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南山城 (2023/01/22 訪問)

淀山城を拠点とする波波伯部氏は、篠山盆地の東へり平地部北側にある淀山城に対して、一族が、東側、南側に城を構えました。淀山城から、それぞれの城の登城口まで5百〜8百mです。
がっつりと山城であった東山城から南山城に向かいます。道案内がないので登城口は見つけにくいです。東山城から、小川沿いに西に進み、大仙寺を目指してください。大仙寺前の橋を渡って左手に、説明板があります。登城口です。
東山城は山頂に縄張りされていましたが、南山城は山頂から降りてきた尾根の高まりに縄張りされています。砦程度の規模ですが、しっかり遺構が確認できます。このあたりの山は凝灰岩質で、地面に適当な大きさの石が露出していて、本郭には礎石趾や石垣趾?の石があります。東山城同様、地元の方によってよく整備されています。

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トク

⑮【関ケ原の26人 】(8)小西行長 (小西行長陣跡) (2022/10/25 訪問)

(8人目)「小西行長」の続きです。
「小西行長陣跡」を訪れてきました。

小西行長は6,000の兵をもって宇喜多秀家と並び、先鋒(西軍最前線=開戦地の碑の位置)に陣を敷きます。田中吉政、筒井定次らと交えますが、その後、井伊直政などが加わり宇喜多軍が総崩れとなると行長の軍も持ちこたえる事ができませんでした。

その後は伊吹山中を逃げ回ります。しかし、キリシタンであるがゆえ自害できません。結局、山中をさまよったあげく竹中重門に捕らえられます。そして、京都六条河原にて石田三成・安国寺恵瓊とともに斬首の刑となりました(享年42)。

秀吉死後、行長は家康に近づいていたようです。朝鮮での敗戦は自分のせいではない事を理解してもらいたかったのかもしれません。しかし結局は家康が武断派の方をかばったため西軍につきました。やはり、三成との友情や、以前に仕えた宇喜多とのつながりを最後は大切にしたのではないでしょうか?

私は小西行長の事を知れば知る程、彼の国際交渉能力には驚きました。あの時代に、相手の明や朝鮮の事、ましてや言葉や文化や習慣などまるでわからないにもかかわらず、短期間で戦をしながらかつ積極的に和平交渉を行い、明の使節を秀吉に謁見させるまでにまとめ上げています。しかも明の使節には日本の朝鮮半島からの撤退をもって和睦するとまで妥協させ、交渉成功まであと一歩までこぎつけたにもかかわらず、秀吉は朝鮮領土の南半分の割譲に固執したため交渉は最後の最後で決裂、行長の苦労は泡と消えてしまいました(😩~)。もう少し時間的に余裕があり、武断派からの妨害もなければ、もっと完璧に交渉をまとめ上げる事ができたのかもしれません。

常に先を見据えて平和を願い、交渉に奔走したにもかかわらず、それが誰からも理解されず、結局は最後は大悪人にされたまま斬首にされ、生涯を閉じてしまった小西行長。私は彼が今の時代に生きたなら、きっと相当優秀な人物として活躍できたのではないかと思いました。しかし生まれた時代が悪かったのか、さぞかし無念であったろうとやはり私は思ってしまいました。

次は、(9人目)へ続きます。
 

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トク

⑭【関ケ原の26人 】(8)小西行長 (小西行長と宇土城) (2022/12/01 訪問)

(8人目)は「小西行長」です。
関ケ原当時の居城、「宇土城」を訪れてきました。

宇土城訪問は2回目ですが・・・この行長の表情(写真①)を何度見ても無念さがひしひしと伝わってくるのは、この私だけでしょうか? 

小西行長は、堺の豪商の子に生まれ、宇喜多直家(秀家の父)に仕え、備中高松城攻めの間から秀吉に仕えました。水軍を統括する能力と交渉能力に優れ、秀吉の中国大返しが成功したのも、行長の海路からの輸送があったからだと伝えられています。秀吉からは、恩賞として小豆島1万石を与えられ、この頃に高山右近から薦められキリシタンとなります。その後、九州征伐で国人一揆(佐々成正の失態)を鎮めた功績で、宇土20万石に加増移封され、宇土城の築城を開始します。

宇土城築城に協力しない天草氏を攻め、天草地方も2万石で加増されました。しかし、その時見たのは、天草地方の農民の3/4がキリシタンであり、天草氏は滅ぼすもキリシタンや教会は保護します。これが、隣国熊本の加藤清正との火種の始まりとなりました(清正は教会の破壊を主張)。

朝鮮出兵の文禄の役では先鋒を務め、加藤清正と先陣争いをします。その一方で現地で和平交渉に奔走、しかし清正などの武断派から妨害されたり、秀吉から交渉条件を拒否されたりで成功しませんでした。同じ文治派の三成とはこの間に気心が合ったのかもしれません。そして慶長の役後、敗戦の責任を負わされた行長、この頃に恩賞もなく武断派の不平不満の矛先は三成と行長に向けられ、対立が決定的になったようです。

そして宇土城の築城半ばで関ケ原へ出陣、以前仕えた宇喜多(秀家)と共に先鋒を務め、西軍最前線に陣を構えます。


次は、(小西行長陣跡)へ続きます。
 

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ぴーかる

甲府城 (2023/01/07 訪問)

【百名城65城目】
<駐車場他>コインP(アントパーク甲府市中央)を利用
<交通手段>車

<見所>天守台・高石垣・復元門
<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅2城目。いつもの近世城郭を巡るパターンでまず城郭の回りを1周、南の遊亀橋から左回りで1周して中に入り内部を巡った。城郭が当時の3分の1まで削られているので天守の比高や曲輪の規模からみると周囲が小さくなった感が否めないが復元門は良い見応え、稲荷曲輪・天守曲輪の野面積の高石垣は技術力の高さ、私好みで圧巻見事です。

<満足度>★★★☆☆

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カズサン

リニューアルされ高欄展望圧巻⁈ (2022/12/21 訪問)

 昨年12月20日頃に浜松城天守閣外装改修が完了し、展望階の高欄回廊の金網が外されて展望階の眺望が大変良く成りました、以前は金網越しで金網が邪魔で見通しが良く無く、写真撮影も金網が写り良い写真では有りませんでしたが見晴らしに眺望とスッキリと見える様になりました。
 以前リニューアルの投稿しましたが未掲載の写真を含めてすっきりした展望階回廊の眺めと他数枚写真を投稿掲載いたします。

 1月22日に「どうする家康」浜松大河ドラマ館はプレオープンされて居ますので近直タイミングを見て訪ねたいと思っています。
 

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チェブ

ライオンとサル。 (2022/12/25 訪問)

「新井城」、薄暗くなってから攻めました。

築城時期は分かりません。
相模国の中央部を本拠地にしていた、三浦 道寸さん・義意さん父子。勢力拡大をする北条 早雲さんに追い込まれます。
最後、「新井城」に籠城し戦い滅亡しました。
地名の『油壷』の由来を、戦いで流れた血が油のようだった事を知った時は、ゾッとしました。

、、、なので、薄暗くなってからの「新井城」は駆け足です。
旧油壷マリンパーク、今は油壷温泉キャンプパークの駐車場を利用しました。
海岸に下りる道があります。
途中に道寸さんのお墓がありました。昼間なら木漏れ日が注ぐのでしょうが、『キー、キー』と、鳥かおサルが鳴いて不気味でした。
説明板だけパチリ。
海岸に出てパチリ。岩場がライオンの横顔に見えてきます。
この場に血が流れたかと思うと怖くなり、引き返しました。
駐車場近くに「新井城」の石碑と、義意さんのお墓があります。
遺構等々、見る余裕がありませんでした。
車で、周辺を調べたら『横堀海水浴場』があり、「新井城」の堀から名付けられたようです。
そして、もう一つ『胴網海水浴場』がありました。
首の無い胴が漁師の網にかかったんだとか。

心穏やかに遊べそうにない『油壷』の「新井城」でした。

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岩崎城

岩崎城フィールドワーク

岩崎城の遺構や縄張りについて、学芸員が解説しながら案内するガイドツアーです。

発掘調査の話や、縄張図をもとに歩くなど、お城好き・マニアックな解説が聞きたい方向けです。

■日時
2月18日(土)  13:30~15:30
※雨天の場合は中止になります。

■講師 当館学芸員 内貴健太

■募集人数 先着8名

■参加費 200円(保険代として)

■申込期間 2月4日(土)から 9:00~17:00 月曜休館

■申込方法 当館までお電話にてお申し込みください。

・岩崎城歴史記念館  
TEL 0561-73-8825 9:00~17:00
休館日:月曜日(祝日の場合は開館)

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まっちゃん

千葉

すばらしい

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東山城 (2023/01/22 訪問)

淀山城を拠点とする波波伯部氏は、篠山盆地の東へりを支配し、平地部北側にある淀山城に対して、一族が、東側、南側に城を構えました。淀山城から、それぞれの城の登城口まで5百〜8百mです。
淀山城から、県道372号を渡り、南の集落に入っていきます。家が途切れる手前で左手に折れます(写真⑩)。突き当たりに東山城の説明板があります。淀山城は比高があまりないですが、東山城、南山城はがっつりと山城です。道案内の標識、遺構の標識がよく整備されています。遺構の状態も良く、畝状竪堀がはっきり写りました。
下山後、南山城に向かいます。

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イオ

墓地の上の城址 (2023/01/07 訪問)

平安前期に吉野郡に封ぜられた秋津氏の居城で、城山と呼ばれる下市八幡神社の裏山に位置し、築城時期は不明ながら南北朝期までには存在していたようです。

国道309号の戎神社前交差点から南東に進むと広い墓地があり、墓地の駐車場に駐めさせてもらって登城開始。墓石が建ち並ぶ西側斜面を頂部まで上って行くと主郭に至ります。主郭も墓地になっていますが、南辺に土塁が遺っています。土塁の南側は一段下がって南北二段の副郭になっていて、副郭の周囲には土塁をめぐらせています(かなり低くなっていますが)。副郭の南辺切岸の下には帯曲輪も見られました。
主郭の北側には堀切を挟んで北曲輪が広がっています。堀切はなかなかの深さがあり、西側は竪堀となって落ち込んでいました。北曲輪はほぼ自然地形ですが、西辺に土塁らしき土盛りが続いている箇所がありました。

この日は前日までの天気予報では雨交じりの予報だったのを何とかここまで持ちこたえてくれていましたが、秋津城登城中についに降り始めたため、もう一城訪れる予定を切り上げてここまでとしました。ところが、次に向かう途中に立ち寄るつもりの下市八幡神社のことも忘れてそのまま帰ってしまい、八幡神社の城跡碑は見落としてしまいました…。切り上げた分の城のこともあるので、遠からずまた訪れることになりそうです。
 

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todo94

2023年初攻城の城のベスト3に入るでしょう。 (2023/01/01 訪問)

元日からこんな素晴らしい城に巡り会えるなんて2023年はいい年になるような予感。元日と云うことでパトリアおがわが休業。駐車場が利用できませんでしたが、普段だったら大丈夫でしょう。空堀、虎口、土塁と山城、土の城の魅力が凝縮されていました。2023年の初日ではありますが、2023年初攻城の城のベスト3に入るのは間違いないかと思います。

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キンヤ

三河一向一揆で一揆勢の拠点となった城郭寺院 (2023/01/22 訪問)

戦国時代の本證寺は浄土真宗の本願寺派(一向宗)で、内堀・外堀の二重の堀と土塁が築かれ、城塞化された城郭寺院(城郭伽藍)です。

空誓が住職であった1563年の三河一向一揆では一揆勢の拠点の一つとして領主の松平家康と戦いました。
一旦は和議が結ばれましたが、家康は態度を一変させ一向宗を禁止し出された改宗命令を拒否したため坊主衆は領国から追放となり空誓も逃れ、主要な建物は破却されたと伝えられます。
それから約20年後に一揆の罪は赦免され本證寺は再興されたそうです。

10年ぶりに行きましたが、大河ドラマ「どうする家康」放送の今年一年間の土日祝日はガイドさんがおられ、案内をお願いしました。詳しい解説でとても勉強になり感謝です。

本堂がある南方の境内は内堀の水堀で囲まれ、堀は折れ曲がり横矢が効き技巧的です。
その南方境内の北東側隅の鼓楼は城の櫓のようでカッコいいです。江戸時代の1760年の建立で平成18年に解体修理がされています。

庫裏がある北方の境内北側の空堀・土塁もガイドさんにお願いし、見学させて頂きました。
見事な空堀・土塁が残っています。
発掘調査で当時の堀はもっと深かった事が分かったそうです。

今ある本證寺から離れた北東側に外堀跡の一部、東側には外堀の一部水堀が残っていました。

これまで行った中で遺構がよく残された屈指の城郭寺院だと思います。

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赤い城

茨城県では最も新しい幕末の城 (2023/01/09 訪問)

助川城址公園になっていて駐車場もあります。徳川斉昭が海防と国防強化のために築城したため助川海防城と呼ばれています。
品川台場や五稜郭と同じく幕末の城です。
公園には曲輪が段になって残ります。
遠見番所から太平洋を望む眺望が一番の見どころですかね。
海の見える城、やっぱり良いですね。

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大樹寺 大河ドラマ館など (2023/01/26 訪問)

大樹寺
 松平家、徳川家の菩提寺です。松平家や徳川将軍家の位牌が15代慶喜を除いて安置されています。徳川家康が桶狭間の戦いの後、大樹寺へ逃げ込みもはやここまでと先祖の墓前で自害することを決意したと伝わっています。登誉上人に諭され、「厭離穢土欣求浄土」の旗印を得て天下統一へ踏み出した場所でもありました。この寺で有名なのは大樹寺の本堂から山門、総門を通して、その真ん中に岡崎城を望むことができることです。ビスタラインと呼ばれています。

大河ドラマ館
「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」へも行って来ました。

名鉄のお得な切符
 名鉄と岡崎市がタイアップし、「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」や「岡崎城」を巡るおトクな切符を発売しているようです。「どうする岡崎 家康公きっぷ」「どうする岡崎 家康公周遊きっぷ」などがあるようです。詳細は名鉄のHPを参照してください。公共交通を利用される方には便利かと思います。

 昼飯は岡崎城から徒歩10分くらいの所にある「大正庵 釜春本店」さんでいただきました。釜揚げうどんの元祖として有名な店ですが、ミーハーなので「秘密のケンミンSHOW」でも紹介された、おかざきめし総選挙1位の「もろこしうどん」を食べました。

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天守閣リニューアルオープン (2023/01/26 訪問)

 岡崎城天守閣が1月21日にリニューアルオープンしたので行って来ました。平日でしたが、大河ドラマ「どうする家康」の影響なのか思ったより見学の方が多かったですね。天守閣もいいのですが、空堀と周囲の石垣が好きです。
昨年に行ったばかりなので、今回はさらりと回ってきました。
せっかくなので大河ドラマ館も行って来ました。

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中根氏の城 (2023/01/26 訪問)

 徳川家康の家臣としても活躍する中根氏の城です。下箱柳バス停前に石碑があり、案内に従って行くと少しわかりにくいですが、石垣の上に箱柳城跡と書かれた看板があります。枯れて倒れている竹などが行く手を阻みますが、そのまま登って行くと削平地が雛壇状にあります。石垣は各所に見られますが、当時のものか否かはわかりません。居館跡に思われたので詰の城があるのではないかとグーグルが示している城址の位置まで道があるかないかわからないような(多分ない)坂を上ってみましたが城址を思わせる遺構はないように思われました。頂上が見えてきたので尾根まで行くと石仏遊歩道のコースに出ました。尾根はよく見かける城址と思えないこともないのですが、堀切等もなく違うのでしょうね。明治から大正にかけて山岳信仰が盛んな時期に木曽御嶽山にならって石仏が建立されたとのことで整備されたようです。縄張り図を手に入れることができなかったこともあり、よくわからないまま遊歩道を通って下山しました。

 城址入口に下箱柳バス停がありますが、本数は少なく日に3本くらいです。15分くらい歩いたところにある猫沢池前バス停を利用しました。名鉄東岡崎駅から1時間に1本くらいあります。

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侍ホリタン

日本史上最後に築城された名城を訪ねて (2022/05/28 訪問)

園部城は1619年園部藩初代藩主小出吉親が築城を開始したのが始まりです。この時櫓を建てる許可が幕府から得られず幕末まで陣屋扱いとなっていました。幕末の京都警備のため明治政府によりようやく櫓の普請が認められましたが、完成まもなく廃藩置県により園部藩は廃止され園部城の建物、敷地は取り壊しもしくは払い下げになりました。
現在、園部城跡は園部高校・中学の敷地となっていて櫓門等が同校の校門として使用されています。
駐車場は国際交流会館前(天守閣風の建物なのでわかりやすいです)にあります。太鼓櫓は園部城跡から10キロ先にある八木町安楽寺に移築されています。 御城印は南丹市立文化博物館と園部文化観光協会で購入できます。

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トク

⑬【関ケ原の26人 】(7)細川忠興 (細川忠興と小倉城) (2023/01/12 訪問)

(7人目)「細川忠興」の続きです。
関ケ原の時の居城は「宮津城」ですが、今回は関ケ原後の居城「小倉城」を訪れてきました。

小倉城訪問は昨年春以来ですが、南蛮造りの天守はいつ見ても美しいと思いました。城の内部は昨年秋にリニューアルされ展示が一新されていました。また、「池の水ぜんぶ抜く」のテレビのおかげで、汚れて濁っていた堀が今では水面に城の姿が反射して映るほど水がきれいになっていて、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました(写真⑤:テレビ東京さん(淳さん)ありがとう!😊)。

関ケ原の功で、忠興は丹後18万石から豊前39万石に加増移封され、いったん中津城に入ります。そして、1602年より新たに陸海の交通の要衝地である小倉に築城を開始、1609年に完成します。当時の天守は今の天守と異なり、白い層塔型の天守に4-5階の上部のみ黒く張り出した南蛮造りの形だったようです(城内にあった模型:写真⑥)。

私は小倉城の天守に立ち小倉の街を眺めて見ました。現在は商業施設のビルなどに囲まれてしまい、わずかしか眺望はありませんでした(写真⑦⑧)。しかし当時は北は海に面して海運に恵まれ、忠興は京より祇園太鼓などを誘致したため領民は大変喜び、街は物資と活気にあふれて賑わい、忠興は領民から大変慕われていたようです(当時の絵図と小倉祇園太鼓で賑わう街の様子:写真⑨⑩ 小倉城内より)。

小倉城を築城した忠興は、この完成した天守から小倉祇園太鼓を聞きながら、領民が楽しく平和に暮らしている姿を、どんな思いで眺めていたのでしょうか? 本当はガラシャといっしょに、この平和な景色を眺めたかったのではないでしょうか?・・・

次は、(8人目)へ続きます。
 

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イオ

小川古城(奈良県吉野郡東吉野村小字黒田) (2023/01/07 訪問)

小川古城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら南北朝期より丹生川上神社神主として東吉野地方を治めた小川氏が築いた城で、高見川に三方を囲まれた尾根の突端に位置する単郭の山城です。小川城を新城、小川古城を古城とも呼ぶようです(なので小川城で投稿します)。

高見川沿いの県道220号から原裕句碑の案内表示に従って対向不能の狭い舗装道を上って行くと公園に至り、公園の手前に車を駐めて登城開始です。主郭にある神社に続く石段の脇に小川城址の石碑が建てられています。石段は後世のものと思われますが、石段の両側には段曲輪らしき削平地があり、石段の北側には虎口と思しき痕跡が、南側には水の手らしき石組みが見られます。石段を上った先が主郭です。主郭東奥の土壇には石垣が施され、その上に愛宕神社の社殿が建てられています。また主郭の北辺には土壇から続く土塁がうっすらと遺っていました。土壇の東下には岩盤を掘削して堀切が設けられ、東にのびる尾根筋を断ち切っています。

主郭の西側には公園が広がっており、原裕の句碑が建てられています。公園には石積みが見られ、主郭がかなり狭いだけになだらかな地形は屋敷地とも考えられますが、西側には堀切などの防御施設が見られないこともあり、城域に含まれるかどうかは微妙なところでしょうか。

このために訪れるほどの城でもありませんが、小川城のついでにどうぞ(小川城から高見川沿いに車で5分)。
 

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todo94

初詣 (2022/01/01 訪問)

山頂に四津山神社が鎮座していましたので、ここが2023年の初詣となりました。地元の方々もそれなりに訪れているようです。さほどの期待はしていなかったのですが、眺望はよいし、社殿の奥には見ごたえのある遺構がかなり残っているし、なかなかの城でした。

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