07/30 17:21
岩作城 (2022/07/30 訪問)
岩作は「やざこ」と読むようです。全く知らないノーマークの城址ですが長久手古戦場散歩をしていたときに長久手市市役所で石碑を見つけました。城びとには未登録の城です。詳しい歴史はわかっていないようですが、昭和60年に発掘調査が行われ、方形単郭の居館であったようです。14世紀後半に築城された今井氏の城とのことです。遺構はありません。
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2022/07/30 17:17
長久手古戦場 (2022/07/30 訪問)
夏の古戦場めぐり第2弾は小牧長久手の戦いの長久手古戦場です。ここにした理由は行きやすいというだけです。
徳川家康が陣を張り軍議を開いたといわれる色金山歴史公園から首塚→御旗山→血の池公園、鎧掛けの松→武蔵塚→古戦場公園と散歩しました。色金山公園には家康が腰かけたといわれる岩「床机石」があります。色金山歴史公園の展望テラスは当時の雰囲気を醸し出しています。ただこの時期は緑が多く、景色はあまり楽しめません。武蔵塚は鬼武蔵といわれた森武蔵守長可の戦死地です。古戦場公園には池田恒興、元助親子の塚(勝入塚、庄九郎塚)があります。
名古屋地下鉄「藤が丘駅」からバスで岩作バス停まで行くと色金山歴史公園近くまで行けます。また古戦場公園の目の前には東部丘陵線、通称リニモの長久手古戦場駅があります。徒歩で回ると長久手古戦場駅からスタートすると山へ登って行くことになると思い、自分は色金山歴史公園から下りるように散策できるルートを選択しました。少しは上りますが暑かったことを除けば負担が少なく散策できました。
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2022/07/30 10:59
天守台を訪ね訪ねて❣ (2007/06/02 訪問)
津城の本丸天守台は南西の坤の方向に在りますが、本丸内側からは桜の木も多く茂り、外側の南側は公園会館が天守台脇まで迫り、西は城山稲荷神社が迫り、天守台・小天守台を全体に俯瞰、撮影するポイントが見つかりません、まして天守台に登る事も出来ず、天守台の探訪は消化不良の状態ですが、15年前の平成19年6月上旬登城して、公園会館と天守台の狭い隙間から、南面、西面、天守台と小天守台、埋門跡多聞櫓台の続き石垣をコンパクトデジカメで撮りました。・・全体がやっぱり撮れなくて未消化写真ですが部分部分にして投稿致します。
また、見所の昭和33年に本丸東鉄門枡形の北多聞櫓台に復元した模擬三重櫓も投稿致します。
古絵図、復元CG(三浦先生復元)によると本丸は平城総石垣造り、四隅に丑寅三重櫓、戌亥三重櫓、辰巳に月見二重櫓、未申に天守台・小天守台を構えて天守閣は乗せず、その間は多聞櫓がぐるっと埋める、東には東鉄門枡形、西には西鉄門枡形の厳重な守り、更に出丸の様な東の丸を東鉄門の東へ配置、西には西の丸が西鉄門西に配置し枡形を備える、本丸へは土橋を渡し二の丸へは木橋でつなぐ。
本丸、二の丸、三の丸、内濠は広く、外堀、南に岩田川、北に安濃川も引き込んで守りとする、西側の守りを固めてる配備の輪郭式縄張。
大坂の陣前に西の伊賀上野城と同時の築城との事、伊賀上野城を詰の城、津城を政務、流通の平城の役目分担を狙ってか32万石太守の城郭です。
現在は縮小されて本丸、西の丸、北側の壕は縮小埋立られていますが、丑寅櫓台、多聞櫓台、戌亥櫓台が凛と残って模擬櫓と濠が見所のポイントです。
朝田さんへ・・令和2年12月20日浜松に来られ浜松城登城されたのですね、お会い出来ればご案内がてら城話でもと思ったりしました、浜松城のリニューアル工事は丁度令和2年10月から12月末まで天守登城中止、翌年令和3年元旦より一般公開されて居ます。
また、来浜松の折はお声かけ頂ければご案内します。
武漢コロナウイルス新株感染拡大と夏の暑さで秋以降まで様子見、古い写真を掘り起こし投稿を続けていきます。
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2022/07/30 10:21
番外編「山本 勘助生誕の地」の巻。 (2022/05/06 訪問)
愛知県豊川市の「牛久保城」、 多くの方が、山本 勘助さんの生誕地、もしくは墓、がセットで投稿してあります。
私も、皆さんに習い生誕地にお邪魔しました。
12~13年前に、川中島合戦の古戦場を巡った時に長野県の千曲川沿いにお墓がありました。
愛知県で、勘助さんの名前に出会うとは( ゚∀゚)
皆さんの投稿のおかげです。皆さん、いつも ありがとうございます。
山本 勘助さんは、「牛久保城」の牧野氏の家臣だった時期があるそうです。
早い時間にお邪魔しました。地元の方に路駐の許可をとり(車はすれ違いできない道幅です。)石碑とヨレヨレの説明板を写し、失礼しました。
この時、枝等で車のサイドは傷だらけです。(それくらいの道幅です。)
武田家で活躍した山本 勘助さん、愛知県で誕生したとは。でも、この前、静岡県富士宮市でも誕生地があって、お邪魔できなかった事を悔やんだばかりです。
ミステリアスな勘助さんの人生を、書籍やメディア等で想像するの楽しくなってきます。
「ここに車止めてもいいですか?」の声がけに「いいら~。」と、気さくに御返事してくれた地元の方々。
ありがとうございました。『ら~。』と語尾が軽やかで、素敵な地方言葉でした。。
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2022/07/30 03:22
本丸の石垣が魅力的です。 (2022/05/24 訪問)
本丸で石垣が見れます。
神社、公園と整備された城跡ですが魅力的な石垣が残ってます。
また、城門も残されており城跡の雰囲気が満載です。
他に土塁などの遺構も見る事ができます。
案内板も要所にあり見学しやすい城跡でした。
公園の駐車場が何台か停められるスペースがありました。
整備されているので歩き易くなってましたが石垣、城門、土塁など見所のある城跡です。
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2022/07/29 23:02
もし富岡城が陥落していたら (2022/02/12 訪問)
島原・天草の乱の序盤で攻略に失敗した一揆勢は海を渡り、やがて原城に立て籠もった。もし富岡城攻略に成功していたならば、一揆勢はそのまま富岡城に籠り、乱の名も「天草の乱」となっていたのかも・・と、ふと思った。
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2022/07/29 21:11
2022/07/29 17:17
2022/07/29 17:09
千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその26 米本城 (2022/07/29 訪問)
千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその26
コロナ感染者の急増により、急遽予定を変更して、久しぶりに県内のお城を自家用車で攻めました。
城址は申し訳程度の整備がされていて、ある程度進んで行けますが、狭い土橋の奥は倒木で進めませんでした(おそらくその先が主郭)。
城の中核部分は昭和42年頃の土取りで破壊されたとの事。入口の看板に「文化財を大切にしよう」とあるが、どの口が言うのであろうか!
御城印は、「ますごとしすい」で購入したたものに日付を入れました。
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2022/07/29 10:39
城郭模型が観たくて登城 (2007/05/05 訪問)
吉田城は小田原征伐後、家康関東移封に成り、その地に豊臣家臣が入るが吉田城には池田輝政(照政)が15万2千石で入封し、現在見える縄張の石垣造りの織豊系城郭に大改修した、天守閣は作られなかったが、北に豊川が護り北堅固の城郭である、本丸の石垣、空堀、大手の枡形、北門枡形、東馬出を備え、二の丸、三の丸、総構えによる悌郭式縄張です。
昭和29年3月には鉄櫓跡に模擬隅櫓が復元し、博覧会中に郷土資料館として公開、長らく非公開でしたが平成17年、模擬隅櫓の改装、下石垣の補強工事して一般公開された。 北の豊川越しに鉄櫓跡に建つ城戸博士設計の三層四階隅櫓は絶景の見所です。
さて15年前の平成19年5月5日、浜松で賑わってる浜松まつり、凧合戦、夜の御殿屋台引き回しを尻目に、豊橋に在る吉田城に登城する、鉄櫓内の資料館に豊橋工業高校建築科制作の城郭模型吉田城が有るとの情報も有り、今回の登城と成った。
城郭模型吉田城は本丸を復元してる、平成5年制作だそうです、ガラス越しにしか観察出来ず、写真にガラスの反射が映り少し見にくいのですが、この感動をお伝えします、古絵図も参考にして造ったのでしょうが良く出来ています、本丸の景観が良く分かり想像が膨らみます。
千貫櫓台跡、辰巳櫓台跡、北御門石垣、資料館に成ってる模擬復元鉄櫓など投稿致します。
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2022/07/28 22:27
【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く②】官軍と谷千城(後編) (2022/06/22 訪問)
「① 官軍と谷千城(前編)」からの続きです
熊本城天守を燃やしてしまった谷にとって唯一の誤算は、誤って備蓄していた米も一緒に燃えてなくなってしまった事でした。これにより、この先の籠城戦で食料に困窮する事になってしまいます。
しかし、熊本城には清正が最初から籠城戦を想定し、銀杏の木や120ケ所もある井戸や、壁や畳にカンピョウや里芋の茎が保存され数十日の籠城にも耐えられる作りになっていました。薩軍は城への突入を試みるも、官軍もよく抵抗、かつ高石垣や堀や川、連続する桝形や塀と狭間に囲まれた巧みな縄張りで、薩軍は城に近づく事もできません。(清正の考えた鉄壁の縄張りや籠城への備えが、築城から270年後に役に立ったという事ですね🤔!)。それでも官軍も籠城が長引くと、これだけではやはり食料がまた足りなくなり、最後は軍馬の肉まで食べたそうです。
【熊本名物「馬刺」】
加藤清正が蔚山で籠城の際、軍馬を食べたのが起源だそうで、官軍もそれを知って同じことをしたのかもしれません(写真②:天守3Fより)。そのせいかはわかりませんが、熊本では今でも馬肉をよく食べる習慣があるようで、「馬刺し」があちこちで売られています。私もおみやげに買って帰りました(写真③④)。何かちょっとコメントするのがむつかしい味でしたが・・・興味のある方はぜひどうぞ😊!
次回は、城下にある薩軍側の遺跡を歩きます(「③薩軍と西郷隆盛」へ続きます)。
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2022/07/28 21:26
見どころは本丸の背後に (2022/07/10 訪問)
八戸市博物館の駐車場に車を置きます。
博物館前に南部師行の像があり、入口に100名城スタンプが置いてあります。
八戸城東門から入城、すぐに空堀でテンションup。
東善寺跡から芝生を進んで行きます。
整備された公園ですね。
中館の手前にも堀があり菖蒲が植えられていていました。
木橋を渡り、本丸は有料エリアとなります。
主殿や番所、馬屋などが復元されていてこれはこれで良いのですが、西門の裏を覗くと深い堀が。
ここは歩きたい!
で足早に本丸を後にして北側から西に切岸沿いに進むとたどり着くことができました。
本丸を見上げ、深い堀を楽しむことができました。
折れもあり横矢がかかる部分もあります。
外側の土塁には切れ目もあり、虎口のようになっていました。
期待以上の城でした。
月曜日(第1と祝日除く)は本丸はお休みなので注意です。
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2022/07/28 20:29
電車~徒歩登城者にはストレス。 (2022/07/11 訪問)
加藤清正つながりで,田原坂から佐敷城へ。八代駅から肥薩おれんじ鉄道。JR田原坂駅も片側にしかICタッチ機が設置されていないローカルさ。八代駅も肥薩おれんじ鉄道からJRの乗り換えで,元気な女性2人が人力で改札するというアナログ感。ホッコリさせられました。
しかし,電車~徒歩登城者にはストレスでした。佐敷駅の入出場は,東側の佐敷城とは反対側の西側のみ。出場後,右側(北側)の跨線橋を渡ります。芦北町立図書館を過ぎると大通りに出ます。見上げると佐敷城の西側がチラッと見えます。このまま真っすぐに登れればいいのですが,登城ルートはありませんでした。大通りを左側(北側)へ。時計回りで進み,佐敷城の東側から登るというストレス。車での登城者には,このもどかしさはわからないと思います。
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2022/07/28 17:19
筒井城跡概要図、つつい歩いてマップ (2016/12/28 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/28 16:22
津和野城跡本丸周辺案内図 (2014/06/02 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/28 16:20
太閤ヶ平(秀吉本陣)および大防衛線 (2017/01/04 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/28 14:43
桶狭間古戦場 (2022/07/28 訪問)
桶狭間の合戦における城や砦跡は散策していましたが、桶狭間古戦場には行った記憶がありません。もしかして昭和の頃行ったかもしれませんが、覚えていないということで行ってきました。ところが桶狭間古戦場跡というのは名古屋市緑区有松と豊明市栄町、2カ所あります。名鉄中京競馬場駅より徒歩3分のところに豊明市の桶狭間古戦場伝説地があります。そこから徒歩15分くらいの所に名古屋市の桶狭間古戦場公園があります。ネットを見ると理由はいろいろあるようです。
昔のテレビなどでは狭間という谷間、湿地をイメージされる言葉から織田信長が坂を駆け下りて今川義元の本陣を急襲する場面がありました。昔から、「そんなところに布陣するかな」とは思っていました。この「城びと」の小和田哲男先生の連載講座「戦国10大合戦と城」に「実際は地名が桶狭間というだけで、義元本人は窪地で休憩したわけではないのである。『信長公記』にも「おけはざま山」とあり、山上ないし山の中腹に陣所を置いていたことがわかる。」と記載があり納得しました。実際にはよくわかっていないようですが、とにかく「おけはざま山」の今川義元本陣跡にも行ってみました。山の上にあり、この場所なら本陣としてわかる気がします。暑かったので、そこまでとして早々に退却しました。
名古屋市の「桶狭間古戦場公園」へは名鉄有松駅からバスで行くことができます。有松は、有松絞りで有名なところですが、東海道沿いの町並みは、江戸時代の雰囲気を残していて、国から「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
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2022/07/28 14:15
古墳が物見台として利用されました。 (2022/07/27 訪問)
案内板のある公園には遺構はありません。少し離れたところにある遠見山古墳が物見台として利用されました。古墳には登ることができました。また、総社城西木戸跡の石碑が建っています。
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2022/07/28 10:31
復元5年後盆帰省にチョイ寄り (2008/08/16 訪問)
三日月藩乃井野陣屋館が平成15年(2003年)発掘調査の後、元の位置に物見櫓、長屋が修復戻され、中御門、通用門、中御門木橋、通用門木橋が復元され、陣屋館跡が整備保全されました。
復元から5年経った14年前の平成20年(2008年)故郷に盆で帰った後、鳥取道、国道373号線経由佐用町の三日月藩乃井野陣屋を探訪しました。
車は陣屋内側の駐車場に駐める。
維新後小学校に移築されてた現存物見櫓が元の位置に戻され、水堀も整備され、護岸の石垣も綺麗に整備され、中御門、通用門、各木橋など復元され、往時の佇まいが戻って来ました、山間の中にひっそりと建ってる姿が美しい、時間と曜日のせいか見学者は少ない。
御殿跡はまだ未調査の様ですが山手に数段の屋敷跡か曲輪跡?が有る様です、其れなりに草刈りはされてる様子。
津山森藩は無嗣断絶し、分家の森氏が2万石で赤穂城へ、分家の分家森長俊が元禄10年(1697年)1万5千石で三日月藩乃井野陣屋に移る、以後森家9代治政し明治を迎える。
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2022/07/28 06:57
但馬と播磨に通じる街道の交点 (2022/07/17 訪問)
若桜町観光案内所で、続日本100名城スタンプを押し、パンフレットをもらい、行き方も教えてもらいました。
なお、クルマは若桜駅にとめました。
若桜鬼ヶ城は標高452mの鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けています。
徒歩だと登山口から約45分で山頂に着きます。
一方、クルマでは若桜駅から15分ほどで山頂馬場駐車場まで行くことができます。
私は、暑さに負けてクルマの方を選択してしまいました。
小学校の先生に「二つ道があるときは、あえて厳しい方を選びなさい。」と言われたのに・・・。
なお、徒歩で上がった場合のみ見られる遺構もあるようです。
駅から山に向かうと、ほどなく舗装された林道に入ります。
細い道ですが、退避スペースもあちらこちらにあり、勾配も緩やかなので、注意して運転すれば大丈夫です。
舗装路末端に駐車場あり、ここから砂利道になりますが150m先まで車で行けます。
馬場の跡が駐車場になっています。
熊鈴を用意して登城。
動物よけの電気柵に囲まれていますが、観光案内所の方によると、電気は流れておらず、扉は開けっ放しでよいとのことです。
本丸は駐車場から10分で到着
ここからは但馬と播磨に通じる街道の交点であることがよくわかります。
所要時間:35分(山頂馬場跡駐車場からの見学時間)
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