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しんちゃん

とんでもないスケールの日向の巨城 (2023/01/07 訪問)

志布志城は南北朝のころから使われ始めて拡張を続け、天正5年(1577)島津氏の
直轄となり家臣の鎌田 政近が地頭として入ったそうです。
鎌田氏は関ヶ原合戦後、徳川家家臣、本田正信との交渉で島津家存続の功績を
あげています。
現在、続日本百名城に登録されている志布志城は内城で、ほかにも新城、松尾城、高城が
ありますが、全部確認するのは困難でしょう。
新城は訪問しましたが、松尾城は社の背後の堀切の先に進めず断念。
登城しやすいよう整備が待たれるところです。
内城だけでもかなり広いですね。各郭が完全に分断されていて郭間が通路を兼ねた
堀切になっていますが、かなり見ごたえがあります。
登城道から矢倉場、本丸、中野久雄(二つある)、大野久雄と独特な名前の郭が続きます。
最も深い空堀の深さは17mあるそうですが、かつては最大24mあったとのこと
絶対登ることはできませんね。


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しんちゃん

シラス台地独特の構造。三城は訪問可能。 (2023/01/07 訪問)

鹿屋城は大隅の古豪、肝付氏の分家、鹿屋氏の城だったと伝わります。
戦国時代には鹿屋城は島津氏の勢力下に入っていたようです。
本郭は公園になっているようで、かつての城跡のイメージはありません。
高城跡は公園のようになっておりベンチがあります。
中城もなかなかの広さで道が通じています。
中央は草がぼうぼうなので端を歩いていくとフェンスに突き当たります。
ここから先は危険とのことでしょう。
実際途中でシラス台地の絶壁を見て、これは危ないなーと感じていた
所でしたのでここで終了とします。
鹿屋城はシラス台地の、この地域特有の構造で各郭が完全に独立し、
郭の端は絶壁になっています。
かなり急なので落ちたらつかまる所がありません。
足元には特に注意しなくてはと感じました。

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しんちゃん

未開の城‥ 突入ヤブレンジャー!! (2033/01/07 訪問)

櫛間城は鎌倉時代後期、地頭としてこの地に来た鎌倉御家人、野辺久盛によって
築かれたと伝わります。
室町時代には島津氏の勢力下に入りますが、豊臣秀吉の九州国分により秋月氏が
入り、慶長9年(1604)に廃城になります。
福島川流域のシラス台地の上に築かれており
最高部の主郭は工場になっているようですが、その北側の
台地に遺構が残っているようです。
国土地理院の地形図を見るだけで容易に構造が想像でき
主郭側から藪に突入します。
冬だというのに酷い藪で進むのにも苦労しますが突っ切ってしまえば
あとは堀切や郭を確認できます。
次は北側から確認。堀や高台が確認できました。
この日はこれで引き返しましたが、西林寺には秋月氏の墓があり、その周辺も
郭だったそうです。

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ぴーかる

古都奈良の中心部に見事な二重空堀がある城跡 (2023/06/17 訪問)

【西方院山城】
<駐車場他>タイムズ東大寺転害門西24時間550円に駐車しそこから徒歩
<交通手段>車

<見所>竪堀・2重空堀
<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅2城目。西方院山城は1444年に古市氏が筒井氏に対抗するため鬼薗山城の代わりの城として築城を開始しましたが、一旦中断して鬼薗山城を完成させたために途中で放置されました。1478年に古市氏が西方院山城の築城を再開して完成させますが、城が完成して3日後に筒井勢に攻められた際に城兵が火を放ち焼失落城しました。
 2019年にすぐ隣にある奈良ホテルになっている鬼薗山城跡に行きこの西方院山城もチャレンジしようとしましたが、人の往来が激しくて市街地の中、山に入り込むを躊躇して断念しました。今回は先達方の投稿を参考に<34.679190, 135.835093>の土塁端からよじ登って登城しました。上記ポイントから登っていくと、主郭背後の土塁と池方向に落ちる竪堀があります。主郭は瑜伽神社とその裏にある広い削平地になります。主郭西側に大きい2重空堀が残り見応えがあります。空堀の最南上部に虎口跡があり数個石列が残ります。奈良公園のすぐ南、市街地の真ん中に土の遺構のある丘城跡があるのは珍しい。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

宇喜多秀家が築いた総石垣の城。 (2022/12/30 訪問)

下津井城は文禄年間(1592~1596)に宇喜多秀家が築城し、池田忠継が岡山藩主に
赴任した際に池田長政を普請奉行として改修させたと伝わります。
その後、城代が入りますが寛永16年(1639)の一国一城令により廃城になってしまいます。
アクセスは良く道路からすぐに城域に入れます。
まず西の丸から散策に入り、東方向に二の丸、天守、三の丸、東出丸と訪問していきます。
全体が石垣で覆われた総石垣の城で、今でも石垣が良く残り非常に見ごたえのある城です。
本丸には天守台も残り瀬戸内海と瀬戸大橋が一望できます。
天守と本丸の石垣が崩れているのは儀礼的に破城を行ったということでしょうか?
もうこの城は使わないよ‥という意志表示でしょうか。

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ろっし

お城探訪 (2023/06/24 訪問)

近いうちに壊されるかもと言う事で見に来ました。

維持していく事は大変ですが残念です。

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しんちゃん

国の史跡なのだがなんか地味。城跡は戦国期に改修されたものなのか。 (2022/12/30 訪問)

桜山城は南北朝の時代にゆかりがあるようで、後醍醐天皇に味方して
桜山 茲俊(これとし)が兵をあげたそうです。
その後、敗れた 茲俊は吉備津神社に放火し、自らの妻子を殺害、一族郎党ともに
自刃して果てたそうです。あまり知り合いになりたくないタイプですね。
この桜山城、国の史跡に指定されているらしいですが
あまり認知度が高くなさそうですね。
墓地から取りつくと大きな堀切があります。
南の端に郭があり東北のほうをざっと確認した後
主郭を目指します。南西側にも郭があるようなのですが
たどり着けそうもありません。ガラの悪いやからが連れている犬が
やたら吼えてきています。ストックを持っているのが良くないようですね。
やからが絡んできているのでさっさと退散します。
こんなめんどくさいやからの相手をしているほど暇ではないのです。

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しんちゃん

古城山 恨めしそうに 猿が見る (2022/12/30 訪問)

笠岡山城は弘治年間(1555年 - 1558年)に村上隆重(能島)が築いたと伝わります。
村上武吉の叔父さんらしいですよ。
元和5年(1619)廃城となり、今は公園となっています。
公園なので車で簡単にやって来ることが出来ます。
遺構らしい遺構はほぼ無く、広場の隅に招魂社と衣笠山という
謎の高台、展望台があるようです。
猿のオリがあるようですね、ほとんど人もいないのに。
なんか恨めしそうにこっち見てます。 一句できました‥
古城山 恨めしそうに 猿が見る。

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しんちゃん

城主以下壮絶に散る。女軍も全滅。ご冥福を祈ります。 (2022/12/30 訪問)

常山城は標高307mの常山の山頂一帯に築かれており
城址近くまで車で行くことが出来ます。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城を
毛利・小早川の大軍が攻め、城主と妻鶴姫は自害、34人の侍女衆も壮絶に
戦いを挑み討ち取られてしますいます。(常山合戦)
常山城は主郭から北とやや北寄りに東の二方向に郭が伸びています。
いわゆるレの字の形をしているのですが
駐車場は北の郭側、青木丸の北に位置していますので
すぐに城址を堪能することが出来ます。
北三の丸にはトイレがあって、二の丸には壮絶な最期を遂げた
女軍の碑と墓群があります。
本丸からの眺望は素晴らしく、遠く瀬戸内海を見渡すことができます。
東の郭群を確認した後、駐車場に戻る途中で侍女頭が身をなげたという
底無井戸を見たのですが、おどろおどろしいオーラが出ていて
呪われるといやなので写真は撮っていません。ぜひ訪問してご覧になってください。
この城郭は二方向に郭が伸びているのですが、両郭群の連携は難しそうだと感じました。
大軍相手だと持ちこたえるのは難しいでしょう。
城内の士気が高いだけにいささか残念な気持ちになります。




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しんちゃん

駐車場完備。お手軽に訪問できます。 (2022/12/30 訪問)

神辺城は嘉吉3年(1443)山名氏によってこの地に築かれたとされています。
江戸時代に福島氏のよって近世城郭として改修されたとありますが、水野勝成が入封した
際に福山城を築いて部材を転用してしまったとされ、本丸の南側にわずかな石垣を残す
のみとなっています。
史料館の駐車場が利用でき、四番櫓跡から東へ三番櫓跡、二番櫓跡、二の丸跡を経て
本丸にたどり着きます。
公園として整備されているようで土塁などの遺構は残っていませんが
比較的お手軽に散策できます。

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しんちゃん

灰白色の石垣がお出迎え。これを見たかった。 (2023/06/25 訪問)

鹿伏兎城は登山道がいまいちよくわからなかったので、これまで訪問を
控えてきたのですが線路の先に登り口があると知り
伊賀・甲賀の城攻めの際に登城しました。
このあたりは新所城や峯城のように魅力的な城が多いですが
鹿伏兎城はガチの山城ですので心して登城しました。
登城ポイントから城の方向に移動していくと線路の向こうに木橋とスロープが
見えてきます。ここから登るのですが足元が濡れていて危ない。
用心しながら登っていくとやがて道が見えてきます。
城址の南側の尾根の先端に両側が切り立った石の壁のようになった
箇所がありますが、ここは見張りにも使えそうです。
足元が危ないのであまり崖に近づかないようにしながら
北西に進んでいくと尾根上に石の祠が並んでいる箇所があり、ここを
北やや東寄りに移動します。尾根伝いにいくとそのまま城跡にたどり着くのですが
噂の白い石積みが見えてきます。これだけでここまで登ってきた甲斐が
ありますが、城めぐりはここからです。
ここの虎口はなかなか特徴的らしいのですが、スルーしてしまいました。
東西に郭があるようなのですが、どちらが主郭なのでしょうか?
とりあえず井戸がある東側を主郭として二の郭から虎口を抜けて主郭に向かいます。
いずれの郭も土塁が比較的良好に残っているようです。
そのまま南側の高い土塁を登って行って櫓台に到達。
あとは石垣に別れを告げて下山します。
登城のポイントはなんといっても登城口の確保ですね。あとは登城道に合流できれば
問題なく登城できると思います。線路を渡るときはいつでもドキドキしますが。



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しんちゃん

山城の雰囲気を強く持っている平山城。売りは枡形虎口と天守台の高土塁。 (2023/06/25 訪問)

峯城は関盛忠の五男・峯政実によって築かれたと伝わります。
信長亡き後、織田氏の勢力争いに巻き込まれたびたび戦火にさらされますが
羽柴秀吉は数日でこの堅城を落としています。
信長存命のときは兵糧攻めやら水攻めばかりやっていたのに実は結構
力攻めも得意なのですね。なかなか小憎い御仁です。
峰城は比高も40m程度で平山城に分類されています。
主郭にはおそらく当主の館があったと推測されます。
よく山城と平山城の違いを高さで区別しようという風潮がありますが
私はそんな単純なものではないと思います。
平山城にはやはりある程度の居住性が必要なのではと考えます。
用途(詰めの城など)や地形、居住性や城の構造など比高が50m程度でも山城と呼んで
差し支えない城はけっこうあります。
小牧山城のように平山城とよばれながら山城の機構を持っている城もあります。
麓に居館がありますからね。平山城と山城の間に明確な区分は無く、その中間に
当たる城も多いので、実際に自分の眼で見て判断するしかないというのが私の持論です。

話はそれましたが峯城は平山城でありながら山城の雰囲気を非常に強く持っている城です。
北の入り口からはいり、かんざし井戸を見てから枡形虎口を抜け南に向かいます。
途中、いくつか郭がありますが日当たりの良い場所は草ぼうぼうで
見学には適しません。主郭の北の郭と西の郭は土塁も残っているので見ておいたほうが良いと
思います。さらに南下していくと主郭の北と西側を守る土塁が見えてきますがかなりの高さです。
この高い土塁の上に櫓台と天守台が配置されている珍しい構造です。
南側から回り込めば虎口をぬけ主郭から土塁を伝って天守台までたどり着けますが
私は天守台に直登しました。登ってから主郭へ降りていきますが
主郭はかなり広いです。ただ東側の防備が手薄なのが気になります。
ここにも土塁が欲しいところですね。


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しんちゃん

鮎河城(詰めの城)いささか詰めの城としては心もとない。 (2023/06/26 訪問)

鮎河城(詰めの城)です。獣道より細い筋をたどって斜め上に登っていきます。
道と呼べるほどのシロモノでもないのですが
脚を引っかけるぐらいには役に立ちます。
なんとか城の南端近くに到達。そこから直接上がっていきます。
主郭の南側に兵を駐屯できるくらいの、いささか斜めった郭があります。
まあ守り手としてはそれを防御に転用できるから良いのでしょうが、
とにかく主郭下に到着。主郭部は周囲よりさらに高地にあります。
主郭の北には堀切Aがあり、なかなかの深さです。渡った先には石がまとっまている
箇所があり、ここが烽火台を兼ねていた可能性もありますが
予想の範囲です。尾根筋を北上して行くと堀切Bがあります。
その周囲にも見張りに適した高地があります。
その先にも兵のたまり場になりそうなスペースがあります。
当然その先にも防御設備があるはずです。進んでいくと
やはり横堀があります。その先にはあまり敵兵の駐屯できるスペースは
無いですね。これなら効率的に敵兵を射殺できます。(物騒な!)
この城はここまでで良いとして、いったん南下して元来た行程で下山します。
その途中で、いくつか規模の大きい竪堀に遭遇します。
やはりここは詰めの城としては規模が小さい。
本城の背後の守りを固めつつ、物見と烽火台の機能を持たせた砦ではないでしょうか。
詰めの城は今回、訪城しなかった高尾城か‥?
おそらくそれだけでは不十分なのでやはり居館の防御力を高めて平山城として
機能させていたのではないでしょうか。

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にのまる

③山上の丸 (2023/04/23 訪問)

山下の丸を2時間半ほどかけてまわったあと、八幡宮跡から山上の丸へ向かいました。
写真①が登城路のダイジェスト版です。この標柱を励みに登りました。5合目に神社、8合目に井戸跡、9合目まで登ると瓦片のようなものが地面に散らばっていて山頂に近づいてきている気配が。
そして出迎えてくれた②の石垣。
ですがその前に右手の二の丸も。廃屋っぽい建物の中に「山城番付」なるものがありました。鳥取城、一人横綱です!(写真③)

標高260メートルの本丸はまず虎口がかっこいい(写真④)。
そして抜群の眺望(写真⑤)!
約30分かけて登った甲斐がありました。
出丸の方は見学が制限されていて行けませんでしたが見下ろすだけで充分満足できます。近づけないところも整備してくださっていることに感謝。
車井戸(写真⑥)は慶長7年の改修の際に掘られたものだそうです。兵糧攻めの時にはなかったんだ……。
天守台(写真⑦)の石垣は崩れているところもありましたが、そのために積み石の内側を見ることができたりと、他では見られない石の姿を観察することができました。
落雷で焼失してしまった天守。天守台中央の穴蔵は貯蔵庫だったそうです。(写真⑧)
津和野城でも思ったのですが、落雷で山頂の天守を失うともう同じところに建てたくはないんじゃないかなぁ……。

鳥取と言えば大山と砂丘です!
大山は子供の頃スキーに来ていました。
鳥取砂丘は学生時代に合宿で来たことがあります。
今回は城メイン、というより城だけ旅行なのでどちらも遠くに眺めるだけでした。
それでも“鳥取城本丸からうっすら見えた鳥取砂丘”は忘れられない光景です。(写真⑨⑩)

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しんちゃん

鮎河城伝承地 鮎川城(平山城)か。おそらく本城。 (2023/06/26 訪問)

鮎河城は南北朝時代に南朝側の鮎川氏が籠城したと伝わります。
おそらくそれが山の上の城でしょう。
戦国時代、黒川氏城の黒川氏が使用したとも伝わっています。
おそらくそれが鮎川城伝承地とされる麓の居館跡でしょう。
居館とするにはスケールが大きく、逆に山の上の城は黒川氏が使うには
いささか狭く思えました。
私見ですが、こちらの伝承地が本城(平山城)で山上の城は
展望用の砦と詰めの城を兼ねていたのではないでしょうか。
だとすればここから詰めの城へ通じる道が続いているはずです。
ちょうど南東の方角に害獣除けの扉があるので入ります。
ここの扉はばねのきいたフックのような構造で開け閉めが容易にできます。
山上に移動していくと城の南側の山中にいくつかの扁平地が見えます。
やはりここも城の機構を持っているなと思いながら上を見やると巨大な
竪堀が真下に降りてきています。なかなかの迫力です。
進んでいくと斜め上にむかって獣道より細いいくつかの筋が続いています。
道と呼べるほどのものではありませんが、これを伝っていけば
詰めの城の南端に到着すると確信して進みます。

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しんちゃん

当時の最新技術を駆使したであろう本格的な城郭。 (2023/06/26 訪問)

黒川氏城は六角氏に仕えた黒川氏の城で、後に黒川氏は織田氏に従いました。
黒川氏城は虎口周辺や石段、主郭周辺の土塁の補強など各所に石積みを多用し、
おそらく織田信長の安土城を参考に改修がされているのではないかと推測します。
甲賀の城郭ではおそらく最大規模をほこり、主郭を中心に堀切、土塁を多用し
周辺、特に北側に多くの郭を配置しています。

害獣防止用の扉をあけ中に入ると多数の郭が段々に出迎えてくれます。
そのまま南下しつつ高所に上がっていくと主郭北側に配置した二重の土塁や堀切に
到達します。ここからでも主郭に行けますが、西側を迂回する形で
回り込むようにして主郭を目指します。
案内板に従っているだけなのですが、ぐるぐる回っているうちに自分が
どこにいるのかわからなくなってきます。
やがて石段が現れ、その周辺には石積みが見られます。かつてはここに立派な門が
建っていたと思われます。石段の上は馬出しのような空間で破城のあとのような
散石が見られます。
西の虎口を目指して登っていくと、より多くの散石があり本郭に到達します。
本郭の周辺も土塁の補強に石垣を併用してあり、周囲全体を土塁&石垣で囲っています。
北側の虎口周辺にも石積みが見られ、ここにも門が建っていたと推測します。
北の虎口から土塁沿いに歩いていくと北の郭周辺に到達し、そのまま下山しました。
たしかにこの城は周囲の土豪たちを威圧するには十分な見ごたえのある城でした。
織田氏に従った地元の豪族の権威を高めるために最新技術を惜しみなく注ぎこんでいるように
見受けられますが、この構造だと麓に居館が置けないですね。
下に家臣たちの館があるので、主人は不便な主郭に住んでいたと思います。
権威を高めるためとはいえ、なかなか大変です。安土城もそうなんですけどね。

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しんちゃん

和田公方屋敷跡 足利義昭潜伏の地 (2023/06/26 訪問)

和田公方屋敷跡は和田城の和田惟政(これまさ)が将軍に即位する前の
足利義昭(一乗院覚慶)をかくまった時の館の跡です。
甲賀の地は有力者が身をかくすのにちょうど良かったらしく
それが和田氏のように中央とパイプを持つ有力な武将が生まれる要因になっていたようです。
館跡の構造は至ってシンプルですが支城もあるようで、当時はそれなりに
防備がしっかりしていたのだと思います。
ちなみに今回の大河ドラマでの足利義昭の扱いはちょっとヒドいのではないでしょうか?
「麒麟が来る」で光秀・義昭のイメージがだいぶ良くなっていたのに
その反動のせいか今回はヒドい。
仮にも最後の室町幕府の将軍で三好や織田、豊臣と時代の権力者たちを相手に波乱の人生を
送った人物なのですが‥。あんなすぐ寝るような重度の糖尿病のオッサンじゃ
務まらないと思いますよ。

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しんちゃん

甲賀流+織豊流築城術の土の名城 (2023/06/26 訪問)

土山城は土山氏の居城だったと伝わります。
後に羽柴秀吉によって小牧・長久手合戦の際に使用されたらしく
登城してすぐに土塁を設けた馬出しにたどり着きます。
南にも郭があり、北上すれば郭Ⅲ、土橋を経て郭Ⅱ
郭Ⅱは角馬出状虎口空間と立札に書かれており、周囲を土塁で囲われ
枡形の役目もはたしているようです。
そのまま土橋をわたり主郭に至りますが周囲を土塁で囲まれているだけでなく
その周囲も土塁で囲まれ、いわゆる二重土塁になっており、その間を堀切が渡ります。
北東部にも堀切が切ってあり、物見のようになっています。
明らかに他の城郭とは構造が異なっており、甲賀流築城術を織田・羽柴流で
スケールアップしたようなイメージです。
この日は最初の訪城で目覚めの刺激にちょうど良い名城でしたが
いかんせん入口の雑草が育ち過ぎで登城道が全く見えません。
もったいないので地元の篤志家が草を刈ってくれると有り難いのですが。

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しんちゃん

グダグダ訪城。強行突破もたいがいに‥ (2023/06/26 訪問)

和田城は甲賀武士和田氏の城で、和田氏は将軍に即位する前の足利義昭をかくまって
いたこともあり、周辺に多くの支城があります。
由緒正しい城なのですが、登城口が見当たりません。
城の南側をウロウロしていると民家の脇から山に道が通じています。
城域より東側のようですが移動しているうちにたどり着くかな?と思いながら
奥手をのぞいてみるとゴルフコースのお姉さんたちが見てるので
すぐに頭をひっこめました。西に移動していくとフェンスが行く手を塞いでいます。
この向こう側が城域か‥ここは伊賀・甲賀で身に着けた忍術で‥
いつの間にか本郭の北側の郭にいます。このまま南下して本郭にたどり着きます。
例によって周囲を土塁で囲ってあります。伊賀・甲賀の城の主郭は
ほぼ同じ構造をしているので、少し食傷気味になってきてますね。
贅沢な話です‥。虎口を経て腰郭を見て下山したいところなんですが
また同じルートで戻るのも気が引けるので、強引に下山を試みますが
酷い藪です。藪を突っ切った先は川です。チキショー‥無理!
仕方がないので急斜面をえっちら登ります。コロナ禍で増えた体重が足を引っ張る‥。
戻るコースの途中で下り道を発見。下る途中で放置されたソーラーを発見。
こんなところにあったのか。そのまま下山しました。
今回は登りも下りもグダグダでした。とりあえず入口付近の写真を掲載しておきます。

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ぴーかる

草路城 (2023/06/17 訪問)

【草路城】
<駐車場他>駐車場はなし。咋岡神社に駐車するのは厳しい。
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅1城目。草路城の築城は定かではないが、応仁の乱以前に山城の国人草内氏によって築城されたとされます。応仁の乱前後には東西に分かれた畠山氏の相続争いの城として利用されたようです。
 現地は現在咋岡神社になっていて土塁、水堀、広い削平地が残ります。室町時代特有の200m四方の方形居館城だったように感じる。
 南へ600m程に穴山梅雪の墓地を発見したのでお参りして次の城跡へ向かいました。墓地は移転してここに納めているそうです。

<満足度>◆◇◇

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