【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く⑥】田原坂(後編)
(2022/07/17 訪問)
「⑤田原坂(前編)」からの続きです。
まず田原坂公園の入口には、戦没者を祀る慰霊碑があり、西南戦争での両軍戦死者(官軍6,923名、薩軍7,186名)の全ての名前が刻まれていました(写真①)。公園の中には「西南戦争資料館」がありました(写真②)。ここでは田原坂の戦いの様子が、迫力ある映像で詳しく解説され(前回写真参照)、実際に使われた銃や軍服(写真③④)や大砲のレプリカ(写真⑤)が展示されていました。周辺には、弾痕跡を再現した土蔵(写真⑥)もありました。
そして少し下った所にある、官軍・薩軍それぞれの墓地にも行ってみました。官軍の墓地には、一人一人の墓標に名前が刻み込まれていましたが(写真⑦)、薩軍は逆賊のため、その碑には名前もなく、ひとつにひっそりとまとめられていたのが、なぜか少し悲しかったです(写真⑧)。
田原坂公園から西の方向を遠望すると、官軍が砲台とした二か所の丘が見えました(写真⑨)。官軍は1日に平均で32万発の砲弾や弾丸をここ田原坂に向け打ち込んだそうです(これは後の日露戦争二百三高地の平均30万発を上回る数です)。
降りしきる雨の中、薩軍の銃は、戊辰戦争時に使用した当時では旧式のエンピール銃で先込め式のため、装填に時間がかかり(約30秒)かつ雨に弱いです。わらじに着物の服装も雨で動きにくくなり自由がききません。逆に官軍は最新式のスペンサー銃で元込め式なので、装填も早く(約6秒:薩軍の1/5の時間)かつ雨にも強く命中率も各段に改良された銃でした。服装も洋服に皮靴(長靴)、雨でも自由に動けます。
薩軍は17日間の戦闘で弾薬や食料が尽きますが、それでも決死の覚悟で今度は刀にて切り込みを繰り返します。しかし官軍は物資も豊富で、雨などもろともせず容赦なく薩軍へ砲弾や銃を撃ち込み続けました。最後には大部分の兵士が死傷して戦闘は終わったようです。ここ田原坂での薩軍の敗戦が、西南戦争の大きなターニングポイントになってしまいました。
私は頂上の公園に立ち、ここから田原坂を見下ろしました(写真⑩公園から最も激戦となった三の坂を見下ろす)。薩摩の兵(士族)たちは自分たちが勝てば「武士の世が復活する」と本当に信じて、ここで戦っていたのでしょうか? それとも、自分たちはこの日本に残った最後の「武士」としての誇りと意地を見せ、「華々しく散ることができる場所」を探していたのでしょうか?
田原坂を下る帰り道の途中で急に雨が降ってきました。気がつくと私は思わずこの歌を口ずさんでいました。
「雨は~、降る降~る♪、人馬は濡れる~♪、越すに越されぬ田原坂~♬」
この坂は、多くの薩摩士族の無念が、雨とともに血に染まり、そして流れて行った場所でした。
以上、全6回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。
(駅に着くとずぶ濡れでした)
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