かんなべじょう

神辺城

広島県福山市

別名 : 神辺道上城、黄葉山城、紅葉山城、楓山城、麓城、村尾城
旧国名 : 備後

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①毛抜堀切
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:神辺城 (2026/05/26 訪問)

福山駅のコインロッカーに荷物を預けた後、始発電車で福山駅からJR福塩線を利用して神辺駅に到着しました。
神辺駅から徒歩30分くらいとで、神辺歴史民俗資料館登城口(34.537537、133.385804)に着きました。

1335年(建武2年)元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山次郎左衛門景連によって築かれたと伝えられています。
以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
1538年(天文7年)出雲国尼子方となった山名氏に対して、大内氏は銀山城主杉原理興に命じて神辺城を攻略させます。これによって神辺城は杉原氏に与えられ、山名理興と名乗りました。
1542年(天文11年)大内氏は尼子氏の居城出雲富田城を攻めましたが国人衆の離反もあって敗走し、このとき理興も大内方から尼子方につきました。
翌1543年(天文12年)大内氏は神辺城に押し寄せますが容易に落城せず持久戦となり、1549年(天文18年)ようやく神辺城を攻略。神辺城には大内義隆の家臣青景隆著を置ました。
大内氏が滅亡した後は杉原盛重が城主となり毛利氏に属しました。盛重は毛利氏に従って各地を転戦し、伯耆国尾高城主も兼ねるなど勢力を拡大します。
しかし、1582年(天正10年)神辺城を任されていた盛重の子元盛と景盛の間で争いが起こり、神辺城は毛利氏の直轄となり、1591年(天正19年)には毛利元就の子毛利元康が城主となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の後、毛利氏が防長二カ国に減封となると安芸国広島城主として入封した福島正則の家老福島丹波守正澄が神辺城主となりました。
しかし福島氏は1619年(元和5年)改易となり、替わって備後国100,000石として入封した水野勝成が福山城を築くまで一時在城し、1622年(元和8年)廃城となりました。
1619年(元和5年)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。

神辺駅から徒歩で攻城しました。
現在山頂は吉野山公園として整備され、東側には福山市神辺歴史民俗資料館が建てられています。
登城口からすぐの毛抜堀切は見事、また主郭の南側面には石垣が露出しています。
櫓跡や本丸からの眺望は素晴らしい。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=幸山城を攻城する為、神辺駅から井原鉄道を利用して清音駅に向かいました。
井原鉄道はICカードは利用できません。券売機もお札は1000円札のみです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築書院) (2026/05/25 訪問)

福山駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらい(出勤時間帯で道路混雑)で、明王院駐車場(34.478393、133.347435)に着きました。

明王院は,中道山円光寺明王院と称し,国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。
もとは西光山理智院常福寺といい,807年(大同2年)弘法大師の開基と伝えられています。
その後,鎌倉時代後期の南都西大寺流律宗の勧進活動や草戸千軒の繁栄の影響もあり,鎌倉時代末期に本堂再建,室町時代前期に五重塔を建立など,”中世・西国屈指の寺院”になります。
1619年(元和5年)水野勝成が福山藩主として入府してからはその庇護を受けます。
三代水野勝貞は常福寺に,城下神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し,当時の住職宥仙は,寺号を明王院と改め今日に至ります。

明王院には神辺城から移築したと言われている向唐破風が特徴の書院があります。
書院以外にも移管建造物があります。
①木造十一面観音立像を祀る1321年に建てられた本堂(国宝)
②高さ29m、1348年に建てられた五重塔(国宝)
 ➡和様、唐様、大仏様を組合わせた全国で5番目に古い五重塔
③屋根の両端に龍頭瓦が付けられている1614年に再建した山門
④閻魔大王を中心に十王が祀られる閻魔堂
⑤三代福山藩主水野勝貞が寄進した鐘が下がる江戸時代初期の鐘楼
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=一乗山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築門) (2026/05/25 訪問)

昨日の左足首軽い捻挫は湿布薬で固めました。平地は問題ないですが、山城攻城が心配です。
そういう意味で本日の難関は相方城(比高170m)、高越山城(比高140m)、猿掛城(比高220m)、鬼身城(比高200m)となります。
登城するか否かは現地に着いた時の左足首の状態で考えることとし、本日の攻城開始です。
宿泊先のホテルの朝食前に、神辺城の移築門と福山城東外堀&惣門番所を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩25分弱で、實相寺(ジツソウジ)山門前(34.498469、133.367435)に着きました。

現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれています。
福山藩主が阿部家の時に移築されたようです。
神辺城が廃城後に福山城等に使われてたということでしょうね。
現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、實相寺(ジツソウジ)山門と明王院の書院&庫裏になるようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=福山城(東外堀&惣門番所)に徒歩で向かいました。

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福山城へ (2025/12/26 訪問)

 標高133mの黄葉山に築かれた城址で、東西に延びた尾根上に曲輪を展開しています。また北に延びた尾根にも曲輪が配されていました。曲輪跡、石垣跡、井戸跡などを観ることができます。水野勝成がこの地に新領主として入封したとき、福山城を築き神辺城の建物、石垣を悉く取り外し持ち去りました。神辺城の天守など建物は主に福山城の二の丸に移築されたようです。縄張り図を見ると南西部に畝状竪堀が描かれています。捜してみるとそれらしい地形はありますが、落ち葉の堆積もありわかりにくい状況でした。北側の尾根にある曲輪(吉野山公園近く)の北東部にも堀切や竪堀と思われる場所がありました。
 JR神辺駅から東へ5分ほど歩き福山市神辺交流館近くから登城しました。帰りは北尾根にある曲輪を確認後、吉野山公園方面へ下山しました。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
天守構造 型式不明[3重/築年不明/解体]
築城主 朝山景連
築城年 建武2年(1335)
主な改修者 山名理興
主な城主 朝山氏、山名氏、杉原氏(毛利氏家臣)、福島氏
廃城年 元和8年(1622)
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、移築門
住所 広島県福山市神辺町川北