城址である茶臼山公園へは車で上がることができますが、自分は西片上駅から徒歩にて登城しました。約15分です。遺構はないと思われますが、曲輪を思わせるような削平地があります。片上湾が見えるのですが夏は木が茂っていて眺望は今一つです。
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2023/07/27 22:21
2023/07/27 22:14
垂水半左衛門 (2023/07/27 訪問)
城巡りをしているときに水の手は気にしています。海岸に近く堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかったため、千種川(旧能見川)の上流に井関と水路を建設して上水道が敷設されました。城内のみならず城下各戸にも給水したと伝えられています。設置したのは浅野家より前に治めていた池田家のとき(1616年完成)、当時は掻上城と呼ばれていたときです。戦国時代であれば簡単に水の手を絶たれそうですが、戦乱が収束した時代ならではということでしょうね。ちなみにこの旧赤穂上水道は江戸神田上水、広島福山上水とならび日本三大上水道のひとつとされています。
市内にある花岳寺の山門は赤穂城の西惣門を移築したものとのことです。
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2023/07/27 21:56
2023/07/27 21:52
浅野長直 (2023/07/27 訪問)
久しぶりに赤穂城へ行って来ました。以前登城したときは天守台を整備中のときでしたので、かなり整備が進んでいる印象です。石垣や堀に癒されながら散策してきました。
浅野長直が正保2年(1645)に赤穂に入り、慶安元年(1648)には赤穂城築城願を幕府に提出しています。無事完成したのは寛文元年(1661)となっています。江戸時代の平和になってから築かれた城です。そのためか水の手は上水を使用しています。
この日は暑い日で歩いているだけでバテてしまいそうでした。ただ海風が吹いていたので何とか散策することができました。城内に自販機がなく手持ちの水がなくなると水分補給に難渋します。
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2023/07/27 21:37
楠木正儀の城。古墳のすぐそばから入れる。 (2023/07/17 訪問)
宇利和利城は楠木正成の3男である楠木正儀の居城とされています。
大阪市営瓜破東住宅から瓜破霊園内の北東部にある
花塚山古墳までが城域に含まれているようです。
霊園内は車で移動できるようですが、古墳の近くに
フェンスがあいている箇所があり、そこからも入れるようです。
真田幸村が戦勝祈願した神社はいずれ訪ねてみたいと思います。
なんだかんだ言っても一番好きな武将ですからね。
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2023/07/27 21:20
楠木正成の八臣の一人、八尾別当顕幸の城 (2023/07/17 訪問)
八尾城は楠木正成の八臣の一人、八尾別当顕幸によって築かれたとされています。
八尾神社に城址碑があり、西側の常光寺も城域にふくまれていたようで
八尾別当顕幸の墓があります。
大阪夏の陣ではこの寺の縁側で藤堂高虎が首実検をしたという、物騒な石碑があり
今でも血天井として残されているそうです。
血天井といえば京都のお寺で見たことがあったような(たしか岐阜でも)
お寺の住職とか夜、怖くないんでしょうかね?
特に遺構が無くても、楠木正成の八臣の城って書くと
なんか恰好が良くないですか?
実は楠木正成公も結構好きなんです。ただ戦いかたが、かなりエゲつないんで‥
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2023/07/27 20:45
楠木家家臣、恩智左近の城 (2023/07/17 訪問)
恩智城は現在、恩智城址公園になっていて東側に春日大社神苑萬葉植物園が隣接しています。
築城は楠木正成の家臣・恩智左近と伝わります。
西側の郭は恩智小学校跡地に隣接し門と石段が残ります。
西側の郭は城郭放浪記の情報によると二の郭とされ、
模擬石垣の上に築かれ、他の郭より高所にあります。
城郭放浪記の管理人様、いつも貴重な情報、ありがとうございます。
東側の萬葉植物園も少し高所に配されていて、城址の雰囲気を感じます。
さっくりと回れるので、猛暑の最中には正直ありがたいです。
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2023/07/27 20:22
島氏の城。現状、城址公園 (2023/07/17 訪問)
下垣内城は南に隣接する西宮城とともに島氏(嶋氏)の城とされています。
島左近の時には平群を中心に一万石の領地があったとされています。
駐車場は平群中央公園の南西の駐車場を利用させていただいて、
グラウンドの南側の西宮古墳を経由するルートで東に移動すると
すぐに西宮城跡の冒険広場に到着します。
特に見るべき遺構も無いので、修景池を経由しながら北へ移動し
歴史の広場に到着。ここが下垣内城になります。
やはり遺構は無いのですが小高い公園広場になって、地元の人の
良い散歩コースになっているようです。
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2023/07/27 19:21
紀氏が拠っていた木浦は「紀の浦」なのか (2023/01/17 訪問)
木浦(きのうら)は「紀の浦」の意だろうか。鎌倉時代に河野氏傘下の紀氏が拠ったと伝わるこのお城には天守風建物、望楼、城門が設けられていたがいつの間にやら望楼と城門は失われていた。建物の維持管理の難しさも痛感する。
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2023/07/27 19:19
台風被害の影響も見られるが (2023/01/18 訪問)
今年の初めに訪れた限りでは近年の台風等による被害の影響を払拭しきれないように見受けられたが通常の散策には支障はなさそう。いつか山中に潜む未踏の曲輪群にも足を踏み入れてみたいと密かに思っている。
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2023/07/27 14:19
現代に甦る藩札 (2023/07/27 訪問)
鰻食べる目的で柳川を訪問。
水郷の城下町として整備されてますが、城趾は中学校、高校の敷地に挟まれるように残っているだけで寂しい限り。入る道を間違えると校内に侵入しそうになります。
水路が張り巡らされた城下町の造りを楽しむのが主体ですかね。
あと街のプレミアム商品券が「藩札」の名称で発行されているのに地元愛を感じますね。
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2023/07/27 08:21
やはり標柱のみ (2023/06/09 訪問)
室町中期に太田道灌が築いた館城で、同じ高台上の築土城と一つの城だったとも云われます。江戸前期には徳川家光が鷹狩の際に仮御殿を設けた地でもありますが、現在は住宅地になっていて遺構は消滅しています。
筑土八幡神社から御殿坂をはさんで西側が城跡とのことで、周辺を散策していると城びとの位置情報付近の壁面に何やら説明板らしきものが…。城びと先達の投稿では、石碑も説明板もないため、みなさん御殿坂の標柱の写真を投稿しておられますが、ついに説明板が新設されたのでは!? と勇んで近付いてみると「東京府仮小学 第三校跡」とあり、城とは何の関係もない説明板でした。やはり此処には標柱しか投稿できるネタはなさそうです…。
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2023/07/27 06:41
献血前の攻城 (2023/06/24 訪問)
もりおか献血ルームメルシーの予約は15:00からなので電車で行けるスポットとして赴きました。「北東北の名城を歩く」や先達のお二人の投稿を拝見しておらず、五郎沼も説明板もスルーしてしまいましたので、いつか再訪せねばなりません。とりあえず、薬師神社と箱清水石卒都婆群には脚を伸ばせたので攻城カウントさせていただきます。
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2023/07/27 00:21
現在残るは東西二郭。東郭の土塁は圧巻。 (2023/07/16 訪問)
窪之庄城はの東大寺の荘官だった興福寺衆徒・窪城氏が居城とした‥とあります。
東西の方形の郭が存在し環濠集落を外郭とする‥とあります。
まあwikiからの受け売りなんですけど
実際、東郭が主郭とみられ背後の土塁が非常に高く、その北側にも堀切があって
北側からの攻撃を遮断しています。
西郭と東郭の間にも堀切があり、西郭には土塁はそれほど残っていないようです。
東郭は南を除く三方を土塁で囲まれ、特に背後の高土塁は圧巻です。
高土塁の上は帯郭の役割も果たしていたのではないでしょうか。
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2023/07/26 23:05
倒木だらけ。入口はヤブ。気候が良いときに登りたい。 (2023/07/16 訪問)
豊田城は豊田氏による築城と伝わります。
堀切や土塁など遺構が残り、なかなか見ごたえがある城なのでしたが
状態はかなり悪いです。
農道から入ってしばらくすると案内板があるのですが、入り口は藪で完全に
ふさがっていますので、恐れず中に突入していきます。
長大な竪堀(?)が登城道の役割をしているので、そのまま登っていくと
南郭に到着しますが現状は藪です。
左手から上に登る道が続いているので登っていくと主郭周辺の堀切にたどり着きます。
現状、荒れ放題で倒木も多く、主郭は草木に覆われていますが、何とか周辺を散策していくと
主郭南東部の副郭の南側にコの字の形状の不思議な土盛が残っています。
基部は石で土塁を強化しているようなので、弾薬か食料か、大事なものを貯蔵して
いたのではないかと推測します。
国土地理院の地図のアプリがうまく機能していないので位置の把握に苦労しましたが
土塁上を移動し、なんとか主郭の背後まで回り込みました、
そのまま主郭を散策し豊田城の散策はこれで終了します。
正直、この数日は記録的な猛暑で、遺構は荒れ放題と、なかなかきっつい訪城でした。
こんな気候で山城に挑むこと自体どうかしているのですが、このあと椿尾下城と上城を
訪問しました。
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2023/07/26 22:20
黒塚古墳を浮島として眺めていたのかも。それも優雅な話だな。 (2023/07/15 訪問)
柳本陣屋は織田有楽斎の五男尚長が一万石を分知され寛永年間に柳本城跡に
陣屋を築いたのが始まりとされています。
黒塚古墳の周囲の池も天然の堀として流用していたようで公民館あたりの
張り出しに石垣らしきものが残っています。
陣屋跡は現在小学校となっていますが、近くの専行寺に織田有楽斎の供養塔が
残っているようです。供養塔の情報は城郭放浪記から頂きました。感謝です。
西門も移築されていたので訪問してみましたが、すでに民家ごと取り壊されて
しまっていました。2015年10月に訪れた時は、まだ現存していたと思いますが
これも時代の流れというやつですね。
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2023/07/26 21:23
2023/07/26 21:06
コンパクトだけど土塁と堀切がしっかり残る。 (2023/07/15 訪問)
桜町中将城は織田信長次男、織田信雄によって築かれたと伝わります。
信雄の官位のひとつに左近衛権中将というものがあるので
これが城名の由来でしょうか。
城としてはコンパクトで陣城のような感じですね。
主郭を土塁で囲み南側に虎口を設け
北東西を深い堀切で囲ってあります。
南側にも郭が設けてあるようですが、多数の兵員は
北西の滝川雄利が守る滝川氏城に駐屯させていたのではないでしょうか。
民家のわき道を登って行った先にこの城があるのですが
はたから見ているとこんな城が雑木林の中にあるなんて
ちょっと思いつかないでしょう。
そういえば北側にあった標識に桜町中将城(雑木林)と書いてあったような
気がしますが、この城の登城方法としては南側から
民家のわき道を抜けてはいっていっくのが正解な気がします。
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2023/07/26 20:35
伊賀最大の単郭城郭はまさにグラウンド。 (2023/07/15 訪問)
滝川氏城は滝川三郎兵衛(雄利)によって築かれたと伝わります。
縄張りは余湖くんのお城のページから参考にさせていただきました。
縄張り通り周囲を高い土塁で囲まれていて
南側と西側には堀切があります。
馬出しは果樹園になっているようなので、誤解をさけるため
土塁は確認していません。
主郭はとにかく広く、平方形をしていて、まるでグラウンドのようです。
北東にネットがあるので球場としても使われているようですね。
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2023/07/26 20:13
小ぶりだが造りはしっかりしている服部半蔵のオヤジの城。 (2023/07/15 訪問)
千賀地氏城は服部氏族の一つ千賀地氏の城と伝わります。
石碑を見ると、あの服部半蔵ともかかわりがあるようですね。
基本的に主郭しかありませんが、小規模な割には造りがしっかりしています。
主郭の周囲を土塁で囲み北側の土塁は厚く物見も兼ていたものと思われます。
その北側は堀切で遮断、西の尾根上にも堀切が続いて西側から
攻めてくる敵を遮断しています。
服部半蔵正成の父、服部保長は当地に移り住んだ際に千賀地氏を名乗ったと
wikiには出ています。
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