宇和島城とセットで訪問。
木造復元天守なので、中はほとんど現存天守と変わらない雰囲気。
吹き抜けがあり広々した空間で、心柱が天守を支えている構造がよく分かる。
少し離れたところにある2つの現存櫓も見所。
周辺を歩くと、東京ラブストーリーの撮影があったという昔ながらの街並みも残っており、タイムスリップしたような感覚を味わえる。
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2023/07/12 07:46
2023/07/12 07:30
2023/07/12 07:06
2023/07/12 00:39
中生と近世の郭が階層的に重なる。ミルフィーユのようなおいしい城。 (2023/01/08 訪問)
高山城は伊東氏四十八城の一つで、江戸時代には高鍋藩の藩庁になっています。
現在は舞鶴公園となっており、
麓には三の丸、その南の資料館が二の丸跡、その上に本丸と奥御殿が築かれ
現在、舞鶴神社となっている三の丸跡は近代的な石積みの上に築かれています。
面白いのは本丸の上にかつての詰めの城が階層的に重なっていて
詰めの丸跡の上に、かつて三重櫓のあった郭があり、野面積の高石垣の上に築かれています。
さらに高台に太鼓櫓跡があって東手にも郭が築かれ
一部に土塁も残ります。
近世の平山城の上に中世の平山城が築かれたようなミルフィーユ的な
構造になっており、まるで郭の天守閣のようです。
一度の訪問で近世の城と中世の城を両方味わえたようで、ちょっと
得したような気分になりました。
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2023/07/12 00:07
久松山山頂から。 (2023/04/23 訪問)
鳥取城本丸から二の丸、三の丸を経て向かいました。
歩きはじめて数分で写真①の東坂の上城門に到着。出立のゲートのような感じでちょっとドキドキします。
崩れたものと思しき石が散在する道を少し進むと②の建物。かつて運行されていたロープウェイの駅舎(山頂駅)跡だそうです。ちょっとした休憩ならできそうです。
そのまま進むと初めての分岐。右が本ルートですが、左の「十神砦」(外神砦)が気になったのでちょっと寄り道してみました。突端まで行くと巨岩がどんっ!これだけでも寄り道した甲斐があったなという感じでした(写真③)。
コースに戻って先へ進みます。写真④のような安心して歩ける道(中国自然歩道)が続きます。
しかし、念のため起動したままにしていたGooglemapさんは、
「そっちに行かないで!戻って樗谿(おうちだに)公園の道から登りなさい!!」
としつこく何度も何度も忠告してきます。どうやらこのルートはGoogleさんの守備範囲ではないようです。
ーここまで来てそんなめんどくさいことできません。ごめんなさい、無視します。
十神砦から10分ほど進んだところに⑤の道標がありました。
分岐ごとに道標があるのはたいへんありがたいです。
道標をよく見ると、⇔(矢印)があります。これは『山陰海岸ジオパークトレイル』のコース案内で、ジオパークトレイルの[コース4・鳥取駅~久松山~摩尼寺]に久松山(鳥取城山頂)から太閤ケ平の手前「本陣山」の分岐までが含まれているようです。
※『山陰海岸ジオパークトレイル』
※[コース4・鳥取駅~久松山~摩尼寺]
を検索すると、⚠️分岐注意!も載っているコース地図をダウンロードすることもでき、安心です。
また、オープンストリートマップも心強い味方です。
そこから約3分で⑥の[太閤ケ平 5.0km]の道標。
あさんが腰が抜けそうになったと書いておられたところです。私は膝から崩れ落ちそうになりました。
―太閤さん、そんな遠くに陣張りますか!?
これは何かの間違いでしょうということで進んでいくと5分ほどで[太閤ケ平 1.0km]と書かれた⑦の道標に出ました。ホッ。
続いて⑧の分岐です。ここに[本陣山]の文字があり、いよいよ近づいてきたぞっという感じがしてきました。右の坂を登ります。
⑨の倒木の横を通りました。この倒木、ずり落ちないように必死で両手で踏んばっているように見えます。「お前もがんばれよー!」と励まされているみたいです。
倒木から約3分で⑩の道標。
[太閤ケ平0.6km][展望所 50m]とあります。
展望所、寄らずにはいられません。
写真⑩です。
ずっと山の中だったので、ひらけた空や海や町の景色がとても新鮮でした。
この展望所<35.5142446,134.2547727>は、Googlemapの航空写真をびよーんとすると四阿の屋根が写っています。
50m引き返してルートに戻りましたが、引き返さなくても通り抜けて合流できるようでした。
ラスト600m!
<つづく>
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2023/07/11 23:06
堀切もすごいが、山の斜面はものすごく滑る。防御力最強かも。 (2023/01/09 訪問)
栂牟礼城は佐伯氏の山城で、かつて主家の大友義鑑が謀反の疑いで
臼杵長景に命じ、2万の軍勢で囲み攻めるも落城させることはできなかった
と伝わります。
小田山城から続く道があって、幾重にもめぐらされた堀を渡って
二郭から北上し主郭にたどり着きます。
主郭北端から東に道が続き、その先も二重堀切などで防御してあります。
二郭南端からやや東寄りに南に通じる道があって、そこも堀切で防御してあります。
比較的小規模な城ですが三方の尾根筋を多重堀切でしっかりと防御してありますが
それだけではありません。
帰る際に元来た道を通り過ぎ、南側への通路に入ったのに気づき
ショートカットして元来た道へ移動しようとしたのですが
足元がひどく滑って止まりません。
登山用の靴とストックがまったく役に立たないので木の枝を伝って
猿のように引き返します。
大分にもいくつか活火山がありますが西に阿蘇山があります。
かつて高千穂峰に登った際に御鉢の斜面が滑るので閉口しましたが
この山も同じように火山灰や噴石で山の表層が形成されているのかもしれません。
たしかに、これでは山の側面から攻めるのは不可能です。
難攻不落の堅城の正体を身を以て知るはめになりました。
九州の山城は登山道のある城を選んで登りたいものです。
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2023/07/11 22:35
不器用で頑固な生き方もある (2023/01/09 訪問)
福城の主と伝わる江見帯刀は、江見本家が赤松から尼子、更には浦上ー後藤へとその主を変えていく中で福城を離れて浪人し、後に宇喜多氏に仕えたのだという。ちょっと頑固で不器用そうな帯刀の生き様は、とてもひとごととは思えない。
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2023/07/11 22:09
400年の歴史って徳川時代より長い。大友氏すごい。 (2023/01/09 訪問)
大友館は府内と呼ばれた都市の中心に位置し、400年の歴史を持つ名門大友氏の領国支配の
拠点として、14世紀後半に10代当主 大友親世によって整備されました。(現地案内板)
かつてはこの地に広大な館があって、大友氏が権勢をふるったわけですが
いまは広大な更地になっています。いや‥悪い意味ではないです。
立派な庭園もありますし。不勉強なせいで、トクさんの言われる
萬寿寺には訪問していませんが、次の機会にはぜひ訪れてみたいと
思っております。
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2023/07/11 21:42
駐車場 入って左手 廊下橋 (2023/01/09 訪問)
府内城は福原氏と竹中重利により今の形となり、かつては四重の天守が築かれましたが
現在、残っている建造物は西丸の宗門櫓と本丸の人質櫓のみで、廊下橋や
その他の櫓は復元されたものだということです。
この日は2度目の訪問で、二冊目のスタンプ帳(予備)にスタンプを押すために
立ち寄っただけで廊下橋などは確認しませんでした。
掲載した写真は2014年1月の一回目の訪問の際のものです。
9年たつと、いろいろと忘れてしまうものですね。うっすらと覚えてはいるのですが。
グーグルマップの地球儀モードで俯瞰で見ると良くわかります。
なかなか便利ですね。これ。
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2023/07/11 20:52
元旦から縄張り地形図忘れ、さらにスマホは圏外。でも石垣遺構は最高。 (2023/01/01 訪問)
勝尾城は標高501.3mの城山山頂に位置する筑紫氏の居城です。
筑紫城は天正14年(1586)島津氏に攻められ落城し城主の筑紫広門は
筑後の大善寺に一時的に幽閉されるのですが、後に挙兵して奪還しています。
居館跡から比高350mはあり、なかなかきつい山城なのですが頑張って登っていくと
大手曲輪にたどり着きます。石積みが残り、かつては櫓が建っていたそうです。
いきなり見せ場ですが、さらに北上すると主郭にたどり着き
主郭にも石垣が見られます。
南側には物見岩があり、さらにその先にも石垣遺構が残ります。
北西にも曲輪が続いています。
本丸から東側に向かうと、堀切を経て二の丸にたどり着きます。
そこから東南の方向に曲輪が続き、東側の側面には石垣が残ります。
そこから帰路につくのですが舗装された道路から分け入るようにして
元来た道へ帰っていきます。
その時、たまたま縄張りと地形図を忘れてきてしまって、スマホを頼りに
登ってきたのですがいきなり圏外になってしまって
あやうく車道沿いにとんでもない方向へ行くところでした。
元旦からピンチでしたが、これも城バカらしいな、と一人自嘲しました。
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2023/07/11 20:11
超昇寺城 (2023/06/17 訪問)
【超昇寺城】
<駐車場他>佐紀神社参拝者駐車場を利用
<交通手段>車
<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅4城目。超昇寺城の築城年は定かではないが室町時代に一乗院方の国人であった超昇寺氏に築城されます。戦国時代には筒井順慶と松永久秀とで城を奪い合いますが筒井順慶の時、1580年織田信長の大和一国破城の時に廃城となったようです。
上記駐車場に駐車し、佐紀神社(西畑)に参拝⇒イオさんの投稿に習い隆光大僧正墓石に参りまして、城跡の大竹藪は北側から進入できるとのことでしたので、とりあえず城跡北側に回って北西隅の堀跡から進入しました。堀底から青竹を掴みつつ土塁を登って曲輪に入り込みましたが足の踏み場があまりなくて動き回れない。結局北西の曲輪?一つ進入して終了しました。
<満足度>◆◇◇
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2023/07/11 14:51
車道登口に天守形城名碑が設置 (2023/07/11 訪問)
天竜区鹿島に用事があり、梅雨晴れの暑い日でしたが草履で二俣城を訪ねました。
何と!車道登坂の入口に、今年の大河ドラマ「どうする家康」にあやかったのか、令和5年1月の設置で天守閣を模った、二股城址碑が地元企業の方々により設置されていました、小型の案内板が傍に有ります。
車道登坂の山沿いには山ユリが咲いています、車は北曲輪東麓の駐車場を利用、今日は満車状態で入り代わりでやっと駐める事が出来ました。
草履履きでしたので夏でも歩ける北曲輪下の登城口から、本丸北大堀切、本丸北門、本丸、天守台、本丸中仕切り門、二の丸大手門、二の丸と南曲輪Ⅰとの間の堀切、二の丸本丸東下を通て駐車場へ。サラッと草履で歩ける範囲を回りました。
当日は本丸に人が5、6人が集まって居ましたので、尋ねると静大の学生と史学会?の方々で天守台の石垣調査をするそうで準備前でした、暑い中ご苦労様です。
今年は桜の時期に鳥羽山城でしたので、今年は今日が初登城でした。
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2023/07/11 12:42
53【関ケ原の26人】(21)徳川家康 (美濃赤坂岡山陣跡) (2022/11/29 訪問)
(21人目)は「徳川家康」です。
これから、家康が関ケ原の最中に敷いた三つの陣跡を訪れます。まずは美濃赤坂にある最初の陣跡です。
JR大垣駅から2駅、終点の美濃赤坂駅で降ります(注:無人駅です)。そこから南へ徒歩20分程行くと安楽寺があります(写真①②)。その寺の階段を上り、本堂の横から不気味な墓地の中を進んで丘の頂上まで登って行くと、そこが最初の家康陣跡(岡山)です(写真③④⑤)。
実は、ここから三成の籠る大垣城や島左近が一矢を報いた杭瀬川が、家康にはいったいどのように見えたのか? それを確かめたくてやって来たのですが・・・、事前に得た情報(2016年当時)では展望台があり見渡せるという事だったので・・・ しかし実際に行ってみると今はそんなものは無く、回りは木や草が生い茂り荒れ放題! 全く眺望する事はできませんでした(写真⑤)(ガ~ン😱!せっかくここまではるばる来たのに大ショック!!)。何とか木を伐採してくれないかな~。お寺の敷地なので無理でしょうか? 結局、安楽寺の門まで戻り階段横の柵(写真①のいちばん右の角)にしがみついて見ると少しだけ大垣方向が見えました(たぶん写真⑥の方向)。しかし説明板もなく住宅が多かったので、どこが杭瀬川でどこが大垣城だろうか? 20分くらい意地で地図とにらめっこして眺めたのですが、土地勘もないので結局よくわからず・・・
1600年9月13日夜、家康は突然清州城を出立し、岐阜城を迂回して美濃赤坂のここ岡山に陣を敷きます(説明⑦)。14日朝方、大垣城に籠る三成率いる西軍は、清州城にいたはずの東軍が赤坂に陣を敷いている事に驚き、またそこに家康の馬印がある事にさらに驚きます(家康本人が来た~!)。家康としては大垣城の強固な守りを見て、(清州城VS大垣城)で攻めるは不利と判断、得意の野戦に持ち込もうとしたものと思われます。(説明⑧)
そんな動揺する西軍の中で、島左近が動揺を鎮めるべく、500の兵をもって杭瀬川にいる中村一栄隊に一矢を報います。そして逃げるふりをして誘い出した所を明石全登の鉄砲隊が一斉射撃! 見事初戦に勝利を収めました。(説明⑨)(詳細は私の「(5人目)島左近」も再度参照していただけたらうれしいです)。
家康はこの時、この陣から弁当を食べて眺めていたそうです。「おやー?何事じゃろか?」(写真⑤の場所から⑥の方を見ていた)。しかし島左近の隊が一矢を報い、自軍が負けたと知ると激怒! そしてここでも戦をするは不利と判断。今から三成の居城(佐和山城)を攻めるとうわさを流し、夜の内にここから関ケ原へ移動する事を決意し、全軍に命令を出します。(説明⑩)
次は、家康二番目の陣(桃配山)へ続きます。
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2023/07/11 09:24
小島氏館・埼玉県本庄市 (2023/07/07 訪問)
館跡は長松寺境内になっている。武蔵七党の丹党一族、小島(おじま)氏の居館跡と伝わる。本堂の北側、境内の西側には土塁と堀が良好に残っている。
長松寺の北、台地の縁に唐鈴神社が祀られており、伝承では遣唐使だった大伴宿禰古麿(おおとも
のすくねこまろ)が後に武蔵国に移り住み、子孫・良麿(よしまろ)が天平勝宝(749年〜757年)に創建とある。この時、館を構えた場所が長松寺の境内と伝わる。伝承を信じれば、小島氏以前から何らかの館があっただろうし、一帯は古墳が多く暮らしやすい地だったのかも知れない。
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2023/07/11 09:09
岡部城・埼玉県深谷市岡 (2023/07/05 訪問)
ボートレースの場外発売場であるボートピアの南に位置する。台地の北端で上は平らで墓地・畑が多くを占めている。東側にやや高くなった古墳があり、最高部に浅間神社が建ち、物見には適している。遺構は見当たらない。ボートピア側の崖状から台地上に上れる所が如何にも土橋を思わせるが、単に自然地形かも知れない。
北西1キロメートルに五十子陣があり、小山川を挟んで対峙する。何方かのHPに山内上杉氏に対する古河公方がたの陣城だった可能性がある、と記されている。
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2023/07/11 08:54
碑・説明板が位置を示すのみ (2023/07/05 訪問)
説明板には、岡部藩は天正18年家康の関東入国後、家臣の阿部信勝が榛沢郡岡部などを拝領した5,250石を基に発展した。嫡男・信盛は上杉討伐や大坂の陣で功を挙げ、大番役などの役職を務めた。江戸幕府初期の寛永13年(1636)、三河国内に4,000石加増、慶安4年(1649)に摂津国内に10,000石を加増され大名になる。その後20,250石となった岡部藩は、岡部を本拠地にしながら摂津・三河の領地を分割統治し、移封・転封もなく幕末まで続く・・・。
高橋秋帆幽囚の地との案内もある。蘭学者で高島流砲術の創始者。天保13年(1842)に中傷により獄に投ぜられ、弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで岡部藩の預かりとなった。碑がある場所辺りに幽囚されていた・・・。と説明板に載る。
周囲は民家・畑地になり陣屋を想像させる遺構が見当たらない。
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2023/07/11 08:34
2023/07/11 08:08
高槻城公園芸術文化劇場 (2023/05/21 訪問)
不完全燃焼ながら一応は芥川山城に登城したので、しろあと歴史館で続100名城スタンプを押印。高槻城は1月にひとめぐりしていますが、せっかくここまで来たのだからと前回は工事中だった二の丸跡に行ってみました。
にのまるさんの投稿で完成は承知していましたが、二の丸跡には高槻城公園の一角として芸術文化劇場が建てられています。劇場の周囲には水堀に石垣、築地塀をめぐらせ、いかにも城跡という雰囲気です。さらに築地塀には狭間、石垣石には矢穴や刻印まで施されています。芸が細かいなぁ…と感心しながら、水堀に架かる橋の手前の説明板に載っている高槻城復元図を眺めていて、ふと思い至りました。
…これって、かつての水堀や石垣の位置に対応しているのでは?
復元図と現状を見比べてみると、東辺の石垣の突出部は枡形門跡、北辺の突出部は不明門跡に対応しているようです。水堀や石垣があるのは北辺と東辺の一部だけであり、復元とまでは言えないにせよ、可能な限りかつての姿に近づけようという心意気が感じられます。わくわくしながら不明門跡に向かうと、跡地に説明板が立てられており、後ろを振り返ってみると……おお! 説明板の注記のとおり、歩道に発掘調査で発見された橋脚の位置が表示され、北側には木橋を支える石垣が再現されているではありませんか。劇場への動線の都合からか北辺の水堀の橋は不明門の東側に移して架けられていますが、せめてかつての橋の存在を体感してもらおうという取り組み、素晴らしいですよね。また、高槻城公園の地下には局地的大雨に備えて雨水貯留施設が設けられているそうで、高槻城は今なお高槻の町と人々を守る存在なんだなぁ、とも。
城跡なのでお城っぽく水堀や石垣を造ってみました程度のなんちゃって建造物かと思いきや、模擬は模擬でも発掘調査に基づいた本気の再現建造物でした。おみそれしました。でも、こういうの大好きです。せっかくだから…程度のつもりが、思いがけない本気ぶりに芥川山城でのもやもや感もどこへやら、意気揚々としろあと歴史館に戻りました(続く)。
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2023/07/11 06:39
2023/07/10 23:53
高台に土塁を残す館跡。 (2023/01/09 訪問)
上原館は大友氏の居館跡で国の史跡になっています。
かつては大規模な空堀や土塁で囲まれていたそうです。
今でも幅約17m、鷹さ4mを越える土塁と堀跡の一部が残されているそうですが
ひょっとしてこの史跡公園のことなのでしょうか。
調べてみると石碑のある個所がそうらしいです。
かつての館の敷地は東西130m、南北156mあったらしいです。
守護の館だけあってスケールもでかいですね。
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