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にのまる

36見附めぐり㉙~西の丸玄関門~

 二重橋(正門鉄橋)から西の丸御殿跡に建つ新宮殿への門です。
 江戸城には表面に化粧の施された石垣がたくさんありますが、この門の石垣石の隙間なくびっしりと打たれたはつりの繊細さは鳥肌が立つほどで、上品な亀甲積みや江戸切りと相まって生み出された唯一無二の芸術作品を見ているようでした。
 二重橋からは伏見櫓とそれに続く多聞櫓を間近に見ることができます。狙われる恐怖と無言の圧を肌身に感じつつも、計算しつくされた造形美と塗り替えられて間もない漆喰壁の白さに目が釘付けとなりました。
 また、この場所からは正門石橋や西の丸大手門(皇居正門)、皇居前広場などを見渡すことができます。ふだんと真逆の立ち位置から眺めるのは何だか妙な気分でした。

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やま

土の城③ (2022/02/14 訪問)

八王子駅からバスで15分。滝山城址下で下車し、登城口に置いてある「滝山城城攻めマップ」を入手後攻城。入口から城跡までわずか2~3分で到着。いきなり巨大な土塁や空堀が出現。通路、案内板も非常に良く整備されており奥へ進むと、角馬出・切岸・曲輪・巨大堀切・土橋・復元された引橋など見どころ満載。北条式築城術の粋を集めた土の城で、今まで鉢形城、興国寺城、小田原城、韮山城、山中城他を見てきましたが、その中でも非常に当時の様子が色濃く伺える素晴らしい城跡でした。また武田・北条の戦場でもあるので、往時を忍んで登城するとよりこの城の機能美を感じることができます。縄張りも非常にわかりやすいです。

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小城小次郎

凄いんだが凄く見えないのが凄い (2021/10/24 訪問)

12世紀の初めに北面の武士が居館を建てたというにわかには信じがたい伝承を持つ館だが発掘成果は12~13世紀の館であることを示したという。ゲートボール場みたいな現地の雰囲気からはそんな凄さを全く感じられないのではあるが。

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ぴーかる

城山城 (2022/01/22 訪問)

【城山城】
<駐車場他>馬立里山公園前の墓地に駐車(城山城登山口)/堀部西公園駐車場あり
<交通手段>車

<見所>古代遺構:城門跡・城門築石・石積・礎石建物跡
    中世遺構:曲輪・堀切・横堀・土塁

<感想>赤松氏の山城攻め、この日は一城攻魂にて行ってきました。城山城は古代神籠石系山城で7世紀中頃に築城され、中世になり赤松円心の子、6代当主赤松則祐が14世紀中頃に改修し赤松氏の詰本城とした。則祐は他に感状山城、長水城等を築城しているのでこの当時の赤松氏の権力の大きさと則祐の築城の凄さが分かる。
 登山ルートはいくつかあるようですが私は馬立古墳群から登るルートを選択した。登山口にある馬立古墳群は横穴式石室古墳が20基程内部が見ることができ、帰化した朝鮮人たちの墳墓らしいので古代に城山城に大きく関わった人々が埋葬されているのであろう。古墳群を見るのも楽しめます。城山城跡まではここから2.2㎞程の登山になります。
 城山城のある亀山は古代山城の特徴的である山頂部分一帯が比較的高低差の少ない広大な平坦部が多い地形となっていて、古代城山城の城域はおそらく北にある亀の池をも含む南北に長い楕円形状に城門や土塁・石積みで平坦部を取り囲んでいたのではないかと思う。現地説明板縄張り図の北側から亀岩までの間に広い平坦地があり僅かに石塁遺構が見られます。現地説明板にある縄張り図内の礎石建物跡や北端にある門の築石、西端近くにあ石塁は大野城大宰府門跡の横にある石塁と酷似しているように見えたので古代石塁を赤松氏がそのまま改修利用していたかなと感じました。
 中世城山城としては、現地縄張り図の範囲が城域で赤松氏供養石仏一帯の広い削平地が主郭だったようです。北端と西端の堀切や北端近くの横堀・竪堀等は中世遺構かなあと思いました。特に気になったのが北にある石塁で石の数は僅かですが石塁の感じが白旗城の谷落としの岩や感状山城の大手門跡前にある石塁と似ていると感じたのでここは赤松氏の遺構かと思います。この石塁の南にある空堀も見応えあります。
 古代山城遺構に中世の改修改変させた特異な城跡でした。4時間半たっぷり攻めましたがまだ足りてない場所もあり、まだ古代山城遺構がどこかに埋まっていそうな事を感じさせました。攻め応えありでまた再攻めしたい城跡です。

<満足度>◆◆◆

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やま

萌える山城⑥ (2022/02/14 訪問)

登城日は平日であったためガイダンス施設までバスがなく、時間短縮を考えタクシーで高尾駅から移動。ガイダンスで縄張り図を頂き、登城ルートを確認し、まず御主殿跡へ。整備された道と、復元された石垣や曳橋などとても見ごたえがありました。予想はしていたのですがこの日は積雪が多く、登山靴やレインコートなど準備してなかったこともあり、また頭上から溶けた雪が時折降り注いできたため、御主殿跡で散々悩んだ末、山上の本丸への登城は断念。次回時間を取ってじっくり見学したいと思います。

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やま

残念な城跡 (2022/02/02 訪問)

敏満寺城は天台宗寺院が城塞化した城郭寺院だそうです。城址は名神高速の多賀サービスエリア(上り線)内にあります。浅井長政や織田信長に攻められ坊舎のほとんどが焼かれ寺領も取り上げられたとのことです。江戸時代、彦根城築城のために城址に残った礎石も運び去られたため、遺構はほとんど残ってませんが、多賀サービスエリア東側にある公園に土塁や櫓台跡がわずかに確認できます。案内板がほとんどないのでわかりにくいですが、サービスエリアの案内所で聞けば場所は教えてくれます。下り線のサービスエリアからは歩道橋で移動することができます。

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ばばよ

真田への愛を感じた (2021/11/28 訪問)

遺構は一部の土塁や堀や石垣とややさびしめ。
しかし真田人気と地元の頑張りで資料館の復元模型や無料パンフレット、お土産などは充実。
観光客も名胡桃や岩櫃よりもずっと多かったです。
沼田市の中でも小高いところにあり、さぞ立派なお城だったのでしょう。

名胡桃城は積雪がありましたが、沼田まで降りてくれば雪はなし。
逆に考えれば、沼田で積雪があれば名胡桃は相当なはずので、充分な準備が必要です。

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あきつ猫

お得感あり (2022/02/10 訪問)

茶室は入場料で,お抹茶と和菓子を頂けるのですごくお得な感じ。
椅子席なので、和室でも膝が悪くても大丈夫です。

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ぎりょう

堀も曲輪もチューリップ満開!!春を待つ城 (2022/02/19 訪問)

谷地小屋要害跡地から新地城を目指す。新地駅前から西へ、国道6号線への交差点を右折して間も無く左に「新地城跡」の案内看板が有り大きく左折、すぐ右折して西へ1km程で右側に大きな案内看板が。駅から2km(6分ほど)城の最高所本丸・東館まで車で登ることができる。仙臺古城記(仙臺叢書第4巻)には宇多郡谷地小屋村の項に「山 一 谷地小屋城 東西五十間 南北五十間 城主杉目八郎左衛門 義胤家来 没落之後。大町三河 被差置 天正年中迄居住。後略」と有り、永禄9年(1566)頃に相馬盛胤・義胤により築城された。最初門馬雅楽助を、後に泉田甲斐を城代に、西館には杉目三河を置く。天正17年5月に伊達政宗の攻撃により落城すると政宗から亘理重宗に与えられ坂本三河が城代だったが慶長初期には大町三河が城代となった。
城は標高50mの丘陵上最高所の本丸を中心に、東館・北屋形・西館を配し、南側は3段の帯曲輪で囲む中世山城。本丸の北側から西側は堀跡の遺構がしっかり残る。本丸西虎口から西館側に続く土橋は後世に作業用に作られたものではなかろうか。伊達・相馬攻防の歴史を今に物語る貴重な城館跡である。
城跡は公園化され、春には曲輪跡や堀跡にチューリップが咲き乱れ、地元の皆さんの目を楽しませているとのこと。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその25 (2022/02/23 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその25

蔓延防止措置が出ているため、県外に出る事を控え、県内のお城を自家用車で攻めました。

駐車場は車がすれ違えないほど狭い道の先にあり、地面は泥だらけの荒地でした。

本丸とその周辺は、倒木や伐採した木の置き場となっていて残念な感じでした。

御城印は、以前千葉ポートタワーを訪れた時に購入しておいたものに日付を入れました。

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宗春

大草城 (2022/01/02 訪問)

お正月限定の御城印を頂いて来ました。

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宗春

名古屋城 (2022/01/02 訪問)

お正月限定の御城印を頂いて来ました。
偶々、東南角櫓の内部公開が行われていたので、列に並んで見て来ました。

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あきつ猫

天守閣からの眺め (2021/11/21 訪問)

天守閣の眺めを見て、濃尾平野一望。築城に必須の川も近い。これは取りたいお城だわ。信長の気持ちわかる。ふもとの岐阜城歴史博物館の再現CG画像で、何故か懐かしさを感じて,やっぱりあの時代にここにいたかも?的な気持ちがした。(笑)

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ぎりょう

仙台藩二十一要害を訪ねて(その六)谷地小屋要害 (2022/02/19 訪問)

昨年から仙台藩の二十一要害を訪ねているが、今回は仙台藩領南部を訪問することに。まずは相馬藩と境を接する谷地小屋要害跡(福島県新地町 城びと未登録)へ。ここの主は亘理要害を拝領している亘理伊達家(御一門24,850石)で、代官を配して対相馬の防衛と地域支配の拠点としていた。
そもそも城館の起こりは永禄年間(1558~1570)に相馬盛胤・義胤父子が亘理氏への加勢で出陣した折、盛胤が新地に泊り、東側の谷地にこの城を築いたという。この地は伊達・相馬攻防の地、平地城館で守りに難があるため、西へ2.5km程行った丘陵に新たに新地城(蓑首城)を築城した。その後この谷地小屋の城館は廃されたのか、戦国期を通して併存していたのかは不明だ。
要害のあった場所はJR新地駅から200mほど西の田んぼの中に、少しばかり樹木を残した空地となって残る。遺構は何も残っていない。東日本大震災の際、新地町も津波により大きな被害を受けた。2016年10月に新地駅が旧地から西に移って営業再開したため、駅前の道から要害跡地を望むことができる。
藩政期の要害の姿は仙台領内要害絵図(宮城県図書館所蔵)を見ると、東西に長い方形の主曲輪と南側に付属するニノ曲輪で構成され、主曲輪の東西北は二重に、ニノ曲輪も全周を水掘で囲んでいる。また主曲輪南側中央に門。土塁が巡り、西側中央と南側は門の左右に横矢掛かりが見える。ニノ曲輪は南側中央と東側の北に外舛形を構えた門、主曲輪側以外の三方を土塁が巡り、横矢掛かりが二ヶ所見える。
要害の南側には東西に長く下中屋敷(家中屋敷)が描かれ、更にその南側にこれも東西に町屋敷が続く。
新地町をはじめて訪問した私には震災前の街並みがどのようであったのか知る術もないが、津波被害からの復興で要害跡を含めかつての館下町の有様も大きく改変されているものと考える。

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カズサン

山本勘助の縄張を仙谷秀久が織豊系に大改修 (2010/09/26 訪問)

 武田信玄が天正12年(1543年)侵攻し山本勘助が縄張し築城、小田原征伐後戦功により豊臣政権の仙谷秀久が城主と成り、織豊系城郭に大改修、素朴な織豊系前期の野面積石垣が見所の一つでもある、三重の天守閣が建っていたとの事。
 浅間山火砕流堆積台地の侵食渓谷を上手く利用し二重三重に掘られた大堀割も見所の一つであり、西の守り千曲川も景観と共に藤村も吟じた景勝地でも有ります。

 今回は近年に、明治初めに民間に払い下げられていた大手瓦門が元の位置に修復再建されたとの前情報も有り、近くの龍岡城五稜郭を初登城した後12年前の平成22年9月下旬久しぶりの登城をしました。
 車は小諸城北側の専用大駐車場を利用、そこから歩いて三の門までは直ぐ近くです。

 目的の三の丸大手瓦門は後にして、三の門懐古園の額が架かってる、二の丸二の門跡、二の丸虎口、南の丸虎口、北の丸跡、黒門橋、同堀切、黒門跡、本丸をぐるっと回り、内部に、天守台に登る、本丸は天守台が北西隅に在り野面積の扇の勾配素朴で風情が有ります、周囲は石塁で囲んでる、本丸は台形で北谷、南谷、西谷、千曲川で守られ、東は黒門の堀切で守られている、侵食渓谷の様な大堀割は素晴らしく他に類を見ない圧巻絶景です。
 今回目的の大手瓦門を二ノ丸、三の丸間の大堀切底を通ってるしなの鉄道地下道を通り抜けて公園に成ってる三の丸大手瓦門を観察見学撮影、二階櫓門で立派な門で、四の門とも言われてる。左右石垣に挟まれ民間に払い下げられた大手門は一部改築されて居ましたが、部材を用いて往年の大手門が復興再建されました、往時の佇まいを見られるようになり大変ありがたい事です。

 

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小荷駄

大高城 (2022/02/22 訪問)

丸根砦と鷲津砦 を合わせて散策してきました。住宅地にある城跡なのに横堀はかなり大きく残っていました。ちょうど発掘調査説明会をしていました。

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赤い城

バンブー! (2022/02/13 訪問)

駐車場は無く萬歳自然公園の前のスペースに駐めました。
少し歩いて金毘羅大神のところから脇道に入り少し進んだ先の畦道(写真10枚め参照)から登城しました。
案内板などはありません。
少し登って藪を越えると少し開けた削平地に出ました。
そこからまた登って行くと主郭に出ます。
主郭は土塁に囲まれていて土塁から尾根道を進んで行きました。
途中、浅くなった堀切状の部分もあります。
主郭北東側には堀切がありますが倒竹で埋められていました。
東側の曲輪は段になっていて近世には上代陣屋が置かれていました。
千葉胤頼の築城とされるも詳細は不明。
里見氏に攻められて落城しました。
整備されたらなかなか良さそうな城なんですけどね。

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小城小次郎

綺麗にクリーニングされていた (2021/10/23 訪問)

数年ぶりに訪ねた周山城は一部の石垣が綺麗にクリーニングされていた。「天守台」について現地で考えていたのだがこれはもしや天守台ではなくて二つ並んだ神社だったりしやしないかと思ってしまった。根拠はないが。

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カズサン

幕末築城の龍岡城は五稜郭 (2010/09/26 訪問)

 日本で海から遠い地信州佐久の田野口へ幕末、三河大給松平奥殿藩が飛地への本領移転を願い出て、洋式稜保の五稜郭龍岡城を築城、設計は藩主松平乗謨自ら行い、その形状から龍岡五稜郭と呼ばれてる。

 龍岡城へはまだ登城して無く12年前平成22年9月下旬、車を飛ばして日帰り初登城。
 車は表門の近くに「五稜郭であいの館」が有り、同駐車場を利用。

 表門橋、表門跡から周囲の星形に成ってる水堀と腰巻石垣をぐるっと廻る、通用門跡、通用門より現存建物台所櫓が見える、校庭を通って観察撮影、裏埋め門跡、水堀と空堀の境界、水堀の水位調整箇所、一ヶ所砲台の跡が有る情報を得て居たのですが小学校内ですので余り詮索出来ず確認せず、黒門跡、黒門から空堀から水堀に代わり表門まで続く。
 五稜郭であいの館で展示資料を閲覧、一部撮影、帰り北方向約300~400mの所に龍岡城大手門桝形跡が石垣と案内板、城名石碑が道沿いに在り観察見学、車は路駐。

 幕末の慌ただしい中、欧米の圧迫感を感じ、三河の奥殿から信州奥に本領築城し、現在もう一つの五稜郭として現物遺跡を見る事が出来るのは大変ありがたい事です。
 東側の山稜に田口城が在り田口城からの眺望で龍岡城の五稜郭形状を確認出来るそうですが当時山城に登るという選択肢がなく城郭放浪記さんなどの写真館の写真を眺めて居りました。

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イオ

安宅勝山城(和歌山県西牟婁郡白浜町塩野) (2022/02/06 訪問)

(続き)

安宅勝山城の主郭は四方を土塁で囲み、北辺の土塁上からは安宅荘と日置川を一望することができます。ここからだと安宅本城と支城群の位置関係が一目で把握でき、昨年に安宅氏城館群をめぐっているだけに実に見応えがありました。主郭から東下の帯曲輪(東辺に石積みあり)に下り、安宅勝山城最大の見どころの東尾根の五重堀切に向かうと……なんじゃこりゃあ! 岩盤を開削した堀切だというのは承知していましたが、その際に出た石が堀切の内外に積まれていて、さながら総石垣の堀切が連続しています。東尾根は両側が急斜面の細尾根で、一番内側の堀切は深さも幅もあり、東尾根に対する徹底的な防御意識が感じられました。

南尾根の巨大な三重堀切に始まり、武者隠しの土塁と畝状空堀群、副郭の土塁に施された石積みと雁木、主郭からの眺望…。これらだけでも十分に満足でしたが、この石積みされた五重堀切はこれまでに見たことのない圧巻の光景で、直登と藪漕ぎの苦労が何倍にもなって報われました。

さて、五重堀切を越えて東尾根の先の古武之森城を訪れ、また戻ってきて南尾根から下山します。来る時に見掛けた案内表示から西斜面に降りて行くと、整備された登城道が続き、あっという間に山麓の梅園の北東最上部に着きました。直登するしかない思い込んでいたので登るときは登城道を探そうともしませんでしたが、国史跡の追加指定を目指して近年に整備されたのかな? などと、のんきなことを考えていられたのもここまで。梅園から下は道が無くなり、目印のピンクリボンはあちこちに見られるものの、とても踏み込めないような藪の中だったりで、どちらに進むべきか途方に暮れてしまいました。それでも斜面を直降しつつ、最後は倒竹を踏み砕きながら竹藪の立体迷路を突破して何とか下山しましたが、精も根も尽き果てました。やれやれ…。

…ということで、安宅勝山城の遺構は本当に素晴らしく山城好きなら間違いなく満足できると思いますが、登城道が中腹からしか整備されておらず直登・直降と藪漕ぎの覚悟が必要なため、なかなか安易にはおすすめしづらい、もったいない城でもあります。梅園の北東最上部までたどり着ければ後は問題ないんですが、どう行くのが正解なんでしょうね。あるいは国史跡に追加指定されたら登城道も整備されるのかなぁ…。
 

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