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しんちゃん

主郭はサクッと。あとはひたすら藪レンジャー。 (2023/01/05 訪問)

頴娃城は伴姓頴娃氏の居城であったと伝わります。
ポルトガル人商人 ジョルジ・アルヴァレスにより宣教師
フランシスコ・ザビエルを介してヨーロッパに最初に紹介された山城と伝わります。
かつては三層五階の建造物(天守と思われる)があったとされるが定かではありません。
いまでこそ主郭以外は藪に覆われ判別がしずらいのですが
土塁や虎口はしっかり残っていて、高い防御能力を備えた
堅固な城塞であったと思われます。
城跡に向かう道は未舗装の林道ですが近くまで来ることが出来ます。
南から北上する方法で城跡を見て回ります。
本郭の南 大堀切が郭を回り込むように続いています。
その次はいきなり本郭を攻めます。ここはきれいに整備されていて問題なく
散策できますが堀切をまたいで2郭を見に行くと、すでに藪に覆われています。
それでも周囲の土塁を確認することが出来ました。
次は虎口と6郭を経由して4郭を見に行きます。
急斜面をよじ登り藪漕ぎしながら侵入。土塁遺構がしっかり残っています。
次は8郭。崖のような斜面を登っていきます。
自分も3000以上の城を回ってきて、山城に直登するようなことをさんざん
やって来ているので、登れそうなところはカンでわかるのですが
はたから見ればただの変態です。
この城は本郭と大堀切を見たら、そのまま退散するのが正解でしょう。
8郭によじ登って扁平地を確認。やはり酷い藪で散策はそれほどできません。
このたびはここで引き上げることにしますが
地元の方が藪を刈って、整備してくれたらまた来るかもしれません。

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しんちゃん

削られつつも何とか残った加世田城 (2023/01/05 訪問)

加世田城は平安時代、平氏の流れをくむ別府五郎忠明によって築かれました。
加世田城(別府城)は福寿城・尼ヶ城・中之城の三城で構成されていましたが
明治36年に地ならしがされ、尼ヶ城の一部を残し削り取られてしましました。
現在城址碑の建っている城址公園はその尼ヶ城の残された部分になります。
加世田城は島津氏に吸収されたので当然麓が存在します。
一国一城令で薩摩は各地に残った城の麓に地頭を置き、いざという時に備えました。
加世田城も江戸時代は加世田麓として存在していたはずです。
まずは加世田城の残遺構を確認したのち、加世田麓の地頭仮屋に向かいます。
現在は加世田幼稚園になっているようです。
石垣のようなコンクリートブロックの奥にいかめしい門柱がたっていて
たしかに地頭が住んでいてもおかしくないような雰囲気を漂わせています。


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しんちゃん

元寇防塁② オール九州大土木工事。報酬ゼロ、お疲れ様でした。 (2022/12/31 訪問)

先ほどは生の松原と地蔵松原の元寇防塁を紹介しましたので、今回は残りの3つの
元寇防塁を紹介したいと思います。
③西新元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市早良区西新7
④今津元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市西区今津
⑤今宿元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市西区今宿駅前1

 西新元寇防塁は西南学院大学体育館の南側にあり、石碑が建っているので見つけやすいのですが
 駐車場が無いので苦労します。堀を設ける形で石塁を露出しているので
 かつての遺構がそのまま展示されているのかもしれません。

 今津元寇防塁は長浜海岸の松林の中にあります。こちらも200mにわたって
 堀を設けて遺構を展示してあります。そこから先は土中に埋まったままですが
 わずかな高まりがあり表面に石が露出しています。
 工事を担当したのは日向の国と大隅の国の御家人です。

 今宿元寇防塁は道路沿いの長垂海浜公園の中にありました。
 石塁の遺構は土に覆われ、今では高さ50cmほどの土塁状の遺構が連なっていますが
 石がところどころに露出しています。
 この2kmほどの防塁は豊前の国が担当しています。

 こうしてみると工事を担当したのはすべて九州の御家人たちですね。
 薩摩からすれば周防の方が近いんじゃないかと文句をいいたくもなるでしょう。
 しんどい工事を延々続けて報酬がゼロじゃたまったものではありません。
 この日はららぽーとで実物大νガンダムの立像を見てテンションが上がりました。
 実はけっこうガンダムとかガンプラも好きなんですよ。
 雨とか猛暑で城めぐりがきついときは家でクーラーかけてこつこつ作っていたりします。
 あくまでも余談ですが。

 


 

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しんちゃん

元寇防塁①  生の松原と地蔵松原 (2022/12/31 訪問)

元寇防塁は鎌倉時代に博多湾一帯に元軍の襲来に備えて築かれました。
大隅国の石築地賦役文書によると田一反あたり一寸の割合で各国の御家人たちに労役が課され
鎌倉幕府が滅亡する前年まで工事は続けられたと伝わります。
かつては西は福岡市西区今津から東は福岡市東区香椎まで長さは20kmにも及んだといいます。
城びとの元寇防塁は生の松原のものですが、今回は5か所訪問しているので
一緒に紹介させていただきたいと思います。
①生の松原元寇防塁 国指定史跡  建治2(1276)建造
 所在地‥福岡市西区生の松原1
②地蔵松原元寇防塁 国指定史跡  建治2(1276)建造
 所在地‥福岡市東区筥松4

 生の松原元寇防塁は当時の防塁が再現されています。実際の防塁は地中に埋められている模様。
 この地は弘安の役の激戦地で「竹崎季長」が先駆けを務めたと伝わります。
 肥後の国の御家人が工事を担当しました。

 地蔵松原元寇防塁は現在公園になっています。国の史跡に指定されていますが
 遺構はまったく見当たりません。地中に埋められているものと思いますが
 すこし物足りなく感じますね。大正9年、平成5年と12年と3回にかけて発掘調査が行われて
 それぞれ遺構が発見されています。
 薩摩の国の御家人が工事を担当したと伝わります。


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しんちゃん

小早川隆景が大改修。博多湾に築かれた大水軍城。 (2022/12/31 訪問)

名島城は豊前の国の大友氏の庶流、立花艦載によって立花山城の出城として
築かれたと伝わります。
九州平定を果たした豊臣秀吉によって小早川隆景に与えられ、水軍の本拠と出来る
城に大改修されました。
コインパーキングに駐車して名島神社から城域に入ります。
名島神社への参道がその高低差を持ってこれから城域に入るのだと教えてくれます。
名島神社の背後に城址公園、周囲の宗栄寺、住宅地に至るまで丘陵地一帯が城址のようです。
神社も寺も宅地に至るまで全部郭だと考えると城の全体像がイメージできますね。
佐竹義宣の家臣、平塚滝俊がこの城を、島に構築された水軍城で城下町が形成され
直接大船を接岸できる上、石垣も天守も立派だったと伝えています。
小早川隆景が精力を尽くして素晴らしい水軍城を作り上げたのだと想像を掻き立てますね。

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じゅんじん

成就院 (2023/05/14 訪問)

成就院が城址になります。門の外に堀跡の碑がありました。

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じゅんじん

太田小学校 (2023/05/14 訪問)

小学校でした。

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じゅんじん

森の中 (2023/05/14 訪問)

入口がトラロープにより侵入不可でした。

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じゅんじん

城址碑 (2023/05/14 訪問)

弓道場の奥に城址碑がありました。

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しんちゃん

時代の波に翻弄された白井氏の謎多き城。 (2023/01/10 訪問)

府中出張城は応永年間(1394~1428)に千葉氏の末裔である白井胤時によって
築かれたとあります。(wikiより)
白井胤時さんのことは調べても出てこないのでどのような人物かわかりません。
城域もはっきりとはわからないので国土地理院の地形図を見て
あたりをつけて攻めていきます。
宅地の背後にある小高い丘を最高所として上部の扁平地を確認。
あとは周囲の扁平地が城域(郭)になると思います。
長福寺周辺の扁平地を確認。なかなか眺望も良いので主郭か二の郭があった
可能性があります。
あとは神武天皇ゆかりという多気神社へ。私、実は神社好きでもあります。
山城もマイナーな城跡も神社もお賽銭を除けば基本タダですからね。
こういった人は案外多いのではないでしょうか?
さてこの神社、古事記や日本書紀にも記載のある古くて由緒のある神社です。
ということは戦国の時代に郭として機能していた可能性は十分にあるわけです。
神社を散策しながら城郭を探索している気分になって二重にお得感がありますね。
白井氏は水軍を有し、後に小早川隆景に下ったというので
毛利水軍の一角を担ったのでしょうか?白井氏のその後も気になりますね。

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赤い城

もう一度行っておきたかった。 (2023/06/10 訪問)

堀底道パラダイスのお馴染み小幡城、
関東を離れる前にもう一度行っておきたかったので登城しました。
駐車場からすぐに城の入口があります。
整備されているので順路に沿って進むとほぼほぼ楽しめます。
やはり高い土塁を見上げながらの堀底道散歩は素敵。
何度も殺されます。
櫓台に登ると土塁のくぼみの変形武者走りも見ることができます。
堀底道に戻って進むと土橋が。
こちらもいい感じです。
その外側の堀にも降りてみました。
竹やぶの中に明瞭に残る堀でした。
主郭は土塁で囲まれ、井戸も残ります。
常陸っぽい平地を深く掘った城です。
久米城と並び茨城県では双璧の城ではないかと思います。
機会があればぜひ行って欲しい城です。

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しんちゃん

何回も来てるんだけど石垣に刻印を発見。名古屋城からのおすそ分け? (2023/06/17 訪問)

本日 お隣の自治体 田原市の田原城に行ってきました。
田原城は天文12年 戸田宗光が築城し、高縄城から移ってきました。
その後、今川氏の怒りを買い田原戸田氏は滅びます。
時がたって慶長6年 戸田尊次が1万石で入城。寛文4年 三宅康勝が1万2000石で入城。
その後代々三宅氏の居城として明治時代を迎えます。
江戸時代の縄張りや遺構をある程度留めていて、大手の桜門の前には
石垣と堀の代わりの袖池が広がります。門を入って右手に三の丸があり
今は護国神社が鎮座します。復興コンクリート造りの二の丸櫓は展示館として機能しており
内部に田原城の模型が展示されています。
この模型によると、通常は南東部の腰郭から三の丸を経由して出入りをしていたようで
複雑に折れ曲がった登城道にいくつもの小さい門が設置されていたようです。
近世城郭としては比較的小規模ですが、石垣や土塁、空堀など必要十分な防御設備を
備えていたようです。ここはさすが戦国戸田氏が本城にしていただけはあるようです。
二の丸には田原市博物館が設置されており、郷土の英雄 渡辺崋山の展示が常設してあります。
二の丸と本丸の間には大規模な空堀があるのですが、向かって左の空堀には石の階段と通路が
設置してあって、そのまま進むと門があって、そこからも出入りできます。
その昇降用の石段の周辺の石垣に刻印をいくつか見つけました。
イタズラなのかなとも思ったのですが、いささか古びた同じデザインの刻印が
あることから、名古屋城建造の際に余った石を吉田城にお裾分けしたさいに
田原城にもお裾分けがあったのかもしれません。
吉田城も田原城も天守台用の櫓の石垣は、この近辺で取れるチャートの石垣ですが
刻印のある石とその周辺の石は花崗岩です。そう思うと少しテンションが上がります。
本丸は現在、巴江神社になっており、神社の石碑の書体は東郷平八郎元帥によるものです。
蒲郡にある竹島の橋のところにある鳥居の扁額の書体も東郷元帥によるものですが
このあたりに来られたことがあるのは間違いなさそうですね。
本丸の周囲は1m位の土塁で囲まれ櫓台らしき高台もあり、土塁の跡も残っています。
なかなか見どころの多い城郭です。

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チェブ

政宗 ダテニクル? (2023/05/13 訪問)

以前に投稿した「下館城」と同じく、平将門さんが挙兵した時に藤原 秀郷さんが築いたとされる、上館・中館・下館。その中の、中館=「伊佐城」です。
でも、もう少し前から「伊佐城」はあったようです。

写真②、五行川の橋を渡った左手に駐車場がありました。駐車場から観音堂に向かうと、写真①の堀切。くぐって、ぐるっ。堀切にかかる橋に行けます。ここから、連郭式も納得。段々と少しづつ高さを変え細く続きます。広く郭だったと思われる所は土塁がありました。でも、「伊佐城」の頃のかは分かりません。

伊達 行朝さんのお墓がありました。
うむむ?この辺の歴史が分かりにくい。
源 頼朝さんの奥州征伐に、伊佐氏の5代目が従いました。功を立て福島県伊達郡を与えられました。伊達家の祖の誕生です。
因みに、行朝さんは7代目。ややこしい。

私は「伊佐城」の石碑を見つけられず、かなり歩いてしまいました。
帰って、伊達 行朝さんを調べようと検索すると、『政宗ダテニクル』のご当地アニメが、、、。
伊達 政宗さんが、16人のご先祖の力を借りて戦うようです。
ちょっと、面白そうです。

実は、大河ドラマ『どうする家康』で後半に、結城 秀康さんが登場する前に、結城周辺のお城に行っておこうと思い攻めました。
まさかの伊達家に出会うとは、勉強不足。
まずは『政宗 ダテニクル』を見ようっと。
そしたら、「伊佐城」がもっと遠くなる予感がしますが、、、。

*投稿後、『政宗ダテニクル』の4話まで観ました。
「伊佐城」は出てきません (´ε`;)

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ぴーかる

福束城 (2023/05/03 訪問)

【福束城】
<駐車場他>駐車場はなし。白髭神社前駐車できそうです。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅3城目。福束城は1414年に土岐氏の家臣福束蔵人十郎益行が築城しました。その後は丸毛氏が城主となり戦国時代まで続きます。豊臣秀吉時代の城主丸毛兼利2万石を領していましたが、関ヶ原合戦の時に西軍に付いたために東軍に攻められ丸毛軍は敗走し城は打ち捨てられたようです。戦後丸毛兼利は前田利常に2千石で仕えます。
 現在遺構は消滅していて揖斐川の流れが変わってしまって城跡の場所も定かではないようです。

<満足度>◆◇◇

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むらひろ

小沢城 (2023/06/17 訪問)

案内板をみつけたところの先が曲輪っぽかったがロープが張られていたため、入るのはやめて周りを探索。

相模川側にはかなり急な斜面があり、きっと天然の要害だったのだろうとか、細い切り通しの道は当時も城へ上がる道だったのだろうか等色々と想像を掻き立てる面白い城でした

城とは関係ないですが、自然が豊かでいろんな鳥の鳴き声が聞こえて心地よかったです。

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かづひさ

流石💦 (2023/06/17 訪問)

じっくり見ようと思ったら先に体力が尽きてしまい次回リベンジしたいと思います。

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しんちゃん

上平寺城② 弥高寺編 中級以上 (2023/04/08 訪問)

上平寺城①の続き国指定史跡 弥高寺です。
上平寺城のレポートなのに何で?と思われるのも当然ですが
自分の中では上平寺城と弥高寺はセットになっています。
国の史跡として登録されており、おる意味においては上平寺城以上に
城塞としての遺構を残している寺(城)なのです。
福井の平泉寺や滋賀の百済寺も城塞としての機能を有しており、古くは
奈良の吉野山も山全体が南朝の城塞といって良いと思います。
城人のサイトには載っていませんが、城好きとしては外して通るわけには
行かなかったのです。
上平寺城から分岐していく道が弥高寺に続いていくのですが
この道が結構危ない。カーブで崖のようになっている箇所もあり
足元が崩れたら無事ではすみません。
登城は自己責任とはいえ危険を感じるようであったら引き返すことを
お勧めします。僭越ながらタイトルに中級以上と記載していただいたのは
これが原因なのです。
大門跡を通って主郭に向かいますがここが食違い虎口のようになっている上に
基礎部に石垣が使われています。もうこの段階で普通の寺ではないのです。
案内板にも京極氏や浅井氏に城郭として改修されたことが記されています。
つまり詰めの城のさらに詰めの城の役割をはたしているわけですね。
主郭に向かう途中、扁平地にたくさんの郭がありますが皆、明確に土塁で区分けされています。
虎口を通って本堂跡に到着。ここが主郭になります。
弥高百房といわれる城址のなかでも一番大きい郭です。
周囲は土塁で囲まれ上平寺城の主郭以上に広く感じます。遠くには
琵琶湖が良く見える。なかなか眺望にも優れています。
主郭の背後には大堀切で伊吹山に向かう道を遮断しています。
主郭と大堀切の間には大きな土塁があり上部は郭としても機能しそうなほど
大きな土塁です。千葉県の真里谷城の主郭背後の大土塁とほぼ同スケールです。
部分的とはいえ正直ここまでやるか?というほど手の込んだ防御設備を
備えているのがこの寺(城)の特徴です。
採鉱所や悉地院のルートを経由して下山しましたが、これでは
京極氏館の駐車場に戻るにはすごく遠回りになります。
やはり戻りも例の山中ルートで帰るのが正解のようでした。
くれぐれも山道を歩く際は足元に気を付けてください。



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しんちゃん

上平寺城①上平寺城編 ~中級編 (2023/04/08 訪問)

上平寺城は近江守護京極氏の詰めの城です。
標高669m、比高380m。山城で比高400mクラスは結構な距離ですよ。
しかも山道がなかなかきついです。久々の山城で増えた体重が膝にかかってきます。
この京極氏の遺構群を攻めるときは特にしっかり準備を整えてから
訪問していただきたいと思います。
まずは南の三の丸から北上して行きます。
三の丸は左側に畝状の竪堀群を有し、南に向かって大竪堀を有します。
三の丸自体も周囲に土塁を有し、堀切を経て二の丸にかかります。
二の丸もいくつかの郭を有していて虎口が連続して折れ曲がります。
枡形虎口という紹介がありますが喰違い虎口のようにも見えます。
これで合っていますでしょうか?二の丸の入り口はなかなか
手が込んでいたと記憶しています。
本丸は南西に2本竪堀を備え西側と南東側に虎口を備えています。
本丸は周囲に土塁をめぐらしています。
非常に良く遺構を残した国の史跡の山城ですが、
北に続く道をたどっていくと途中で弥高寺に向かう道に突き当たります。
本丸の北にも大堀切がありますが、ここでもう一つの目的 弥高寺に向かいます。
上平寺城②に続きます。



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もも

二本松城 (2022/11/13 訪問)

箕輪門や瓦の丹羽家家紋に感動しました。

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しんちゃん

防御力と優美さを備えた近江守護京極氏の館跡 (2023/04/08 訪問)

京極氏館は上平寺城に麓にある、近江守護職京極氏の平時の居館です。
攻め手は南側からまっすぐ攻め入ろうとするが、まず侵入路が斜め右へそれます。
そこから今度は反対方向に90度ほぼ直角に進むことになるのですが
このときに右手の弾正屋敷、蔵屋敷、左手の隠岐氏屋敷の三方向から攻撃を受けます。
たいていの敵はここで討ち果たされるものと思われます。
特に隠岐氏屋敷は、わずかに高地にあり今でも周囲に土塁を備えているので
ここからの弓矢の攻撃は相当に熾烈であったと想定します。
そこからも左右に数段の郭をそなえ、しかもだんだんに高所に向かっていきます。
まさに守りに適した館の構造になっており、小規模な城と呼んでも差し支えないでしょう。
突きあたりに鳥居と階段があり最高所には伊吹神社があります。
かつてはここもみはり台を兼ねていたのでしょう。
それほど侵入者の動きを見るのに適している場所です。
かつての館跡と庭園跡は鳥居の右手にあります。庭園はかつての庭石がのこり
十分な雰囲気を残しています。ここ数日天候が怪しかったのですが
そのおかげでかつての池跡に水がたまって、まるで池のようです。
鳥居の左手には京極氏墓所が残ります。
京極氏の冥福と旅の安全を祈って、上平寺城と弥高寺に向かいます。

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