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カズサン

【遠江天王山砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦本陣 (2023/08/28 訪問)

 『歴史群像』4月号、戦国の城連載で【遠江】掛川城攻め付城群が文・監修=加藤理文氏、イラストレーション=香川元太郎氏で寄稿されて居り、訪ねてみたいと思っていた城郭です。

 住所:静岡県掛川市下西郷84(龍尾神社)、掛川城から北東に約900m程の独立小山
 駐車場:龍尾神社西麓に参拝者駐車場が広くとって在ります。

 駐車場から倉真川に注ぐ麓川(水堀の様)を渡り、石段の参道は控えて、一般車禁止の坂道を褶曲するように登る、砦の法面は切岸の様な崖ですが草木に覆われてる、龍尾神社が鎮座す境内が天王山(龍尾山)砦跡、グーグルマップを拡大すると史跡マークが出て来ます。
 境内は樹木に覆われて掛川城方向を望む事は出来ません、龍尾神社に先ず参拝、龍尾神社の祭神は素盞鳴尊で家紋は織田木瓜でした、境内曲輪は広くその当時の本陣としては十分機能したのでしょう、掛川城に対して北池が南に控え、砦の山麓には川が周囲を流れて堀の役目、掛川城に対して約900mとは今川氏真に威圧を掛けた事でしょう。

 歴史的には、永禄11年(1568年)12月、武田信玄と徳川家康との密約で今川領の2処分化で駿河は信玄の侵攻、遠江は家康の侵攻で始まり、信玄に今川館を追われた今川氏真は家臣の朝比奈氏の守る掛川城に逃げ込む、家康は包囲戦付城砦を築き翌年の永禄12年1月より掛川城攻めを開始、天王山砦付近でも今川軍徳川軍の攻防が繰り返されて居るようです、膠着状態が5ヶ月ほど続き、遠江も不安定な状態であり、和睦を図り今川氏真は義父の北条氏康のもとへ退去を永禄12年5月して掛川城包囲戦は終わる。
 ほぼ遠江を治めた家康と駿河を治めた信玄との国境の戦いが始まる。
 
 龍尾神社は地元の方々の崇敬及び歴代の城主の方にも敬われて居ました、境内には近世掛川城に改修した山内氏二代忠義公奉納の蘇鉄と土佐石が社殿脇に在り、また掛川城主太田備中守奉納石灯籠が二の鳥居脇に在ります。(社務所にてパンフレットを頂きました)

 参考資料は、歴史群像4月号遠江掛川城攻め付城群、文監修=加藤理文氏、イラスト=香川元太郎氏。
       2023年2月25日掛川市生涯学習センターホール講演、徳川家康の掛川城攻め、加藤理文氏講演レジメ(掛川市HP公開)
       龍尾神社パンフレット
       グーグルマップ
       に依ります。
 

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にのまる

⑤清水門・帯曲輪門 (2023/06/24 訪問)

歴史館、二の丸茶屋に寄ったあと清水門へ足を進めました。
清水門は「白河城御櫓絵図」により外観だけでなく内部構造までもわかっているそうで、復元へのプロジェクトが進んでいます。
今でもここを通るといよいよ本丸だ!とワクワクしてきますが、櫓門が甦ったらどんなに素晴らしいことでしょう❣️
復元の日を楽しみに待ちたいと思います……と、いつでもどこでも待っているだけなので、このたびはふるさと納税で一石城主に申し込みました。

今まではここから右手の竹の丸→前御門→三重櫓へと進んでいましたが、今回は帯曲輪へ行けるようになったので、左手へ進みます。右側の桜之門を過ぎると帯曲輪門。この門には杮葺きの櫓門があったそうです。石垣のみとなった今でも、“ちょっとここどうなってるの?”というおもしろさがありました。
美しくよみがえった石垣は近くに寄って見ると補修の跡がわかるところがあり、以前訪れた際の石工さん方の姿や一つ一つに番号が振られていた石を思い出しました。

これまでの石垣復元工事の流れを知りたくてみなさま方の投稿写真をじっくりと見させていただきました。この頃はこのあたりはこういう状態だったんだ……ということがわかって、改めて城びとの投稿欄に集まったみなさま方の訪問記録や現地情報、写真は財産だなと思いました。感謝m(__)m
〈つづく〉

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー69城目 (2023/08/09 訪問)

予定していなかったゴールデンカムイ展に時間をかけてしまったため、予定していた四稜郭はパスしました。るろうに剣心北海道編の聖地のひとつなんですけれどもね。碧血碑には脚を伸ばしておきました。2003年11月以来、20年ぶりです。ここもるろうに剣心北海道編の聖地なんです。函館空港のレンタカー営業所に返却する前に志苔館に立ち寄ってスタンプをゲットしました。空港で夕食をとるため早めに城めぐりを切り上げたのですが、飛行機が1時間以上遅れたので、余裕で四稜郭には行けたと思います。それでも台風の影響で大混乱だった中、無事、北海道に行程通り行ってこれた幸いに感謝しなくてはなりませんね。

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しんちゃん

本丸は利根川の反乱で崩壊。 (2023/05/01 訪問)

石倉城は二の丸跡が公園になっているようで、城址碑があります。
城址碑の右の板が縄張り図のようです。裏側に回ると良いみたいですが確認し損ねました。
遺構はほぼ残っていないようで本丸部分は崩落しているようです。
河岸側へ降りて下から見上げてみると、切岸のようにも見えますが
昔とは形状が異なっているようですので、参考にはなりません。
城郭大系には武田信玄が築いたとされていますが、今の解釈では
信玄公が城を改築し、厩橋城を抑えて、永禄9年9月に箕輪城を攻略したと有ります。
厩橋城攻略のための重要な拠点で、かつては武田と上杉で争奪戦が行われ、
後に北条氏政(氏直)が厩橋城の北条高広に帰属を命じたが高広はこれに応じず、天正11年(1583)正月
氏政(氏直)は石倉城を対城として厩橋城を攻めたとあります。天正11年(1583)9月に
厩橋城は氏直の手に渡ったとあります。

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ぴーかる

一宮城 (2023/07/22 訪問)

【一宮城】
<駐車場他>近くのコインPに駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾8城目。一宮城の築城時期は定かではありませんが、織田信長の家臣である関成重によって築城されたとされます。関成重の父、関綱長は美濃関城城主であり成重も近くの佐野城主でしたが、時期不明だが斎藤氏から鞍替えして織田信長に仕えたようです。また美濃関氏は尾張一宮の真清田神社の神主の家系であったことから信長から一宮の地を賜った時期に真清田神社と領地を守るために築城または規模の拡張を行ったと考えます。関成重の子である関共成は小牧長久手の戦いで戦死します。その後城は織田信雄家臣の不破広綱が入城しますが1590年織田信雄が改易された後に廃城となったようです。
現在は銀行入口横に城跡碑があるのみなので撮影し終了した。

<満足度>◆◇◇

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todo94

デジタル一眼レフデビューの年 (2003/11/23 訪問)

古い写真をあさっていたら懐かしい写真が出てきたので投稿させていただきます。2003年11月、三連休パスと青森-函館往復切符で函館に行った時の写真です。秋田から青森に向かう列車に先行する貨物列車の車輪とレールの間にぬれ落ち葉が挟まって空転してしまい、時速3kmしか出せない状況で大幅に列車が遅れ、予定していた特急白鳥に乗れず、今は亡き寝台特急北斗星1号に乗って函館に行くことができたのは懐かしい思い出です。旧五稜郭タワーからは五稜星の形を一望という感じにはなりませんでした。

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にのまる

④帯曲輪石垣を見ながら会津門へ (2023/06/24 訪問)

蛇尾の石垣を見たあと、進行方向そのまま、搦手門方面に歩きました。
青々と茂る木の葉陰に石垣がちらちら覗いています。お濠では釣りをする人の姿も。
搦手門へ続く土橋に吸い込まれそうになりましたが、まだまだ続く帯曲輪石垣も見たかったので踏みとどまり会津門に向かいました。
会津門では鉤型の道や礎石に当時の面影を見ることができます。

やっと城内に入りました。
まずは歴史館です。ビデオや資料を見たりクイズに挑戦したりしました。解説付きの大きなジオラマがとても分かりやすくて、ここまでの復習と後半戦の予習ができました。
二の丸茶屋で城カードをゲットして清水門に向かいます。
<つづく>

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しんちゃん

佐野ダブル ちょっとややこしい。 (2023/05/03 訪問)

植野城は別名、佐野陣屋とも呼ばれています。とはいえ佐野氏の支配した佐野町より
南に1kmほど離れた植野町に築かれていて、堀田佐野藩の藩庁とされ、城主格であった
堀田氏の陣屋であるので堀田佐野城とか植野城と呼ばれています。
案内板によると東西540m、南北350m、周囲約1.8kmの規模だったそうです。
現在は堀田佐野城址公園が整備され「佐野城墟碑」が立ち、南側に一部、土塁が残っています。
佐野市寺中の東光寺に大手門が移築され、佐野市赤坂町の柳川医院に裏門が移築されています。

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しんちゃん

足利の 原始の魂 ここにあり (2023/05/02 訪問)

足利氏館は12世紀に足利氏の祖・足利義康によって築かれた足利氏の居館跡です。
足利義康は八幡太郎義家の孫で、境内の案内板には父義国と二代に渡って
堀と土手(土塁)を築いて邸宅としたとあります。
この時代の武士の館では最大級の大きさのようです。
ちなみに案内板には必ず本堂をお参りくださいと有ります。そうですよね。
鑁阿寺の本堂は鎌倉時代の遺構で国宝に指定されています。
GWなので人が多いです。本堂の写真は2103年8月のものです。
この時は早朝だったのでガラすきでしたね。

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しんちゃん

足利学校 中世の日本一の学校。 (2023/05/02 訪問)

足利氏館に行くついでに足利学校に行ってきました。‥というよりは逆です。
足利学校に行きたかったんです。足利市には二つ天下を取ったものがあると
ブラタモリでやっていて、一つがあしかがフラワーパーク、もう一つが
足利学校だったんです。実はもう一つ行きたいところがあったのですが
それは別の機会で紹介させていただきたいと思います。
足利学校は北と東を水堀で囲まれていて、南側中央の入徳門を通って
中に入ると学校の扁額のある学校門があり、
正面に孔子廟があります。そこから先、右手に足利学校校舎と衆尞(書院)があり北と南に庭園があります。
孔子廟の左手には収蔵庫(図書館)があります。
足利学校の歴史は古く平安時代から鎌倉時代に創設されたとされています。
「板東の学校」と称され江戸時代には全国から学生が集まり、明治元年まで存続したとあります。
足利学校は室町時代の前期には洲対していたのですが、永享4年(1432)関東管領、上杉憲実が
足利の領主になり再興に尽力し、円覚寺の僧快元を能化(今でいう校長)に招いたり、蔵書を寄贈したということです。
憲実公の方針で宗教色を廃したものになり、教育の中心は儒学であったものの、快元が易学に通じていたので
易学を学びに来る者も多く、兵学、医学も教えたと有ります。
16世紀には北条氏の保護もあり、学生数は3000人を超えるなど隆盛を極め、フランシスコ・ザビエルも
「日本国中最も大にして有名な板東のアカデミー」と記しています。

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ぴーかる

下奈良城 (2023/07/22 訪問)

【下奈良城】
<駐車場他>一宮文化広場C駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾7城目。下奈良城は小牧・長久手の戦いで秀吉側の右翼側の陣城で合戦の為に秀吉によって築城されました。合戦後に破却されたようです。現地には碑と説明板、近くの民家に石垣が残っていますが見落としてしまいました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

めがね橋  群馬県安中市松井田町 (2023/05/02 訪問)

松井田城に行くついでに、めがね橋に行ってきました。
碓氷第三橋梁というらしいですが、めがねでいいです。
城意外はそんなに頓着ないんですよ。積まれた煉瓦の数は
200万個以上で、高さ31m、長さ91mあるらしいです。
レンガ作りの橋では日本一らしいですよ。
橋の上を歩くことが出来るのもポイント高いです。
橋の先にはトンネルもありますよ。

群馬県安中市松井田町坂本
36°21'28.6"N 138°41'53.9"E
36.357944, 138.698306

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しんちゃん

あしかがフラワーパーク。 見頃過ぎてるじゃん。 (2023/05/02 訪問)

GWに関東遠征をするついでに、あしかがフラワーパークに行ってきました。
四国にしようか関東にしようか迷ったのですが、ちょうどフラワーパークが
見頃だというので、こちらにしたのですね。で‥行ってみたら
見頃すぎてるじゃん‥。肝心の大藤はだいぶくたびれています。
なんとか花がぶらさがってはいますが、生気がありません。見頃だったのでは‥。
あとで良く調べると、見頃は白ふじの方らしいです。たしかに白藤のトンネルはきれいでした。
とはいえライトアップの時間になれば、ライトの効力で、くたびれ気味の大藤も
なんとなくきれいに見えてきます。大藤が盛りの時に来たいのですが、4月くらいになるので
時期的に厳しいです。散らずに残っていてくれただけでも良かったとします。

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駿府城

第一回 作って食べよう!?「駿府城跡天守台」発掘の金箔瓦チョコレートづくりを開催しました!

8月19日(土)に葵生涯学習センターにて、作って食べよう!?「駿府城跡天守台」発掘の金箔瓦チョコレートづくりを開催しました。

発掘された本物の瓦の3Dデータをもとに作成した型を使って金箔瓦のチョコレート瓦を作りながら、駿府城に関する知識や駿府城跡天守台発掘調査現場で行われた発掘調査について学びました。
  
第2回目は、11月18日(土)に開催予定です。※詳細は画像をご覧ください。
全4回開催予定ですので、ぜひご参加ください♪

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大山の裾野 (2023/08/28 訪問)

城びと先人(国重さん、カズサンさん)が、深い竹藪であることをレポートされています。周囲を一周し、敷地南側の説明板を撮影して撤収しました。
大山から伸びる畝状の緩やかな起伏の高みにあり、少し向こうに日本海が望めました。水の便が悪いせいか、周りは牧草地で、今の季節は刈り込まれてました。東側に、海から山手に続く、風力発電の風車が並びます。風の通り道なのですね。よい景色です。
八橋城から槻下豪族館の間に、白バラ牛乳の工場があり、場内に直売所がありました。

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カズサン

【掛川埋蔵文化財センター】静岡県掛川市 ミニ企画展見学 (2023/08/28 訪問)

 「発掘された掛川の城郭」と題して掛川埋蔵文化財センター展示室でミニ企画展が、NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送に合わせて開催されています。
 住所:静岡県掛川市千羽986 駐車場:埋蔵文化財センター横に完備、トイレはセンター内部利用
 車では国道1号線バイパス千羽ICを出て北に県道270号線を約1.3km程の右手を入る。

 発掘された掛川の城郭の紹介は、掛川城、掛川古城、高天神城、横須賀城と徳川家康の掛川城攻城戦の付城砦群の中で杉谷城、殿谷(高藤)城、家康の高天神城攻城戦の付城砦群から中村砦が展示パネル、発掘遺物と共に展示されています。
 1時間滞在しましたが狭い室内ですがパネルの内容を読んだり、遺物を見たり観察したり大変有意義でした、ただし杉谷城は東名掛川ICの建設工事、同地区の住宅、商業施設開発で小山が削平され消滅していますので、発掘調査報告書が唯一杉谷城の在った証拠資料です。
 
 展示室の残り半分は掛川市の縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良平安鎌倉時代の発掘遺物復元と解説パネルで展示されています、6000年前の縄文時代遺物、遺跡に思いを馳せるのも良いものです。
 掛川中心街から北東の山中ですが森林に囲まれて里山の雰囲気満々です。

 また、掛川市では今回のNHK大河ドラマ「どうする家康」に合わせて、徳川家康の掛川城攻城戦のシンポジウムが開催されて、講師の日本城郭協会理事加藤理文さん、静大の小和田哲男さん、大石泰史さんの講演内容資料PDFが掛川市HPで公開されています、興味の有る方はご覧ください。
 また、徳川家康の高天神城攻防戦のシンポジウムも開催されて講演内容PDFで公開されています、講師は加藤理文さん小和田哲男さん平山優さんです。
 
 

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todo94

ゴールデンカムイ最終決戦の地 (2023/08/09 訪問)

松前から函館に戻って、まずは五稜郭前のあじさいにて遅めの昼食をとりました。中国人がたくさんいましたが、さほど待たずに塩ラーメンにありつくことができました。20タワーズスタンプラリーからは足を洗ってしまっていますが、五稜郭タワーからの俯瞰は外せません。大学4年の夏休みに初めて訪れた時の古いタワー、2006年には新旧2つのタワーが並び立つ写真をとってありましたので投稿しておきます。今のタワーの半分くらいの高さしかないので眺望は今一つでした。函館奉行所も一通り見学してその前の売店では月寒アンパンも購入してしまいました。6個入りの袋のキャラは、杉元、アシリパ、白石、尾形、月島、鯉登で、エスコンフィールドのスタンプラリーと全く同じでした。五稜郭近くの丸井今井で開催されていたゴールデンカムイ展も見てきてしまいました。入場料1,800円。Tシャツも買ってしまったので五稜郭タワー、函館奉行所とあわせると出費は総額で10000円を軽く超えてしまいました。

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あみりん

見晴らし良好河後森城跡! (2023/08/28 訪問)

夏満喫のこの季節の登城は汗だくでした。
第十曲輪跡、続100名城スタンプをいただく為小高い山登りでした。古井戸の跡を見ながら更に上へ〜。
夏草とアブや、蜂がいて虫避けスプレーは必須です。
景色は最高。

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にのまる

③蛇尾の石垣 (2023/06/24 訪問)

太鼓櫓の後背に、東に向かって細く長く延びる林が見えます。
この林の反対側(外側)が、杉の木の伐採によって全容を現した蛇尾堀の石垣です。
今回いちばん楽しみにしていたところなので、バイパス方面に向かって歩きながらもドキドキしてきます。

角を曲がると少し崩れた積み石が目に飛び込んできました。石の抜け落ちているところからは裏込石が覗いています。
逸る気持ちを抑えられずに正面にまわってみるとがっちりと組まれた算木積み。伐採された木の切株が食い込み気味に接しているようにも見えますが、少しも揺らいでおらず今でも現役そのものといった風格を備えています。

その先に続く長大な石垣の見事さよ!
北を流れる阿武隈川と同じ流れを為すかのようなしなやかさとしたたかさ。
以前の姿を知らないながらも、驚天動地とはまさにこのような光景を指すのだろうと心の底から納得。もう目が釘付けです。
全貌を視界に捉えようとギリギリまで後退してみました。目の揃った布積みの美しさはまさしく小峰城の石垣です。
近くまで寄ってじっくり観察し、すりすりしたい衝動に駆られますが、蛇尾堀跡にはフェンスが張られており近づくことはできません。しかし離れたところから見てこその石垣という気もしますし、近づけない故に感じるオーラもあります。通り過ぎてしまうのがとても惜しかったです。
(耳より情報!石垣ビューのベストポイントに売地が出ていました☺)

ふと右手を見ると三重櫓が聳え立っているのが見え、我に返りました。
<つづく>

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しんちゃん

手に入らなかった天下の代わりに築いた小さなユートピア。‥だったのか? (2023/05/02 訪問)

大阪の陣終結後、織田信雄は大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡2万石を領し、
甘楽の地に陣屋を築きました。雄側の東岸の御殿跡と庭園が楽山園として整備され
現在も公開されています。陣屋はこの楽山園の周辺に築かれていたようです。
表御門(大手門)を境に南へ約760m、東西は雄川と雄川堰に囲まれた約600m
面積は約34ヘクタール(34万平方m 東京ドーム約7個ぶん)に及び
藩邸、64の藩役所、武家屋敷と二つの神社を備えた広大なもので、各所に小堰が
分配されていたそうです。陣屋というよりは、小さなユートピアのようですね。
平和が一番ってことで。
補足‥ちょっと平和ボケが入ってました。周囲を川に囲まれ各所に水を引いていたということは
それなりの防御力を備えていたということです。北東の小幡八幡宮を詰めの城と考えれば
いざという時の備えは怠っていなかった様子。案外趣味と実益を兼ね備えた城塞だったのかも
しれません。この広さは城ですよね。牧歌的なビジュアルに騙されましたかね?

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