東京都墨田区両国には赤穂浪士が討ち入りしたことで有名な吉良邸の跡があり本所松坂町公園として整備されています。地元の方の厚意により周辺の区画が購入された後、史跡公園として市に寄贈され昭和25年に墨田区に移管されました。周囲を囲む壁は海鼠壁長屋門を模していて元高家肝煎にふさわしい造りをイメージしています。
自分は三河在住であるので忠臣蔵に対する見方は他の地域とは異なります。
そもそも出来の悪い主君は殺害するか自害に追い込むか見放すかといった荒々しい戦国武士が大好きなので、忠犬のように駄目君主に付き従う江戸時代の武士はあまり好きではないのです。
吉良義央公にしろ浅野長矩公にしろ世間ではさんざん悪評がたっていますが、いずれも後世の話で確証は有りません。赤穂浅野家はあくまで広島浅野家の分家で石高は高くの無いのですが巨城を構え大家臣団を雇い、いささか時代錯誤ではなかったかと思います。出費も当然多く吉良の求める饗応への出費を捻出出来なかったのかもしれません。実際に二人の関係がこじれた原因は不明ですが浅野氏には饗応役よりも江戸火消役など体力仕事が向いていたのではないかと思います。浅野氏の家系は以前にも二回刀傷沙汰を起こしていて、そのたび長矩も江戸城内で気まずい思いをしていたのだから自らの短絡的な行為で藩や家臣がどうなるかは推察してしかるべきです。
幕府の効く耳持たずの対応もそのためと思われ、浅野家家臣の吉良家討入りは完全な逆恨みだと思います。
本来賞賛されるべきは主君の仇討を果たした旧浅野家家臣ではなく、復讐を思いとどまった吉良家と上杉家ではないでしょうか。浅野家の理論が正当化されるのであれば両家の子孫が生きている限り復讐は永遠に続くでしょう。当事者が腹を切ったから解決などというのは当事者側の虫のよすぎる言い訳にしかすぎず残された吉良側の関係者の苦しみはどうなるのでしょうか。負の連鎖を断つためにはいずれかがが復讐心を押え忍耐を続けるしかないのだと思います。江戸の民も太平の長閑で赤穂浪士の復讐劇を楽しんでいただけのように見えます。赤穂浪士の仇討に満足したので、次は上杉側の仇討に期待する‥この程度の認識だったようです。
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