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くらのり

ニ条城 (2023/06/03 訪問)

1600年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿舎として築城に着手。天下普請により1603年に完成し、将軍就任の祝賀の儀を執り行った。
その後、1619年(元和5)に2代将軍徳川秀忠の娘、和子が後水尾天皇に入内する前の宿館として大改修が行われた。1623年、後水尾天皇行幸を迎えるため約に2年かかりの大改築をおこない白漆喰塗の五重五階の天守、西側に本丸、東に二の丸をもつ現在の姿を完成させた。
1750年(寛延3)落雷のため焼失。1893年(明治26)京都御所内の旧桂御殿が移築され、これが現在の本丸御殿となっている。

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赤い城

武田最後の城 (2023/05/28 訪問)

韮崎市民俗資料館でスタンプを押し、パンフレットを入手。
ここには城の模型も置いてあります。
その後少し離れた城址へ。
駐車場もあります。
駐車場から道路を渡り東出構を見学。
ここから帯曲輪を進んで行きました。
西出構から出て乾門桝形虎口から再度入城しました。
木橋橋台のところから堀に降りて見ましたが藪で形は今ひとつでした。
井戸を経て二の丸へ。
曲輪は下草が伸びていましたが土塁を確認出来ます。
本丸には藤武神社が建っていて土塁も残っていました。
一部発掘調査中でブルーシートが掛けてありました。
ここから二の丸の脇を通り三の丸方面に。
途中喰違虎口も見られます。
三の丸は東西共に藪で断念。
整備されている大手桝形虎口、丸馬出、三日月堀を見学。
大手からは富士山が綺麗に望めました。
武田勝頼によって築かれた城ですが織田・徳川連合軍によって武田氏は滅び、城も短期間で廃城となってしまいました。
丸馬出、出構、三日月堀など武田の特徴をよく見ることができる良い城でした。

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カズサン

本丸周辺2度目の探訪 (2023/05/25 訪問)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」のドラマ進行状況に合わせて、三方ヶ原合戦、長篠・設楽原合戦の次には武田勝頼との高天神城攻防戦が控え2度目の探訪、平成26年11月の初登城では追手口からの登城で三の丸、本丸周辺の探訪で終わりましたので一城別郭と言われる西の丸の有る西峰の城郭曲輪群を観察探訪終えて、ついでに本丸周辺を再度の探訪観察をいたしました、足腰脚力の関係で三の丸から追手口までは前回探訪していましたので省略。

 井戸曲輪から西峰、東峰の分岐点から登城通路を本丸方向へ、的場曲輪、大河内石窟、本丸北虎口土塁、本丸内部、御前曲輪、御前曲輪には相変わらず顔嵌めの撮影スポットが健在、本丸の西、南西側の土塁に切岸も崖と合わせて良く残って見応えがあります、薄曇り霞状態で富士山の遠望は叶わず。

 難攻不落、堅城の高天神城は西峰、東峰の遺構見所満載です、私の足で何とか登れる高天神城でした。乞う期待大河ドラマ「どうする家康」の高天神城攻防戦!

 多くの方が来城されて居ました、県外車も多く見受けられ人気の程が伺えます。
 
 

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城好きのメガネ

「鐙摺城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
鐙摺城は、平安時代末期、源頼朝が石橋山で挙兵し、源氏に呼応した三浦党が鐙摺城から援軍として出陣。しかし、源頼朝が石橋山で敗走したため退却した際に、畠山重忠と遭遇。三浦義澄が当地に旗を立て気勢をあげたことから旗立山と呼ばれる。戦国時代に関東に進出してきた伊勢宗瑞に攻められ、三浦氏の滅亡とともに廃城になったとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR逗子駅 京急バス 鐙摺下車 徒歩3分

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todo94

和歌山の城めぐり③ (2023/04/29 訪問)

現地での表記は池田城になっています。城の西側の登城口は明瞭でわかりやすいですが、急坂登が待ち構えているようですね。わかりにくいながらも傾斜が緩い南側の舗装路から攻めてみました。山頂付近まで電柱、電線が伸びているので迷うことはないでしょう。山頂から四方に郭が伸びているなかなか見ごたえのある城でした。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:更木陣屋 (2023/04/27 訪問)

長森城からの転戦です。農協跡の駐車場前(35.413259、136.826969)に駐車させてもらいました。
そこから徒歩(すぐ近くです)で、旗本徳山陣屋公園入口(35.412998、136.826970)に向かいました。

更木陣屋は江戸幕府の旗本・徳山氏の陣屋です。
もともと織田信長の家臣であった徳山則秀は柴田勝家の北陸方面軍に従軍して活躍し、その後も丹羽長秀、前田利家に仕えたのち、「関ケ原の戦い」の際に徳川家康に従いました。
則秀は戦功によりこの地を領すると、以降徳山氏は幕府旗本として明治まで続きました。

模擬復元門と模擬復元井戸、土塁もありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=加治田城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:長森城 (2023/04/27 訪問)

伏屋城からの転戦です。長森城址石碑/説明板前(35.398724、136.797026)に路駐しました。

1185年(文治元年)長森庄地頭の渋谷金王丸が長森城を築城したと伝わっているようです。
南北朝時代の1339年(暦応2年)、美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡からこの長森城に移り、城郭としての整備し、その後は代々土岐氏が城主だったようです。
廃城時期は不明だが、斎藤道三が美濃国を支配し、拠点を稲葉山城に移した頃と思われるようです。
廃城後、同地は江戸時代陸奥国磐城平の安藤氏の飛領地として切通陣屋が築かれ、以降代々安藤氏の領地として続き明治に至るそうです。

現在は市街地となって遺構は残っていないようですが、切通観音の所に説明碑と陣屋跡碑が建てられていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=更木陣屋に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:伏屋城 (2023/04/27 訪問)

竹ヶ鼻城からの転戦です。伏屋城の説明板前(35.385176、136.793948)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に木下藤吉郎によって築かれたと云われています。
秀吉は木曽川周辺に勢力を持つ土豪らの助けを借り、材木を集めて筏に組み、木曽川を利用して伏屋に運び、一週間足らずで完成させとことから「一夜城」とも呼ばれているそうです。
小牧・長久手合戦では最北端の砦として平岡氏の家臣伏屋市兵衛に守られたそうです。廃城時期は不明のようです。

伏屋城は住宅街の一角に説明板があります。
竹藪の中に土塁があるようですが、路駐している為、土塁の確認はしていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=長森城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:竹ヶ鼻城 (2023/04/27 訪問)

加賀野井城からの転戦です。羽島市歴史民族資料館駐車場(35.324096、136.701879)に駐車しました。

築城年代は諸説あり定かではないようですが、応仁年間(1467年~1469年)に竹腰尚隆によって築かれたと云われています。
文明年間(1469年~1487年)頃には長井利隆が城主となりましたが、1497年(明応6年)加納城へと移っています。
長井氏の後は不破広綱が入城し城を改修するとともに城下町の形成を行ったが、小牧・長久手の合戦で落城しました。
最後の城主は杉浦重勝で10,000石を領したが関ヶ原合戦で岐阜城の織田秀信に呼応したため、東軍の攻撃にあい自刃して落城しました。

遺構は残っていません。現在は、羽島市歴史民族資料館前に石碑と説明板があります。
攻城時間は15分(羽島市歴史民族資料館の見学時間含む)くらいでした。次の攻城先=伏屋城に向かいます。

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小荷駄

淡河城跡 (2023/05/02 訪問)

城跡隣の道の駅の駐車場とトイレを利用できます。私は神戸電鉄三木駅よりバスにて登城しました。乗車時間は40分程だったと思います。道の駅の隣のコンビニの脇から進み小さな橋を渡りその先から登るとすぐに本丸跡に着きました。特に堀跡がしっかりと残っていて素晴らしかったです。近くの淡河宿本陣跡は月火休みで見学はできませんでしたが満月堂さんの豊助饅頭を買って帰りました。城跡散策時間は40分程でした。

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ありお

ステキすぎっす✨ (2023/06/03 訪問)

上田城を後にして、次は松代城へ〜!!🚗³₃

いや〜、、、なんて、なんてステキなトコなんでしょう✨✨✨
その前に雲の無い青空がなんて最高なのでしょう😍✨

本丸の周りをじーっくりと散策して、次は真田邸へ!!!✨

いやー!やばいですね〜!!✨
そのまま残ってるって、、、、邸内はステキ過ぎるし、、、もう見終わった後の余韻が大変、、、✨✨✨
写真もたくさん撮りました!📸
語り尽くせないので写真で!!!✨

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ありお

ついに来た!🤩 (2023/06/03 訪問)

日帰り弾丸で、好きな人との長野旅!!🚗³₃
寺社仏閣オタクから、城巡りへも参入です!🤩✨

台風の影響で、1日延期にしてよかった!!
なんて快晴、、、✨❤
青空が映えて映えてしょーがない!🤩

上田城に行く前に、ちょこっと予習して、初めて真田様ゆかりであることを知るレベルです!🤣
でもちょぴっと知っていくだけでも見え方が違いますね〜!✨✨✨
いろいろなトコよーく見て回って✨
櫓の中へももちろん散策させていただいて!
た、楽しいぃ、、、好きな人とならなおさら、、、🤩✨

たっぷり見て回ったあとは、御城印をもちろんいただきます!
こちらの御城印帳でスタートすることを決めていたので、迷わず購入〜!🤩✨
いや〜いいですね〜!✨

さて!次は!!
松代城へ向かいましょ〜!!🚗³₃

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シェル

橋が無い!! (2023/06/01 訪問)

長野駅から旧松代駅までアルピコ交通のバスで35分程度(運賃660円)旧松代駅から城跡までは徒歩5分程度です。
100名城スタンプは、真田邸の門前のテントに設置されています。(押印は無料でできました。)
本丸の太鼓門前の橋は、修理のため撤去されており、水堀の水も抜かれていました。(本丸側から太鼓門の枡形内には入ることができました)
橋が無いため、籠城戦のような雰囲気を味わえて、少し興奮しました!!
太鼓門以外にも、北不明門や石垣、土塁などが復元整備されています。
帰りは、上田方面へ向かうため、旧松代駅から屋代駅行きの長電バスへ(運賃420円 本数は少ない)

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ぴーかる

山崎合戦古戦場巡り (2023/04/22 訪問)

【山崎合戦古戦場跡】【山崎城】
<駐車場他>山崎合戦古戦場跡:天王山夢ほたる公園前に少しの間なら停車できる。山崎城:未調査
<交通手段>阪急電車:西山天王山駅から徒歩

<見所>天守跡・天守跡石垣・枡形・転用石
<感想>山崎城の築城は1338年以前に摂津守護の赤松範資が南朝方の警護のために林直弘に命じて築城したとされます。南北朝の争乱や応仁の乱で次々に入城者が変わります。戦国時代後期は三好長慶の城となり、山崎の合戦後に羽柴秀吉が麓付近の宝積寺も含めて大改修を行いました。現在残る遺構はこの大改修の時のものと思われます。

 遠い昔の学生時分に通学でほぼ毎日電車から天王山を見ていましたが古戦場跡も天王山を登るのも初めて。今シーズン最後の山城攻めにしようと思い、天気の良い日のとっておきにしていました。

 ハイキングウォーキングを兼ねて今回はこれも馴染みの阪急電車を利用して午前中は嵐山城、午後に山崎を巡りました。巡り順に、
[阪急西山天王山駅]駅前に秀吉の力水という地下水があります。

[明智光秀本陣跡境野1号墳]サントリービール工場のそばの古墳が本陣跡です。石碑と説明板、古墳は半分一般墓地になっているので墓地最上部に登れます。確かに微高地になっていて南方向が見渡せますが、せり出た天王山と桂川のある狭地より若干北側の抜けた所で、男山と天王山の兵を撤収して勝竜寺城の改修に回してしまう後手の守りになってしまった光秀、何故。

[山崎合戦古戦場跡]天王山夢ほたる公園に石碑と合戦の説明板があります。添付写真は天王山を背景に「歴史人」に掲載されていた同じ構図で撮ったつもりでしたが、やはり素人全然違った。

[山崎城]南側の登山口は2つあり、観音寺の横の登山口と宝積寺を通る登山口があります。旗立松展望台の少し手前で合流します。展望台の周辺には山崎合戦地碑や合戦絵図の石板等があります。城跡手前の酒解神社は創建が鎌倉時代で重文の神輿蔵が残されています。そこから城跡へは広い登山道を登り、枡形のような広い削平地に入ります。主郭は楕円形で北側奥に天守台の可能性もある櫓台があります。石垣が少し残されています。主郭の背後は帯曲輪があり北側下方は谷になっています。南方向は段曲輪が半円形状に広がって数段ありますが3段目より下は竹藪で入り込めません。主郭や虎口付近の通路跡に酒解神社の転用石と思われる何かの台座が数か所(添付写真)見られます。観音寺の横の登山口から登城して、宝積寺を通って下山しました。

[宝積寺]山崎の合戦で秀吉が本陣を置いたお寺です。山崎合戦後山崎城を改修するのにこのお寺から山頂までを抱き込んで一体化したようです。秀吉が一夜で創建した3重塔が残されています。ここでも登頂証明書と山崎城御城印が購入できます。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

電話ボックスと下館ジャスコ。 (2023/05/13 訪問)

940年頃に平将門さんが挙兵した際に、藤原 秀郷さんが築いた「下館城」。
まさかの明治2年に廃城しました。長い年月、活躍したんですね。この辺の歴史、勉強不足です。
秀郷さんは、上館・中館・下館の3城を築いたそうです。
その1城の「下館城」は五行川沿いにありました。
八幡神社が本丸。こちらに説明板と石碑がありました。お隣に小学校があり、間に道路が通ってます。こちらは堀のようで、坂になっていました。
下ると五行川にぶつかります。

駐車場がないので、堀である坂に駐車し、写真を写し移動しました。

電話ボックスがあり現役で活躍してるのか、懐かしいたたずまいです。
私は45年位前、茨城県の筑波山の麓にある祖母の家に遊びに行くと、下館のジャスコに連れてってもらいました。
なので、下館=都会 だったのですが、昭和ムードが感じられました。
すいません、脱線しました。

今は昭和より、平安時代以降に何があったか調べたい「下館城」でした。

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赤い城

石が転がり石積も残る (2023/05/28 訪問)

麓の根古屋神社から登城路があるようですが案内板に沿って進み、説明板が設置されているところから登城しました。
車は少し広いスペースがあったので路駐。
登城路は整備されていて歩きやすいです。
少し進むと門跡のような堀切があり、竪堀となり落ちていました。
さらに進むと石が転がり、導線を兼ねた横堀にも石が転がっていました。
主郭につながる段曲輪には石積もありました。
たまたま立ち寄った城ですがこの日の城では一番な感じでした。
元々は武田氏家臣の江草氏の城ですが天正壬午の乱では北条氏の陣城だった可能性もあるようです。

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小城小次郎

海老名から来た海老名氏の城なのだそうだ (2023/01/07 訪問)

お城っぽくないのはこのお城が南北朝時代に焼かれて以降使われた形跡がないせいか。この地に根付いた海老名氏は生国の相模を地名(相生)に冠するほどの力を持っていたが、江戸時代には武士ではなく豪農となる道を選んだそうだ。

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POYO58

まるで島 (2023/04/01 訪問)

ちょー久しぶりの投稿となってしまいました。すみません。
今回は岸和田城について紹介させてください♪
宇陀松山城訪問後岸和田城に行きました。岸和田城は秀吉の叔父が築きました。その後江戸時代の改良を終え、現在の姿となっています。
残る遺構としては石垣と水堀くらいですが、犬走が残っていることが特徴的ですね。石垣は積み方が分かれていました。打ち込みはぎ中心ですが、切り込みはぎもありました。
本丸には模擬天守か建っています。もちろん元々天守はあって5階だったそうです。結構高いですな。
そして一番重要なのは天守の中、なんと明智光秀の本物の肖像画が残っています。大変貴重です。ちなみになんでここかというと、山崎合戦の後、明智光秀は坂本にいったのではなく大阪にのがれ、この岸和田の本徳寺と言うところで僧になったと言われています。
この時期はとても桜が綺麗でしたよ。
ぜひ行ってみてください。

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カズサン

西の丸・馬場平・井戸曲輪 (2023/05/25 訪問)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」放映も三方ヶ原合戦が終わり、長篠・設楽原合戦へと進むと武田勝頼との高天神城攻防戦が期待されますので、今一度高天神城を探訪しておこうと平成26年11月以来の二度目登城を前回登城の追手口からを搦手口登城として未踏の西峰曲輪群を探訪観察、投稿は横堀と堂の尾曲輪編、二の丸・袖曲輪・馬出編に続いて、西の丸・馬場平・井戸曲輪編で投稿させて頂きます。

 搦手口から登城しますと東峰の本丸曲輪群と西峰の西の丸曲輪群の分かれに着きます、追分には高天神城の案内絵図、歴史解説板が有り、西峰に向い高天神社の灯籠を通り井戸曲輪に入る、井戸曲輪南に鐘曲輪と案内板、井戸曲輪の中心に「かな井戸」、縄張り図付きで高天神城西峰に残る曲輪群の真新しい解説板在ります。
 また真新しい解説板の近くにはスマホにかざすとAR・VRアプリ「バーチャル攻略高天神城」受信スポットが設置されており、事前にアプリをダウンしておくと見る事が出来ます。当日現地でダウン出来ず私は見る事が出来ませんでした。
 井戸曲輪から北に回り込むと既に投稿した、二の丸、袖曲輪、馬出、北に長い横堀と堂の尾曲輪切岸土塁、井楼曲輪が有り、今回投稿西の丸は井戸曲輪から西に高天神社鳥居を潜り長い急な階段を登ると西の丸跡へ、鳥居横には高天神城合戦将士忠魂之碑が祀ってあります、西の丸跡は二段に成り上段に高天神社本殿、下段に社務所、手洗舎、西の丸跡の標柱、階段南横には竪堀が伸びて標柱あり、西の丸跡の高天神社の北・西の裏には土塁か残り、西に堀切を挟んで馬場平が構えています、眺望は南側遠州灘が一望景観良好です、馬場平の西には武田方の軍監横田甚五郎が高天神城落城報告のため駆け抜けた道「犬戻り猿戻り」が有り狭く両側は急峻な崖に成っており往時を偲ばせます。

 西の丸から南に伸びる見張り台を西の丸上段、下段を見ていながら探訪を忘れてました、が案内板も無く、気が付かなかったのか良く分かるようには成って居ませんでした、帰って投稿する段に成って失念に気が付いた次第です、またのタイミングで挑戦したいと思っています。
 
 続きは「本丸周辺編」、「搦手登城編」へ
 

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じゅんじん

天守 (2023/05/04 訪問)

夕方訪問。周囲を歩きました。

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