続100名城の一つです。麓に冠木門があります。御城印は、砺波市埋蔵文化財センターで、購入しました。
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2023/02/26 03:42
2023/02/26 03:25
2023/02/26 02:37
2023/02/26 02:24
大間八幡神社 (2023/02/24 訪問)
大間八幡神社付近が城址です。案内板に「周辺には、空堀、土塁、水堀などの遺構も残っており、、」と記載がありますがよくわかりませんでした。
新幹線「新大牟田駅」からバスに乗り「羽山台小学校前」で下車。徒歩10分くらいで大間八幡神社に行くことができます。
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2023/02/26 02:20
2023/02/26 01:58
大津山阿蘇神社 (2023/02/24 訪問)
南側の大津山阿蘇神社側には曲輪が展開し、北側は堀切で防御されています。北側の登城路になる案内板では堀切は3ヶ所と記載されていましたが堀切に架かった橋は4本ありますので堀切は4カ所ではないでしょうか。最も主郭側の堀切は2重堀になっていて見ごたえがあります。
道は南北とも整備されていますが、ほとんどは階段路です。主郭からは眺めがよく阿蘇山や雲仙普賢岳が見えるとのことですが、あいにくの雨で見えませんでした。
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2023/02/26 01:37
肥後国衆一揆 (2023/02/24 訪問)
肥後国衆一揆の舞台となった城址です。主郭を中心に独立した丘陵となっている出丸が備えられています。よく整備され小雨が降っていましたが足元もそれほど気にすることもなく散策できました。ただ出丸のなかで別の縄張り図で三の丸と日明屋敷と書かれていた曲輪には登って行く道が見当たらず少し苦労しました。弾正屋敷に井戸はありますが、縄張り図を見るともう1カ所主郭の南に井戸と書かれていました。少し足元が不安定ですが何とかそれらしき所へたどり着くことができました。各所に雛壇状に曲輪が展開していてそれなりの規模があったのではないかと思いました。概ね歩きやすく散策しやすい城址です。
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2023/02/26 01:19
2023/02/26 01:14
2023/02/26 01:08
2023/02/26 01:00
2023/02/26 00:56
少弐冬尚 (2023/02/23 訪問)
種福寺の左側に登城口があり、案内表示とトラロープに導かれ迷うことなく主郭にたどり着けます。ただそれなりの山道ですのでトレッキングシューズなどの方がいいと思います。所々に縄張り図があり、自分がどの位置にいるかわかりやすくなっています。その縄張り図を見ると城の南側に旧、北側に新と記載してありました。案内板によると南側は小弐氏、北側は龍造寺氏、江上氏の段階の縄張りと考えられているようです。南側には井戸がり、北側へ行く途中にはいい堀切があります。北側の方に竪堀も多いのですが、浅くなっていてわかりにくいものも多い感じでした。北側主郭周辺の尾根にも堀切があります北東の尾根に降りて行くときは道がなく難渋しました。堀切、竪堀、土塁、井戸等遺構も多くあり楽しく散策させていただきました。石積みの跡かと思う所もありました。近郊には関連した遺構があるようですが、今回は主要な城域のみ散策しました。
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2023/02/26 00:27
銅像クイズ
赤い城さん、POYO58さん、お返事ありがとうございます。
浜松城天守門近くの松潤。
正解です*\(^o^)/*
…昨日行ってきました( ̄^ ̄)ゞ
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2023/02/25 23:52
㉕【関ケ原の26人】(13)平塚為広 (平塚為広と垂井城) (2022/11/29 訪問)
(13人目)は「平塚為広」です。
関ケ原時の居城「垂井城」を訪れてきました。垂井駅から西へ徒歩10分の所です。
城跡の石碑には詩が刻まれていました。私はこの垂井城に立ち、この詩を詠んだとたん、少し熱いものが込み上げてしまいました(すいません)。
平塚為広は秀吉の元では「母衣衆」(ころもしゅう)と呼ばれ、黄色い母衣(風船のような衣)をまとい、伝令や秀吉の周辺警備を担当していたようです。そして大谷吉継とは大変懇意の仲でした。
三成から家康を討つ決意を打ち明けられた吉継は垂井城に行き為広に相談します。そして二人は佐和山城に行き、挙兵しようとしている三成を止めようと説得します。「三成にはまだ西軍をまとめるまでの人望がない時期尚早である」と・・・
しかし三成は決死の覚悟があり、二人ともその覚悟に折れたようです。そして伏見城攻めに加わり、鳥居元忠を攻めたあと、北陸方面を制圧し関ケ原に入りました。
しかしこの時、大谷吉継の容態はかなり悪化していました。吉継は為広の垂井城に入り療養しますが、家康が関ケ原に向かっていると聞き、もはやじっとしているわけにはいきません。持ち場の玉城に戻り、その麓に陣を構えて小早川秀秋と対峙します。
為広は同行し、病気で目が見えぬ吉継に代わり大谷軍を指揮しました。そして藤堂高虎や小早川秀秋と対等に渡り合い、一進一退を繰り広げ何とか持ちこたえていましたが、脇坂安治らが寝返るともはや持ちこたえる事ができません。最期に、この詩を吉継に届けた後、もはやこれまでと藤堂高虎めがけ突進して行きました。
名の為に
捨つる命は惜しからじ
遂にとまらぬ憂き世と思へば
こう詠んだ為広に対して、吉継はこう返したそうです
契りあらば
六つの巷(ちまた)にしばし待て
後れ先立つことはありとも
しかしこ返詩は届く事はありませんでした。なぜならばこの時、為広はすでに討死していたからです。
次は、(14人目)へ続きます。
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2023/02/25 22:01
クイズに割り込み
にのまるさんのクイズあれですよね。まず銅像から誰かは想像できると思いますが、赤い城さん、場所は後ろにある門がヒントですね。この後ろにある門は天守門ですよねにのまるさん。っていうかまえ行ったばっかですね。答えは言いませんが…
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2023/02/25 20:58
大垣輪中 (2023/02/19 訪問)
今回の城旅は家康に関連し、と言いながら三河や駿河に行っている間がなく関ヶ原〜輪中というテーマで2日間の行程とした。
大垣城には何度か来たことがあるが、「輪中」という言葉を意識した訪問は初めて。輪中とは、河川に囲まれた堤防内に形成された集落などを言い、木曽三川域で発達したものとのこと。知らなかった。
大垣輪中は揖斐川、杭瀬川、牧田川などに囲まれていた地域。
城主は数多いるが、城内には最後の改築をした戸田氏鉄の銅像が建っている。
大垣城は関ヶ原合戦で西軍側の拠点であったため、西軍敗北後包囲され落城する。この時の様子を三成の家臣山田去暦の娘おあむが後世子供達に語った内容が「おあむ物語」として女性目線の武家の様子を描いた貴重な資料とされているらしい。
館内の展示は私好みで楽しい。
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2023/02/25 20:27
竹中氏陣屋跡 (2023/02/18 訪問)
この日は関ヶ原〜大垣城を攻めるため近江から東進し竹中氏陣屋跡を訪問した。
お城エキスポで垂井町のブースがあり凄く熱心にご説明いただいたので一度訪れてみたくなった。
まずは竹中氏菩提寺である禅幢寺を訪れ、半兵衛ほか歴代の方々にお参り。
菩提山城はなかなかな山なので予定満載かつ雨天のこの日はパス。陣屋跡に行った。
今も櫓門跡や石垣などが良好な状態で現存する。
菩提山城は半兵衛の父の時代、陣屋は子の時代に形成されたが、櫓門跡には半兵衛の銅像がある。軍師半兵衛の知名度が勝るゆえか。
半兵衛の子重門は父の影に隠れたような扱いがあるが、関ヶ原の戦いでも功績を上げている。時勢を読み竹中氏存続の基礎を築き、関ヶ原の戦後処理も行うなど立派な御仁かと思う。
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2023/02/25 20:11
国指定史跡 比企城館跡群の一つ (2023/02/21 訪問)
パンフレットには、「今のところ戦国時代の文献資料は確認されておりません。城主は不明ですが、江戸時代の(新編武蔵風土記稿)では小田原北条氏の重臣である遠山氏、(武蔵誌)では遠山氏あるいは上田氏とも伝えています。過去の発掘調査の成果から、天文~永禄年間(1532~1570)頃に盛期を迎え、天正年間(1573~1592)後半頃に使われなくなったものと推定されます。」と載っている。
大福寺から登ると郭3と郭1下の東帯郭の間に着く。郭3をコの字に囲む石垣は120メートルとあるが、郭3の虎口に回り込むのは通行禁止、郭内の虎口も通行禁止になっていた。郭1東虎口に架かる橋も禁止。枡形虎口は発掘調査中でした。北郭群への道にもロープが張られ、北郭群は大福寺から北に5分ほど先から北尾根を行くしかないので諦める。
郭1の北虎口にも石積みが確認できる。郭内は北が高く2段となり、周囲の土塁も高い。東虎口と南虎口間の土塁下には石積みが確認されているが、埋め戻している、と標示されている。郭2下の腰郭手前から東に下れば郭5に着く。途中の斜面にも虎口風の遺構があり、石積みが見える。郭4の手前には大堀切・土塁跡があり、折れを伴っている。折れの上は郭2の西隅で、櫓台状の高まりになっている。郭2内は土塁がよく残り、西隅を含め木が伐採され見晴らしが良い。
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2023/02/25 19:55
にのまるさんクイズ回答と・・・
まずはにのまるさんクイズの回答ですが、
「雰囲気」「旬」「にのまるさんご出題」と先日の朝田さんコメントから推測すると松潤なのでは無いでしょうか。
場所が分かりません。
建物があるので岡崎か浜松だと思いますが。
で、栃木の城クイズです。
ここも前回同様、行ったことある方多いと思いますがここまで行った方は少ないのでは?
多分前回の久留里城よりは易しいと思います。
今回もどなたにお答え頂いても構いません。
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2023/02/25 14:58
本郭からの展望がよい (2023/02/21 訪問)
町の観光HPに「松山城主上田氏の家老として仕えた、山田伊賀守直定の居城と伝えられています。標高216mを測る本郭を中心に、大小17の郭が残されています。竪堀が多く用いられ、巧みに組み合わされた小口のつくりなどが特徴的で、戦国時代の典型的な山城です。」と載っている。
登城口から登り詰めると尾根に出て、右は官ノ倉山方面の尾根になる。出た場所を含め堀切が二重で本郭へは東斜面を巻く。通常の本郭への道は、通行禁止になっており、西の郭側から二の郭に出て本郭へ向かう。途中には帯郭・横堀?・竪堀などが残り、囮小口下には石積みがある。西の郭を分ける堀切、西から回り込む小口跡・囮小口上部を過ぎ二の郭へ向かう。上段の平地から本郭小口へ、郭内は奥がやや高くなり、小口辺りに土塁跡が僅かに残る。
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