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赤い城

連投になってしまった! (2022/01/30 訪問)

前回の投稿以降どなたの投稿も無く結果的に連投に。
前回は藪でいまいちでしたがこの時季は歩けます。
三郭の方から入るとすぐに空堀があります。
残念ながらゴミも投棄されていますが遺構は良好。
その内側に二郭があり、主郭との間にも空堀があります。
主郭には祠がありました。
主郭に入るところに説明板もあり、主郭を囲む堀も綺麗に見ることができました。
詳しい築城者は不明ですが扇谷上杉氏が築いたとの説が有力だそうです。
前回は楽しめなかったけどこの時季ならなかなか良い。
整備されたら良いのに、と思う城です。

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やなぎぶそん

現存12天守制覇 (2022/01/08 訪問)

自身としては現存天守12ヶ所目のお城となり、現存12天守を制覇することができました。念願の宇和島城を登城することができ本当に感激でした。天守は思っていたよりも大きく立派な天守でした。また、宇和島城は現存天守に目が行きがちですが、石垣も素晴らしく見所満載の素晴らしいお城でした。

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カズサン

石垣が良く残っている (2011/04/09 訪問)

 瀬戸内海を見下ろす山稜に築かれて居る下津井城は慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが関ヶ原後小早川秀秋の治める所と成ったが3年で改易、慶長8年(1603年)池田輝政の息子忠継28万石が岡山藩に入封、支城の下津井城は輝政の弟池田長政3万2千石が城主として一大整備が成され、城は慶長11年に現在の遺構に見るような本格的な形態を整えるに至る。後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て一国一城令のため寛永16年(1639年)廃城と成る。
 雲を突き抜ける様な利神城を築城し、余りにも凄い城郭ゆえ幕府のお咎めを恐れた輝政より三層天守閣破却を受けた池田由之が下津井城城主でもあったのですね、息子の池田由成が最後の城主、廃城後由成は近くの倉敷市藤戸町に岡山藩家老とし天城陣屋を構え移った。(案内板抜粋、一部加筆)

 廃城後の石垣も良く残って居ましたので探訪時の残存石垣を中心に、①本丸西前石垣塁、木々が多く全体写真が良く撮れませんでしたので南側部石垣、➁二の丸北側の石塁石垣、上に多聞櫓でも在ったのでは?と思わせる幅、③三の丸南下の石垣、④二の丸南下出隅石垣、⑤二の丸南下の西側石垣と桜、⑥三の丸二の丸南面石垣を土留止石垣、⑦三の丸東面石垣、黄色い花と、⑧中の丸跡内部と桜、前の投稿で抜けて居たので、⑨三の丸東面石垣と帯曲輪手前石段、➉西の丸虎口自然石の大岩活用。
 まだまだ有るのですが10枚に絞って投稿します。
 
 景観整備、石垣の修復が進んでより良く整備保全され多くの方に訪ねて頂きたい城跡です、景色眺望も素晴らしい。

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やなぎぶそん

初登城 (2022/01/08 訪問)

初めて訪れましたが、櫓も複数残っており、天守もよく復元されているなど想像以上に良いお城でした。また、最近話題の大洲城をバックにJR予讃線を撮影することができました。

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イオ

寅年の信貴山詣 ~松永屋敷~ (2022/01/15 訪問)

(続き)

林道を北に下って行くと高安山方面への分岐があり、西に入ると信貴在城衆の立入勘介の屋敷跡とされる立入屋敷があります。立入屋敷は雄嶽の北に扇状に広がる支尾根の要の位置にあり、主郭と支尾根の曲輪群を結ぶ重要な曲輪だったようです。立入屋敷の見どころは北下の松永屋敷との間の切岸で、とんでもない高さと角度で聳え立っています。

松永屋敷は南北に階段状に削平された広大な曲輪群で、西辺に断続的に土塁が続き、最下段の曲輪の東部に両側に土塁を備えた虎口が開口しています。また北に一段上の曲輪との間には坂虎口が設けられていて、厳重な防御ぶりから松永久秀の屋敷跡とされるのも納得です。上段の曲輪の北下には腰曲輪があり、腰曲輪から東斜面に回り込むと、段々に設けられた小曲輪群の下に堀代わり(水の手?)の池が水をたたえていました。
松永屋敷にはあちこちに説明板が建てられ、木製武者(時節柄マスク姿)もあり、高低差のある曲輪間の移動用に仮設階段が設置されるなどよく整備されていて、これまで屋敷跡を面白いと思ったことはあまりなかったんですが、尾根を切り拓いてこれほどの規模の曲輪群と急峻な切岸を造成するには、一体どれほどの土木量が必要だったんだろうと考えると圧倒される思いでした。往時の松永久秀の絶大な権勢を感じます。

松永屋敷の東側の曲輪群は木沢期からの屋敷跡と考えられますが、中央を通る林道により改変されていて、土塁らしきものはあるものの、よくわかりません。また、説明板の縄張図によれば曲輪群の北端には切り通しがあるようですが、見付けられませんでした。

さて、松永屋敷に続いては時間の許す限り支尾根の曲輪群をめぐります(続く)。
 

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ばばよ

限られた地形をうまく利用している (2021/07/11 訪問)

大佐倉駅からの徒歩でしたが、地図にある道が細かったり舗装があまりされていなかったりと不安になりました。
まずは東側の駐車場を目指しましょう。
案内所はきれいで、スタッフの方も親切。
いただけたパンフレットのクォリティが高い!
高さや広さがすごいわけではありませんが、上手にアクセントをつけている印象です。
限られた地形をうまくくふうしており、先に訪れた佐倉城よりも堅固な作りであることが容易に伝わります。
夏だからか台風の跡なのか、東光寺ビョウからセッテイ山にかけての道がいまいちわからず藪の中を歩くハメになりました。

※くふうを変換したら、不適切としてはねられました

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アヤコ

城さんぽ (2022/01/29 訪問)

高槻しろあと歴史館へ。

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赤い城

高済寺に土塁と堀 (2022/01/30 訪問)

再訪、東上線の高坂駅から徒歩で10分くらい。
高済寺周辺が館跡でほぼ住宅地となっています。
高済寺の墓地横に土塁があり、空堀も残されています。
江戸氏一族の高坂氏の館で後に家康家臣の加賀爪氏が陣屋を構えた場所です。
住宅地になっているところにも堀跡があるようですがわかりませんでした。

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にのまる

36見附めぐり㉕(番外)~西桔橋門~

西桔橋門は36見附には含まれていないのですが、北桔橋門とともに本丸を守る重要な門で、吹上から本丸の天守台後方に通じています。
一般人がこの門(橋)を通れるのは「乾通り一般公開」の時で、坂下門から入り、乾門と西桔橋門のどちらかから退出となります。(城外に出る人は乾門へ、東御苑の散策をする人は西桔橋門へ。)
西桔橋門から本丸までの通路は古城感溢れる雅な雰囲気の坂道で、石垣には矢穴&刻印石もたくさんあります。江戸城最古の石積みとされる野面積みも見られます。
一般公開は令和元年秋以来行われていないので西桔橋もしばらく見られないと思っていたのですが、北桔橋門から乾門に向かって通りを歩いているときに小さく見えるのを発見し、きゅん♡となってしまいました。

「一般公開」「一般参賀」は中止が続いていますが、「一般参観」という宮内庁プレゼンツの楽しいイベントが継続開催されており、身分証明書があれば当日現地で申し込みできます。(開催日は宮内庁のHPで確認してね♪)一般参観で見られる門は『36見附めぐり㉗~㉚』で投稿します。
江戸城の素晴らしいところは、入場もイベント参加も全部タダ!というところです(^^♪

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ぴーかる

高砂や~♪ (2022/01/15 訪問)

【高砂城】
<駐車場他>神社前に駐車スペースあり。
<交通手段>車

<感想>加古川の河口西側に位置する現在の高砂城跡のあったと思われる高砂神社を含む一帯は近世に池田輝政が築城し一国一城令で廃城となったものです。室町時代に築城された場所は定かではないようです。境内に城跡の一部と思われる巨石が置かれていて石材も神社に使われているようです。能楽「高砂」で有名な地、相生の松や能舞台も立派なものがあって境内を一回りして終了した。縁結びや長寿のパワースポットになっていて若いカップルや女性の方が訪れていました。城跡としての満足度は低いが歴史的場所としての見所は良い所です。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

新潟城城下 古町通5番町~故・水島新司さんを偲んで~ (2022/02/09 訪問)

新潟城のシンボル・白山神社の鳥居から,日本海方向へと続くアーケード通りが「古町通(ふるまちどおり)」です。白山神社側から1番町となっており,萬代橋~新潟駅へと続く柾谷小路との交差点は,6番町と7番町との間となります。
5番町には「日本アニメ・マンガ専門学校」があり,この通りだけは「マンガストリート」と呼称されています。
新潟市出身のマンガ家で有名な方では,水島新司さん,高橋留美子さん。東京都出身で長岡市(旧・越路町)育ちでは,和月伸宏さんがおり,新潟はマンガの聖地と呼ばれてた時期もありました(←今はあまり聞かない)。
さて,この「マンガストリート」では,故・水島新司さんゆかりのキャラクターに出会うことができます。
他とは違った城下の楽しみ方を紹介します。
あらためて,謹んでお悔やみ申し上げます。

ヒロケンさん,コロナお見舞い申し上げます。
すでに,誰が感染してもおかしくない状況ですので,引け目を感じることはないですョ!

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カズサン

鷲羽山と瀬戸内海、眺望良好の城郭 (2011/04/09 訪問)

 鷲羽山の瀬戸内海に挟まれた丘陵に築かれた城で眺望は素晴らしい、北には鷲羽山ハイランドの遊戯施設が見上げられ、南は瀬戸内海、瀬戸大橋、海を隔てて讃岐富士は見通せます、海側は下津井港まで崖で落ち込んで居ます、瀬戸内海を監視できる軍港、流通の港として活用も出来、絶好の城郭、選定地です。

 車は城郭北側の麓に瀬戸大橋架橋記念公園駐車場が有ります。そこを利用して遊歩道を登って西の丸跡、馬場広場に着きます。

 時期は桜満開、晴天で絶好のタイミング西の丸跡の大岩辺りから瀬戸内海が一望、瀬戸大橋の架橋、つり橋支柱塔が連なり、香川県讃岐富士も靄ってましたが確認出来ました。
 
 探訪ルート:西の丸跡、本丸間の土橋、本丸西石垣(案内の縄張図では二の丸からの大手筋に掛かる石垣とも?)、石段を登って本丸跡、北隅に天守跡石垣、石段を降りて二の丸跡、四阿と縄張図付案内板在り、三の丸跡、三の丸跡を降りて南側の細い帯曲輪上に入ると三の丸、二の丸南下に石垣が連なって伸びています、壮観です、二の丸南下は駐車場に成っています、更に西に石垣も破壊跡はあるが連なるり自動車道に出る、自動車道を東に進み、掘割へ(三の丸と中の丸間)、掘割を登り土橋へ、中の丸跡細長い、案内縄張図には東出丸が中の丸から離れて描かれて居ましたが遊歩道も無く探訪断念。
 最近の投稿写真を拝見しますと曲輪の木々が伐採され石垣など見やすく成り、景観も見通せて瀬戸内海方面も良く見える様子が窺えますが当時11年前の平成23年4月上旬は樹木が茂り景観整備まだまだでした。

 石垣編を続き投稿します。

 中の丸から各曲輪を通って西の丸へ。再度満開の桜、瀬戸内海、鷲羽山を眺めて用事の有る京都へ移動しました。

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イオ

寅年の信貴山詣 ~雌岳と雄嶽~ (2022/01/15 訪問)

南北朝期に楠木正成が築いたとも言われますが、史料上は室町期に畠山氏の内紛や細川氏との抗争の中、畠山氏が籠城した記録があります。戦国中期には木沢長政が恒久的な城として築き権勢をふるいましたが、太平寺の戦いでの敗死に伴って落城。その後、松永久秀が現在見られる姿に改修して多聞山城と並ぶ拠点とし、筒井氏や三好三人衆との攻防戦が繰り広げられましたが、織田信長に反旗を翻したことにより織田信忠に攻められ、久秀は天主に火を放って自刃。そのまま廃城となりました。

生駒山地南端の信貴山に位置し、雄嶽山頂を中心に南の雌岳と北半分に扇状に広がる支尾根に多数の曲輪群を配した巨大山城で、南に大和川を望み、大和国と河内国を結ぶ交通の要衝です。なお、南麓には聖徳太子創建と伝わる朝護孫子寺がありますが、往時は朝護孫子寺も城内に含まれていたようです。

寅年にちなんで、張り子の大寅で知られる朝護孫子寺にお参りがてら信貴山城に登城しようと計画していましたが、新年早々は混雑しそうなので避けて、さすがに15日なら大丈夫だろうと思っていたんですが……甘すぎました。朝護孫子寺の手前から駐車場の空き待ちの車の列が続き、何とか30分ほどで駐めることができましたが、駐車場の人の話ではこれでも三連休だった前週末よりは随分ましなんだとか。寅年の朝護孫子寺恐るべし…。

気を取り直して開運橋から信貴山城を仰いで登城開始。予定より遅れてしまったので、朝護孫子寺は下山後にお参りすることにして、大寅を横目に境内を抜けて山頂を目指します。山頂までは空鉢護法堂への参道になっていて、急坂ではあるものの舗装されて歩きやすい道が続いています。10分ほど登ると雄嶽と雌岳の鞍部に信貴山城の説明板が建てられており、まずは雌岳へ。雌岳の頂部は細長い曲輪が南にのび、南端部には虎口が設けられています。雌岳の切岸は急峻で石積みも見られるようですが、見落としてしまいました…。

鞍部に戻って今度は雄嶽へ。雄嶽の山頂が信貴山城の主郭で、松永期には天主があったとされますが、現在は信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)に由来する空鉢護法堂が建てられており、痕跡は見られません。主郭東下の曲輪には城址石碑と説明板があり、もう一段下の曲輪からは奈良盆地の視界が開けています。主郭の周囲は数段の腰曲輪や帯曲輪が取り巻いており、切り立った切岸が見られます。山頂から北に続く林道を下って行くと、信貴山城最大の見どころの松永屋敷です(続く)。
 

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トク

飫肥杉の香りに包まれ 満開の紅梅と河津桜に癒された城 (2021/02/11 訪問)

飫肥杉の香りに包まれる中で、紅梅と河津桜が同時に満開に咲いている姿には、とても癒されました。

飫肥城は、飫肥藩5万石:伊東氏の居城です。
城下の街並みを抜け、ゆるやかな坂を上り(写真3)、復元された大手門(写真4)をくぐって城内に入ります。雁木のある土塀に囲まれた見事な内桝形(写真5)をぬけると、うっそうとした飫肥杉の木立に囲まれます。何とも言えない静寂な雰囲気(少し不気味)でしたが、しばらくすると杉のいい香りがとても心地よく感じられてきました。中にはパワースポットもありました(写真6)。それから本丸の飫肥城歴史資料館まで歩いて行くと、そこには満開の紅梅と河津桜が咲いていました。梅と桜が同時に咲いている姿を初めて見たので、驚くと同時に何とも言いようのない癒された気分になりました(写真1、2)。

城下に出ると、ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い町並みが実によく残っています。藩主が移り住んだ「豫章館」(写真7)、藩校「振徳堂」、「小村寿太郎の生家」(写真8)などがありました。水路には鯉も泳いでいました(写真9)。散策するにはとてもよい所です(写真10)。
日南地方は河津桜が名物のようで、他にもあちこちで咲いていました。また沿線はプロ野球各球団のキャンプで賑わっていました。

[飫肥城へのアクセス]:JR日南線飫肥駅から徒歩15分です。

【ここからは余談ですが】
薩摩の島津氏と日向の伊東氏は、1480年頃から約100年もの間、争いを続けてきました。しかし、だんだんと島津氏の勢力が勝るようになり、伊東氏は日向を追われ豊後に身を寄せます。そんな伊東氏のために日向を奪還しようと豊後の大友宗麟は、1578年約3万5千の大軍をもって出陣しました。しかし、「耳川(高城川)の合戦」で大敗し、これをきっかけに大友氏は没落し滅亡してしまいます。
一方、その後の伊東氏は、さらに逃げ延びて豊臣秀吉の家臣となり、九州征伐では道案内(先導)した恩賞で飫肥の地を取り戻し、また九州の関ケ原では最初は西軍でしたが途中から黒田官兵衛の仲介で東軍に寝返るなど、上手に世渡りして、江戸時代には徳川秀忠より本領を安堵され、飫肥の地で幕末までの280年間生き残る事ができました。
今回、落ち着いたたたずまいの飫肥城と、繁栄したであろう城下町を見て、大友ファンの私としては、あの出陣はいったい何だったのだろうか? 何とも言えない両者の皮肉な運命の違いを感じさせられた飫肥の城旅でした。

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にのまる

36見附めぐり㉔~北桔橋(きたはねばし)門~

北桔橋門は天守台の真裏にある門です。本丸御殿側からは天守台に隠れて見えないのですが、東御苑への入り口のひとつなので城外からお濠を渡ってくると高麗門の真正面に天守台が迫り、ちょっとびっくりな光景です。本来は左折れの枡形門でその先さらに五十三間櫓などが設けられていたそうです。
桔橋はいざという時には“桔ねる”橋で、高麗門の上部に吊り金具が残っています。扉の上部の空間もはね上げのためのような感じです。

江戸城内郭で高石垣がいちばんかっこよくみえるのはこのあたりではないかと思います。こじんまりとしていながら風情のある桔橋と高麗門、両脇に続く土塀が高石垣をよりかっこよく見せてくれています。天守があったのは江戸時代初期の50年ほどですが、この場所から見上げるとさぞかし荘厳で威圧感もあっただろうと思いました。

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赤い城

比企城館群の一つ (2022/01/30 訪問)

東上線の東松山駅から徒歩で25分。
吉見百穴の隣にあります。
登城口から登って行くと笹曲輪があり、その上に本曲輪が位置しています。
今回は兵糧庫から岩室観音堂上の竪堀を経て怱曲輪へと歩きました。
怱曲輪には岩盤を削った二重の竪堀があります。
この時季は藪も枯れていて歩きやすいです。
曲輪4の外側にも堀切、三ノ曲輪、ニノ曲輪へと進みました。
それぞれの曲輪の間には深い堀があり、縄張りは結構複雑。
扇谷上杉氏と北条氏が戦った城は見応えのある城です。
一部藪になっているのでやっぱりこの時季に行くべきかと。
比企には他にも魅力的な城が沢山あるのでお勧めのエリアです。

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カルビン

[鎌倉殿の13人]関連史跡 石橋山古戦場と佐奈田霊社 (2016/10/23 訪問)

源頼朝が平清盛に反旗を翻したと思われる最初の戦いの場が石橋山古戦場となります。

およそ10倍の敵になすすべも無く敗れた頼朝はここから一旦南のしとどの窟に隠れ、この後東京湾を渡って千葉県へ無事難をのがれた
(ちっw←実は日本史上個人的に三本指に入る嫌いな人w)
訳ですが、ここで日本三大与一の一人?とされる弓の名手・佐奈田与一も戦死してしまいます。

現地には古戦場の碑、解説の他に霊堂や佐奈田与一討死の標柱、そしてその与一を祀った佐奈田霊社があります。
丁度JR根府川駅と早川駅の間にあるのでどちらからでも時間は変わらないかと。
(一応佐奈田霊社の駐車場があるので車でも訪問出来るかと)

この辺までが鎌倉殿の13人で放送された場所で、次回は房総半島に逃げた頼朝のエピソードになるのでは?と思ってます。


大河を追いかけるように投稿するつもり・・・とか書いておいて、実際のところ他には次回放送すると思われる周辺のネタしか無いんですけどね(苦笑)
頼朝落馬乙の地もまだ訪問していないので、放送前にはコロナ収縮して行けるといいな~(汗)

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刑部

平将門の城? (2022/01/30 訪問)

通りの入口に平将門の城と案内されているが本人に関係あるのか不明ですね?
ここは、公園なので子供連れで楽しんでる人が多いですね。
でも奥の方は遺構がかなり整備されて見やすくなっています、所々に案内板がありわかりやすい。障子堀もあったらしいですが今は普通に堀切になっていました。この城は連郭式の城かな?水系に囲まれた半島の先が本丸でした。今は畑や公園でわかりませんが・・・。結構見所ある城址でした。

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カズサン

埋門横の濃ミツバツツジ今は無く (2011/03/29 訪問)

 天守曲輪埋門横の石垣上端に濃い目のミツバツツジが植わって居ました、そのミツバツツジと八幡台下の染井吉野桜と天守閣南西角を狙ってミツバツツジが咲いてる時、染井吉野桜が咲いてる時を上手く合わせながらワンショットを撮るのを長年やって居ましたが、ミツバツツジと染井吉野桜の開花の時期が少し違いますので中々撮れますん。
 私の城びとプロフィールのアイコンはこのショットを使っています、11年前の平成23年3月下旬染井吉野桜開花が遅く、濃い目のミツバツツジ、日本庭園の枝垂れ桜、これは早咲きで満開、日本庭園も開園が昭和末期でしたから樹勢が弱り咲く枝垂れの姿が変形気味。
 これらの写真を投稿します。
 
 現在埋門横石垣上のミツバツツジは平成28、29年頃の本丸曲輪内の発掘調査時に撤去されたようで無くなって仕舞いました、この発掘調査では南東角に二重櫓跡の発見と言う大きな成果も有りました。
 この成果で駐車場から浜松城中心に進む途中に浜松城解説案内板があり、堀尾期の浜松城想像図の天守曲輪南東角に二重櫓が描かれています、ご参考までに。

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モト

続百名城だけあって (2021/05/06 訪問)

比較的整備されて歩きやすくなっている城跡でした。
それでもさすがは続百名城、雰囲気がありました。
本丸跡に碑が建っていたり、登って行く際にいくつかの門跡などもあります。

登る道は二通りくらいありましたが、登った道とは別の道の途中にあった石垣跡にテンションがあがりました。
崩れたり土に埋もれてか残った範囲も限られたりとかなり目立たなくなったその石垣になにか往時のことを想像しながら眺めて帰りました。

近くの小学校には移築門があるようです。
ぜひ次はそこも行きたいと思います。

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