(24人目)「島津義弘」の続き④です。
義弘が15才頃から約4年間を過ごした「内城」を訪れてきました。
鹿児島中央駅から南国交通バス「大龍小学校前」で下車、または市電に乗り終点「鹿児島駅」(写真⑨)からでも徒歩6分程の所にあります。私はバスで行き市電で戻りました。
江戸時代に入り鹿児島城が築城されると、この跡地は貴久と義久の菩提を弔う大龍寺となりましたが、寺は明治時代に廃仏毀釈で破却、その後は「大龍小学校」になっています。校庭に内城の碑が残っているようですが校庭の中には許可がないと入れないので、碑を柵の外から撮影しました(写真①すいません)。またその横には旧校門や大龍寺跡の碑もありました(写真②③)。でもこの小学校を見た瞬間ビックリ!😯 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」が掲げられていて、西郷の教えが今でも受け継がれているのには感動しました(写真⑦⑧)。今和泉島津家屋敷「篤姫」生誕の地も隣接していて、その向こう道の突きあたりが西郷隆盛の墓所(南洲公園)です(写真⑥)。
この近くにはもともと東福寺城という島津宗本家の城があったようです。しかし伊作島津家である父の貴久が守護であった宗本家の後を継ぎ、1550年に伊集院の一宇治城から鹿児島市内の海に近いこの場所に新たに内城を築城し移り住みます。城といっても屋形のような平城(居館)であったようです。ザビエルに出会ってから南蛮貿易の重要性に気づき、その貿易を盛んにするために海に近い場所に移して港を整備し、また大隅日向の統一を目指すための拠点としてここに居を移したと思われます。そして貴久死後は、長男の義久が後を継ぎ城主となり、江戸時代にその義久の後を継いだ義弘の子で初代薩摩藩主の忠恒が鹿児島城を築城するまでの約50年間、ここ内城が島津の本城となりました。
義弘も父の貴久と共に1550年に移り住み、15才頃から約4年間をここで過ごしたようです。そして18才になった義弘は、いよいよここから初陣を迎えます。
次は、義弘初陣の地で最初に城主となった(平松城)を訪れます。
【余談】さつま焼酎の看板
「さつま白波」は有名な鹿児島の芋焼酎ですが、鹿児島中央駅前でバスを待っていた時、ふとこのでっかい看板が目に止まり、思わず笑ってしまいました(写真⑩)。皆さんにはこの「だいやめで、きばいもんそ。」の意味がわかりますか?🤔(正解はこの下↓です)
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(正解は)
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「今夜は一杯飲んで今日の疲れを癒し、また明日から気合をいれてがんばりましょう!」
の意味でした~!😊
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