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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:屋代城 (2023/04/20 訪問)

松田家館から転戦。成田山不動尊石段前(36.538653、138.128837)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、屋代氏によって築かれたと云われています。 屋代氏は村上氏の一族で屋代家盛より始まるようです。
1553年(天文22年)武田氏が侵攻してくると屋代正国は塩崎城主の塩崎氏とともに武田氏にいち早く降伏し、村上義清は葛尾城を失って越後の長尾氏を頼って落ちていきました。武田氏に属した屋代正国は荒砥城主となります。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可がこの辺りを支配しますが、信長が本能寺の変に倒れたため森氏は撤退、越後の上杉氏の勢力が伸びてきます。
上杉氏は村上義清の子村上国清を海津城主に任命すると屋代秀正を副将として二の丸に配しますが、1584年(天正12年)秀正は上杉氏を離反して荒砥城に籠もりました。
しかし、荒砥城で上杉氏の攻撃に対抗できず、秀正は家康を頼って落ちていきました。
その後、屋代氏は秀正の子忠正が安房国北条に10,000石を領して大名となりますが、三代忠位の時に改易となり、子孫は旗本として存続しました。

屋代城は屋代駅の東の一重山に築かれ、現在は一重山公園として整備されており、北端の成田山不動尊から尾根伝いに遊歩道があります。
主郭から北へ伸びた尾根に堀切で遮断されたた曲輪群が先端の成田山不動尊まで連なっています。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=麻績城に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:松田家館 (2023/04/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、武水別神社駐車場(36.517733、138.103005)に駐車し、松田家館跡(36.519004、138.101852)に向かいました。

松田氏は藤原姓で鎮府将軍藤原秀郷の子孫が相模郡松田郷におり、その子孫が松田氏を称しその子孫が当地に来て八幡七郷を領し八幡宮に仕え「八幡の松田氏」となりました。
村上氏が滅んだ後、武田氏につかえ、その後上杉に仕えました(民部助と名乗る⇒織部佐)。1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に移封した際、織部佐は随い神職は弟縫殿助に譲りました。
以後神主にて人民を支配するを停められ、神領200石を社僧等分して受領、明治維新まで続きます。明治6年以後は神宮寺の関与がなくなり、松田家と社家により神社の運営がなされているそうです。

朝早いので、松田家館は開いていませんでした。
武水別神社に「川中島の戦い初戦の地」の碑がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=屋代城に向かいました。

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はるる

本丸からの景色が最高 (2023/05/05 訪問)

「斐太歴史の里」に行き、職員?の気さくなご年配の女性から、東登山道から、北側に降りるルートが良いと教えてもらう。
他の口コミで東登山道から南に抜けるルートを見たので、そのように行きたいと言うと、南に降りたら駐車場が遠いよ!と言われ、確かに!
東登山道から、二ノ丸跡、三ノ丸跡がオススメの鑑賞スポットとのことでした。
オススメ通り東登山道から、北側に降りて来たら「無事に帰って来たね」と声を掛けてもらい、私たちの事を心配してくれていた様子でした。

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にのまる

天正壬午の乱と鳥居元忠 (2023/03/11 訪問)

田野の勝頼公廟所、景徳院を訪れたあと、甲斐大和から石和温泉に電車移動。
路線バスで御坂西小学校前下車、徒歩15分くらいでした。そこかしこに見る“御坂”の二文字に思い当たる節があり、バス路線検索。どうやら朝田さんが甲府から御坂城へ向かわれた路線の真ん中あたりを切り取った区間のようでした。
初見での印象は少し広めの居館跡でしたが、現地説明板の「天正10年の甲斐国争乱の時、御坂城の北条勢に対峙する徳川家康は、鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、騎馬130、雑兵600をもって守らせたと伝えられる」の文言にようやく黒駒合戦と結びつき、桜の開花を待つグラウンドに緊張感を感じました。
高さのある土塁の上を一周。説明板にあった東屋(櫓台)の礎石は写真⑥。ごんぱち塚はお隣の敷地っぽかったので遠目に見るだけにとどめました。
御坂城……行きたい。

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スミヤキ

天球丸とは、何ぞや? (2023/04/07 訪問)

城郭の博物館とも称される鳥取城は、戦国期から江戸時代に掛けて様々な年代の遺構が見られます。戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)からなるお城でその中で唯一無二として有名なのが「巻石垣」と言われる球面石垣です。
1807年頃、天球丸と呼ばれる曲輪の石垣崩落を防止する目的で甲羅状のユニークな形状の石垣が補強、築き足されました。河川護岸などに使われている石積み技術を応用したものだそうです。球型の形状のせいなのか、どうしても可愛らしく見えてしまいますね。

この天球丸という曲輪の不思議な名称ですが、球面石垣が積まれたことで名付けられたものではなくて、関ヶ原の戦い後に鳥取城主となった池田直吉の姉、天球院が住んでいた事に由来しているそうです。
この天球院様、父が池田恒興、池田輝政の妹なのですが、戦国気質の女傑と呼ぶに相応しい、とても強い女性で数々の逸話が残っています。関ヶ原の戦いの最中、夫の対応に我慢ならず、離縁するのですが、その立ち振舞いと彼女に関係する人達の因果関係が複雑に絡んで面白い事に、興味のある方は、調べてみてね。私は天球院様に同情しますけど。

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刑部

巨大な浮き城 (2023/05/05 訪問)

金沢城の2倍の広さをもつ難攻不落の城、今は球場や住宅地に変わり面影は薄れてしまったようです残念。

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健吾

高知城 (2023/05/03 訪問)

山内一豊とその妻、板垣退助の銅像あり
山内家の家紋はあの三菱のロゴの元となっていた!?
石樋、鉄炮座間、忍び返しを見られてよかった

ずっと気になっていた御城印をいただきました。
ここから御城印集め、始めます!

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宗春

武節城 (2023/05/02 訪問)

愛知県に帰省するにあたり、地元の友人と城攻めしてきました。その①武節城です。

車を道の駅どんぐりの里いなぶに停めて、道路の上の山をぐるっと歩きました。

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刑部

案内板と石碑 (2023/05/04 訪問)

遺構は見当たりませんでした。

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牛若丸

中世城郭をよく現しています。 (2023/05/03 訪問)

中世の城郭をみごとに復元していました。
丸馬出も珍しく堀や木橋、土塁も見事でした。
群馬に行ったら一度は訪れた方がいい城です。

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刑部

道の駅の裏山にある城址 (2023/05/05 訪問)

一向一揆の舞台の城。
鳥越城址の後に行きました!

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じゅんじん

豪族のお城 (2023/03/21 訪問)

小規模ですが明確に残っています。整備もされておりお勧めできますね。

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牛若丸

ほとんどが市役所になっています。 (2023/05/03 訪問)

一部の遺構が残っているだけで、ほとんどが公園になっていました。
堀や土塁は確認できます。

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じゅんじん

土のお城 (2023/03/21 訪問)

虎口、堀、土塁 素晴らしかった。よいお城です。駐車場もあります。

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牛若丸

応仁の乱の山名氏発祥の地 (2023/05/03 訪問)

ここに行くまでに上野三碑の一つ山之上碑を通らなければなりませんでした。
山之上碑から歩いて15分くらいのところにあります。

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牛若丸

平井城の後詰めとされる城 (2023/05/03 訪問)

山城なので当たり前ですがかなりの急坂でした。
本丸まで片道30分はかかります。道中は道がわからなくなる箇所もありましたが見応えある山城です。
遺構も良く残っています。

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牛若丸

GWに攻城 (2023/05/03 訪問)

GWに攻城しました。
堀や郭などの遺構も良く残っています。駐車場もありました。

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刑部

公園にある台場跡 (2023/05/05 訪問)

台場といえば海の近くと思って来ましたが結構離れてます、昔はもっと近くに海があったんでしょうね?
公園の池には亀がたくさん日向ぽっこ。

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じゅんじん

牛久城の支城 (2023/03/21 訪問)

大きなお城です。土塁が残っていました。

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ヒロケン

江戸城の門2 (2023/04/29 訪問)

江戸城の門 前回の続き、正門から投稿させていただきます。

7、正門(西の丸大手門) 正門に続く正門石橋とその奥にある、正門鉄橋の二つの橋を総称して、二重橋と言われ撮影の定番となっています。
8、坂下門 この門は、宮殿のある西の丸造営後に造られた門です。老中安藤対馬守が水戸浪士の襲撃を受けた「坂下門外の変」の現場でもあります。
9、桔梗門 坂下門から蛤濠を沿って歩くと桔梗門に着きます。桜田門が外桜田門と呼ばれ、桔梗門は内桜田門と呼ばれました。
10、大手門 1607年藤堂高虎公によって建造され、江戸城修復に際し伊達政宗公が現在のような枡形の城門にしています。大手門の警備は極めてかたく、鉄砲30丁、弓10張などが常備され譜代10万石以上の大名が警備していたとされています。
11、平川門 この平川門は御三卿の登城門で大奥に最も近い門で大奥女中の通用門として使用されていたようです。この門は、当時のまま、高麗門・渡櫓門・枡形が残っており、この三つが残っているのは、大手門、桜田門、桔梗門と4箇所のみです。

今回、江戸城を4月8日と4月29日両日に訪ね、やっぱり「江戸城は素晴らしい」(*^▽^*)と感じました。城の規模・城の美しさ等、どれをとっても日本一だと感じました。(天守閣が残っていないのは残念ですが)
ただ、4回訪問した内、2回、5割で皇居外苑の警備にあたっているいる、警察官に注意を受けました。「柵内に入らないで下さい」と、夢中になり過ぎて、ついつい(>_<)、皆様もご注意ください。

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