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にのまる

伝・並木屋敷跡。長者原廃寺跡も行きました。 (2022/11/27 訪問)

接待館から徒歩10分くらい。「並木屋敷(伝)」の説明板がありました。
抑えておきたかった場所なので、“伝”であっても、目に見える遺構がなくても満足度は高かったです。(写真①~③)

このあと長者原廃寺跡に行きました。(写真④~⑦)歩いて10分くらいです。
“遺構がなくても満足”の前言撤回するわけではないですが、目に見える遺構や復元された姿を目に出来るのはとてもありがたいし幸せです。
現地説明板に〈源頼朝も目にしたかった礎石群〉とありました。
「頼朝も城柵好きの礎石マニアだったか(゚д゚)!」
と急に親近感を感じ、帰宅後、吾妻鏡の現代語訳(吉川弘文館)を借りてみました。
文治5年(1189)9月27日の頁。
“草に覆われ礎石の場所もわからず……”
頼朝さんも藪漕ぎしたのかな( *´艸`)

ここまで歩いてきたので平泉駅まで戻るのがすごく面倒で、やっぱりレンタサイクル借りればよかったかなぁと思いつつ中尊寺から平泉駅までのバス便を検索してみたら一ノ関行きだったのでそのまま新幹線で帰れました。なんかよかったです。

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まーやん

武田氏の居城 (2022/12/18 訪問)

ここも雨模様で怪しい雰囲気。
ナビに惑わされようやく見つけた侵入路。比高はたいしてないがブッシュとぬかるみであまり見れなかった。
武田氏の居城は複雑な曲輪が多いようで、期待していたがまたも関東ローム層に阻まれた。

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まーやん

城行った‼️とは言えないな。 (2022/12/18 訪問)

お城エキスポを一日で切り上げ、日曜日は朝から房総の城廻りを計画。
前夜からの雨模様で怪しい雰囲気。
友人の父ちゃんから「今はキャンプ場になってるけど軽トラなら行けるよ」なんて情報をいただいていたが、道には軽く車止めが。あれ?一応車はやめとこうか。
仕方なく歩いて上がったが、アスファルトの道には本格的なゲートが‼️こ、拒まれている!
右に逸れて三の郭から山道を進み堀切を見た辺りからズリズリ滑りまくる。これ以上行軍不可能!そこに見えてるのに(;゜0゜)
武田氏の居城について詳しく見てみたかったが招かれざる客であることを理解し断念。
以前、友達が大多喜への道中に案内を申し出てくれていたのに、100名城スタンプ以外目もくれなかったあの夏の日の自分を悔いるのであった⤵️

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T-Shionoya

幕末の要塞 五稜郭 (2022/10/13 訪問)

10月の函館旅行で寄った幕末の城を、築城順で振り返り。
3つ目は北海道函館市の五稜郭。

江戸期終盤の1803年、箱館港に面した箱館山の麓に築かれたのが箱館奉行所の始まり。
時は流れて幕末の箱館開港決定後、防衛の観点から奉行所を移転することに。

海からは当時の大砲の射程外となる3kmの位置。
東には赤川(現亀田川)が流れ、周囲は沼地だったとのこと。
箱館港からも遠すぎないその場所に、西洋式土塁の五稜郭は築かれました。

十字砲火を可能とする稜堡を5つ持ち、正面出入口には半月堡(馬出塁)を設置。
出入口の内側に見隠塁を置くのは日本の特徴でしょうか?

現在は五稜郭公園として函館のシンボルに。
建物では兵糧庫が現存し、2010年に奉行所庁舎の1/3を復元。

訪問時、その庁舎に入る時間はありませんでしたが、郭内・土塁上・水堀を回り、そして五稜郭タワーに上り滞在時間は2時間半。
幕末を代表する城郭が、私の城巡りの133城目となりました。

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AJ

634 (2020/12/05 訪問)

熊本おまけ。城から少し離れますが、足を延ばせる方はどうぞ。

出生地はおろか、墓所すら定まらないのだそうです。宮本武蔵。

熊本県内だけで墓とされる場所が3つ。そのうちのひとつが「武蔵塚」(熊本市。2020年12月)。加えて福岡県北九州市の寺にも養子・伊織が建てたものがありますが、こちらも由緒定まらないとのこと。

かの巌流島決戦を含め、他流試合で負け知らずというのは本人談。一方で実戦経験はあまりないのだとか。10代半ばで関ヶ原。その後従軍したのは大坂戦役と島原でしょうか。

生まれたのが本能寺の2年後となると、多少の波乱要因に巻き込まれることはあっても、秀吉・家康の治世下で武士としての“野性”が買われる機会はほとんどなかったという見方も。

肩書きは兵法家。他方、木彫・金工など諸芸に優れ、特に水墨画の名手でもあったそうです。加えて著書を残すマルチぶり。領地・領民を有さず、上司からの命令や出世争いとも無縁。戦国武将と比べ、わりと怠惰な感性の持ち主だったかもしれません。もちろん良い意味で。

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赤い城

公園になっているものの見応えはあります (2022/12/10 訪問)

後閑城址公園になっていて駐車場もあります。
西側の駐車場に停めてまずは南側から。
南曲輪と西側の曲輪の間には深い堀切があり、通路になっています。
さらに進むと東側にも曲輪がありました。
主郭に登り.、北側に進んで行きました。
北側は三重の堀があり、かなりの防御性があります。
かなり整備された公園なので実感としては湧きませんがかなり良い城であることは間違いありません。

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POYO58

どこまでが金ヶ崎城なの? (2022/12/03 訪問)

評価★☆☆☆☆
主な遺構★☆☆☆☆堀切
国吉城を終えて金ヶ崎城に行きました。金ヶ崎城といえば明智光秀の金ヶ崎の退き口が有名ですよね。国吉城から出陣した織田信長は一乗谷城を出陣した朝倉義景と戦うのですが、浅井長政の裏切りに遭い、織田信長は撤退します。しかし、豊臣秀吉や徳川家康はここでかなり苦戦します。そこで明智光秀が殿を務めたことにより、死を免れることができたといいます。なおこの出来事は明智光秀が織田信長の四天王となった一因であり、この出来事が起点となって織田信長に気に入られるようになったそうです。明智光秀の重要地点とも言えるでしょう。
とはいうもののどこまでが金ヶ崎城なのかよくわからないです。最初金ヶ崎城の本丸に行きました。そこは武将たちが月見をしたことで有名ですが、遺構は残っていません。がっかりしながら戻って金ヶ崎神社まで行きましたが、そこにあった模型を見てみると、どうやら遺構は山の中にあるそうだったので手筒山城方面を歩いて行きました。城戸がいくつかあり、激戦の舞台だったことが窺えました。また、堀切が二ヶ所あり、行ってよかったなあと思いました。しかし、まだまだ道は続きもう永遠に続いていたので疲れてきて、道が分かれたところで下っていきましたがさらに長く、最終的にお墓の背後の山から出てきました。だいぶきつかったです。
神社などには案内板がたくさんあったのでよかったですが、山の方にも案内板を設けてほしかったです。

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零汰

7本の堀切 (2022/02/12 訪問)

標高150m程度に主郭を置き、主郭を含め大きく3つの曲輪が存在している城です。鉄塔周囲は工事で変わっているようです。

参考訪問データー:45分:1.1km:累計高低差86m

マップ上の鹿児島市宮川野外活動センターに駐車して南下しましたが、こちらは駐車は厳禁だと帰りにお叱りを受けました。駐車は他を探した方が良いようです。

城域は南北に200m程の大きさで、3つの曲輪は堀切で仕切られています。堀切は堀切道を含めて7つ確認出来ました。西側は平坦になっており浅い横堀らしく思える場所もあります。一番大きい堀切は写りが悪く入れていません。駐車場所さえ解決出来たらコンパクトで見易い城跡です。

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加藤城乃助

100名城お城カードと御城印を求めて (2022/12/25 訪問)

昨日から妻と子供が妻の実家に帰省してるので、1人のクリスマスを満喫?するために遠征しました。
まずは鎌倉に向かい、先日最終会を迎えた「鎌倉殿の13人」の大河ドラマ館を見学。その後、鶴岡八幡宮、和田塚、由比ヶ浜を散歩し、江ノ電で藤沢、東海道線で小田原に行きました。
何度か行っている小田原城ですが、今回の目的は、今まで見た事の無かった関東大震災で崩れた石垣の見学と、御城印とお城カードです。
正規の登城ルートを銅門を目の前に外れ、南曲輪の方に向かい崩れた石垣を見ました。横矢を掛けるためにコーナーになっている部分や排水口もそのまま残っていました。天守を見学し、御城印とお城カードを購入して帰りました。100名城お城カードという物を迂闊にも全く知らなくて、今回初めて購入しました。このカードのためにまた行ったお城に行く事が、ちょっとしんどいような、また楽しみが増えたと喜ぶべきか。城好きならもちろん後者ですね。

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ヒロケン

初代城主 明智光秀公 (2022/12/03 訪問)

福地山城は、由良川に伸びる丘陵を中心に築城された連郭式平山城で城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した総構えの城として築城されています。
1579年頃に明智光秀公がこの地に城を築いたのが始まりとされ、築城後は娘婿の明智秀満公を城代として、この地の統治を任せています。
明智氏滅亡後は、羽柴秀長公をはじめととした城主を迎え、改修と増築が進められ江戸時代の有馬豊氏公の時代にはほぼ完成していたと考えられます。1669年に朽木植昌公が入部して以降は明治維新に至るまで朽木氏が13代約200年間藩主を務めています。
現在の天守は1640年頃の絵図を参考にした3層4階の複合連結式望楼型天守が再建され、福知山市民のシンボルとなっています。

諸事情により、12月3日以降城巡りが出来ていません。この投稿が2022年最後の投稿となります。城びとフレンドの皆様、本年中は皆様方の投稿で楽しませて頂きありがとうございました。また来年も健康で城巡りが出来ますようお祈り申し上げます。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さいませ(*^▽^*)

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はぎさんともさん

看板修復 (2022/12/25 訪問)

看板が修復されました。
ありがとうございます。

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城とマスク

桜満開丸亀城 (2022/03/30 訪問)

金毘羅様でお参りして桜祭り開催中の丸亀城を訪れました。
小さい現存天守が良いですね。この日は讃岐うどんを2回食べました。

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ぴーかる

燧ヶ城 (2022/11/27 訪問)

【燧城】
<駐車場他>新羅神社駐車場
<交通手段>車

<見所>堀切・枡形虎口・石垣櫓台・横堀
<感想>燧城は燧ヶ城ともいい、福井県の公式サイトと現地説明板よると「源平盛衰記」1183年に木曽義仲が仁科守弘に命じて平維盛軍10万を迎え撃つために築城しました。南北朝時代の1336年には今庄入道浄慶の居城となり北朝・足利方の将となり南朝方の杣山城~金ヶ崎城の連携を絶ちます。戦国時代の1573年には下間頼照と一向一揆勢が織田信長に対抗し立て籠もりますが敗れます。その後は柴田勝家の持城となったようです。
 登山口は北麓の今庄観音堂の左脇にあります。登山道は整備され登り易く15分程度で南東の虎口に着きます。城跡は南東から北西にかけて尾根を切り開いた直線状の連郭で北西側の曲輪以外の曲輪は堀切で仕切っています。南東の虎口前に曲輪法面に石垣が残る馬出しの曲輪があります。堀切から回り込んで横堀になっています。その先が内枡形になっていて仕切り石垣が良好に残っています。その先が長い曲輪になっていて麓側に長い土塁があります。主郭虎口の石積み遺構も良好に残っています。主郭は比較的狭く櫓台かまたは一向衆の城でもあったので御堂跡かの方形の石垣台が2つ残っています。主郭横堀は大きく、巨石が多く転落しているので石垣か何らかの遺構であったろうと思われます。主郭北西側は大堀切で土橋のサイドが石積みになっています。大堀切はそのまま大竪堀になっていて見応えあります。主郭の北西側の曲輪は広く削平され、そのまま北西方向に尾根が狭くなっていきます。北西側にかなり薄くなっていますがL字状の土塁が2か所防御してそのまま何となく遺構がなくなっていて搦手側は防御が薄いです。道はそのまま数キロ先の藤倉山に繋がっているようです。
 JR今庄駅から登城口まで徒歩5分の距離で利便もいいです。私好みの山城+石垣、良好に残るダイナミックな遺構にかなり興奮しました。お勧めの城跡です。

<満足度>◆◆◆
<グルメ>福井そばである今庄そばがお勧めです。国道沿いの「おばちゃんの店」に行き鰻丼のセットをいただきましたが、駅を中心にそば屋が数件あるのでどこに行っても美味しいでしょう。

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小城小次郎

あのザビエルもやってきたらしい (2022/07/09 訪問)

鎌倉時代から市来氏のお城だったが15世紀には島津氏の属城となりフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたらしい。ちなみにザビエルが来たのは来日(=キリスト教伝来)の翌年というから市来のキリスト教史はかなり古い。

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岡豊前守 (2022/12/24 訪問)

 矢野川と小河川に挟まれた山の上にあり、両川を天然の堀として尾根に作られた連郭式山城です。北側から登城すると三重の堀切があり、それを超えて行くと主郭と思われる曲輪に行くことができます。西尾根に堀切があり、南尾根に2重の堀切とそれらに伴う竪堀があります。どれも岩盤を削った堀切で武骨な感じがしてよかったです。「相生歴史資料マップ6 下土井城」の縄張りを見ていると、畝状の竪堀もあるように見えますが、よくわかりませんでした。池と書かれた場所はわかりましたが、雨水等を貯めるためのものだったのでしょうか。コンパクトですが堀切がすばらしく見ごたえのある城址です。

 ウィング神姫バス「中郷バス停」の前の道を民家の間を抜けて入っていくと石段があり登って行きます。すぐに獣除けフェンスの入り口があり開け閉めして進んでいくと尾根にでます。フェンスに沿って進んでいくと何となく道らしきものがあります。そこから南へ少し歩くと3重堀切に行くことができます。最初は城郭放浪記さんや古城盛衰記さんが利用された入口からの登城を考えていましたが、倒木により入口の開閉が困難な状況でした。

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肉球

釜子陣屋・福島県白河市 (2022/12/15 訪問)

1741年姫路藩主だった榊原氏が越後高田藩に移され領地15万石のうち9万石近くが本領から遠く離れた陸奥国にありその飛び領を収めるために福島県浅川町に陣屋を築いた。1809年当時の浅川村が幕府領となり残された飛び領を治めるために築かれたのが釜子陣屋です。
案内板によりますと
官軍が棚倉から攻めて来る前に陣屋を焼き払い会津藩の援軍として出兵。高田藩とは別の動きをしたようです。
跡地は住宅街となり県道44号釜の子郵便局付近から少し西へ入った所に案内板があります。遺構はありません。

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赤穂浅野家分家 (2022/12/24 訪問)

 赤穂浅野家の分家・若狭野浅野家の陣屋跡で、 藩札を作っていた札座跡の建物や土塀の一部が残っています。西法寺に移築門がありますが、今回は行っていません。

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住吉神社と善光寺 (2022/12/24 訪問)

 城址には住吉神社と善光寺が建てられています。曲輪跡と井戸(いぼとり井戸)があります。石積みもありましたが、当時のものではないと思われます。

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肉球

石垣よく見えます  (2022/12/15 訪問)

一年ほど前にも訪れた小峰城でしたが、またもや早朝の訪問で本丸内に入れず残念でした。
しかし一年前は解体修復中だった太鼓櫓が復元されてました。
二の丸駐車場から歩いても近いですが櫓前に駐車場が用意されてます。
以前は木々に覆われて見えにくかった三の丸北側の石垣が木の伐採によりよく見えるようになってました。が
柵があり石垣の近くまでは行けません。

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零汰

勝尾城筑紫氏遺跡に入れてもらえなかった城・・・勝尾城東出丸:佐賀県鳥栖市 (2022/10/20 訪問)

先に投稿した若山砦から北北東方向、直線距離500m程、標高319mの位置に勝尾城東出丸があります。惜しくも勝尾城筑紫氏遺跡の範囲に入れて貰えなっかた城跡です。そんなマイナーでローカル城にもちゃんと遺構は残っています。そんな山城跡を訪問するのは大好きです。情報は城郭放浪記さんです。

参考訪問データー:1時間:1.4km:累計高低差190m

若山砦の駐車場から北に移動すると三差路(ルートマップ右側周辺)があり、右手に橋、その手前に広い空スペースが有ります。そこに停めて左の山に取り付きました。こちらは殆ど直登です。遺跡範囲に入れて貰えなかった原因は城に行くまともなルートが無かったからだと勝手に想像しています。

尾根は歩き易いので其方を進むと鞍部の曲輪が現れて来ます。そこには浅い堀切がありました。そのまま踏跡を進むと曲輪が見えてきます。150mx40m位でしょうか、東西に長い範囲で北側が崖となっています。そこには曲輪以外に土塁、浅い堀切、浅い竪堀(多分)など一揃いしています。

勝尾城筑紫氏遺跡関連は、こちらを含めると8城の城跡が有ります。私は3回訪問で1城残っています。(鏡城は現在林道崩落で進めませんでした)その気で訪問すると1日で廻れる様な気がします。何方か是非如何でしょう。

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