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みぃ

琵琶湖一望の山の上 (2023/01/17 訪問)

八幡山のロープウェイで上がって行くと、琵琶湖と伊吹山など眺めがとても良いところにある。安土城落城の後、豊臣秀次が築城した。
本丸を山頂に、二の丸、北の丸、西の丸、出丸などがあり、それぞれ眺めが良く、遠く雪山が見え、それば伊吹山だそう。
お城が廃城になり、山頂部の本丸跡に、秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺が京都より移築された。菊の紋が印象的。
御城印は、瑞龍寺で購入。
2月からGWごろまで、豊臣家のお雛様を展示するそうだ。

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徳川の城 (2024/02/02 訪問)

 外堀を一周しました後、内堀周辺と本丸等を散策しました。冬だと葉も落ちて遺構が見やすいです。天守閣も行きましたが、冬の平日で空いているか思っていましたが予想以上に観光客が来ていましたね。豊臣氏の頃の大阪城はどのような城であったか気になります。

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外堀 (2023/02/02 訪問)

 久しぶりに登城しました。この城の魅力は高石垣と水堀だと思っています。外堀から見る風景が好きでぐるりと一周しました。

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常宣寺 (2023/02/02 訪問)

 石山本願寺が築いたとされる51の出城のひとつと伝わっています。常宣寺が推定地です。大阪市顕彰史跡パネルが設置されています。

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善福寺 (2023/02/02 訪問)

 石山本願寺の51の出城のひとつと伝わっています。善福寺付近が推定地です。以前は大阪市顕彰史跡パネルが設置されていたようですが、行ったときは山門付近にはありませんでした。

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POYO58

続日本100名城No.6 浜松城 2年ぶりの攻城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★☆☆ 石垣、曲輪、井戸、武者走り 復元:天守門と天守
久しぶりの投稿です。
さて予言していた通り、浜松城に行って参りました。あ、カズさん。ごめんなさい大河ドラマ館行きませんでした。とにかく混み過ぎ…電車の都合で30分待ちは無理だったので、岡崎城の大河ドラマ館に行きました。
浜松城は、徳川家康によって築城されました。しかし、今残っているのは7割くらいが堀尾吉晴の遺構かな。二俣城や鳥羽山城と石垣が似ていました。ただ二の丸にはどうやら家康の遺構が残っているそうですね。
おそらくですけど浜松城に行かれた人のほとんどは天守が見どころだと思っていらっしゃると思いますが、天守を除いても見どころはたくさんあります。

武者走り
かつて本丸にきた敵兵を城兵が武者走りの上から鉄砲で集中攻撃をしていた場所ですね。本丸をぐるっと囲っていて土台が高石垣なので敵兵が簡単に登ることもできません。

八幡櫓台、富士見櫓台
今は石垣が残っています。八幡櫓台は天守の隣側に立っていたため、見逃す人多いのではないでしょうか?富士見櫓台は今も富士山を眺めることができます。またここからみた天守も綺麗ですよ。富士見櫓は最近の調査で玉石が使われていたことが明らかになっています。

また天守の地下一階には井戸が展示されています。築城当時からずっと残っていたもののようです。また浜松城の天守については謎が多く、未だ解明されていません。
天守がリニューアルして黒瓦から金瓦に変わっています。天守も観察してみてください。

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肉球

鶴牧陣屋・千葉県市原市 (2022/12/30 訪問)

先に投稿した姉ヶ崎陣屋から川を渡った先にある姉ヶ崎小学校が跡地です。
姉ヶ崎陣屋とは逆に江戸時代後半1827年安房国北条藩から移った水野氏によって築かれた陣屋跡です。
学校の入り口と校門内に石碑が建っています。
遺構はありません。

橋を渡り学校の裏にある山が椎津城の一部、正坊山砦です。
ここから椎津城まで5分ほどです。 

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肉球

姉ヶ崎陣屋・千葉県市原市 (2022/12/30 訪問)

江戸時代の初め(1607年)結城秀康の次男忠昌が姉ヶ崎藩を立藩し常陸下妻へ移封(1615年)
その後忠昌の弟直政が(1616年)立藩し越前大野へ移封(1624年)
二人の殿様20年弱しか存在しなかった為か遺構はまったくありませんし稲荷神社の建つ場所も伝承地です。
姉ヶ崎駅前に車を停め椎津城へ向かう細い路地を入った住宅街に稲荷神社はあります。

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肉球

整備されています (2022/12/30 訪問)

築城に関しては諸説あるようですが14世紀に築かれ豊臣秀吉の小田原攻めで浅野長政に攻められ落城したようです。
今は工業地帯が広がり海から離れていますが当時はもう少し海に近かったと思われます。
東京湾に向かって突き出た台地に築かれ南側と北側の台地にも砦が築かれていたようです。

最近見学できるようになったばかりのようで民有地と市有地が入り組んでいます。
主郭に案内板があり歩ける部分が記されていますので注意が必要です。
主郭近くには駐車場がありませんので姉ヶ崎駅近くのコインパーキングに停め10分ほどで歩けました。

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侍ホリタン

細川幽斎(藤孝)公隠居の名城を訪ねて (2022/06/18 訪問)

本能寺の変後、隠居した細川幽斎公の居城として築かれ、細川氏、京極氏、牧野氏と城主を変えながら明治に至るまで領内統治の中心でした。関ヶ原の前哨戦では西軍1万5000の兵に対してわずか500の兵での籠城戦に50日近くも耐えました。この戦いは細川幽斎公が「古今和歌集」唯一の伝承者であったため、廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅命により西軍の包囲が解かれています。
城門の隣に6台程度停める事ができる臨時駐車場有ります(無料)。 城門の2階が田辺城資料館(有料)、櫓内は細川幽斎公を紹介する資料館(無料)になっています。御城印は田辺城資料館にて販売されています。

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侍ホリタン

明智光秀公が築いた京都京北の名城を訪ねて (2022/06/12 訪問)

京都と若桜を結ぶ周山街道の中間点、標高480mの山頂に築かれた山城です。1579年築城後1582年まで明智光忠公の居城でしたが、山崎の戦い後には加藤光泰公が入城、その数年後に廃城となっています。石垣を多用した作りと規模は安土城にも匹敵するものと言われています。
登城口周辺には駐車場がないので道の駅「ウッディ京北」を利用すると良いです。登城口まで徒歩10分程度です。パンフレットは道の駅内のレジでもらえます。石垣の一部が崩れかかっておりトラロープがはられているので見学には注意が必要です。 御城印は慈眼寺にて販売されています。慈眼寺には逆臣の汚名により墨で真っ黒に塗られた明智光秀公の坐像があります。

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モト

境内に横山神社があります (2023/01/31 訪問)

八雲八幡神社が跡地との事です。
武蔵の武士団の横山党の館があった場所になります。
境内には始祖である横山義孝を祀った横山神社がありました。

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トク

⑯【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (宇喜多秀家と岡山城天守) (2023/01/19 訪問)

(9人目)は「宇喜多秀家」です。
関ケ原当時の居城、「岡山城」を訪れてきました。

岡山城は昨年リニューアルされました。4年ぶり2度目の訪問ですが、以前よりあざやかな黒に生まれ変わっていたのでビックリしました! 見事なまでに艶のある黒漆塗り、そして金箔瓦や金の鯱とのコントラストが・・・うわ~実にまぶしい😎! しばらくその美しさに見とれてしまいました。まさに烏城の名にふさわしい今が必見です!(写真①②)。

城内もリニューアルされていました。宇喜多→小早川→池田氏の歴史が実に分かりやすくまとめられています。地元岡山出身の磯田先生の声による解説などもあり(写真④)時を忘れるくらいにとても楽しく見学する事ができました。(結局館内を2周してしまいましました)。

私の一番好きな角度はここです(写真⑥)。この不等辺五角形の石垣のふくらみに合わせた天守のやわらかい形。そしてそのふくらみのちょうど上の部分に唐破風がありアクセントのとれたデザイン。さらにその上段(三重階)ではちゃんと安定した四角になる。まさに望楼型でないとできない技ですよね! 元々の天守台の固い地盤がこのような形だったため、工期短縮のため天守台を削るより上の天守を台の形に合わせた方が早いとして築城したのでこうなったとか?

備中高松城攻めの折、宇喜多直家は毛利を裏切り秀吉に付く証として、子の秀家を人質として秀吉に託します。そして秀家はねねの下で猶子として成長し、岡山(備前・備中・美作・播磨)57万石を与えられるまでになりました。築城当時は、西の毛利、さらにその西には九州・四国の豊臣に従わない(あるいは従ったふりをしているだけ)の諸大名が多くいたため、豊臣の象徴である黒塗りの城に許された者だけがつけられる金箔瓦を施し、それらの諸将ににらみをきかせ、豊臣は自分が守るという秀家の築城時の決意の表れがこの城に込められているのではないかと思いました。

私は岡山城の天守に立ち眺めて見ました。旭川が天然の堀となり、金の鯱と重ね合わせた後楽園や街との風景は、とても美しく感じました(写真③⑦)。秀家はこの景色を眺めながら、どんな思いで関ケ原へ出陣して行ったのでしょうか? 五大老の中で最も若い28才。色白な表情(写真⑧)とは裏腹に、西軍の中では最も血気盛んで、三成にとってはとても頼もしい存在に映っていたのではないでしょうか?

次は、(岡山城の石垣)へ続きます。

【余談】岡山名物「きびだんご」
おみやげに名物「きびだんご」買いました(写真⑩)とてもおいしかったです。これを食べた(きじ・さる・犬)がついて行った理由がよくわかりました(笑)。
 

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赤い城

丹沢湖のその先に (2023/01/22 訪問)

県道76号線を北上、丹沢湖の横を進み中川橋を右折します。
渡ったところに広いスペースがあり、車を停めました。
車では侵入禁止のトンネルを抜けて5分くらい進むと城址になります。
案内板も石碑もありませんが主郭には土塁っぽい小山があります。
立入禁止の下の郭を見下ろすと広く平らな曲輪が確認できます。
以前はキャンプ場だったとのことです。
車ならまだしも交通機関の場合行く苦労の割には?って感じかと思いました。
奥牧野城とともに神奈川コンプリートの最難関かと。

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真光寺はいずこに (2023/01/29 訪問)

城びと先人のレポートに、真光寺に説明板あり、とあり、砦趾である、神須牟地(かみすむち)神社参拝後に、真光寺を探しました。お寺さんの大きな屋根がすぐ見つかるだろうと、神社周りを歩きましたが、見当たりません。google mapを拡大しても現れません。google mapで検索したら地図上に表示されました。狭く、曲がった路地を行きます。お寺の塀の説明板には、曲がりくねった道は、環濠集落のなごりだと。道端に付近の地図があったので掲載しました。

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赤い城

スカイツリーと同じ高さ (2023/01/15 訪問)

大月駅から畑倉登山口まで徒歩で約30分。
現在、土砂崩れのためここか浅利登山口からのみ登城可能です。
登山口からさらに約20分くらい登ると本丸に着きます。
この日は生憎の天気で足元も良くなかったのですが、途中の竪堀も見ながらの登山でした。
本丸には鉄塔が建ち、その背後には深い堀切が二条。
当時は動線にもなっていたようです。
西側に曲輪が続き、蔵屋敷に説明板がありました。
スカイツリーと同じ高さの634m、晴れてたら富士山も見えるはずですがこの日は眼下にも雲。
眺望は残念でした。
揚城戸跡の巨石まで見学しましたがこの先の稚児落としや大手の堀切は諦めて引き返しました。
小山田信茂の居城で武田氏滅亡の契機となった城。
真田丸でのシーンを思い出しました。
このあと少し歩いて日本三奇橋の一つ、猿橋を見学して帰りました。
本来の三つのうち富山の愛本橋はもう無くなっていますが、錦帯橋、神橋、かずら橋も行ったので制覇したことにしておきます。

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イオ

城下町めぐり (2023/01/15 訪問)

(続き)

高槻市では「高槻まちかど遺産」として選定した史跡に小さな説明板を設置しており、歴史民俗資料館でもらった高槻まちかど遺産マップ(たかつき歴史Webからもダウンロードできます)を片手に高槻城の城下をめぐってみました。

しろあと歴史館の前には思案石(まちかど遺産番号18)が設置されています。元々は本行寺近くの外堀沿いにあった石垣石で、矢穴の跡も見られます。生活に困窮した人がこの石に腰掛けて堀に身投げするか思案したことから思案石と呼ばれるんだとか。
しろあと歴史館の前の道路は外堀跡、西側の交差点から南に続く道路は内堀跡で、それぞれ緩やかに傾斜しており、交差点南東部に高槻城の説明板とまちかど遺産「道路に残る高槻城の堀跡」(番号17)が建てられています。また、しろあと歴史館から少し東に、次いで北に進むと何度も直角に曲がる道路が続いており、この道も外堀跡(番号16)のようです。折れを設けて横矢が掛かる堀が続いていたんですね。外堀道が北端で西に折れるあたりに本行寺があり、外堀北東部一帯は寺町になっています。本行寺の山門は高槻城の高麗門が移築されたものです。西に続く外堀道沿いには堀の名残の水路も見られます。信号のある交差点を南に入ったところが北大手門跡(番号12)ですが、まちかど遺産の説明板があるだけで痕跡も感じられません。

北大手門跡の少し南にはカトリック高槻教会があり、高槻城主ユスト高山右近之像や高山右近顕彰碑が建てられています。高山期の高槻城下には教会堂が建てられ、安土からセミナリヨが移転し、2万5千人の領民の7割強がキリシタンだったと云われます。現在の野見神社が教会堂の比定地とされ、道向かいの商工会議所の入口脇に髙山右近天主教会堂趾の石碑と説明板が建てられています。商工会議所の南西隅は江戸後期の絵図にも描かれているムクノキが立っていた場所で、現在はムクノキ大明神の祠(番号15)があります。また、商工会議所の南東道路沿いには厩郭枡形門の石垣石と説明板が設置されています。
野見神社(牛頭天王社)は高山期に破却されるも江戸初期には三の丸内の現在地に再建され、城内守護として崇敬されました。境内には摂社として高槻永井氏初代の永井直清を祭神とする永井神社が祀られており、神門は高槻城唐門の移築とも云われます。

野見神社から高槻現代劇場(市民会館)の裏手に回ると西側が一段低くなっており、三の丸と外堀の段差(番号14)のようです。外堀の西側は岡部期に拡張された出丸で、四方を水堀で囲んだ北側に門(番号13)が設けられていました。出丸跡もすっかり住宅地になっていますが、地名(出丸町)だけでなくクランク状の道に往時の痕跡を感じます。出丸を南に抜けて突き当たる東西に続く道路も外堀跡で、道路沿いに名残の水路が見られました。外堀沿いに東に進んだ先の北側一段高いあたりが蔵屋敷(番号22)だったようです。
高槻城公園の南東で外堀は北に折れて土塁(番号21)に沿って続いています。このあたりには江戸後期に藩校・菁莪堂(番号20)があったようです。現在の中学校の敷地内でしょうか。公園から東に出ると八幡大神宮の前の道路も外堀に沿って折れていて、北に進むと東大手門跡の説明板が立てられていました。

…ということで、高槻城下をほぼ一周。街なかの城の哀しさで明瞭な遺構は見られませんが、あちこちに設けられた高槻まちかど遺産の説明板をたどってみると道路や町割りに痕跡が感じられ、思いのほか楽しませてもらいました。
 

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todo94

元日攻城の締め (2023/01/01 訪問)

元日最後の攻城は別府城。東別府神社に城址碑と説明板があり、ぐるりと土塁と空堀が巡っていました。城址碑の表記は「史蹟 東別府館址」となっています。

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橋吉

和田氏の館跡 (2023/01/15 訪問)

愛知県安城市の安城古城は、後に安祥城を築いたといわれる和田氏の館跡です。

安祥城祉公園から約800mでしたので徒歩で移動しました。
12分ほど西に向かうと、民家の裏に竹藪がありました。

道を隔てて神社があり、この神社が安城古城跡です。

周囲は畑でところどころ宅地になっています。
畑に比べ少し高くなっています。
城というよりは館程度だったようですが、それにしても小さいです。
おそらく、神社が設置された部分は残されたのですが、他は農地に転用されたのではないでしょうか。

1440(永享12)年、安祥城が築城されましたが、 その後の1540(天文9)年、織田氏が安祥城を攻めた時、松平軍はこの地に兵を入れて、砦として戦ったともいわれていますのでその頃はまだ支城として機能していたようです。

見学所要時間:10分

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にのまる

前編 (2023/01/02 訪問)

18きっぷの5回目。
津和野駅到着後、まずは観光案内所で帰りのDLやまぐち号の座席確保をお願いしました。津和野駅は無人駅でみどりの窓口もないので、帰りの乗車前に手書き切符を受け取る方式です。

【リフト】
駅からは徒歩で、馬場先櫓、物見櫓を見学しつつ城跡観光リフト乗り場へ。ここで100名城84個目のスタンプを押し、片道5分の空中散歩です。
自然歩道は片道40分とあったので大変そうかなと思ってリフトにしたのですが、眼下を横切るのは舗装道。大丈夫だったかも⁉︎

【出丸】
山頂でリフトを降りると早速いい感じの堀切が出現しました。その先の織部丸は城下や周辺の監視と本城の守備という役割をもった出丸です。城下は丸見え、本城を向くと心強い守りだったことが理解でき、現地に足を運んでこそ知ることのできる光景に暫し酔いしれてしまいました。長らくの修復も完了し、礎石や瓦片の散らばり具合もばっちり。これだけ状況証拠が揃えば、二基の櫓の姿はなくとも充分です。

【本城】
そしていよいよメイン会場、本城へ。いきなりの瓦片パラダイスに目がギラギラしてきます。紋や文様付き瓦は見つけられませんでしたが大きな丸瓦もいくつもあり眼福でした。
津和野城は鎌倉時代の海岸防衛のための山城をそのまま石垣の近世城郭につくりかえ、大手と搦手を逆転させて城下町の整備をすすめ、幕末の長州征伐の際には中立を保って戦火を免れたという歴史をもっています。現役選手生命600年。先発(吉見氏)→中継ぎ(坂崎氏)→抑え(亀井氏)のリレーによる完封勝利のようにも思えてきます。中でも17年間の在城中に高石垣や織部丸を築き防備を固めた坂崎氏のワンポイントリリーフはお見事で、亀井氏のロングリリーフも坂崎氏時代があったからこそだろうと感じました。
黒・赤2種類の瓦、平板状と斜めのものとタイプの違う土塀の控え柱の礎石からも改修を重ねて維持されてきたこと、最後まで大切に守られてきた歴史を感じました。
人質郭の石垣や三の丸西側の横矢掛、三十間台からの眺望など嬉しくて堪らない光景にたくさん出会えました。樹木の伐採、石垣修復と、この壮大な城を後世に残し伝えていくために多くの人が尽力されていることを思います。私にできることは、楽しかったよ!とここでお伝えすることだけ。津和野城めっちゃ楽しかった!
<続く>

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