みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:丹下砦 (2022/08/03 訪問)

鳴海城跡公園から10分くらい歩き、光明寺入口付近(35.086002、136.950382)に着きました。
現在の光明寺の裏山が城跡に当たるそうですが、墓地&宅地化され、城址碑も存在しません。

今川義元の猛将岡部元信が守った鳴海城&南の大高城に対抗すべく、織田信長は鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、
さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣し、まず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移りました。さらに中嶋砦に移った後、桶狭間に向かったそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=星崎城を徒歩で目指します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:鳴海城 (2022/08/03 訪問)

善照寺砦跡の砦公園から10分弱歩き、天神社の由来説明板付近(35.081249、136.951363)に着きました。その後、鳴海城跡公園に向かいました。

鳴海砦は室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれたそうです。
歴史上、自分が知っているのは桶狭間で今川義元本体が敗北した後も信長に抵抗し続けた岡部元信が、主君・義元の首級と引き換えに城を明け渡した話です。
岡部元信は鳴海城を明け渡し駿府へ帰還する途中、刈谷城を落とした剛の者で、今川没落後は武田信玄/勝頼に仕え、天正9年(1581年)の高天神城の戦いにおいて戦死しました。享年70歳近かったそうです。

そういえば、岡部元信は「信長の野望」のゲームでも政治力は低かったけど統率や武勇は高かったと記憶しています。(ここ10年くらい?ゲームをしていないので、評価は不明)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丹下砦を徒歩で目指します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:善照寺砦 (2022/08/03 訪問)

中島砦跡看板付近から10分くらい歩き、砦公園(35.081657、136.957383)に着きました。
善照寺砦は砦公園になっており、砦公園碑と説明板以外、何も残っていませんでした。

説明板によると、永禄2年(1559年)織田信長が、今川義元の岡部元信が守る鳴海城に備えて築いた三砦の一つで、
永禄3年5月19日、信長は桶狭間に奇襲する直前にこの砦の下に兵を集結したそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鳴海城を徒歩で目指します。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:中島砦 (2022/08/03 訪問)

鳴海駅から4~5分くらい歩き、中島砦跡看板付近(35.076973、136.953923)に到着しました。
フエンス扉より個人宅に入り、城址碑を確認しました。他には何もないです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=善照寺砦を徒歩で目指します。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:一宮城 (2022/08/03 訪問)

宿泊先のホテルルートイン一宮駅前から7~8分くらい歩き、一宮城跡碑前(35.301640、136.801832)に着きました。

築城時期は不明(天文・弘治年間)です。尾張国の一宮である真清田神社の宮司の家系で神社を賜った関成重が、真清田神社、及びその領地を守る為に築城したようです。
関成重の子である関長政(長安・共成)は、織田信長、豊富秀吉に仕えたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにて討死しました。
その後、織田信雄の家臣・不破源六広綱が入城するが、天正18年(1590年)に広綱が去ってから廃城になりました。
一宮城主の関氏は清和源氏の子孫だそうです。森可成の娘が関小十郎右衛門共成に嫁いだことから、森氏との関わりが深いそうです。

周辺は本町商店街になっており、城の形跡は全くありません。城跡碑の写真を撮って撤退しました。
朝早く(現地到着4:40)、目が覚めていない状態での攻城の為、写真のピンボケはご容赦ねがいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=中島砦中島砦を目指す為、電車で名鉄一宮駅から鳴海駅へに向かいます。

+ 続きを読む

にのまる

天守の庭 (2022/06/10 訪問)

喜斎門から下山里曲輪に戻り、鏡石の用いられた石垣を見ながら「天守の庭」へ。
昭和の大修理の際、地盤沈下を防ぐため鉄筋コンクリートの人工地盤を築いたために不要となった大天守礎石が元通りに配置され展示されています。現存天守の本物の礎石による建物平面再現を見られるなんて、感謝カンゲキ雨嵐♪
ここはまだ無料エリアですが、姫路駅に着いてから既に2時間が経過。じっくり見たつもりでもすでに見逃しているポイントもあり、手強さ実感です。
当初は「一日かけて見てこよう」と考えていましたが、一日どころか一生かけても見尽くせそうにありません。でもそれは残念なことではなくて、楽しみなワクワクした気持ちなのです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

スタンプ設置場所の木の扉が外れて,閉まらなくなってました。 (2021/07/08 訪問)

東屋内部にあるスタンプ設置場所の木の扉が外れて,閉まらなくなってました。幸い,開口部は内陸部を向いており,潮風の影響は受けないと思いますが,冬を乗り切れたのか心配です…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まーやん

これも湖城だった (2022/07/29 訪問)

ドライブ途中、たまたまサイト見て知った大溝城跡。ここは安土や坂本などと湖城ネットワークを形成していた模様。
説明板によれば、元々は磯野員昌の居城だったが出奔し織田信澄が城主となる。その後様々変遷を経て解体され、水口岡山城に転用されたとある。
現地は石垣が程よく残り雰囲気がある。昔はここまで湖だったんだなぁと、爽やかな夏空のもと馳せてみる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

高台の住宅地に残る森が主郭部跡 (2022/09/05 訪問)

 新横浜駅から5分ほどで大豆戸山 正覚院に着く。本堂などの建屋左奥が城跡の本丸辺り。正覚院を過ぎ狭い道を右折すれば、正面右側が城跡となる。坂を登り切った所に篠原城址緑地の案内板があり、城側はフェンスで仕切られている。東に行くと駐車場の奥に稲荷神社が建っており、背後は10m以上の差がある。先では住宅地の間を上る遊歩道?があり西へ行ける。道の両側はフェンスで仕切られ、立入禁止表示板もある。この辺りに広い郭があったようだが、わずかな平地と南斜面の竹林内に帯郭状のものが見える。一部中を覗い見る場所からは、本丸東面の切岸か堀なのか遺構らしきものが見える。遊歩道入口から西にかけ、「篠原城と緑を守る会」さんのHPを観ると、2011年初めに発掘調査が行われている。今より数倍の森が広がっていたように見え、埋め戻され2016年には現在の住宅地に変わっている。
 説明板には金子城とも呼ばれ、鎌倉時代(平安時代とも)に金子十郎家忠が砦を、戦国時代に金子出雲守が築いたとされる。小田原北条氏滅亡後、廃城になったようだ。年代その他、説明板により多少の違いはある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

駿府城

第三回 駿府城お散歩講座を開催します!

令和4年9月25日(日)に、駿府城を巡るお散歩講座を開催します。
 
発掘調査現場から三ノ丸堀までを歩きながら、駿府城跡各所の見どころを発掘調査の成果を踏まえてご紹介します。
天守台の発掘調査に関わった調査員が解説しながらご案内します。
皆さんも調査員の話を聞きながら駿府城公園をお散歩してみませんか?
※申し込み必須 参加費は無料です。

詳細は添付画像をご覧ください。

+ 続きを読む

おっちゃん

府内城跡案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

江戸末期ごろの陣屋略図 (2017/03/11 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

城址公園案内図 (2015/08/02 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

カズサン

特別公開への登城路 (2022/08/28 訪問)

 ヒロケンさんの姫路城特別公開の投稿に触発されて、福山城築城400年祭当日に合わせて姫路城に登城。
 朝は9時既に多くの人々、桜門橋を渡り大手の桜門を潜って枡形を90度曲がるとそこは三の丸、白亜の天守がお出迎え、感激するスポットです、丁度三の丸広場の芝生養生中で芝生内立入禁止、三の丸芝生に人が居ない天守閣群を三の丸広場を入れて撮影、初めての経験体験でした、同じく西の丸と菱門頭を入れて吹き抜け状態の景観を撮る事が出来ました。
 1000円の入城料を払い菱門へ、既に人々で一杯、人影のない菱門は撮影できず、人入り、頭だけの菱門撮影、菱門を入り三国堀越しのビューポイント天守閣を撮影、TV時代劇によく出るはの門前下坂道土塀越しの天守閣撮影、桜の木が茂り上部から土塀屋根と天守に成って仕舞いました、はの門、にの門を通って乾小天守が見えて来る、埋門の様なほの門を潜り、秀吉時代から伝わってると言われる油塀横を通り、西小天守下、西小天守と天守閣の渡櫓下の水の五門を潜って、いざ天守閣探訪、特別公開乾小天守・東小天守・イ・ロ・ハ渡櫓のエリアへ。
 天守閣登閣までの気に入った写真を投稿します。

 ※先の投稿福山城築城400年祭6編、長々と見て頂き有難うございました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

八王子千人同心・深沢家 東京都あきる野市 (2022/08/23 訪問)

あきる野市の山奥で山林業で財を成した深沢家。
江戸時代も後半になると同心株を売り買いするようになっていたようで
裕福な農民が同心株を買うようになったようです。
都立小金井公園に移築された組頭屋敷の説明書には
埼玉県や神奈川県にも同心株を持っていた家があったようです。
深沢家もそのうちの一軒で沢沿いの石組、門をくぐると土蔵が現存しています。
屋敷は戦前東京都小金井市内に移築されたようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

大久保長安陣屋・八王子千人同心 東京都八王子市 (2022/08/23 訪問)

徳川家康の江戸入府後、八王子の地を与えられた大久保長安の陣屋跡。
今は産千代神社となっています。敷地内には陣屋井戸が残っています。
その後関ヶ原の合戦までに国境警備や治安維持を目的に八王子千人同心を創設。
甲州街道追分の交差点付近に同心屋敷跡の碑が建ち
この付近に建っていた同心組頭塩野家は都立小金井公園の建物園に移築され公開されています。
八王子市内の旧甲州街道沿いにはまだ数軒古い門構えの住宅が残っています。
その他同心屋敷門が八王子市内や近郊に9門ほど確認できました。
以前滝山城跡付近にも大きな長屋門があったのを記憶していたのですが
そちらは同心三木家の長屋門残念ながら10数年前に解体されたそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

移築建物めぐり (2022/07/23 訪問)

城下町めぐりの前後に、福知山城の移築建物めぐりをしました。城下町や周辺に数多くの建物が移築されているのは下調べで承知していましたが、その多くに福知山市教育委員会の説明板が設けられており、位置図まで付いているのはありがたかったです。おかげでノーチェックだった瑞林寺の移築門を見落とさずに済みました。

正眼寺山門(福知山市寺町)
福知山城の銅門を移築したもの。本丸に移築されている銅門番所とあわせて二ノ丸登城口に建てられていた高麗門です。

法鷲寺山門(福知山市下紺屋町)
福知山城の城門を移築したもの。他の移築門より内法が高い高麗門で、豪壮な風格があるんだとか。

明覚寺山門(福知山市呉服町)
福知山城の城門を移築したもの。脇戸の痕跡のある高麗門で、鬼瓦には朽木氏の隅立て四 つ目結紋が施されています。

※ 法鷲寺の前の道路は一方通行なので、車でめぐる場合は北側から正眼寺→法鷲寺→明覚寺の順がおすすめです。

観瀧寺山門・南門(福知山市字榎原)
福知山城から西南西に約5.5kmの観瀧寺には福知山城の城門が2棟(山門と南門)移築されています。山門は薬医門で脇戸が付き塀の痕跡が見られます。山門をくぐって右手奥の墓地の手前に南門があり、南門は高麗門で軸塀と脇戸が付けられていたようです。

照仙寺山門(福知山市堀)
福知山城の城門を移築したもの。説明板の位置図に挙げられていますが、現地に説明板は見当たりませんでした。他の移築門と異なり長屋門です。

瑞林寺山門(福知山市夜久野町板生)
福知山城から北西に約19kmの瑞林寺に福知山城の城門を移築したもの。向かって右側に脇戸が設置された薬医門です。見落とさずに済んだのは良かったんですが、かなり離れた位置(竹田城のほうがずっと近い)に急遽寄り道することになったため、後の時間に影響することに…。

一宮神社能舞台(福知山市字堀)
福知山藩祖・朽木植綱を祭神とする朝暉神社の能舞台を移築したもの。朝暉神社は福知山城内に祀られていましたが、廃藩により城外に遷座し、後に能舞台が一宮神社に移築されたようです。

長命寺山門(福知山市野花)
下調べで福知山城から北西に約6kmの長命寺に福知山城の城門が移築されている、との情報を得て瑞林寺の前に立ち寄ってみましたが、福知山市教育委員会の説明板には挙げられておらず、現地で見てみても真新しい薬医門が建っているだけでしたので、かつて城門が移築されていたのだとしても、改築されてしまったのかもしれません。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:長屋氏屋敷(城びと未登録 岐阜県垂井町) (2022/08/02 訪問)

垂井城からの転戦です。垂井城から徒歩3~4分で石碑と案内板前(35.371088、136.522724)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、長屋氏によって築かれました。 長屋氏は今須の長江氏と同族で、長江義景の次男明義の孫行長を祖とするそうです。
1353年(文和2年)北朝の後光厳天皇は南朝方に京を追われ、足利義詮とともに垂井へ逃れ長屋氏の屋敷を仮御所としていました。
しかし、南朝方が垂井を襲うと聞き、美濃国守護土岐頼康の居城へ逃れました。やがて足利尊氏が到着すると天皇も戻られ、足利尊氏とともに上洛しました。
天文年間(1532~55年)に長屋景興は居城を垂井城から相羽城へ移しました。
1547年(天文16年)相羽城は斎藤道三に攻め落とされ、景興も討ち死にして長屋氏宗家は滅びました。
長屋氏屋敷もこのころまでには廃されていたものと推測されるそうです。
ちなみに景興の孫可重は、後に飛騨高山城主金森長近の養子となったそうです。

現在は道路脇の小さな敷地に石碑と案内板と標柱が建つのみである。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で垂井駅から尾張一宮駅に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:垂井城 (2022/08/02 訪問)

小丸城からの転戦です。垂井駅から徒歩6~7分で専精寺入口(35.370259、136.525448)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)平塚為広が12,000石で入封し居城としたようです。
しかし「関ケ原の戦い」で為広は西軍についたため、戦後に廃城となりました。
平塚為広は秀吉の馬廻として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功があったようです。
関ケ原の戦いの直前、挙兵しようとする三成に大谷吉継とともに佐和山城にて諫言したそうですが、三成は聞き入れなかったので西軍に与することとなったようです。

現在城址推定地の専精寺に、城跡碑と説明板があります。
近くにある「垂井の泉と大ケヤキ」も併せて確認しました。
関ケ原の戦いで死ぬ前に大谷吉継に送った辞世の歌の墓碑が城跡碑の前にあります。
垂井城には関係ありませんが、垂井駅前の竹中半兵衛像の写真も一緒に投稿します。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=長屋氏屋敷(城びと未登録 岐阜県垂井町)に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:小丸城 (2022/08/02 訪問)

鯖江陣屋からの転戦です。常安楽院入口付近(35.897624、136.229938)に駐車しました。

1575年(天正3年)佐々成政によって築かれたと云われています。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1581年(天正9年)成政は越中国富山へ移り廃城となりました。

常安楽院は二の丸跡で、本丸は常安楽院の東にあるようです。
本丸の周囲は堀が巡らされ、虎口や石垣が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカーを返却する為、一旦、武生駅に戻ります。
その後、攻城先=垂井城を目指す為、電車で武生駅から垂井駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ710