このお城は夏には夜間営業があるしビヤガーデンもあるので夜景を見下ろしての一杯なんてのもできるし夜でも100名城スタンプが押せるしいいことづくめ。信長時代に比定される石垣を宝探しのように探すのも楽しい。
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2023/08/08 23:01
石垣探しもまた楽しい (2023/01/21 訪問)
このお城は夏には夜間営業があるしビヤガーデンもあるので夜景を見下ろしての一杯なんてのもできるし夜でも100名城スタンプが押せるしいいことづくめ。信長時代に比定される石垣を宝探しのように探すのも楽しい。
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2023/08/08 22:25
真田丸 効果もあれど 良い城よ (2023/04/30 訪問)
名胡桃城は天正7年(1579)ごろ、真田昌幸によって築かれました。
翌年には沼田城を手中に収めています。
大河ドラマ「真田丸」効果で続100名城にすべりこんだのかと
思いきや、各郭とそれを隔てる堀切の遺構も良く残り、
また草刈りなどの整備も良く行われ、散策していて非常に
気分の良い城跡になっています。
遺構は国道17号線を挟んで主要部が北東側に伸びていって、
馬出し・三郭、二郭、本郭、ささ郭と続きます。
郭の間は大きな堀切で仕切られていて非常に見ごたえがあります。
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2023/08/08 21:30
長森城・切通陣屋 (2023/07/15 訪問)
【長森城】
<駐車場他>駐車場はなし。陣屋公園前に少しだけ停車しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾7城目。長森城は1185年にこの地の地頭の渋谷金王丸が築城したと伝わります。南北朝時代に土岐氏が城郭整備をして本拠地とします。1353年に長森城が手狭になったため、川手城を築城して本拠地を移転しますが城は同族を城主に置きます。斎藤道三の時代に一旦廃城となります。江戸時代にはこの地は加納藩領⇒幕府領⇒大垣藩の預かり地と変わり、1803年に磐城平藩主の安藤信成が老中となり、18000石のこの地が飛び地として加増され長森城跡に切通陣屋を築きます。切通陣屋は明治維新まで残ります。
現地には遺構が残されておらず、切通観音堂に陣屋跡と長森城の石碑があります。ちなみに切通しの地名は南に位置する境川に一帯の滞留水を落としていたことに由来するそうです。
<満足度>◆◇◇
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2023/08/08 17:20
7~8月は五島氏庭園公開休止 (2023/07/29 訪問)
福江港ターミナルより西へ数分歩くと、福江城跡が見えてきます。
立派な建物は五島観光歴史資料館です。
続日本100名城スタンプは受付で押すことができます。
御隠殿は福江城を築いた五島盛成の隠居所ですが、当時つくられた庭園が現在も残っており、五島氏庭園として一般公開されていますが7~8月は整備のため公開中止でした。残念
本丸は長崎県立五島高校になっていますので、外から見ることしかできませんでした。
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2023/08/08 08:33
とことん江戸城・番外編(吉良邸) (2023/06/16 訪問)
(続き)
忠臣蔵で知られる吉良邸こと吉良家江戸上屋敷は、元は江戸城外郭の呉服橋内にありましたが、江戸城松の廊下での浅野内匠頭による刃傷事件の後、本所松坂町に屋敷替えになりました。東西132m、南北62m、8400㎡の広大な屋敷でしたが、現在では住宅地になっていて、唯一の遺構とされる井戸を中心とする約98㎡のみが吉良邸跡(本所松坂町公園)として公開されています。
本所松坂町公園はなまこ壁の土塀で囲まれ、公園内には様々な説明板に吉良上野介義央公座像、吉良上野介の首を洗ったとされるみしるし洗いの井戸(遺構)、討ち入りで命を落とした20名の吉良家家臣の石碑などがあり、小さな公園ながら忠臣蔵好きにはなかなか見応えがありました。以前から一度来てみたかったんです。
公園はかつての吉良邸のほんの一部分に過ぎませんが、公園の東側には大石内蔵助ら23名が討ち入った正門跡の説明板が、西側には大石主税ら24名が討ち入った裏門跡の説明板が立てられています。また、裏門近くには米屋五兵衛として店を開いていた前原伊助宅跡の説明板、両国橋東詰には俳人として名高い大高源吾の句碑、旧両国橋東岸の広小路跡には討ち入り後の四十七士が泉岳寺に向かう途中に休息をした地として説明板が設けられています。さすがに本所から高輪まで歩いて行く根性はありませんが、いつか泉岳寺にも行ってみたいものです。
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2023/08/08 00:02
山城で撮った写真って後で見ても、良くわからない時がある。 (2023/04/30 訪問)
長井坂城は東(北)の永井川、西の利根川に挟まれた断崖上に築かれた城で
北側に向かって窄まる、やや三角形に近い形状をしています。
南北260m、東西180mの城域を持ち、中央を大堀切が南北に縦断して城域を
左右を分断しています。西の城域は北から馬出し、本丸、三の丸が配されています。
東の城域は二の丸を囲うように三の丸が配され、三の丸の北側が駐車場に
なっていたはずなのですが、ひょっとして、この畑がそうでしょうか。
城址碑のあるあたりの空間は畑になって、ワイヤーが張られていますよ。
本丸、二の丸の周囲には土塁が残っていて、本丸の虎口は南東側に
二の丸の虎口は北東側についているようです。
なかなか迫力のある遺構が残っている良い城跡だと思います。
ただ写真を見てもどの遺構の部分か微妙に記憶が定かではありません。
おおよその見当は付きますが、もう一度機会があったら
じっくり散策してみたいと思います。まだ三カ月しかたっていないのですが‥
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2023/08/07 23:03
真田幸村のお兄さんの城。 <<信之ファンに失礼!! (2023/04/30 訪問)
沼田城は河岸段丘の上に築かれています。
明らかに周囲より高地にあり、まさに城を築くのには
うってつけの立地条件です。
この時期はツツジが見頃を迎えていました。
戦国無双とコラボしたパネルが各所に置かれています。
史実と比べるとどうも‥と思われる方もいるとは思いますが
これはこれでアリでしょう。
ガルパンとコラボした大洗磯前神社の例もありますし
これも一つの楽しみ方ですね。
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2023/08/07 21:54
立派な模擬天守は小さな展望台だった (2023/01/21 訪問)
20年以上前に山上の「模擬天守」に吸い寄せられながらも登らず終わったお城に初めて登ってみた。立派に見えた「模擬天守」は想像より二回りも小さな展望台。これを天守っぽく見せている技術にむしろ感心した。
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2023/08/07 17:03
知らなかった(汗) (2023/07/07 訪問)
天下の名城である二条城、電車を降りて出口を出てすぐに東南隅櫓が見えました。
堀が囲み、その堀から石垣が見事です。
外から見ただけでも他の城にある険しさとは違った京都の優雅さを感じさせる城跡という印象です。
東大手門も堅牢煌びやかな感じで素晴らしかったです。
…,本当に外からでも充分すぎるほどの雰囲気は味わえました。
繰り返します、外からだけでも充分に。
実は、この日に到着した時間は17時10分でした。
私が無知でした。
なんと二条城は17時までだったんです。
もちろん御殿などには入れない可能性は理解しておりましたが、前日に大阪城を夜に訪れて、それでも天守近くまで行き楽しめた事もあってか油断しておりました。
美しい、櫓、堀、石垣、4ヶ所の門に固く守られた城には攻め入る事ができませんでした。
皆様、時間にはお気をつけてください。
それでも一周しまして、四方の石垣や隅櫓、門を見て帰りました。
それだけでも素晴らしさは充分感じる事のできる二条城でした。
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2023/08/07 11:09
真夏の草茂る外濠一巡 (2023/08/06 訪問)
水口城跡は平成三年に出丸、外枡形の南東角に乾櫓を復元、一の門高麗門、大手橋、土塀を復元整備されました。
寛永11年(1634年)徳川家光の上洛に合わせて水口御茶屋御殿として築かれた、東に出丸外枡形大手門、北に内枡形北大手門を構え本丸の周囲は濠で囲み外周は方形の石垣造り、内側は雁木が周囲を囲む、四方角には乾櫓、坤櫓、巽櫓、艮櫓が建ち本丸を固めて居た。
(水口城跡の解説板より)
駐車場:水口城資料館駐車場(滋賀県甲賀市水口町本丸1)60台は可能、水口城跡北大手門跡大手橋の直ぐ北側に成ります、水口中央公民館西入。
丁度甲賀市甲南町の叔父法要に車で出掛け、夏休み中の日曜日当日、高速の渋滞を予想して1時間半早めに出発しましたがいたって順調な走り、土山SAで休憩し1時間半を法要前に急遽、水口城跡チョイ寄り探訪へ、探訪時間は30分。
探訪ルートは、北大手橋の駐車場から、北大手橋を渡り本丸へ、本丸内部は水口高校グラウンド、野球、サッカーの練習で賑わっていました、時間の関係で資料館へは行かず、大手橋の通行不可を確認して、大手橋にある解説板、城名碑、出丸外枡形の石垣、復元された建物類を葉の茂る桜木の樹間より撮影、東側から外濠の散策路を東、南、西、北の順に廻る、南東角巽櫓跡は草木に覆われている、石垣は無し、南西角坤櫓跡も草木に覆われているが石垣を撤去された土、土塁が確認できる、北西角乾櫓跡は石垣が残り乾櫓台としての威厳が残り周囲を圧倒してる、水濠も良く残るが濠の内外、草が茂り過ぎ、北東角艮櫓跡は濠北東角には私有地?入り込めず角での確認はしてません、北東の濠は埋められていました。
チョイ寄り30分、真夏の炎天下ではこれが限度です、約30年前に復元整備された城跡を初探訪しその後何度か訪ねていますがデジタルでの写真が無く、今回が水口城の初投稿と成ります。
早く大手橋の修復がなされる事を願って居ます。
叔父の法事には20分前に着き親戚一同と法事を済ませお斎を皆で頂き、叔父叔母の話、孫子の話と久し振りのご縁でした、高速も新名神、湾岸、新東名は順調に流れて約2時間無事浜松到着。
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2023/08/07 08:09
とことん江戸城・番外編(両国界隈) (2023/06/16 訪問)
この日は東京で朝一番の仕事。始発で家を出ても間に合わないため前夜に東京入りし、早起きして両国界隈を散策しました。昨年は両国橋で外郭めぐりを終えたので、その続きになります。
隅田川は江戸城の外堀にあたるため外郭に通じる橋は架けられていませんでしたが、そのために明暦の大火で多くの死者を出すことになったことから、両国橋、永代橋、新大橋(と後に吾妻橋)が架けられ、両国橋の両岸には火除地として広小路が設けられました。両国橋によって城下が隅田川東岸に拡大したことが江戸の人口増加を支え、両国広小路は芝居小屋や茶屋が軒を連ねる江戸最大の繁華街となっています。現在の両国橋の東岸に両国橋の石碑がありますが、往時の橋は50mほど下流に架かっていたようで、跡地に旧両国橋・広小路跡の説明板が立てられています。
両国橋を渡ったところには、明暦の大火での身元不明の死者を弔うべく建立された回向院があります。往時の正門は両国橋から直進した回向院西側にありましたが(説明板あり)、現在は北側の京葉道路沿いに山門が建てられています。境内には明暦の大火はもとより、安政の大震災、浅間山の大噴火、信州上州地震、奥羽飢饉、関東大震災、東京大空襲など様々な天災、人災による死者、さらには人間だけでなく犬や猫、馬、オットセイに至るまで、あらゆる生あるものの供養塔が建てられています。著名人では竹本義太夫や二代目中村勘三郎の墓があり、鼠小僧次郎吉の墓の前立てを削って持っていると幸運のお守りになるんだとか。鼠小僧の墓の隣には、猫の恩返し(ジブリ映画にあらず)の逸話が伝わる猫塚もありました(鼠のとなりが猫…)。また、境内では江戸中期から勧進相撲が催され、今日まで続く大相撲の起源となっています。境内には物故力士や年寄を祀った力塚も見られました。現在も両国国技館で相撲興業が行われているのはこういう背景あってのことなんですね。
回向院の東側には、忠臣蔵で知られる吉良邸跡や囲碁の名門・本因坊屋敷跡、勝海舟生誕の地などもあり、両国界隈はなかなかに見どころ盛りだくさんです(続く)。
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2023/08/07 00:45
古代山城 (2023/05/29 訪問)
鬼ノ城(岡山)に行った際にすすめられ、行きたいなーと思っていたところです。
年始の四国めぐりの最終日に徳島から寄ることを検討したのですが、キャリーバッグ持ちで行けるのか?駅か現地にコインロッカーはあるのか?ということがわからずじまいだったので、見送っていました。
今回は4日分の荷物をリュックに詰め込んで背負っているので大丈夫です。
松山城・湯築城訪問後、松山から特急いしづち16号で高松へ向かいました。
高松から屋島へも特急に乗り換えていけますが、各停で行ってもシャトルバスは15:05発で変わらないので450円ケチって各停で行きました。
バス待ち時間は約30分。駅でじーっと何もせずに待ちます。
しばらくたってから、そういえば……と「お城をさがす」を開いてみて、旧高松城である喜岡城が駅の反対側にあるのを確認しましたが、時すでに遅し。シャトルバスを逃すわけには行かないので帰りに寄ることにしました。(←帰るときにはすっかり忘れて琴電屋島で降りてしまいました^^;)
山上に到着した頃に雨が降り出し傘をさしての観光となりました。しかし朝から雨予報だったので、この時間まで降らないでいてくれたことがむしろありがたいです。
島内(現在は陸続きです)マップや案内はいくつも設置されていたので、距離はありましたが城門まで迷わずに行けました。
修復、復元された石垣のかっこよさは思わず感嘆の声をあげてしまうほど。新たに加工して補った石は石積みの石と色分けされており、発見当時の様子も想像できます。
幻の古代山城の石積みが発見され甦ってからまだ20数年。知られてない遺構がまだあるのではと期待が膨らみます。
帰りは最終のバス一本しか残されていないので、滞在可能時間は約1時間半。城門見学のあと、時間の許す限り島内を散策しました。
屋島は源平合戦の舞台になったところでもあり、ゆかりの地を展望することもできます。供養塔もありました。
あいにくのお天気でしたが霧のかかった景色は幻のベールに包まれた長い歴史そのもののようでもあり、こういうのも悪くないなと思ったりしました。
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2023/08/06 22:10
本丸と二の丸の間の堀切が見事 (2023/04/30 訪問)
白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地上に築かれています。
北から北曲輪、三の丸、二の丸、本丸と続き標識もあって
わかりやすくなっています。本丸の南に出丸の笹曲輪があり
南東側に南曲輪、さらにその先には新曲輪がありました。
本丸、二の丸、三の丸の間には今でも大きな堀切が残り
本丸と二の丸の間の堀切は幅も広く、深さもあり三日月堀の表記があります。
二の郭と三の郭の間の堀の一部は、なんと畑になっています。それだけ
大きい堀ということです。本丸周辺には高い土塁が残り、枡形門跡周辺には
石積みが残っています。
本丸は広く、駐車も可能です。二の丸と三の丸、北曲輪は畑地になっています。
案内板に寄れば白井城は15世紀中ごろに関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった
長尾景仲によって築かれたと考えられています。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し前田利家に攻略され開城し
戦国の城としての役目を終えました。その後、徳川家康の関東移封に伴い
本多広孝、康重が城主となり現在の姿に整備されたと考えられています。
その後、戸田康長、井伊直孝、西尾忠永、本田紀貞と続き、寛永元年(1624)
紀貞の病没とともに廃城となったそうです。
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2023/08/06 22:07
現在は (2023/07/22 訪問)
松帆山感応寺となっており石垣が残る。
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2023/08/06 21:51
更木陣屋 (2023/07/15 訪問)
【更木陣屋】
<駐車場他>更木陣屋前に4台程度可能
<交通手段>車
<見所>建物跡
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾6城目。美濃国出生の戦国武将徳山則秀は初め斎藤氏に仕え、織田信長のもと柴田勝家の与力、賤ヶ岳の戦い後は丹羽長秀・長重⇒前田利家に仕え、関ヶ原合戦直前に出奔して東軍に参加します。戦後家康から美濃国各務郡5000石を与えられこの地に陣屋を建てます。徳山氏は明治まで旗本として存続します。
現地は公園化されて復元の陣屋門・土塀・庭園の池があります。建物跡地は草が多く石列が残っていますが、暗渠は木の板で塞がれています。陣屋跡としてはこじんまりとした敷地範囲と遺構で、徳山氏は歴代ほぼ江戸住まいで陣屋には家臣が常駐していたそうです。5000石という小さい陣屋跡が残されているのがとてもいい。
<満足度>◆◆◇
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2023/08/06 21:16
ちょっと消化不良。主郭を土塁で囲む。 (2023/04/30 訪問)
横尾八幡城は主郭を土塁で囲み、周囲に二重に郭を配している
ようなのですが、訪問した日には雨天もあり、主郭とその周囲の帯廓しか
確認しておりません。虎口は南西の方向についているようですが
他にも二つほどあるようです。
案内板によれば約40mの方形の平地を高さ4mの土塁で囲む
一郭式の砦とされています。
大永年間に尻高三河守によって築城された(吾妻記)と伝えられ
後に塩原源左衛門が城代となり、天正8年(1580)真田昌幸の
吾妻進出によって富沢豊前守が配置されたと記載されています。
この日は近くのロックハート城にも寄ってきました。
「翔んで埼玉」のロケ地にも使われていて、ロケカレーを
撮影現場のみんなで食べていたというので注文してみましたが
実はGACKTさんだけ食べていないみたいです。
微妙に残念ですね。
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2023/08/06 20:50
2023/08/06 20:31
本丸の前の堀は見ててワクワクするほど深い (2023/04/30 訪問)
小川城は小川氏の城ですね。五代小川可遊斎は武田勝頼滅亡後
上杉を頼り落ちのび、城代は真田家家臣で小川家門葉の北能登守が居城したと有ります。
その後、豊臣秀吉の斡旋で沼田は北条のものとなり、城代が入りますが
北条は滅び城が真田に帰ってきます。北能登守は吾妻の奉行になり、
寛永15年(1638)真田伊賀守が小川城三の丸陣屋に住みついて
明暦3年(1657)沼田城五代城主真田信利となり、小川城は空き城になったとのことです。
城は国道291号線により東西に分かれ東に本丸があり、二の丸との境を
深い堀が渡っています。
二の丸の大部分は国道西側に残り、堀は消滅していますが標識が立てられています。
かつて真田伊賀守が住んでいた三の丸にも標識が建っているので把握はしやすいです。
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2023/08/06 18:25
大阪城 おまけの巻③ 石 (2023/07/17 訪問)
桜門枡形虎口に入って目の前にある巨石が通称・蛸石(たこいし)
で大阪城で1番の巨石です。左側に蛸のようなシミが
有るのでそう呼ばれているようです。
岡山藩の池田忠雄公によるもので、忠雄公は城内2番目の大きさの
肥後石、3番目の袖振石も設置しています。
多聞櫓のある大手枡形内に設置されている大手見付石と大手二番石は
熊本藩の加藤忠広公によって設置されたもので城内4・5番目の大きさを
誇ります。
内容は大阪城の巨石を扱う複数のサイトを参考にさせていただきました。
有難うございます。
要所要所でパズルのように、きれいに積み上げられた石垣が目を引き
それだけでも楽しめそうです。
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2023/08/06 17:15
「三つ葉葵の紋」ゆかりの地 (2023/08/06 訪問)
1440年本多定忠が伊奈村を平定し、この地を拠点と定め築いたのが、伊奈城です。以来、本多康利が徳川家康公関東移封に伴い、関東に移るまでの150年間、伊奈本多氏の居城でした。
この城は、徳川家の「三つ葉葵の紋」ゆかりの地でもあります。岡崎城主・松平清康が吉田城を攻めたときに、当時の伊奈城主・本多正忠が清康軍の先陣をきって攻め落とした際に、伊奈城に戻り戦勝の祝いをし、水葵の葉に酒の肴を盛って清康に出したところ、大いに気に入り、葵の紋(立ち葵)を家紋とする、本多家の協力で勝てたこともあり、松平家の紋とするようになったと伝わっています。
現在の城跡は伊奈城址公園として整備され、土塁と本丸の郭が残っています。土塁は戦国中期の平城を今に伝える貴重なものとして保存されています。
駐車場・トイレも完備されておりますが、今の季節は草木が生い茂り、訪れる方も少ないように思われます。春の季節に訪問されることをお勧めします。
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