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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:深溝城 (2022/08/03 訪問)

形原城からの転戦です。
現在深溝城址は、株式会社三協幸田工場の敷地となっており、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。
また幸田町六栗本郷の民家に深溝陣屋門が移築されているほか、陣屋絵図の写しが幸田町郷土資料館に収蔵されてるそうです。
以上の情報より、まずは三ヶ根駅より15分くらい歩き、説明板前(34.839375、137.176970)に向かいました。
幸田町郷土資料館は夜遅くなって閉まっている為、本光寺山門(34.837231、137.181530)に向かいました。

深溝城は十八松平のひとつ、深溝松平氏の居城でした。
松平忠定から4代・松平家忠まで在城しましたが、徳川家康の関東移封に伴い、忍城へ移りました。
家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、その功もあり5代忠利は旧領に戻り三河深溝藩を立藩しましたが、1612年(慶長17年)に吉田城に移ったことにともない廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。

深溝松平家墓所の本光寺もなかなか良かったです。
攻城時間は、移動時間も含め20分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で三ヶ根駅から尾張一宮駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:形原城 (2022/08/03 訪問)

本證寺からの転戦です。西浦駅より10分ちょっと歩き、三協樹脂㈱城山工場手前の形原城跡標識(34.790787、137.185141)に到着しました。
標識に従い進むと、「古城稲荷社」の鳥居があり、その先に二郭があり「お妙塚」が祀られています。
付近に稲荷社のある東古城、北古城、南古城などの地名が残り、その城域は広範囲のようです。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に新羅三郎義光の孫、清光の弟である方原下司次郎師光が本城を築いたのが始まりとされています。
その後、松平信光の四男與副(ともすけ)が宝飯郡形原に居して形原松平氏の祖となりました。形原松平氏は與副の後、貞福・親忠・家広・家忠・康信と続きます。
四代・家広のときには今川氏に属していましたが、桶狭間合戦の後に家康に仕えたようです。
しかし、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたそうです。
天正9年(1581年)北条方の間者に13才の又七郎(後の六代家信)が暗殺されようとしたとき、乳母のお妙が身をもってこれを救った。亡骸は塚に手厚く「お妙塚」に葬られました。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い、六代松平家信は上総国五井に5,000石を領して移りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、旧領の形原へ移され旗本になりました。元和4年(1618年)には10,000石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩15,000石となりました。
さらに翌年には摂津国高槻へ20,000石で加増転封となったそうです。これにともない形原城も廃城となりました。

稲荷神社って、赤い鳥居がズラっと並んでいるイメージを持つのは自分だけでしょうか?
城跡は住宅化によりほぼ壊滅状態ということのようです。ただ、主郭と二郭だけが辛うじて残っており、二郭の石段下横には説明板がありました。
石段を登った所が主郭です。神社の社殿と説明板、城址碑があります。
三河湾、渥美半島を望むことが出来ます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=深溝城を目指す為、電車で西浦駅から三ヶ根駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:本證寺 (2022/08/03 訪問)

桜井城からの転戦です。南桜井駅より徒歩15分くらいで、本證寺門前(34.899890、137.086071)に着きました。

1206年(建永元年)頃に築かれた寺院です。
三河国三か寺の一つとされ、1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では本證寺の空誓(蓮如の孫)が門徒に激をとばしてその中心となりました。
この一揆では一向宗の門徒ばかりでなく多くの国人・土豪が終結して松平氏の兵力を上回っていましたが、1564年(永禄7年)空誓率いる本證寺の一揆軍が家康に敗れ、寺内不入の確認などを条件として和議となりました。
しかし、家康は一向宗を禁止するとともに寺を焼き払い空誓は足助に逃れました。1585年(天正13年)空誓は、許されて本證寺に戻り寺地を安堵されました。

境内を取り囲むように巡らされた水堀が印象に残りました。
遺構の鐘楼は石垣修復中で近づけませんでしたが、海鼠壁を用いた経堂、隅櫓のような鼓楼は確認しました。
薬医門形式の裏門は見落としました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=形原城を目指す為、電車で南桜井駅から西浦駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:桜井城 (2022/08/03 訪問)

安祥古城からの転戦です。桜井駅より徒歩10分くらいで、城山公園入口(34.920872、137.092436)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、小浦喜平次忠重によって築かれました。
忠重は伊豆国から地頭としてこの地に移り住んでいましたが、文明年間(1469年〜1487年)に松平信光が安祥城を落とし居城としたことで、その家臣となりました。
松平親忠(松平信光の三男)は、はじめ四男の親房を城主としましたが、親房に子がいなかったため、松平長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となりました。
1530年(享禄3年)宇利城攻めに参陣した信定は、兄福釜松平親盛とともに大手より攻撃したが、親盛を救援せず親盛が討死したことで清康の怒りをかったそうです。
信定はこれを恨み清康が尾張国守山へ進軍したときも、上野城より動かず、信定の子清定の妻が織田信秀の妹ということもあって、織田方へ内通したとの噂がたちました。
清康が尾張国守山で家臣に殺されると、信定は松平宗家の乗っ取りを企て、清康の子広忠は一時岡崎を離れて流浪しました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東移封にともない、桜井松平氏は武蔵国松山へ10,000石で移封となり廃城となりました。

現在は城山公園として、一部残存している土塁の上に石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本證寺を目指す為、電車で桜井駅から南桜井駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:安祥古城 (2022/08/03 訪問)

安祥城からの転戦です。安祥城より徒歩10分ちょっとで、説明板前(34.947584、137.091278)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代に志貴庄の荘館があったとも云われています。
鎌倉時代には地頭館として安藤氏が在城し、室町時代は足利一門の和田氏が五代続き、永享の乱の後、和田親平は安祥城を築いて居城を移し廃城となりました。
また、1540年(天文9年)に織田氏安祥城を攻めた際には松平氏側の前線となったといわれ、松平康忠が討死しています。

宅地内にある小公園に土塁状の土盛りの上に社口社があり、説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桜井城を目指す為、電車で南安城駅から桜井駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:安祥城 (2022/08/03 訪問)

知立城からの転戦です。南安城駅より徒歩12~13分くらいで、本丸跡の大乗寺入口(34.945749、137.099345)に着きました。
説明板はこの付近(34.945042、137.099596)、二の丸跡の八幡宮入口(34.944400、137.098082)、安城市歴史博物館は三の丸跡のようです。

1440年(永享12年)和田親平によって築かれました。1471年(文明3年、一説に文明11年)松平信光が謀略によって攻め取り、以後松平清康(徳川家康の祖父)が岡崎城へ移るまで三代の居城でした。
清康は岡崎城を居城として三河に勢力を伸ばし、1535年(天文4年)には尾張国守山に兵を進め織田信秀と対峙しますが、家臣に殺害されます。
その後、織田信秀は三河に侵攻し、幾度となく安祥城に攻め寄せ、1544年(天文13年)安祥城を攻め落とします。
これに対して松平氏は今川氏に援軍を求め、1549年(天文18年)今川・松平軍は安祥城に攻め寄せ奪還しました。

周囲は安祥城址公園となっており、1544年(天文13年)の安祥城攻めで織田勢に一人討って出て奮戦して討ち死にした「善恵坊の碑」などがあります。
大乗寺入口を入ってすぐ右側に「本多忠高墓碑」があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=安祥古城へは徒歩で向かいます。

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小荷駄

横須賀城跡 (2022/08/27 訪問)

黒田代官屋敷の散策を終えて高天神城かと思いましたが暑い❗️坂は歩きたくないなと甘い考えが浮かんでしまいならば少し離れているけど30分で行けると思い横須賀城跡に行って来ました。駐車場は城跡西側と南側に2ヵ所有りました。トイレは西側の駐車場に有りました。何度か訪れていますが玉石垣は珍しいので飽きずに散策して来ました。また北の丸跡から天守台の眺めも私は好きです。他にも北の丸の奥には松尾山、三日月池等みどころも多くあります。各遺構の足元には説明板があり私みたいな素人にもイメージがしやすく楽しく散策出来ました。

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赤い城

諏訪氏の本拠地 (2022/08/15 訪問)

国道20号線沿いに案内板があり、そこから坂道を登っていきます。
案内板通りに進んで行くと諏訪氏居館跡の石碑があり、駐車場もありました。
ここから登っていくことも可能ですが更に車で進んで行くと駐車場があり、ここが主郭への近道。
説明板も立っています。
場内に入ると深い堀切がありました。
主郭とはなれ山の間です。
主郭には低い土塁も残ります。主郭の先、二郭に神社があり、その背後には巨大な物見石があります。
高さは4mくらいあるでしょうか。
ここから尾根道で居館まで続いているようです。
駐車場への帰りには先程の堀切から繋がる二重の竪堀も見ることができます。
諏訪大社大祝の諏訪氏の本拠地。
武田信玄に攻め落とされました。
その後は武田氏の信濃の拠点として使われた城です。

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おっちゃん

片倉城跡公園案内図 (2017/07/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

片岡城跡縄張図 (2017/05/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

亀岡城之図 (2017/12/01 訪問)

現地案内板より抜粋

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にのまる

菱の門 (2022/06/10 訪問)

遂に入城門までやってきました。
『ここから先、自販機はありません』の注意書きに、山城登城同様の緊張感が湧いてきます。心して進まなければ。
最初に潜るのは城内最大の櫓門、菱の門。この門ひとつとっても見どころが山のようにあります(写真④)。損傷が激しかったために工期が延びた保存修理工事は終了間近でした。
菱の門を潜ると三国堀越しに聳え立つ天守群の姿が。ここからの写真は見る機会がよくありますがほんとうに美しいです!戦のない時代だから言えることだとは思いますが、この眺めを前にして邪なことを考える人なんていないんじゃないかと思える、人間に例えるなら品行方正・謹厳実直・清廉潔白な内面が滲みで出ているような素晴らしい眺めでした。しかしそれは換言すれば近寄りがたいということでもあり、これが城の極みの姿なのだと畏怖の念をもって首肯するばかりでした。

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英賀神社 (2022/09/08 訪問)

 赤松氏が築いたとされる城です。英賀神社拝殿裏には土塁があります。城域の各所には各所に石柱が立っています。英賀薬師堂にも土塁もありましたが藪で分かりにくい状態でした。英賀城公園内には櫓台のような模擬石垣があります。どのような意味があるのでしょうか。山陽電鉄網干線「西飾磨駅」より石柱を巡りながらJR山陽本線「英賀保駅」へ行き帰途につきました。

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(2022/09/08 訪問)

 天守閣を中心とした曲輪はすばらしいのですが、周囲の堀もよく残っていると思います。堀を中心とした写真を添付してみました。今回は主要な所を観た後、姫路市立美術館の裏を堀に沿って進み千姫の小径周辺まで散策しました。

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白鷺城 (2022/09/08 訪問)

 久しぶりに姫路城へ行ってきました。前回行ったのが、平成保存修理がほぼ終わった時で、天守閣が公開される前でしたので修理後の天守閣は初めてということになります。実は行く予定は全くなかったのですが、特別公開などもあり多くの方が投稿されていましたので行きたくなり行って来ました。さらりと回るつもりでしたが、やはりこの城はそうはいきませんね。主要部分は言うまでもなくすばらしいのですが、自分は北側の堀越しに見る石垣や天守閣が好きで、行ったときは時間があれば散策するようにしています。石垣、堀、建築物と近世城郭としての遺構が多く残り、何回来ても楽しませてくる城です。

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朝田 辰兵衛

主に会いたかった… (2020/12/20 訪問)

登城前には,主がいるなんて想像もつきませんでした。みなさんの書き込みを見て驚きです。主との遭遇確率はかなり高いのでは…と思います。
私は当日,熊鈴を付けていたので警戒されたかな…。

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カズサンさんのリベンジ (2022/09/04 訪問)

鳥取城周辺の城を探していると、2020年11月のカズサンさんの新山城記事に接しました。立ち入り禁止のフェンスに阻まれ、また、道路の交通量が多く、遠景も撮れなかったと。
古城登城の達人のレポートを何度見ても、立ち入り禁止を乗り越えて行った感が。しかし、そうでは無かろうと、山の東側からの侵入道を探すも果たせず。遠景を撮影してよしとするかと思ったのですが、カズサンさんの無念を晴らすべく、googleマップをチェック。
山の西側に鳥取敬愛高校があり、そこの山側に切り開いた斜面あり。ところが、西側に回り込み、高校に至ると、「カメラ作動中、侵入者があれば直ちに通報します」と。前科を作りたくないので、高校の麓を更に南下。グラウンドが途切れたところで、畑作地あり、その奥に、木々を伐採した斜面あり。新山城の本郭に送電線鉄塔が立っているのですが、その南にも別の系統の送電線の鉄塔あり。なんとこの斜面にその鉄塔に行くメンテナンス道があるではありませんか。難なく登り、そこから、北進して新山城へ。北進道は、中国電力が整備されているようです。中国電力と書かれた立札がいくつかたっていました。
帰りは、徳尾貯水タンク横を通り、下山すると、見た覚えがある、立ち入り禁止のフェンスあり。帰りは横を近道をさせてもらいました。

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カズサン

特別公開見学後下山里曲輪~帯の櫓下 (2022/08/28 訪問)

 姫路城の8月末期限特別公開を見学後西の丸を終えて入城ゲートを出る、特別公開で東小天守より東見下ろした先に、搦手であるとの一門を見つけたので、主郭部東側の帯郭櫓、帯の櫓高石垣の下に搦手門との四門が有り、そちらへ散策探訪した。
 
 下山里曲輪石垣より天守群を仰ぎ眺めて、西の丸、心柱展示小屋方向を眺める、上山里曲輪の東側石垣と伐採された樹木痕、土塁下を通り、三の丸を東北側切断した様な濠留脇を通手、目的のとの四門が見える位置に到着。
 との四門と帯郭櫓帯の櫓高石垣を入れて天守閣を撮影し眺める、東側から見た天守の姿、帯の櫓下高石垣の高さは圧巻の見所、との四門からとの一門の搦手ルートは現在非公開、以前NHKのニッポン不滅の名城「姫路城」で奈良大の千田教授が出演され、との四門からとの一門搦手道を踏査されて居ました、との三門は現存して居ません。公開が有れば何時か登りたい搦手道です。
 米蔵の有った内船場、北東の喜斎門へは行っていません。
 
 其処から三の丸の東側の散策路を通って大手桜門へ、途中名残に広い三の丸芝生と天守群、西の丸、菱の門を撮影脳裏に焼き付かる。
 良い特別公開、姫路陽散策探訪、久しぶりの天守登閣でした。
 
 

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イオ

味土野男城(京都府京丹後市弥栄町須川味土野) (2022/07/23 訪問)

味土野男城(城びと未登録)は、味土野女城から谷を隔てた北側の尾根に位置し、細川忠興が女城に幽閉した細川玉(後のガラシャ)を警護するために設けた城館です。

女城から少し下った金剛童子山登山口の駐車場に車を駐めて、小川を渡ったところに男城の登城口があります(案内標識あり)。登城口から小川を少しさかのぼり、折り返して5分ほど進んで行くと男城に至ります。男城の主郭には警護の武士が詰めていた屋敷があったと考えられ、奥に続く尾根道に堀切跡と思しき水路がありました。男城からも女城を見渡すことができ、往時はすぐに駆け付けられるように女城まで真っ直ぐな道が続いていたとされますが、間には谷があり距離もそれなりにあるだけに今ひとつイメージできません(吊り橋?)。

それにしても、玉を警護するのなら女城のもっと近くに詰めたほうが確実のように思いますが、わざわざこんな離れた場所に男城を設けるのは、忠興が自分の目が届きづらい味土野で、玉の近くに他の男が常駐することを許せなかったからなんでしょうかね。ストーカー気質のモラハラ夫にはありそうな話かな、と(…すみません、忠興にはあまり良い印象がないもので)。

なお、登城道沿いに石垣がありますが、下調べでは男城に石垣遺構なんてあったかな…と思っていると、石垣の上の削平地には木下家住居跡の石碑があり、男城とは直接関係のない江戸中期から昭和までの住居跡の石垣だったようです。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:知立城 (2022/08/03 訪問)

重原陣屋からの転戦です。知立駅より徒歩5分くらいで、西町児童公園前(35.009607、137.040604)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永見氏によって築かれました。 永見氏は知立神社の神主で、その居館が知立城の始まりとされます。
戦国時代には刈谷城水野氏との関係を深め、台頭してきた松平清康、ついで今川義元に仕えますが、今川義元が桶狭間に倒れると敗走した今川軍を追った織田方によって落城しました。
天正年間(1573年~1592年)に刈谷城主水野忠重によって御殿が建てられ、将軍上洛時の宿泊施設となっていましたが、1699年(元禄12年)の大地震により倒壊しました。

西町児童公園に石碑と案内板が設置されています。電車の時間が近いので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安祥城を目指す為、電車で知立駅から南安城駅に向かいます。

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