軽海西城からの転戦です。神社北側公民館入口(35.456320、136.636801)から進入して駐車し、標柱(35.455549、136.636556)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、建暦・建保年間(1211~19年)に土岐二郎光俊によって築かれたと云われています。
光俊は土岐美濃守光衡の嫡子浅野判官光行の二男で、饗庭二郎と称し鎌倉北条方に属して承久の乱で討死したそうです。
饗庭氏は光俊の後、二郎太郎国綱、国頼、国信と続いたようですが、後に廃城となったようです。
天文年間(1532年〜55年)初期には長屋景興が垂井より移り、城を修築して美濃国守護土岐頼芸に仕えました。
1546年(天文15年)斎藤道三が相羽城を攻めましたが、この時は落城しなかったようです。
しかし、翌年土岐頼芸の籠もる大桑城が落城し頼芸は国外に逃れると、道三は再び相羽城に攻め寄せ城主景興と嫡子与五右衛門景直は奮戦むなしく討死したそうです。一説に景興は城を逃れて木曾屋に隠れて没したともいわれています。
現在の八幡神社境内は周囲より幾分高く、ここが本丸跡と伝えられており、標柱と石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=揖斐北方城に向かいます。
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