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todo94

和歌山の城めぐり⑤ (2023/04/29 訪問)

午後には献血の予約を入れてあり、天気予報も雨になっていたので、和歌山市へと向かい、和佐山城をこの日最後の攻城としました。高積神社下ノ宮についた時にはついに小雨が落ちてきていました。とりあえず、傘なしでもなんとかなりそうだったので攻城に踏み切ります。登城路の中央にバーンと現れた板碑の左手は高積神社上ノ宮になります。途中登城路が分かりにくい右手に折れていく箇所がありましたが、ピクミンブルームの地図のおかげで迷わずに山頂にたどり着くことができました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:妻籠城 (2023/04/28 訪問)

阿木城からの転戦です。登り口付近(35.583744、137.597357)に路駐しました。

16世紀中期に木曽氏は甲斐の武田氏に従い、木曽義昌は信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係にあったそうです。
しかし義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、1582年(天正10年)遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで、妻籠城等の支城を改築し、勝頼に対し反旗を翻し、織田信長の甲州征伐のきっかけとなりました。
武田勝頼軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されました。
武田勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣しますが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にて撃退しました。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は最初徳川家康側に付いていましたが、圧力により羽柴秀吉側に寝返ります。妻籠城に木曽義昌の家臣・山村甚兵衛良勝が入り、徳川家康方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らと戦い退けました。
山村良勝は1590年(天正18年)義昌が下総へ移封となると家督を継いだ義昌の子・義利に仕えました。
1600年(慶長5年)木曽義利が不行状により改易されると、良勝は徳川家康の家臣となりました。
1616年(元和2年)の一国一城令により、廃城になりました。

登り口(石碑と説明板があります)から迷うことなく本丸までたどり着けます。登って行くと土橋があります。
本丸跡には土塁が残り、「御嶽山大権現」「八海山神社」「木曽谷恩賜金由来之碑」「林君記念乃碑」の石碑がありました。(よく見ないと読めません)
本丸からは妻籠宿の家並が見えます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=須原城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:阿木城 (2023/04/28 訪問)

宿泊先のホテルから阿木城の大手登城口(35.400239、137.462359)に着きました。

登城口にパンフレットの入ったポストと杖がありました。
登城口には獣害防止の柵が設けてあり、フック式の鍵を自分で掛け外しする様になっています。

阿木城は戦国時代、遠山氏が岩村城防衛のために築いた遠山十八支城のひとつです。
武田信玄の家臣・秋山信友に落とされた後は織田・遠山方の最前線基地として整備されましたが、1574年(天正2年)に武田勝頼の攻撃によって陥落し、そのまま廃城となりました。

城址には曲輪跡や堀切、竪堀などの遺構を確認することができ、阿木城跡保存会の方々により散策路などが整備されています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=妻籠城に向かいます。

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にのまる

国宝天守コンプ (2023/04/21 訪問)

4月半ばの週末、3連休がとれたので山陰城めぐり旅に行ってきました。
自宅を出たのが5:30。品川発6:49ののぞみで岡山まで3時間爆睡し、岡山発10:05の伯備線特急やくも7号に乗り換え。備中高梁より先に行くのは初めてです。JRの乗継割引が廃止になったのは悲しかったけれど、車窓からずーっとぼーっと景色を眺める至福の時間を過ごし、12:44に松江駅到着。
意外とあっという間。この時間に着けば気の向くままに松江観光できそうです。

ということでまずは宍道湖畔の白潟公園へ行き、宍道湖大橋を渡って松江城に向かいました。
松平直政公像のある三の丸跡から水堀と石垣越しに見えた天守と櫓。想像していた以上の壮麗さでした。

堀尾吉晴像を拝み、城内へ。馬溜跡、井戸、水路、土塁、石垣、一つ一つ確認しながら大手門跡へ。大手門はしゃちほこ付きの大きな門だったそう。
米蔵や屋敷があったという二の丸下の段は広々とした市民の憩いの場。木々の間から天守がチラチラ覗いています。
現存天守をもつお城はつい天守に目がいってしまうのですが、いずれのお城も石垣の名城でもあります。松江城も荘厳な石垣が次から次に目に飛び込んできて目移りしてしまいます。

二の丸の復元三櫓、太鼓櫓・中櫓・南櫓はそれぞれ用途に応じた造りで、城下より仰ぎ見た美しさとはまたちがった城の一構成要素としての役割を知ることができました。
二の丸でひときわ目を惹く興雲閣。今から120年前に松江市によって建てられた洋館で迎賓館として使われたこともあるそうですが、ため息が出るほど素敵な建物で、ピンクのカーテンにリボンと花柄の絨毯、アールデコ調の装飾に薄い薄荷色の建具と、乙女心☺️がくすぐられまくりでした。バルコニーからの眺めも素晴らしかったです。

興雲閣のすぐお隣、御書院跡には松江神社。御祭神は松平直政公、徳川家康公、松平治郷公、堀尾吉晴公。国宝指定の決め手となった祈祷札が再発見されたのがこの松江神社で、こんなに近くで長い間大事にされていたのだなと感慨深いものがありました。

いよいよ一の門から本丸に入ります。ここに限らずですが、それまで見えていた天守が一旦視界から消えて、最後の門を潜った瞬間にドカーン!と現れるという現象、城の仕組みを体感するうえでも、純粋にサプライズとしても堪らない快感です。
国宝天守5個目のスタンプはもう目の前ですがもったいないので直行せずに多門跡、鉄砲櫓跡、武具櫓跡、祈祷櫓と見てまわりました。祈祷櫓跡はその上を歩くのを少し躊躇してしまいましたが。

天守入場券は3館共通入場券(松江城・小泉八雲記念館・武家屋敷)を購入しました。
松江城天守、見どころ多すぎです。
付櫓の狭間、石打棚。地階の井戸、塩蔵、祈祷札レプリカ、古材、旧鯱。上階には柱の包板や月山富田城の古材、太鼓櫓の太鼓、箱便所等々。それなりに時間をかけたつもりではいましたが広い天守内、構造を理解するのは難しく、知識不足もあり見どころをいくつも見落としてしまいました。そして……城カードリニューアル版の購入を忘れてしまいました😱もう、次からは忘れないように手にマジックで書いておこうかな💦

天守外観は写真などでは正面からのものを見ることが多かったので、ぐるっとまわっていろいろな顔を見られたのがうれしかったです。このあと乾櫓跡から北の門跡を通りましたが、こちらの石垣越しの天守もかっこよかったです。石垣自体もすごく強そうでした。
こちら側は人通りもなく、とても静かでした。末次城の痕跡が見つかったのもこのあたりでしょうか。

馬洗い池は2018年に80㎝のヘドロを浚って在来種のみのきれいな池に戻したのだそうです。目立たないところにありますが遺構のひとつとして大切に保存されていることに地元の方々のこの城を愛する思いを感じました。

ここから小泉八雲記念館へ向かうために北の丸の護国神社、城山稲荷神社を通り、搦手虎口から退出しました。記念館と小泉八雲旧居は隣り合っています。館内写真はありませんが、私の地元の赤間関(当時)が「耳なし芳一」のお話の舞台で、小泉八雲といえば怪談作家というイメージを長年もっていたのですが、館内を見学し八雲の生涯を辿ることによって人物像などを多面的に知ることができました。
続いて武家屋敷に行き、お堀越しの石垣と城山の姿を良き良き!と眺めながら北惣門跡と松江歴史館へ。歴史館は入館受付が16:30迄で入れませんでした。小泉八雲記念館(18:10迄受付)と武家屋敷(18:00迄受付)に先に行ったのが今思えば失敗でしたが……きっと“次回”があると思いますのでその時に。

北惣門橋は家老屋敷跡(現歴史館)と城内を結ぶ通路で、明治時代に石造りのアーチ橋に変わったものが、史跡にふさわしい江戸時代の姿にするために平成6年に木橋を復元したのだそうです。現在の木橋は、初代の老朽化のため昨年架け替えられたばかりでまだまだ出来たてまっさら。原則、車両通行禁止となったため、登城気分を悠々と味わえます。メンテナンスも大変そうだし、いずれまた架け替えに直面する時期が遠からず来るのだろうなと思うのですが、木橋復元はありがたいことですし応援したいです。

4時間歩きどおしの松江城観光でした。日没まで2時間近くあったので宍道湖の夕日スポットは諦めましたが、町なかにも「輪違い紋が刻まれた石」や「大手前通りに残る江戸時代の石積み」の説明板などがあり、楽しめました。石積みの説明には、石組み水路の見える部分は丁寧に仕上げられ、見えない部分は雑然と積まれていることを“見栄っ張り”と書かれ「見栄の文化」と称していました。しかし、明治初期に180円で落札された天守を買い戻した城愛が国の宝を守ったのですし、祈祷札の発見や取り付け位置の特定、また今回初めてほんの数時間歩いただけですが、松江の方々の、歴史をそのままの形で大切にしようとする気持ちや観光客に対する優しさが伝わってきて、全然見栄っ張りなんかではないと思いました。
<おわり>

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ぴーかる

淡輪城 (2023/04/30 訪問)

【淡輪城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅1城目。大阪府の城びと最南端の城跡です。現地説明板によると淡輪城は1204年頃に地頭として住み着いた佐藤忠信の子、小治郎重治が淡輪氏を名乗り築城したとされます。戦国時代は淡輪徹斎の娘おこよは豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが秀次事件に連座して斬首されました。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦で大坂方に付き樫井川の合戦で討死します。
 現地は説明板とその奥に私有地と思われる畑に土塁が残されています。出立時は止んでいた昨晩の雨が大阪南部は残っていて駅前にコンビニも無く傘も買えずに少し濡れつつ早々に淡輪駅まで戻りました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

搦手登城路 (2023/05/25 訪問)

 高天神城の搦手登城路は断崖迫る要害を彷彿させる戦国の堅城で登城中は圧巻の登城を体験します、今回2度目の登城は前回平成26年11月の登城は追手口からでしたので、登り降り搦手登城路を利用しました。
 搦手登城路の登り降り写真を投稿します。

 今回の投稿は、横堀と堂の尾曲輪編、二の丸・袖曲輪・馬出編、西の丸・馬場平・井戸曲輪編、本丸周辺2度目の探訪編、本投稿の搦手登城路編の5編で圧巻の見所をご覧ください、唯一見逃した西の丸から南に伸びる見張り台周辺が心残りですが次回のチャンスに挑戦したいと思っております。
 NHK大河ドラマ「どうする家康」の進捗も、三方ヶ原合戦、先の日曜日には長篠・設楽原合戦が始まりましたので、高天神城攻防合戦の放映が楽しみです、高天神城のCGが画像がどう描かれるか?期待です、先回の放映での長篠城CGは良く出来て居りました。
 

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イオ

特別展示「THE金箔瓦」 (2023/06/03 訪問)

仕事で京都に行ったついでに、京都市考古資料館で開催中の特別展示「THE金箔瓦」を見学してきました。公共交通機関利用のつもりが前日の豪雨の影響で電車が止まっていたため、やむなく車で行きましたが、周辺の駐車場を調べてなかったので、資料館前に3台分の駐車場があって助かりました。

金箔瓦は全国46城で確認されていますが、安土城にはじまり江戸前期に終焉を迎える金箔瓦について、安土城、大坂城、聚楽第、伏見城、京都新城、二条城などの調査成果のパネル紹介と出土した金箔瓦の展示がされていました。中でも聚楽第や伏見城からは多くの金箔瓦が展示されており、地元ならではというところでしょうか。また、金箔瓦が普及していく中、伏見城の頃には巴文の軒丸瓦や唐草文の軒平瓦だけでなく、文様のない簡略化した金箔瓦も見られるようになっているのは興味深いところです。

その他、パネルのみながら各地の金箔瓦として駿府城や広島城、上田城が紹介されており、金箔瓦の終焉として二条城、公家町で発掘された金箔瓦の展示もありました。金箔瓦の化学分析・製作技法のコーナーも設けられています。また、特別展示コーナーから少し外れて、資料館入口正面には京都新城の金箔瓦のコーナーがあり、京都新城の左手壁沿いでは「八幡山城の秀次館を飾った金箔瓦」の企画陳列が開催されていました。

時間の都合もあり2階の常設展は見ていませんが、入館無料で期待以上に楽しませてもらったので、入館料代わりに「THE金箔瓦」のパンフレット(300円)を購入し、資料館を後にしました。特別展示「THE金箔瓦」は今月18日(日)まで、企画陳列「八幡山城の秀次館を飾った金箔瓦」は11日(日)までとあとわずかですが、30分もあれば十分に見て回れますので、京都に行かれる際にはついでにぜひ。
 

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todo94

和歌山の城めぐり④ (2023/04/29 訪問)

池田城から、湯浅醤油の見学を経ての転戦です。遠目にも秀麗な山容が目につきます。コンクリート舗装されているとはいえ細くくねったミカン畑の中の坂を延々と登っていくのは、運転に自信のない方にはかなりの負担になるかと思います。最初の獣除けフェンスの手前のスペースに私は駐車しました。フェンスのその先に駐車場はあります。この4月に攻城した城の中では最も雑草が繁茂していました。ピクミンブルームの山の苗を見つけたのですが、要害山城ですでにゲットしてある青い苗だったのでスルーしてしまいました。

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赤い城

ドローンの会社 (2023/05/28 訪問)

急な坂道を登って行くと企業の門があります。
ドローンの会社とのことです。
休日でもあり、入らせて頂きました。
ここは中富中学校があったところで校舎の前に石碑が置いてあります。
遺構らしきものは見当たらないのですが城があったことは十分に伺える場所でした。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:羽崎城 (2023/04/27 訪問)

顔戸城からの転戦です。城址案内手前(35.416790、137.080323)に路駐する予定でしたが、とても路駐できそうにありません。
しばらく付近をウロウロしていたら、「宅伸不動産」の駐車場に駐車の許可を頂きました。
「宅伸不動産」の方に城址碑しかない羽崎城跡に来るなんてマニアックですねと云われました。
「宅伸不動産」の駐車場から羽崎城入口(35.416924、137.080496)に向かいました。

築城時期は定かではないが、応永年間(1410年代)に築かれ、土岐三河守悪五郎の三男の羽崎三郎光直の居城として知られているようです。
羽崎館ともいわれたが、1583年(天正11年)頃に廃城となったようです。

小さな祠と城址碑が確認できます。
付近に石垣が確認できますが、「城びと」では遺構消滅とあるので遺構ではないのでしょう。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:顔戸城 (2023/04/27 訪問)

堂洞城からの転戦で、城址由来碑手前空スペース(35.437395、137.107882)に駐車し、城址由来碑前(35.437620、137.108019)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応仁年間(1467年〜1469年)頃に斎藤妙椿によって築かれたと云われています。
妙椿は、もとは八百津(加茂郡)の浄土宗善恵寺で僧侶としての修行をしていましたが、1460年(長禄4年)守護代を努めていた兄利永が世を去ったため還俗し、兄の子利藤の後見人となりました。
応仁の乱(1467~77)では西軍に属して、上洛している土岐氏に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏や近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、1468年(応仁2年)10月迄にこれを駆逐し美濃国内を平定したそうです。

空堀の大部分は竹藪や雑木林となり、かなり荒れています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=羽崎城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:堂洞城 (2023/04/27 訪問)

加治田城からの転戦です。カーブミラー付近の空スペース(35.482662、137.001911)に路駐しました。
そこからゴルフ場のゲートフェンス脇の道を行くを進んで行くと標識は無いが入口があります。

築城者・築城年は不明のようです。堂洞城は1565年(永禄8年)に起きた「堂洞合戦」の舞台となった城です。
斎藤龍興方の岸勘解由信周が城主でしたが、織田信長の家臣である丹羽長秀・河尻秀隆・森可成、さらに信長に内応したの加治田城主・佐藤忠能の軍勢に寄って攻められ落城しました。
城はそのまま廃城となりましたが、「本能寺の変」後に起きた斎藤利堯と森長可による「加治田・兼山合戦」の際には長可の本陣として使用されました。

現在城址はゴルフ場になっています。
駐車場所はないので、路駐するしかありません。
遺構はほぼなく、主郭の南側に堀切ぽいもの(写真は撮りましたがブレの為、投稿できません)がありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=顔戸城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:加治田城 (2023/04/27 訪問)

更木陣屋からの転戦です。大弘法師堂入口(35.496785、136.998632)清水川公園に到着。車は清水川公園の駐車場に駐車しました。
そこから、清水寺二天門脇の登城道口を通り、近道を使って主郭(山頂)まで徒歩30分弱、下りは20分くらいです。
近道も本道も主郭への残り150mで合流します。

加治田城の築城時期は不明でのようですが、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であったようです。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられています。
佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国の織田氏に内応。そのため1565年(永禄8年)に、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退しています。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となったそうです。
1582年(天正10年)本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となりましたが、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、その後(1582年~1583年)、利堯の城主としての活動が見えなくなり、その所領は森氏が統合したようです。
その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にしました。廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えたそうです。

登城道は城址が近づくにつれ歩き難くなりますが、途中にある近道も含めて問題なく主郭に着きます。帯曲輪、堀切等が確認できます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=堂洞城に向かいます。

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くらのり

ニ条城 (2023/06/03 訪問)

1600年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿舎として築城に着手。天下普請により1603年に完成し、将軍就任の祝賀の儀を執り行った。
その後、1619年(元和5)に2代将軍徳川秀忠の娘、和子が後水尾天皇に入内する前の宿館として大改修が行われた。1623年、後水尾天皇行幸を迎えるため約に2年かかりの大改築をおこない白漆喰塗の五重五階の天守、西側に本丸、東に二の丸をもつ現在の姿を完成させた。
1750年(寛延3)落雷のため焼失。1893年(明治26)京都御所内の旧桂御殿が移築され、これが現在の本丸御殿となっている。

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赤い城

武田最後の城 (2023/05/28 訪問)

韮崎市民俗資料館でスタンプを押し、パンフレットを入手。
ここには城の模型も置いてあります。
その後少し離れた城址へ。
駐車場もあります。
駐車場から道路を渡り東出構を見学。
ここから帯曲輪を進んで行きました。
西出構から出て乾門桝形虎口から再度入城しました。
木橋橋台のところから堀に降りて見ましたが藪で形は今ひとつでした。
井戸を経て二の丸へ。
曲輪は下草が伸びていましたが土塁を確認出来ます。
本丸には藤武神社が建っていて土塁も残っていました。
一部発掘調査中でブルーシートが掛けてありました。
ここから二の丸の脇を通り三の丸方面に。
途中喰違虎口も見られます。
三の丸は東西共に藪で断念。
整備されている大手桝形虎口、丸馬出、三日月堀を見学。
大手からは富士山が綺麗に望めました。
武田勝頼によって築かれた城ですが織田・徳川連合軍によって武田氏は滅び、城も短期間で廃城となってしまいました。
丸馬出、出構、三日月堀など武田の特徴をよく見ることができる良い城でした。

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カズサン

本丸周辺2度目の探訪 (2023/05/25 訪問)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」のドラマ進行状況に合わせて、三方ヶ原合戦、長篠・設楽原合戦の次には武田勝頼との高天神城攻防戦が控え2度目の探訪、平成26年11月の初登城では追手口からの登城で三の丸、本丸周辺の探訪で終わりましたので一城別郭と言われる西の丸の有る西峰の城郭曲輪群を観察探訪終えて、ついでに本丸周辺を再度の探訪観察をいたしました、足腰脚力の関係で三の丸から追手口までは前回探訪していましたので省略。

 井戸曲輪から西峰、東峰の分岐点から登城通路を本丸方向へ、的場曲輪、大河内石窟、本丸北虎口土塁、本丸内部、御前曲輪、御前曲輪には相変わらず顔嵌めの撮影スポットが健在、本丸の西、南西側の土塁に切岸も崖と合わせて良く残って見応えがあります、薄曇り霞状態で富士山の遠望は叶わず。

 難攻不落、堅城の高天神城は西峰、東峰の遺構見所満載です、私の足で何とか登れる高天神城でした。乞う期待大河ドラマ「どうする家康」の高天神城攻防戦!

 多くの方が来城されて居ました、県外車も多く見受けられ人気の程が伺えます。
 
 

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城好きのメガネ

「鐙摺城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
鐙摺城は、平安時代末期、源頼朝が石橋山で挙兵し、源氏に呼応した三浦党が鐙摺城から援軍として出陣。しかし、源頼朝が石橋山で敗走したため退却した際に、畠山重忠と遭遇。三浦義澄が当地に旗を立て気勢をあげたことから旗立山と呼ばれる。戦国時代に関東に進出してきた伊勢宗瑞に攻められ、三浦氏の滅亡とともに廃城になったとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR逗子駅 京急バス 鐙摺下車 徒歩3分

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todo94

和歌山の城めぐり③ (2023/04/29 訪問)

現地での表記は池田城になっています。城の西側の登城口は明瞭でわかりやすいですが、急坂登が待ち構えているようですね。わかりにくいながらも傾斜が緩い南側の舗装路から攻めてみました。山頂付近まで電柱、電線が伸びているので迷うことはないでしょう。山頂から四方に郭が伸びているなかなか見ごたえのある城でした。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:更木陣屋 (2023/04/27 訪問)

長森城からの転戦です。農協跡の駐車場前(35.413259、136.826969)に駐車させてもらいました。
そこから徒歩(すぐ近くです)で、旗本徳山陣屋公園入口(35.412998、136.826970)に向かいました。

更木陣屋は江戸幕府の旗本・徳山氏の陣屋です。
もともと織田信長の家臣であった徳山則秀は柴田勝家の北陸方面軍に従軍して活躍し、その後も丹羽長秀、前田利家に仕えたのち、「関ケ原の戦い」の際に徳川家康に従いました。
則秀は戦功によりこの地を領すると、以降徳山氏は幕府旗本として明治まで続きました。

模擬復元門と模擬復元井戸、土塁もありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=加治田城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:長森城 (2023/04/27 訪問)

伏屋城からの転戦です。長森城址石碑/説明板前(35.398724、136.797026)に路駐しました。

1185年(文治元年)長森庄地頭の渋谷金王丸が長森城を築城したと伝わっているようです。
南北朝時代の1339年(暦応2年)、美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡からこの長森城に移り、城郭としての整備し、その後は代々土岐氏が城主だったようです。
廃城時期は不明だが、斎藤道三が美濃国を支配し、拠点を稲葉山城に移した頃と思われるようです。
廃城後、同地は江戸時代陸奥国磐城平の安藤氏の飛領地として切通陣屋が築かれ、以降代々安藤氏の領地として続き明治に至るそうです。

現在は市街地となって遺構は残っていないようですが、切通観音の所に説明碑と陣屋跡碑が建てられていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=更木陣屋に向かいます。

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