松田家館から転戦。成田山不動尊石段前(36.538653、138.128837)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、屋代氏によって築かれたと云われています。 屋代氏は村上氏の一族で屋代家盛より始まるようです。
1553年(天文22年)武田氏が侵攻してくると屋代正国は塩崎城主の塩崎氏とともに武田氏にいち早く降伏し、村上義清は葛尾城を失って越後の長尾氏を頼って落ちていきました。武田氏に属した屋代正国は荒砥城主となります。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可がこの辺りを支配しますが、信長が本能寺の変に倒れたため森氏は撤退、越後の上杉氏の勢力が伸びてきます。
上杉氏は村上義清の子村上国清を海津城主に任命すると屋代秀正を副将として二の丸に配しますが、1584年(天正12年)秀正は上杉氏を離反して荒砥城に籠もりました。
しかし、荒砥城で上杉氏の攻撃に対抗できず、秀正は家康を頼って落ちていきました。
その後、屋代氏は秀正の子忠正が安房国北条に10,000石を領して大名となりますが、三代忠位の時に改易となり、子孫は旗本として存続しました。
屋代城は屋代駅の東の一重山に築かれ、現在は一重山公園として整備されており、北端の成田山不動尊から尾根伝いに遊歩道があります。
主郭から北へ伸びた尾根に堀切で遮断されたた曲輪群が先端の成田山不動尊まで連なっています。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=麻績城に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。
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