御幸塚城は今江小学校の南の丘陵に築かれていて、公園として整備されています。
周辺の道路や公園内の構造から高低差を感じる構造になっていて、城址の雰囲気を
感じ取ることができます。最高所のこんもりとした部分が古墳のようで城址碑が立っています。
城郭体系に記載されている古図を見ると本丸の周辺から東側にかけて城域が広がっており
小学校の周辺や、東側の工場一帯まで城域に含まれていたものと思われます。
天正4年(1576)一揆方の内田四郎左衛門や林七介らが、この城から出撃し、大聖寺城の
織田信長配下、戸次広正を攻撃したと有ります。信長は守将を佐久間盛政に替え、
佐久間は徳山則秀と共に敷地天神城を落とし、徳山の策で内田と林の両氏を寝返らせ
落城させたと伝わります。慶長5年の関ヶ原の合戦の際には前田利長が山崎長徳、奥村栄明、
太田長知らを布陣させたとあります。
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