上原館は大友氏の居館跡で国の史跡になっています。
かつては大規模な空堀や土塁で囲まれていたそうです。
今でも幅約17m、鷹さ4mを越える土塁と堀跡の一部が残されているそうですが
ひょっとしてこの史跡公園のことなのでしょうか。
調べてみると石碑のある個所がそうらしいです。
かつての館の敷地は東西130m、南北156mあったらしいです。
守護の館だけあってスケールもでかいですね。
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2023/07/10 23:53
高台に土塁を残す館跡。 (2023/01/09 訪問)
上原館は大友氏の居館跡で国の史跡になっています。
かつては大規模な空堀や土塁で囲まれていたそうです。
今でも幅約17m、鷹さ4mを越える土塁と堀跡の一部が残されているそうですが
ひょっとしてこの史跡公園のことなのでしょうか。
調べてみると石碑のある個所がそうらしいです。
かつての館の敷地は東西130m、南北156mあったらしいです。
守護の館だけあってスケールもでかいですね。
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2023/07/10 23:27
戦国期のクリークと郭がほぼそのまま残ってる (2023/01/01 訪問)
直鳥城は戦国期に犬塚氏の支配下に置かれ、城塞的な環濠集落として発展
したとあります。
かつてはクリーク内を小舟で行き来し各郭には土塁を設けていたと言います。
今でも戦国期の形状を良く残していて竹藪にはかつての土塁が残っているそうです。
城域は東西330m、南北330mあり、北側に駐車場があり道路からアクセスが可能です。
各郭には橋がかかっていて、郭間を移動できますが
駐車場から直接、本丸に到達できます。
遊歩道もあるので、ひとしきり周囲を回ってみて欲しいです。
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2023/07/10 23:12
大河ドラマ効果は一休みかな (2023/07/09 訪問)
七年ぶりの登城。
天守内はエアコンがないので、真夏の登城は厳しい(苦笑)
でも、最上階の外側の廻縁で風に吹かれて気持ち良かった〜。
あと、展示内容も七年前とは変わってた所も。これはやっぱり大河ドラマのおかげかな。
ちょうど大河ドラマが浜松城在城の頃なんで、もう少し人居るかなと思ったけど思った程じゃなかった。
中だるみの頃なのかも。
もちろん大河ドラマ館にも。
松潤の映像がお出迎え、お見送りしてくれてファンにはかなり嬉しいのでは。
浜松まつりで訪れた時に書き入れたメッセージもあったり。
ドラマ館の隣には一昨年見つかったという本丸の石垣が屋根付き冷房付きの建物内で露出展示。
天守の石垣と似てるけど、間詰め石が多めだったりとちょっと違いもある。
石垣保護のためか冷房ガンガン(除湿かな?)なんで、この時期はちょうどいい。
今後、大河ドラマ館跡には徳川宗家のお宝を展示収蔵する施設が出来るらしく、そちらも楽しみ♪
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2023/07/10 22:27
勝尾城の麓にある筑紫氏の居館跡 (2023/01/01 訪問)
筑紫氏館は勝尾城の南麓に築かれており国の史跡に登録されています。
居館とはいえ平山城のような造りで、それなりの防御力を備えているようです。
東西80m、南北100m程度の大きさで、虎口に郭、庭園まで備えてあります。
といっても郭や主郭らしきものはわかりますが、どれが庭園の石やら
そのへんはちょっと、わからなかったです。
ともかくここからは結構な登山になります。
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2023/07/10 22:02
支城だけど見ごたえ十分。どこまでも続いていく空堀。 (2023/01/01 訪問)
葛籠城は勝尾城の南東に築かれた支城の一つです。
城の南側を堀切が東西にわたって続いています。
案内板によると幅約5m、深さ5mのV字型(薬研掘りですね)で
総延長は500mとのことです。
全部は見切れないのである程度確認したのち主郭へ向かいます。
主郭の大きさは東西約30m、南北約50mの楕円形状で(ドロップ型)
北東と南西に虎口があるようです。
周囲を土塁がめぐり、その外側も堀で囲ってありました。
さらに石垣で土塁を強化しているようです。
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2023/07/10 21:15
世良田館 群馬県太田市世良田 (2023/07/06 訪問)
長楽寺・世良田東照宮の裏・西側が歴史公園になり、館跡とされる。時間の都合で長楽寺と南の新田荘歴史資料館は行かず、東照宮境内を通り公園に向かう。新田氏の一族、世良田氏の居館跡。昭和9年の「世良田村誌編纂会編」に世良田義政館址と記載されている。
公園には堀などの発掘調査の説明板がある。南北に堀跡が2ヶ所復元されているが、説明によれば東片部(北辺部を一部含む)の堀跡らしい。他の遺構らしきものは分からなかった。
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2023/07/10 21:05
館跡としては良好に保存されている (2023/07/06 訪問)
説明板の概略は、江田行義の館跡と伝えられている。行義は新田義重の子、義季の四世の孫で新田義重の鎌倉討伐に従い・・・。地元では堀之内と呼ばれる本丸跡は、東西の両面に折れをもち、東西約80メートル・南北約100メートルの土塁と堀を巡らせている。虎口は土橋を伴い、南西と東にある。外郭には本丸の南と西をL字に囲んだ二の丸がある。北東には黒沢屋敷跡・茂呂屋敷跡・柿沼屋敷跡があり、土塁と堀の一部が残る。
東北角に黒沢屋敷との境に土塁が残るが、他の屋敷跡は行けず確認しなかった。主郭周囲の堀は水が溜まり水堀となっている。西の外郭の南西には土塁跡らしき高まりを感じる。元は続いていたのだろうか。西側は切岸状の急斜面になり、下にはほぼ埋まっているが堀跡を思わせる凹みが南北に続く。さらに西は一段下がり水田だが、元は湿地だったのかも。
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2023/07/10 20:51
周囲を水堀が廻る (2023/07/06 訪問)
説明板に、築城は鎌倉時代から南北朝時代と推定される。戦国時代になり三重の堀を廻らす城郭に拡張されたと考えられる。新田義貞が移り住み、その後、大館氏明・新田義興・矢内時英が住んだとの伝承がある。天正18年、小田原攻めで廃城となる。
館跡は照明寺(反町薬師)境内になっている。照明寺は館の西にあったが、江戸中期に現在地に移ったとも載る。館は凸字形をしており、東西に折れがあり、虎口は南東と西にあったらしい。周囲の堀はよく残っているが、説明板では東の堀は道路改修で拡張されたと記載がある。
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2023/07/10 20:36
地理的条件と周辺環境、東大寺との近さを感じる (2023/06/17 訪問)
【多聞山城】
<駐車場他>タイムズ東大寺転害門西24時間550円に駐車しそこから徒歩
<交通手段>車
<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅3城目。聖武天皇陵墓⇒西方院山城⇒東大寺転害門を経て登城しました。
多聞山城は当時まだ三好長慶の家臣時代だった松永久秀が1559年大和支配の強化を図るため筒井順慶の勢力を圧倒し築城されました。1573年、松永久秀が1回目の謀反を起こした時の降服条件として信長に多聞山城を明け渡します。その後信長は塙直政を城主にしますが、石山本願寺との戦いで討死したのでその後筒井順慶を大和守護にして1576年に多聞山城の破却を命じます。多聞山城は結局16年間ほどしか使用されなかった城でした。石垣は筒井城や郡山城に転用されたそうです。
本丸を含む主要部は現在若草中学校になっているため周辺散策だけにしました。南の佐保川が天然の堀としていたことがよく分かります。校門前に説明板、上方に五輪塔が集められた場所が敷地内にあるのが見えます。東側に回り東堀切跡を見ました。東堀切跡の南側から東大寺大仏殿が見えます。東大寺に布陣した三好三人衆との戦い、東大寺大仏殿の戦いの距離感がよく伝わります。残る遺構は少ないですが奈良の中心部、全盛期には大和国全域を寺領とした興福寺のすぐ北に築城した松永久秀の下剋上の力が感じられる想像で楽しめる場所でもありました。
<満足度>◆◇◇
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2023/07/10 18:36
雨の中の引田城跡 (2023/07/10 訪問)
今治、能島城跡から車で東香川、引田城跡へ。
雨でぬかるみ、登るのは止めました。
海辺のロケーションは良いところですが、廃城感は満載でした。流石、断崖絶壁の海城とのネーミングです。
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2023/07/10 18:29
雨の村上水軍能島 (2023/07/10 訪問)
月曜の為、ミュージアムも、上陸も叶いませんでした。雨の切れ間に島はくっきり見えました。
カレイ山展望台へ車で悪路の中登りましたが、雑然として
行かない方が良かったです…。
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2023/07/10 15:47
ライトアップされた白い模擬天守 (2023/07/06 訪問)
尼崎の駅から3分で城址公園に天守があります。
駅のホームからもその姿を眺める事ができ、電車を降りる頃には足が早歩になっておりました。
ライトアップされた白い天守は綺麗に見えました。
実際の建物に再現度がどの程度かは置いておいて、公園の入り口にある城跡の碑や城壁風の壁などとのマッチングはそれなりに雰囲気がありました。
とは言うものの今度は昼間に来てみたいと思ったのは言うまでもありません。
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2023/07/10 09:52
本堂裏に僅かな土塁と堀 (2023/07/04 訪問)
説明板に拠ると、平安時代の公卿藤原家の警護をしていた片品基親の子、基員が武蔵国野本に移り野本氏を名乗ったが始まりと言われる。館跡は現在、無量寿寺の境内になっており、本堂北裏に土塁と堀が僅かに認められる。実際には二重の土塁・堀が廻っていたが、これは後世の増築と考えられる。
館の造られた時期は、貞永元年(1232)に基員が亡くなったこと、無量寿寺に残る建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺と呼ばれていたとあり、遅くとも十三世紀初頭には造られたと考えられる。
案内板の通り遺構は本堂裏に短い土塁、堀と思われる僅かな凹みが竹藪内にある。西側一帯は墓地になる。道を挟んで南には前方後円墳の将軍塚古墳があり、後円頂部に利仁神社が祀られている。
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2023/07/10 09:06
残存土塁が思いの外大きい (2023/07/04 訪問)
遺構は高済寺境内西に土塁・堀が僅かに残る。北と東は崖状の段差を要害としている。説明板の概要は、南北朝時代に高坂氏の居館として造られた。高済寺から南にある子育て支援センター周辺の発掘調査では、高坂氏の活躍した時代(14世紀前半)のかわらけ・輸入陶磁器が出土しており、館の中心地は南にあった可能性がある。
伊勢宗瑞が明応3年(1494)、北条氏康が永禄5年(1562)にそれぞれ在陣。発掘調査では土塁・堀の改修が見られ、戦国期に整備されたと推定される・・・等々。土塁北上には加賀爪氏累代の墓があり、江戸時代初めに加賀爪氏が陣営を設けるが、天和元年(1681)に改易と説明がある。
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2023/07/10 08:05
不完全燃焼… (2023/05/21 訪問)
戦国前期に細川高国が能勢氏を城主として築いた城で、細川高国が敗死すると細川晴元、次いで三好長慶が入って畿内の政庁として機能しました。三好長慶が居城を飯盛城に移した後も三好氏の摂津国の拠点でしたが、織田信長の上洛で三好氏が城を追われると和田惟政が城主となり、惟政が高槻城に移ると高山友照を城代としました。惟政の死後、高山友照が高槻城に移ったことにより廃城となっています。
北・西・南の三方を芥川に囲まれた断崖の三好山に位置し、主郭、出丸、東曲輪の三つの曲輪群で構成される巨大山城で、淀川筋と西国街道、摂丹街道に睨みを効かせる交通の要衝に位置します。
タイムズのB塚脇弓道場前駐車場(予約可・一日550円)に駐車して登城開始。住宅地の坂道を上ること10分あまりで大手道登城口に到着。登城口あたりには石垣も見られますが、後世のものと思われます。シカやイノシシが出るため一帯には防獣柵がめぐらされ、マダニの注意書きもありました。登城口から約10分で大手石垣に到達。途中、主郭と出丸から南下に展開する曲輪群にも寄り道するつもりでしたが、分岐を見落としてしまったか、あっさり大手石垣まで来てしまってちょっと拍子抜け。
大手石垣からまずは主郭部へ。主郭に上る前に南下の曲輪群に行ってみると二重堀切の先に南北二段の曲輪があり、その南下には巨大な堀切と土塁がある……はずですが、山道を少し下りて行っても分岐は見出せず、直降しようかとも思いましたが、時季的に藪が茂っている上に、マダニ注意の看板を思い出して自重しました。引き返して主郭に上って行くと、南方向に素晴らしい眺望が開けています! この日は遠くはやや霞んでいましたが、飯盛城まで見渡せるようです。主郭は南北二段で、南側下段には説明板が立てられ、上段には三好長慶と松永久秀が祀られた祠があります。上段からは発掘調査により礎石建物が確認されているようです。
続いて、主郭周辺の曲輪群を見て回ろうとしましたが、北西尾根への道には通行禁止の表示があり、南下の曲輪群も野外活動園として立ち入りが制限され、北東下へも登城道に柵が設けられていて進めません。やむなく来た道を戻って出丸の曲輪群に向かうも、これまた防獣柵に阻まれて出丸への道は見いだせず、結局、出丸の曲輪群はほとんど素通りして堀底道を東曲輪群へ向かいました。
出丸曲輪群と東曲輪群の間は堀切(と土橋)で隔てられ、東曲輪群の南斜面は竪土塁で出丸側への侵入を防いでいます。東曲輪群には土塁囲みの曲輪や中央部に土塁(?)と貯水池(?)のある曲輪があり、北斜面や南斜面には削平地が設けられていますが、南側は防獣柵がめぐらされ、出入口は整備用で立入禁止でした…。
飯盛城に先立つ三好長慶の居城であり、規模的にも飯盛城に引けを取らない続100名城ということで、存分に見て回れば4時間は必要かな、と考えていましたが、行けるところが限られていたため1時間あまりでひとめぐりしてしまいました。あまりにも不完全燃焼なので、長慶が芥川山城を攻めた際の帯仕山付城にも足をのばしてみましたが、灌木と藪が茂っていて折れのある土塁や堀切は確認できず、もやもやは募るばかり…。見落としもありますし、防獣柵内は仕方ないにしても、少なくとも主郭南下の曲輪群には行けるはず(たぶん)なので、冬枯れの頃にいずれ再挑戦したいと思っています。
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2023/07/10 00:09
この地方特有のクリークの城。雰囲気は良く出ている。 (2023/01/01 訪問)
姉川城は正平15年(1360年)に菊池武安が築城したとされ、国の史跡に指定されています。
訪問したさい、そこの城主の子孫と言われる方にお話を伺いました。
今でもかつての環濠に囲まれた城跡の状態を残しています。
東側の今では畑地となっている広い部分がかつての館跡です。
かつては周囲に土塁等があったと思うのですが未確認です。
西側の小さな郭が妙法寺跡らしく今でも小さなお堂が残っています。
小路など周囲の郭跡は民家になっているので、お堂にお参りし、
周囲を見渡してから立ち去りました。
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2023/07/09 23:53
2023/07/09 22:08
飫肥天に負けないくらい味わい深い城 (2023/01/07 訪問)
正月の九州遠征の写真をアップしていたら「かるた」をやっていたので
参加させていただきました。
飫肥天は日持ちがするので、お土産に最適です。
鹿児島でさつま揚げをお土産に買おうと思ったら、基本的に当日といわれ
断念していたので、飫肥天はありがたかったですね。
レンジでチンしてやると、なかなかジューシーな味わいでおいしかったです。
飫肥城は島津氏と伊東氏が激しい攻防戦を繰り広げた城です。
この城に対する伊東氏の執念はすさまじく、時の権力者の間を上手に渡って
ついにはこの城を手に入れます。
無敵と思われた島津にも、近くにこんな天敵がいたのですね。
飫肥城は高度な石垣の技術で築城されており、枡形と一体化した大手門。
敵を左右に散らせて伏兵でおそいかかる仕掛けなど、見ていて実に感心します。
三度目の訪城があったら飫肥天をいっぱい買って帰るとしましょう。
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2023/07/09 21:53
北条の支城と聞いて勝沼城へ (2023/02/12 訪問)
小田原北条氏の手が加えられていると聞き、急遽2月に訪ねた東京都青梅市の勝沼城。
多摩川の山地部と平野部の境界エリア青梅。
その平地の北側、霞川を渡った先の比高20~30mの丘に、自然の谷を利用してつくられた城。堀は小規模だが、最近訪ねた城の中では小机城に似たタイプ。
江戸初期には石灰や材木の運搬および江戸と甲斐を結ぶ青梅街道青梅宿が整備されており、多摩川を含めてそれ以前から交通の拠点だったでしょうか。
築城時期や築城者は不明だが、この多摩川上流域(三田谷)を勢力としていた三田氏の居城。
1563年、北条氏照に滅ぼされると、その後は氏照家臣の師岡将景が修築したと伝わる別名師岡城。
現在は、三の丸が寺の墓地となっているものの、本丸と二の丸はスギやヒノキの林の中に遊歩道が通る土の城跡。
訪問時は光明寺から入城し、本丸を起点に二の丸と三の丸へ。
本丸には土塁が残り、その一部は櫓台のようにも見えるもの。
丘陵本体と尾根続きの二の丸北虎口は見どころの1つで、二の丸の突出部から土橋に横矢が掛かる構造。
三の丸内は立入禁止と書かれていたが、その南側の横堀と馬出は明瞭。
滞在時間は約2時間半。
もうすっかり暑くなりましたが、まだ少々の残雪が見られた勝沼城が私の城郭巡りの147城目でした。
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2023/07/09 21:47
【かるた】飫肥城の読み札 (2023/01/07 訪問)
飫肥天を 頬張り眺む 大手門
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