2016年4月16日 熊本地震により熊本城は壊滅的な被害を受けましたが、実はその3週間前(3月25日)に私はたまたま訪れていて、その時の写真があったので投稿させていただきます。その時の訪問の目的は、ちょうど桜が咲き始めていたのと、「本丸御殿」が再建され、その御殿の中にある「昭君之間」(写真⑦)が再現され公開されたと聞いたので見てみたいと思ったからです。
昭君之間とは、本丸御殿の中にある最も格式の高い部屋で、楊貴妃と並ぶ美女「王昭君」が描かれています。西南戦争で本丸御殿は焼失しましたが、140年ぶりに再現されました。
ではここでまた問題です😲!
加藤清正はなぜこのような豪華絢爛な部屋を本丸御殿の中に作ったのでしょうか? 実はこれが原因で清正は家康から暗殺されたという説があります。
1611(慶長16)年、名古屋城の普請も終わり、徳川家康と豊臣秀頼との二条城での会見を無事終わらせるという大役を果たした加藤清正は、築城中の熊本城の総仕上げのため帰途に着きます。しかしその熊本へ向かう途中の船の中で突然高熱を出し死んでしまいました。
死に関してはいろいろな説があります。大河ドラマ真田丸では、服部半蔵が毒針を刺し暗殺するシーンがありました。梅毒が原因という病気説や料理に毒が盛られていた毒殺説などもありますが真実は不明のままです。
実は、この昭君之間は、家康が大坂城を攻め、もし何かあった時に秀頼公を熊本に招き入れるために作った部屋だと伝えられています。この鉄壁な熊本城に秀頼が入り清正に守られたならば、家康にとってはたまったものではありません。そうなる前に清正を殺そうと考えたとしても何の不思議もありません。そして、清正の死後1615(慶長20)年、後顧の憂いがなくなった家康は、大坂城を攻め豊臣を滅ぼしました(大坂の陣)。もし清正が生きていたら、大坂の陣は豊臣が勝っていたかも? そうなれば歴史はどう変わっていたのだろうか🤔? などと勝手に想像してしまいました(家康ファンの方々にはすいません)。
本丸御殿は今でも外壁はひび割れ傾いたまま、悲惨な姿をさらしています。当然内部の見学はできません。昭君之間はいったいどうなっているのか?(たぶん見るに耐えない状態でしょう)。熊本城復旧基本計画では、いちおう2028~2032年頃に本丸御殿は復旧する予定になっていますが(個人的には御殿下の土台の石垣の崩落がちょっと気になります・・・・)、是非復旧した昭君之間をもう一度見たいものです😊。
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