日も暮れたけど行ってみました。
目黒学院高等学校があるのみ。遺構はない模様。
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2022/12/21 05:38
目黒氏って誰だ? (2022/12/16 訪問)
日も暮れたけど行ってみました。
目黒学院高等学校があるのみ。遺構はない模様。
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2022/12/20 23:23
シロガネーゼはどこじゃ~❔ (2022/12/16 訪問)
国立科学博物館附属自然教育園内が城跡とのことで行ってみると閉園?到着が15分遅かった(;゜0゜)
仕方がないから外から覗き込み退散した。
城攻めは失敗だが、都会の中に閑静な森が残っていることは素晴らしい。
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2022/12/20 22:54
城は一体どこなんだ? (2022/12/16 訪問)
ナビに従い日比谷線神谷町駅で降り辺りを巡回。遺構はないそうな。
江戸期、城跡に仙石家屋敷があったことからこの地は仙石山と呼ばれているとか。高層ビルで見えにくいが丘陵地ぽい一帯が城か。
新たなビルが建つのだろうが「仙石山 町会防護団 昭和十三年四月建之」という石碑は残されている。
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2022/12/20 21:39
箱岩出丸が圧巻 (2022/12/10 訪問)
薬師堂からは落石のため立入禁止になっているので雲林寺から登城。
登っていくと西側の曲輪部分に達し、堀切や竪堀もあります。
さらに進むと主郭、碑と説明板が立っていました。
ここから尾根上に東西に展開しています。
主郭と秋葉神社の郭の尾根上にも堀切。
秋葉神社の下の曲輪には石積を見ることもできます。
秋葉神社から東に尾根を進むと箱岩出丸となります。
かなりの痩せ尾根でちょっと怖い感じでした。
箱岩出丸の先にも尾根が続きますがここから先には行けないようになっていました(n別ルートでは行けそう)。
で、箱岩出丸は大きな岩の上にあり、下から見ると圧巻です。この下に落石がありましたがさほど危険ではなさそうでしたけどね。
でも立入禁止ですから。
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2022/12/20 21:14
山本山城 (2022/11/12 訪問)
【山本山城】
<駐車場他>宇賀神社側の登山口駐車場4台程度を利用
<交通手段>車
<見所>堀切・土塁
<感想>山本山城の築城は平安時代末期で清和源氏の一族の山本義経の本拠地となっていました。戦国時代には浅井氏の支城として代々伊香郡の国人であった阿閉氏の居城となります。時の城主阿閉貞征・貞大父子は姉川の合戦までは浅井方として奮戦し、また城の攻撃も撃退しますが、小谷城攻めの時に織田方に寝返ります。その後阿閉父子は羽柴秀吉の与力となりますが秀吉とは折り合いが悪かったようで、本能寺の時には明智光秀の加担をして長浜城を占拠します。阿閉父子は山崎の戦いで捕縛され処刑されます。その後城は廃城となったようです。
ストリートビューで駐車場が確認できる宇賀神社からの登山ルートを利用しました。若宮山古墳の先の獣柵のゲートを開けて山に入ります。そこそこの急斜面を20分程登ると主郭手前の広い曲輪にたどり着きます。主郭も広く高土塁囲みになっており、南と東側に切虎口があります。主郭奥から連郭にそれぞれ深い堀切で仕切り見ごたえあります。眺望も良く奥琵琶湖と竹生島の夕日がとても綺麗でしたが、城跡の撮影に夢中になりシャッターチャンスを逃しました。下山時は日没後で急速に暗くなり新調したLEDライトが役立ちました。
<満足度>◆◆◇
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2022/12/20 18:42
新高山城とは新幹線で繋がっている。 (2022/11/21 訪問)
正続100城の新高山城の川を隔て東にある高山城に行きました。ルートマップ上の東側にある高山霊園の一番奥にある休憩小屋の前に置き、搦手から反時計回りに訪問しました。
訪問参考データー:2時間10分:4km:累計高低差328m
入口の案内板を見ると随分広そうに感じました。1時間程度で廻れるとの事でしたがきっと無理でしょう。この日ツイていたのは、9月から地籍調査が行われて城内が整備されていた事です。迷うことも無く大まかな範囲を廻る事が出来ました。幾つもの石積が点在していましたが、調査整備なしでは見る事が出来なかった場所もあったでしょう。
写真は印象に残った場所を載せています。この後は新高山城に行ったのですが、そこの駐車場から高山城を見上げると、先程廻った曲輪が良く見えます。新幹線が走っているのを見ると、高山城と新高山城はトンネルで繋がっていて、今でも行き来しているとさえ想像が膨らんで来ます。
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2022/12/20 15:59
2022/12/20 15:43
平成15年桜の掛川城 (2003/04/03 訪問)
掛川城の木造復元天守閣が建って7年後の桜の時期に掛川城を訪ねました、天守閣が復元されて4年位は掛川城天守閣と桜、山ツツジが咲き揃うタイミングを天候と合わせ狙って撮影を続くけて何とか目的の写真が撮れたので、この時の探訪は天守閣を見ながら桜と合う所を気楽な散策でした、コンパクトデジカメに残っていた写真を投稿します。
その当時は植栽された桜は小さく枝ぶりも小ぶりですが20年近く経った現在では大きく育ちました。
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2022/12/20 15:15
桜満開のウキウキ五稜郭 (2003/05/03 訪問)
五稜郭は幕末江戸幕府にて築城された西洋式稜堡城郭です、北方防衛、海防の要として造られましたが、戊辰戦争最後に幕府軍と新政府軍の激戦地と成り星形の稜堡を良く残しています。
19年前の5月連休に弘前城、松前城、五稜郭廻り、前日の松前城に次いで函館山からの函館夜景を堪能した翌日五稜郭に初登城しました。
時期は丁度桜の満開で桜の植わってる土塁上をグルーと回り、先代の五稜郭タワーからも五稜郭を眺めました、まだフィルムカメラ主体の時代でしたので予備のコンパクトデジカメで残っていた桜満開の土塁上の写真を2枚ですが投稿します。
弘前城は桜が散った時期、松前城は八重桜主体でしたので五稜郭の桜は見事な満開を堪能しました、一番ウキウキした探訪の様で桜ばかり撮って居たようです。雪と風の関係か桜の木は全般に低かったよでした。
函館空港から羽田空港へと帰路を取りました。
五稜郭の次の探訪は函館奉行所が復元された平成22年(2010年)7月31日で復元公開3日目でした。次は平成28年(2016年)5月25日で北海道新幹線が開通して兄弟夫婦とのフルームパス利用でした。
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2022/12/20 09:36
近くに鬼が丸城もあります。 (2022/11/21 訪問)
標高488mを主郭とした槌山城と、そこから西に直線距離700m程の標高410m地点に鬼が丸城があります。
ルート南側のセブンの森辺りに駐車場やトイレが有り、そこより東に歩いた溜め池前の登山口から訪問しました。
訪問参考データー:1時間10分:2.4km:累計高低差274m(各主郭まで)
途中までの登山道は花崗岩が風化して岩の上に砂が浮いている状態で滑りながら進んで行きましたがそこを過ぎると普通の様相です。
槌山城は488m地点を主郭とし、大きく4つの範囲に分かれていて東方向の標高426.7mにも広がっています。
鬼が丸城の主郭は平坦になっていて自然石が点在しています。城の名称ですが陣とか砦だったのかもしれません。
登山直前に、登山口付近で予測不能の動きをするおじさんがいて、終始バイクに悪戯されているんじゃないかと気になり集中出来ずに足早に下りて来ました。結果、槌山城・鬼が丸城共に主郭を確認しただけとなりました。本来ならあと30分程かけて見て廻りたっかのですが消化不良です。
今後こちらに訪問された方の投稿をお待ちしています。
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2022/12/20 08:27
とことん一乗谷(連続曲輪群) (2022/11/19 訪問)
(続き)
切通道から尾根上を南に進むと一の丸跡に行きあたります。一の丸跡の北西麓には横堀がめぐり、高く切り立った切岸が聳えています。一の丸跡への道はなさそうなので直登しましたが、曲輪内は樹木が生い茂っていて、北東麓にあるはずの畝状空堀群もよくわかりませんでした。
一の丸跡から二条の堀切の脇を抜けて二の丸跡へ。道中の西側下にも畝状空堀群があるはずですが、藪に沈んでいました。二の丸跡には上る道があり、曲輪内も整備されています。二の丸跡で軽く昼食(菓子パン)を摂ると、堀切に設けられた土橋を渡って西尾根に向かいます。西尾根には伏兵穴と呼ばれる謎のくぼみが多数設けられていて、尾根の先端は堀切で断ち切っていました。
二の丸跡に戻り、二の丸跡南端の堀切を越えて三の丸跡へ。三の丸跡は堀切で二つの曲輪に区画され、東西両側斜面にびっしりと畝状空堀群が設けられている…んですが、現地で見れば一応それとわからないではないものの、私の拙い写真では撮った本人が見てもただの藪にしか見えません。三の丸跡南端の堀切に下りて、西に続く尾根の曲輪にも行ってみましたが、ほぼ未整備で、尾根の先の堀切を確認して引き返しました。
千畳敷跡に戻った時点ですでに登城開始から4時間が経過しており、下山途中に立ち寄ろうと思っていた小見放城はおろか、朝倉館跡や庭園跡、復原町並や一乗谷朝倉氏遺跡博物館を訪れる時間が満足に確保できないので、駆け足で中途半端にめぐるくらいなら日を改めて存分に…ということで、この日はここで一乗谷を後にしました。そもそも日帰りの一日だけで山城から一乗谷にあさみゅーまで全部めぐろうという想定に無理があったにしても、正直、消化不良感が半端ないですし、タイトルに反して全然とことんじゃありませんが……次回こそは!
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2022/12/20 01:20
お城EXPO 2022(前夜祭) (2022/12/16 訪問)
大雪で帰路が大変でした…。それでも,無事にたどり着いたことをご報告します。
今回は,抽選でハズレましたので,戦利品はありません。
また,平山優先生は,持ち時間1時間のところ,2時間分の講義内容を準備してしまったということで,後半は随分走っていたように感じました。“どうする”というワードも前半に1回か2回しか飛び出しませんでした。「遠州忩撃」がテーマで,今川も松平も,その後はなるべくして…という展開でした。紹介できるのはこのへんまで。
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2022/12/20 00:17
平泉世界遺産ガイダンスセンター (2022/11/27 訪問)
3年前に初めて訪れた際にその別世界ぶりにすっかりはまってしまっていました。今回は旧柳之御所資料館がリニューアルされた「平泉世界遺産ガイダンスセンター」入館を楽しみに行きました。
金ヶ崎から電車移動した平泉駅でレンタサイクルを借りることも考えていたのですが、行列ができていたので歩くことに。伽羅御所推定地を通って向かいました。前回こちら(南)側は整備中で少ししか入れなかったので、完成した巨大な堀跡に思わず感嘆の声を上げてしまいました。秀衡時代の堀跡を復元した区画は全体のほんの一部ですが、丁寧な説明板を読みながら歩いているとイメージがどんどん膨らんできました。
ガイダンスセンターはとてもスタイリッシュな建物です。シンプルさと重厚さを兼ね備えた外観は風景とも違和感なくマッチ。まだ新しい館内は設備も最新で、半円筒形のプロローグシアター、奥州藤原氏デジタル絵巻、ジオラマや出土品、模型や再現品など、文字解説だけでなく様々な方法で平泉の歴史を学ぶことができました。写真撮影もほぼOK、入館も音声ガイドの貸し出しもすべて無料です。つまりとても感動しました。
ガイダンス施設を出たあと史跡公園内をぐるっとまわって再現された施設を見て、無量光院跡、高館義経堂を経て中尊寺に向かいました。義経の最期の地である高館義経堂は11/21~3/14まで冬期拝観休止のため階段の下までしか行けませんでしたが、また行く楽しみ(楽しみと言っていいのだろうか?)ができたのでOKです。
1988年からの発掘調査の記録や研究がまとめられた「奥州藤原氏と柳之御所跡」(平泉文化研究会編・吉川弘文館)がとても興味深い内容で大変勉強になりました。
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2022/12/19 23:14
航空写真で見ると・・ (2022/06/26 訪問)
航空写真で見るとたいそう立派な近世城郭に見えるのだが現地に立つと堀は浅いし土塁は低いしでそのギャップにしばし呆然とする(期待したこちらがいけないのだが)。堀秀政に仕えた奥田(堀)直政を祖とする村松藩堀家の居城。
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2022/12/19 22:10
お城EXPO 2022 (2022/12/18 訪問)
今年もお城EXPOへ!!
大和郡山城のブースには本物の転用石。
企画展では築城から地図作りに至る測量技術が特集されており、最初に経線と緯線を記載した長久保赤水は静岡県の長久保城城主の末裔ですね。
超ミニチュア模型の1つは泉頭城。カワセミを見に何度か行た柿田川公園ですが、今度はこれをイメージして歩いてみようかな~。
大桑城のセミナーに参加すると、今年発掘された石垣のミステリーが熱いらしい。そして最後に中井均先生と春風亭昇太師匠が登場するサプライズ。
行ってみたいお城が、いくつも増えてしまった1日でした。
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2022/12/19 20:59
小室城 (2022/11/12 訪問)
【小室城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑の後ろ側<35.458736, 136.306725>に1台くらいのスペースあり。
<交通手段>車
<感想>近江小室藩(1万石ちょっと)は1619年に備中松山から転封した小堀遠州を初代藩祖として立藩し、遺領を継いだ次男の小堀正之が1648年に小室陣屋居館を築きました。第6代藩主の小堀政方の時に田沼意次派だったことに目をつけられ、1788年不正発覚の為に改易、小室藩は廃藩となります。居館や家臣の建物は競売にかけられ土地は畑に使用することになりました。
南東方向4㎞程離れた場所に小室陣屋移築陣屋門があり先にここを訪れました。居館跡には特に遺構は残っておらず、城跡碑が2か所と森になっている居館部分と南側の竹藪との曲輪段差は何となくわかります。陣屋跡の東側に小堀遠州の重臣であった和田宇仲という人の居館跡があり清冷といわれた和田宇仲池(石組井戸)が残されています。茶人小堀遠州もここの水を使って茶をたてたかもしれません。
<満足度>◆◇◇
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2022/12/19 20:52
尾根に堀切 (2022/12/10 訪問)
西吾妻福祉病院の駐車場に停めさせて頂きました。
駐車場の端の方に小さな案内板があり、道なりに下って行きます。
案内板に従って進むとまずは堀切に当たります。
その堀切からさらに進むと鉄塔が建ち、その先に石碑がありました。
主郭と思われますがそんなに広くありません。
東側に一段降りると腰曲輪がありました。
主郭南側にも堀切があり、両サイドは竪堀となって落ちています。
その先にも曲輪がありますがここもそんなに広くありません。
尾根上に曲輪が直線に並ぶ城で海野原の戦いや長野原の戦いの舞台にもなりました。
羽根尾駅からも徒歩で行けるようです。
こちらはかなり登るかな?
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2022/12/19 19:49
桜装う松前城でした (2003/05/02 訪問)
松前城は幕末に築城された五島列島石田城(福江城)と共に日本式の城郭として福山館改修築城されてた城郭です、幕命で安政元年(1855年)築城し北方防備の任を担う、戊辰の役函館攻防では幕府軍と新政府軍との攻防がりました。
松前氏の悲願の築城でしたが翌安政2年松前領は幕府領となり陸奥梁川に3万石で転封。維新後三階櫓と本丸御殿、本丸御門が残されましたが昭和24年(1949年)類焼に三階櫓は焼失、昭和35年に三階櫓は外観復元再建されています。
19年前の5月連休、青森弘前城初探訪の後の翌日、弘前より特急北斗に乗り初の青函トンネル通過し函館駅へ、レンタカーで松前城へ直行し1日費やしました。
車はその当時松前城3の丸辺りの駐車場に駐めた様に思います。
探訪は二の丸より本丸御門、三階櫓見学探訪撮影、三階櫓登閣、本丸御殿の唐破風屋根玄関、内堀からの三階櫓探訪、復元されていた台場、搦手二ノ門、三本松土居辺り、二の丸三の丸の堀と土塁と回り、桜も満開、多品種の桜が咲いてる桜園も見学、見事なりものです、後松前藩屋敷、郷土資料館と回りました。
松前城は中学時代に認識し北海道の松前城を何時か行きたいと思って居りながら40年後の50代の半ばに家内と飛行機を使って弘前城、松前城、五稜郭廻りで松前城初登城叶う事が出来ました。遠いので中々行けません。
松前城、満開の桜を充分堪能して函館へ途中には小学校時代の横綱千代の山(その当時横綱は鏡里、吉葉山、千代の山、栃錦の4横綱、後に若乃花が入れ替わり、栃若時代の小学生でした)の記念館が有り寄り、トラピスト修道院にも寄り、夜は赤レンガ倉庫街散策と夕食、ファイナルに函館山で函館の夜景を眺める、写真で見てましたが臨場感も有り絶景に大満足でした。
投稿写真はフィルムカメラ主体の時代でしたので予備のコンパクトデジカメに残っていたわずかな写真を投稿します。
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2022/12/19 08:53
とことん一乗谷(山上御殿群) (2022/11/19 訪問)
一乗谷城は一乗谷の東側に聳える一乗城山の頂部に築かれた山城で、朝倉館の詰城にあたります。築城時期は不詳ながら室町中期には史料に見られ、朝倉氏の本城として一乗谷の繁栄を支えましたが、織田信長の侵攻を受けて朝倉義景は大野郡に落ち延び、一乗谷は焼き払われ、一乗谷城も廃城となったようです。
この日は一日かけてとことん一乗谷をめぐる! ということで、一乗谷史跡公園センターの駐車場に車を駐めて、馬出ルートからまずは一乗谷城を目指します。住宅地の先の八幡神社の麓に馬出ルートの案内表示があり、案内に従って進むと登山道入口の脇に馬出の石垣がみられます。馬出ルートは大手道とされ、出城にあたる小見放城を経て山上御殿群と呼ばれる居住区域に至りますが、道中には首を切られた石仏や岩壁に線刻された磨崖仏、石板に彫られた狛犬などが点在し、宗教施設の存在を感じさせます。
登山道入口から約40分で山上御殿群に到着。千畳敷跡の下段には不動清水と呼ばれる水場があり、不動明王の石仏の足元からこんこんと水が湧き出しています。千畳敷跡は本丸とも呼ばれる城内最大の曲輪で、大きな建物礎石が多数現存し石製の鬼瓦や棟瓦も発見されていることから、山麓の朝倉館に劣らぬ巨大な御殿が建てられていたと考えられます。千畳敷跡に南接する観音屋敷跡と観音屋敷跡上段の赤淵神社跡は、一乗谷城には珍しく土塁で方形に区画された曲輪で、観音屋敷跡の中央部には建物礎石が見られる土壇があり、建物の存在が想定されます。千畳敷跡には多数の破壊された石仏が集められていますが、観音屋敷跡や赤淵神社跡にはその名の通り宗教施設が設けられていたのでしょうか。観音屋敷跡南西隅から宿直跡に続く通路には石垣を施した土塁による虎口が設けられています。宿直跡からは一乗谷越しに福井平野を見渡す眺望が開けていますが……電線が邪魔! かなり近くを走っているため、どのアングルから撮っても電線が入ってしまいます…。宿直跡を見下ろす月見櫓跡にも登ってみましたが、ほぼ自然地形で雑木林と化していました。
山上御殿群北東の尾根は居住区域の防塁の役割を果たしており、尾根上にいくつかの曲輪を配し、堀切(切通)で尾根を分断し、尾根の外側(北東下)には一乗谷城の特徴であるおびただしい数の畝状空堀群が設けられています。下城戸・三万谷ルートに続く切通道を抜けたところに説明板があり、そこからも数条の畝状空堀が見えていますが、もっとあるはずだと畝と堀を乗り越えながら進んでいくと、あるわあるわ、藪化していたり浅くなっていたりでわかりづらい点はあるものの、これまでに見たことのない光景が広がっていました。さすがは一乗谷城で一番の見どころと言われるだけのことはありますね。畝状空堀群の効果を実感(横移動が大変!)しながら切通道に戻って、下城戸・三万谷ルートを下って行くと小さな曲輪があり、その下には空堀(と切岸)が掘られていました。登城道の片側だけなので堀切とは言えないにせよ、防衛施設のひとつではあったようです。
ここで切通道まで引き返して、今度は南東にのびる尾根上の連続曲輪群に向かいます(続く)。
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