周辺を領した千葉氏の重臣の印東氏が安貞元年(1227)に築城、また多くは応永年間(1394~1427)に印東氏が築城したと載る。その頃、成東は上総国武射・南郷と言い、築城者は南郷氏も名乗ったらしい。1530年頃、千葉勝胤・胤定が再興したと言われ、胤定は後に成東氏と名乗ると。天正18年(1590)に秀吉の小田原攻めにより小田原城は開城、成東城・成東氏も運命を共に。家康の関東入封後は石川氏・青山氏が入るが、元和6年(1620)廃城になったとある。
城跡公園入口脇に小さいが駐車場がある。道の右は二の丸(城之内曲輪)、左は土塁状で道は本丸(愛宕曲輪)から二本目の堀になる。後刻、案内の縄張図を見て分かる。本丸(愛宕曲輪)西虎口前に左右に掘、土橋が現れる。堀の手前を時計回りに西から北、北東へ行くと、堀を越え北虎口で本丸に入れる。南の眺めは良いが、他は皆無。本丸の東に一段低く、本丸の1/3程度の曲輪がある。二の丸(城之内曲輪)は本丸より少し広めで、土塁などが遺り、北西末端は櫓台跡と言われる。二の丸から西に外曲輪があり、土塁・堀などあったが、宅地造成、テニスコートなど開発が進んでほぼ失われている。
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