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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:松帆台場 (2022/07/21 訪問)

岩屋城からの転戦です。拝原水産先空スペース(34.608154、135.003801)に駐車し、松帆台場(34.608794、135.002644)に向かいました。

1858年(安政5年)徳川幕府将軍家茂の幕命を受けた徳島藩により着工、1861年(文久元年)竣工。
建設の目的は、明石海峡対岸の明石藩舞子台場跡と対になって両岸から黒船を挟撃することでしたが、一度も使用されることはなく現在に至っているそうです。

台場部分の多くは神戸製鋼の保養所「ゆうなぎ荘」敷地になっており、見学は東の松帆恵比寿神社部分に限られているとのことで、付近をウロウロしただけです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白巣城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:岩屋城 (2022/07/21 訪問)

西明石駅でレンタカーを借りて岩屋城を目指しました。
登城口付近の空スペース(34.588807、135.021570)に駐車しましたが、お店の駐車場だった為、速攻で撤退です。
登城口(34.588960、135.021539)は藪化で入れないので、絵島(34.589834、135.021561)を確認して速攻で撤退です。

1610年(慶長15年)池田輝政によって築かれたと云われています。
1610年(慶長15年)姫路藩主池田輝政の三男池田忠雄が淡路国一国を所領としたが、当初は父輝政が重臣を派遣して淡路一国を支配していたそうです。
家臣中村主殿助を遣わして淡路の国政を任せ、1611年(慶長16年)には淡路国全域の検地を実施しました。
1613年(慶長18年)に忠雄に支配が任されると由良城を築き、その際に岩屋城の部材を転用して廃城となりました。
ちなみに、近隣にはもうひとつ永禄年間に安宅八家衆の安宅宗景がいた松尾山の岩屋城があります。そこに現在、温浴施設の美湯松帆の郷が建てられているそうですが、そちらは城びと未登録です(行っていません)。

攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=松帆台場に向かいます。

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織田晃司

来てみな!飛ぶぞ! 飛びます 飛びます コタローねぇ (2022/07/29 訪問)

飛山城史跡公園として整備されてます。

同じ6号堀でも復元整備された区間と未整備の区間との対比はおもしろい演出だと思う。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:魚住城 (2022/07/21 訪問)

枝吉城からの転戦です。西江井ヶ島駅から徒歩7~8分くらいで、西島出張公園前(34.680087、134.907512)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代末期に魚住長範によって築かれたのが始まりのようです。
1578年(天正6年)三木城主別所長治が毛利方となり、織田氏がこれを攻めると、魚住城は毛利方の補給路として重要な役目を担っていましたが、三木城の落城によって役目を終えたそうです。

遺構は残っておらず、公園前に説明板が設置されているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=岩屋城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取る為、電車で西江井ヶ島駅から西明石駅に向かいます。
魚住城に向かう途中の明石駅ホームから見た明石城の写真も投稿します。
次の攻城先=岩屋城からはレンタカーを借りて攻城です。(四国一周はレンタカーで廻ります)

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:枝吉城 (2022/07/21 訪問)

本日から四国の城を巡る為、前日に西明石駅近のスマイルホテル西明石に宿泊していました。朝早く起きて、ホテルの朝食前に枝吉城&魚住城を攻城しました。
早朝の為、吉田郷土館は開いていないので、攻城は神本大明神鳥居前(34.668332、134.975559)に行き、神社拝殿左側にある神輿庫の裏から登城し、吉田郷土館横に下りてきました。

枝吉城の築城年代は定かではないようですが、室町時代中期に赤松氏被官の明石氏(黒田官兵衛の母の出身地)によって築かれたと云われています。
枝吉城は二度の合戦が行われました。
一次枝吉城の戦い:1538年(天文7年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政が、阿波の細川持隆の支援を得て、1539年(天文8年)に明石正風(長行)を攻めた後、晴政と正風は和睦したそうです。
二次枝吉城の戦い:1555年(天文24年)に三好長慶軍に攻められ、この時も明石氏は和睦しています。
明石氏の最期の城主は明石則実で、三木合戦では羽柴秀吉軍に与し野口城を攻めた功績により、1585年(天正13年)に但馬国豊岡城の城主となり、かわって摂津国高槻より高山右近が入封しました。
1595年(文禄4年)豊富秀次の謀反に連座して、明石則実は切腹させられました。
右近は船上城を築いて移ったため、枝吉城は廃城となりました。

本丸の一部が公園となっており、城址碑が建てられています。
城郭配置図の写真も撮りましたが、ぼけていて投稿できません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=魚住城を目指す為、電車で西明石駅から西江井ヶ島駅に向かいます。

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織田晃司

住宅地にある自然豊かな平城 (2022/07/29 訪問)

城跡に2台分の駐車場あり。駐車場までの道は狭く離合は難しい。

城の管理を3人の所有者で行っているという。
感謝です。

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織田晃司

ちょっとそれはやりすぎでしょう… (2022/07/29 訪問)

城跡を公園としているのだが正面入口の石垣といい欄間のついた門といいちょっとそれはやりすぎでしょう…

水堀と土塁が残る。

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にのまる

攘夷から開国へ (2022/06/09 訪問)

幕末に長州藩が海岸線に沿って築造した砲台のひとつです。
二度も占拠され、跡地も焼き払われた、一見“何もない芝生広場”が国史跡・日本遺産に指定されたのは、やはりここが日本の夜明けのターニングポイントとなった場所であるゆえだと思います。占拠された様子は世界中に配信され、教科書にも載っていましたし、昨年訪れた金沢の寺中御台場の説明板には「長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し海岸ではなく内陸に台場がつくられた」とあり、日本中、世界中に与えた衝撃の大きさを感じました。
そんなことを考えながら、低台場・高台場の二段構えの台場跡を歩き、目の前を航行する船舶を眺めつつVRの「建物OFFバージョン」の力も借りながらイメージすると当時の緊張感がじわじわと伝わってきます。高台場のシートは発掘中なのか?気になるところです。

大砲は全て連合軍に接収されたそうですが、ここから1km強のみもすそ川公園には長州砲のレプリカがあり、100円を投入すると発射音(3発)と煙の演出を楽しめます。

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く⑥】田原坂(後編) (2022/07/17 訪問)

「⑤田原坂(前編)」からの続きです。

まず田原坂公園の入口には、戦没者を祀る慰霊碑があり、西南戦争での両軍戦死者(官軍6,923名、薩軍7,186名)の全ての名前が刻まれていました(写真①)。公園の中には「西南戦争資料館」がありました(写真②)。ここでは田原坂の戦いの様子が、迫力ある映像で詳しく解説され(前回写真参照)、実際に使われた銃や軍服(写真③④)や大砲のレプリカ(写真⑤)が展示されていました。周辺には、弾痕跡を再現した土蔵(写真⑥)もありました。

そして少し下った所にある、官軍・薩軍それぞれの墓地にも行ってみました。官軍の墓地には、一人一人の墓標に名前が刻み込まれていましたが(写真⑦)、薩軍は逆賊のため、その碑には名前もなく、ひとつにひっそりとまとめられていたのが、なぜか少し悲しかったです(写真⑧)。

田原坂公園から西の方向を遠望すると、官軍が砲台とした二か所の丘が見えました(写真⑨)。官軍は1日に平均で32万発の砲弾や弾丸をここ田原坂に向け打ち込んだそうです(これは後の日露戦争二百三高地の平均30万発を上回る数です)。

降りしきる雨の中、薩軍の銃は、戊辰戦争時に使用した当時では旧式のエンピール銃で先込め式のため、装填に時間がかかり(約30秒)かつ雨に弱いです。わらじに着物の服装も雨で動きにくくなり自由がききません。逆に官軍は最新式のスペンサー銃で元込め式なので、装填も早く(約6秒:薩軍の1/5の時間)かつ雨にも強く命中率も各段に改良された銃でした。服装も洋服に皮靴(長靴)、雨でも自由に動けます。

薩軍は17日間の戦闘で弾薬や食料が尽きますが、それでも決死の覚悟で今度は刀にて切り込みを繰り返します。しかし官軍は物資も豊富で、雨などもろともせず容赦なく薩軍へ砲弾や銃を撃ち込み続けました。最後には大部分の兵士が死傷して戦闘は終わったようです。ここ田原坂での薩軍の敗戦が、西南戦争の大きなターニングポイントになってしまいました。

私は頂上の公園に立ち、ここから田原坂を見下ろしました(写真⑩公園から最も激戦となった三の坂を見下ろす)。薩摩の兵(士族)たちは自分たちが勝てば「武士の世が復活する」と本当に信じて、ここで戦っていたのでしょうか? それとも、自分たちはこの日本に残った最後の「武士」としての誇りと意地を見せ、「華々しく散ることができる場所」を探していたのでしょうか?

田原坂を下る帰り道の途中で急に雨が降ってきました。気がつくと私は思わずこの歌を口ずさんでいました。

「雨は~、降る降~る♪、人馬は濡れる~♪、越すに越されぬ田原坂~♬」

この坂は、多くの薩摩士族の無念が、雨とともに血に染まり、そして流れて行った場所でした。

以上、全6回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。
(駅に着くとずぶ濡れでした)
 

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く⑤】田原坂(前編) (2022/07/17 訪問)

「④薩軍と西郷隆盛(後編)」からの続きです。

西南戦争最大の激戦地となった「田原坂(たばるざか)」を歩いてきました。

JR鹿児島本線の「木葉(このは)」駅をスタートし、まず麓の「正念寺」を訪ねました(写真①)。ここには最初は官軍の病院が置かれましたが、その後両軍分け隔てなく治療し、これが後の「博愛社」(「日本赤十字社」の前身)となりました。

さあ、ここからいよいよ田原坂を登ります(写真②)。加藤清正は熊本城下には簡単に敵が侵入できないよう、全ての街道の熊本への入口をわざと狭くし曲がりくねった道にして、かつ狙撃しやすいよう掘って一段下がった道にしたそうです。田原坂もその一つですが、ここが熊本へ大砲なども運べる唯一の道だったそうです。

一の坂、二の坂、三の坂と登って行きます。確かに道は曲がりくねり、さらに両側の一段上にはうっそうとした竹林や杉林に囲まれ、全く先が見えません(写真③④⑤⑥)。竹藪の間に隠れている薩摩の兵から狙撃されてしまいそうな、あるいは竹藪の間から突然「ちぇすと~!😲」と叫びながら刀を振り下ろす薩摩の兵が現れ、あっという間に切られてしまいそうな・・・そんな感じです(写真⑦⑧⑨⑩資料館シアターにて)😱~

そして命からがら何とか頂上の「田原坂公園」まで辿り着きました。(駅から公園まで徒歩40分です)。

「⑥田原坂(後編)」へ続きます。
 

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キンヤ

長久手の戦いの前哨戦となり、本丸を取り囲む空堀が見応えある城 (2022/07/31 訪問)

戦国時代にこの地方の有力な土豪であった岩崎丹羽氏の城で、本能寺の変の後は織田信雄、徳川家康に仕えていたとされます。
1584年の小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉方の池田恒興らが家康の岡崎城を奇襲するために岩崎城の付近を通りがかった時、岩崎城を守っていた丹羽氏重は攻撃し、城兵約300名が戦死し落城しました。
この戦いで池田恒興らを足止めすることができ、家康方は長久手で勝利したとされます。

模擬天守は賛否両論あるかもしれませんが、この地域のシンボル的存在で、南蛮造りのようにも見え、なかなかオシャレです。

歴史記念館では、長久手の戦い、岩崎城の戦いを学べます。

公園化されていますが、曲輪、空堀、櫓台、土塁、井戸などが残っています。
この城で1番の見所は本丸を取り囲む大きな空堀で見応えがあります。

街中に遺構がよく残り、尾張では貴重な城だと思います。

岩崎丹羽氏の菩提寺である妙仙寺には市指定文化財の山門、丹羽氏のお墓があります。

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織田晃司

二宮尊徳の勤務地 (2022/07/29 訪問)

ここで農政改革を行い成果を出す。
二宮尊徳(二宮金次郎)は全国の小学校にある薪を背負いながら本を読む。あの銅像の人です。

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織田晃司

モオカ (2022/07/29 訪問)

城跡には小学校 昨日の豪雨嘘のようさ
ポケットからサングラス取り出して
街中を淡いブルーに変えた
Oh thanks thanks thanks thanks真岡
thanks thanks thanks7月のsad song
Mu…忘れないさ
Mu…今年の夏
Mu…この城さえダイヤモンドにきらめいた
何もかもが君のせいさ Oh真岡

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織田晃司

山城ですが (2022/07/29 訪問)

本丸そばまで車で登れます。(途中切り返しの必要なカーブがありますが…)

芝生は刈られて整備は行き届いてます。

二の丸から来たのかアオダイショウがいたので気をつけてくださいね。

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北条氏勝

『信長の野望』で見かける「十市城」の現在の姿 (2022/08/01 訪問)

 私は、歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』が好きでよくやっていました。そのゲームの中で、大和国の城として登場するのが「十市城(とおいちじょう)」。ゲームの中では知っていますが、現在どのような姿をしているのか気になる!ということで、奈良県橿原市にある十市城にさっそく行ってきました。

 降り立ったのは近鉄橿原線笠縫(かさぬい)駅。そこから徒歩約20分のところに「十市城」があります。駅からお城へ行く途中に、お城の守りとなっていただろう寺川という川がありました。地図で見ると「十市城」の西と南に寺川が流れ、東に大和川が流れていました。お城の立地としては良好かもしれません。駅からお城までの道は平坦で、平らな奈良盆地に築かれた平城なのだと分かりました。遺構としては、皆無としか言いようがありません。十市城跡を目指して歩きましたが、そこにあったのは石碑のみ。石碑周辺は畑と住宅で、土塁や地形的な起伏も確認することができませんでした。以前発掘調査が行われ、大溝が発見されたようですが、現地ではその遺構を確認することはできませんでした。

 しかし、やはり城好き。石碑があるだけでもありがたく、写真をパシャパシャ撮りながら城跡を後にしました。「十市城」の現在の姿を見届けることができ、とても嬉しかったです。

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織田晃司

なぜ? (2022/07/29 訪問)

これだけの素晴らしい山城が百名城・続百名城に選ばれなかったのだろうか?

登城して損のない城です。

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織田晃司

龍城公園 (2022/07/28 訪問)

龍城公園として公園化してますが遺構は随所に残ってます。

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織田晃司

キレッキレの堀 (2022/07/28 訪問)

本丸を取り囲む空堀。
高い土塁のせいで高く見える切岸とキレッキレの空堀。
見ごたえありです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:船上城 (2022/07/20 訪問)

舞子台場からの転戦です。西新町駅から徒歩6~7分くらいで、船上西公園(34.647993、134.975544)に着きました。
城址の稲荷を確認しようと稲荷入口(34.647531、134.975352)付近まで行きましたが、私有地で立ち入り禁止で断念しました。
その後、17~18分くらい歩いて、明石城に移築された織田家長屋門(34.650229、134.988611)を確認しました。
織田家長屋門から明石駅に戻る途中、ライトアップされた明石城を確認。なかなか幻想的ですね。
明石城の攻城は2回目(1回目は2018/12/2)になります。

船上城は豊臣秀吉の命により、高山右近が築いたとされる城です(それ以前に別所吉親による築城説もあります)。
しかし、1587年(天正15年)に発令されたバテレン追放令によって右近は追放されることとなり、その後は秀吉の直轄領となって城番が置かれました。
「関ケ原の戦い」後は池田輝政が姫路城の支城として、八男・利政を城主としました。
「一国一城令」後には城としての機能はほぼ失われており、1619年(元和5年)に明石城が築かれると廃城となりました。

船上西公園と古城大明神の祠本丸跡の間の古城川は堀の役目をしていたような感じです。
明石城外堀沿いに移築現存された織田家長屋門も忘れずに。また、明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓を移築したものと伝わっています。
攻城時間は移動時間も含めて35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先がある西明石駅に向かいました。明日から四国遠征です。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:舞子台場 (2022/07/20 訪問)

兵庫城からの転戦です。舞子駅から徒歩5分くらいで、明石藩舞子台場跡(34.633320、135.032289)に着きました。

明石藩舞子台場(舞子砲台)跡は1863年(文久3年)明石海峡の防備を目的として、淡路島北端(淡路市)に1861年(文久元年)に築造された徳島藩松帆台場と対をなして、両岸から海峡を通過する黒船を挟撃する目的で建設されましたが、一度も使用されることはなかったそうです。

台場の一部と石垣の一部が確認できます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船上城を目指す為、電車で舞子公園駅から西新町駅に向かいます。

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