静かな城跡です
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2023/09/01 14:22
寄ってみました (2020/04/19 訪問)
静かな城跡です
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2023/09/01 14:20
子供の頃から訪れてます (2019/03/26 訪問)
石垣がけた違い
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2023/09/01 13:02
2023/09/01 12:53
山焼きしてるのかあ。当時は? (2023/08/28 訪問)
何かの本で船上山城のそそりたつ崖の写真を見て以来、行きたかったところです。草原の斜面の上に柱状節理の崖がそそりたってる写真です。
実際に来てみると、想像以上の規模でした。玄武洞や東尋坊の柱状節理よりもとても太い柱です。
駐車スペースに車を置いて、東坂を登っていくと、探勝道(横手道)の標識があり、「途中山頂に通じる道がありますが、急峻なため健脚向けです」と書いてありました。恐いもの見たさに、こちらに行ってみます。幅30〜40cmの踏み痕みたいな道が続きます。崖の下近くを通り、迫力があります。急斜面を横移動する細い道であり、笹をかき分け、足元を確認しないと進めないところも。標識の「途中山頂に通じる道」がなかなか現れません。だいぶん来てしまった、獣道みたいな道を戻りたくないし、一方、この先は、ずいぶん先の雄滝、雌滝まで行ってしまうのではないかと不安に。ままよと、進むと、正面登山口の標識が現れました。二つ並んだ崖(屏風岩)の間の崖が崩れたところを登って行くのですなあ。大石ゴロゴロの上をほぼ直登します。行宮碑の広場に出ました。
広場に休憩所・トイレがあり、パンフも置いてあります。パンフに、船上山斜面は、3年毎に、山焼きしているとありました。それで、この景観なんですね!後醍醐天皇が来られたときはどんなだったのでしょう。崖の上から崖下の幕府軍に矢をいかけるのでしょうから、当時も草原だったのでしょうか。(続く)
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2023/09/01 07:21
宇喜多直家国取りはじまりの城 (2023/08/13 訪問)
石碑から道路を挟んだところに駐車スペースがあります。
そこから少し進んだところに登城口があり、案内板も着いていました。
少し登ると神社があり、さらに登っていくと本丸に着きます。
そんなに大変ではありません。
本丸には説明板もあります。
見晴らしもよかったですよ。
本丸の下には段になった曲輪が着いています。
折角なのでみたい、と藪に突入、したのが失敗でした。
少し前から不穏な羽音に気づき、撤退しようとしたところお尻に激痛が!
やられました、スズメバチです。
近くに巣はなさそうで幸い1匹のみで助かりました!
乙字神社が建つ二の丸は諦めました。
毒を絞り出し、ドラッグストアで高級虫刺されを購入、何とか事なきを得ました。
夏の山城、やっぱり気をつけないと。
軽率な行動、反省しました。
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2023/09/01 07:14
小江戸甲府夏祭り (2023/08/11 訪問)
北海道から帰ってきた翌8月10日は1日研修。すぐに帰路につかずに11日に青春18きっぷでゆるゆると帰路につきました。甲府で途中下車して798回目の献血を無事に済ませ、甲府城経由で駅に向かったのですが、何と、小江戸甲府夏祭りが開催されていました。15時から花火打ち上げの準備に入るため立入禁止となる二の丸、本丸はさほどの人はいませんでした。それにしても甲府が小江戸をなのっているとは知りませんでした。
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2023/09/01 04:28
66【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と佐和山城) (2023/07/02 訪問)
(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原当時の居城、「佐和山城」を訪れてきました。
龍潭寺の入口(写真③④)にチャリを止めここから登城します。入口には三成の銅像がありましました(写真①②)。
この三成はとても知的な顔ですね~! しかもかなりリアルです。今にも動き出し、私に何かを語りかけてきそうな・・・ 墓から発掘された三成の頭蓋骨から再現し作ったそうです(なるほど🤔どうりで)。登る前から何やら緊張してしまいました。さあここから20分程の登山です。(写真⑤:猿に注意?)
1591年31才の時に石田三成はこの佐和山城に城代として入ります(この頃、佐吉から三成と改名)。そして1595年、秀吉から近江19万石を与えられ、正式に城主となった三成は、本格的に佐和山城の築城を開始しました。山頂にはかつて三成の築いた五層の天守がありました。しかし、関ケ原の翌日に小早川秀秋軍などに攻められて焼き払われたようで、そのためかあまり記録が残ってないようです。いったいどんな天守だったのでしょうか?
わずかな資料を元に地元の方々が再現した、こんな天守だったという模型が登山口近くにありました。でもこれ何か変では? なぜか豊臣系でない層塔型のような? 彦根城にちょっと似ているような?・・・私はこの城を背景に佐和山を眺めてみました(写真⑧)。やっぱり何か違和感があるような・・・ 本当はどんな天守があの山の頂上に建っていたのでしょうか? ならばこの写真⑧をもとに、こんな城だったのではないかというイラストを自分で作ってみました(写真⑨)。こんな感じの方が近いのではないでしょうか?
1600年3月、伏見での福島ら武断派による三成襲撃事件の後、家康の仲介で奉行職を辞し、三成は佐和山城へ蟄居します。すると家康は三成と対立する武断派の諸将をうまく取り込み、豊臣体制を崩していく事に成功しました。
蟄居した三成は、ここで大谷吉継らが止めるも聞かず、家康が太閤と約束した事を守っていないといった内容「内府ちがひの条々」をせっせと書き、三奉行を通じて全国の諸大名に送り味方を募ります。そして打倒家康の戦術を着々とここで練っていきました。
そして時を同じくして、直江兼続が「直江状」を家康に突きつけると、怒った家康は会津の上杉討伐へ出陣していきます。この隙に、ついに三成も兵を上げ、伏見城を守るの鳥居元忠を攻めた後、大垣城に向かい家康を迎え撃つ事にします(伏見城の詳細は私の(11人目)鳥居元忠を参照下さい)。
次は、関ケ原の前哨戦となった(大垣城)を訪れます。
【余談】彦根レンタサイクル
彦根駅前の井伊直政の銅像から50mくらい彦根城方向に行ったすぐの交差点に、貸自転車屋がありました(写真⑩)。彦根城や佐和山城への移動にオススメです。予約不要で安く借りる事できました(確か3時間500円くらい)。1日で両方回るならチャリが断然便利です(身分証要)。
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2023/08/31 23:00
ひたちなか海浜公園 ネモフィラが見頃とのことで‥ (2023/05/05 訪問)
ひたちなか海浜公園に行ってきました。花の名所で5月はネモフィラとwikiにも
出ているので、行ってみたのですが‥見頃過ぎてるじゃん。またか‥。
よくネットやTVで見る、一面の青い世界を期待していたのですが、緑が多い。
きれいと言えばきれいですが、違う。なんか違う。それになんか白くない?
警備員の人によると今年は特に見頃が早くて4月には過ぎてしまっているとのこと。
温暖化と異常気象で日本が熱帯雨林化しているのは常日頃から感じてはいるが
ここ6~7年ぐらいでだいぶ進んでいるような気がする。
2017のGWにに五稜郭を訪れた時は、桜が満開ですごいキレイだったが、今だと
若葉になっているんだろうな。情緒もへったくりも無い。
朝方は色が白くて、昼ごろになると元気になって青くなってくるそうだが、昼は
城めぐりで忙しいんだな。‥で、夕方また来てみたのだけど、あまり変わってない。
フラワーパークはライトアップでごまかせるけど、これはどうしようもないな‥。
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2023/08/31 22:40
野府城 (2023/07/22 訪問)
【野府城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>名鉄開明駅から徒歩
<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾9城目。現地説明板によると野府城の築城時期は不明であるが戦国時代には織田信長の弟織田信治の居城でありました。織田信治は宇佐山城の戦いで討死します。「尾張志」に武藤雄政が江戸時代初期に野府城跡に住み徳川義直に仕えたとあります。武藤家はその後断絶したそうです。
一宮駅近辺のコインPに駐車し名鉄に乗って来ました。遺構は残っておらず現在は開明小学校の校門入ってすぐ左手に城跡碑と説明板があります。土曜日でしたが運動場で少年野球をやっていたので校門が開いていたので少し入って撮影しました。
<満足度>◆◇◇
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2023/08/31 22:28
公園と本格遺構がくっついた。 (2023/05/01 訪問)
山上城は南北650m、東西220mの城域を持つ、緩やかな丘陵上に築かれた平山城です。
北から笹郭、北廓、本丸、二の丸、三の丸と続き、三の丸は公園化していますが、それ以外は
遺構が良く残っています。山上城由来碑によると物見台を持つ南郭も残っているようですが、訪れていません。
東の蕨沢川、西の山田川浸食による谷地が堀の役目を果たしていると有ります。
藤原秀郷の子孫である五郎高綱が山上氏を名乗り居城としたとされ、高綱の子、太郎高光は源頼朝に仕え、
関東管領上杉氏の時代に、由良氏、薗田氏、桐生氏と共に東上州四家として重要な役割を果たしていたと有ります。
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2023/08/31 21:56
本丸・二の丸周辺と大胡神社北側に遺構が残る。 (2023/05/01 訪問)
大胡城は南北にある丘陵上に築かれた平山城で、本丸周辺に遺構が良く残っています。
本丸を中心に、二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、
近戸曲輪、南に三、四の曲輪があるようです。
東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、
南北670m、東西310mの規模を持つと有ります。
周辺は市街地化も進んでいますが、本丸周辺以外にも北側の大胡神社周辺、
特に北側に大きな空堀が残っていました。
神社自体周囲より高地にあり、かつての曲輪であることを感じさせます。
上野の豪族、大胡氏が城主であったとされますが、戦国期の混乱の中、上杉、
北条と城代が立て続けに変わりますが上杉方の北条高広が城代を務めていた時代があるようです。
謙信死後の御館の乱の際には入道芳林(高広)は子の景広と共に上杉景虎に味方しますが、
景広は討死し、景虎も自害、天正7年4月、厩橋に戻った芳林は武田勝頼に従います。
本能寺で信長が斃れた後、芳林は服属を迫る北条を退け、真田昌幸と結びます。
芳林は上杉景勝に関東出馬を勧め、大胡常陸介高繁に大胡城を固めさせて、太田三楽斎の援助を得て、
佐竹・宇都宮・結城氏の援軍を動かし小田原勢を撃退します。
真田昌幸も何でもありの人でしたが、北条高広(芳林)も辛酸を舐め尽くし、
できることは何でもやってやろうという強い気概を感じます。
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2023/08/31 21:27
三好義継 (2023/08/31 訪問)
三好義継と彼を裏切った若江三人衆(多羅尾綱知、野間康久、池田教正)に少し興味があり、見られる遺構はないとわかっていましたが、一度行ってみたかった城址です。若江公民分館を中心とする地域に築かれていたと伝わっています。説明板、石碑があります。
近鉄奈良線若江岩田駅より1Kmくらいなので徒歩でも行けると思いますが、この日は若江岩田バス停よりバスに乗り若江バス停で降り登城しました。若江バス停からは徒歩5分くらいで行くことができます。
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2023/08/31 21:20
江口の戦い (2023/08/31 訪問)
江口の戦いで有名な城です。正式な場所は特定されていないようですが、皆様と同じように大隅神社の狛犬を目指して行きました。
瑞光四丁目駅より徒歩約10分で行けると思いますが、また道を間違えて15分以上かかってしまいました。
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2023/08/31 21:14
郡兵太夫正信 (2023/08/31 訪問)
和田惟政の家臣、郡兵太夫正信の居城と伝わっています。浪速少年院付近が城址とのことで正門前に石碑と説明板、出土した石垣の石がありました。
阪急茨木市駅よりバスが出ていて郡バス停がもよりのバス停です。
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2023/08/31 21:14
今は田畑に石碑が残る。 (2023/05/01 訪問)
那波城は昌雲寺の北側、伊勢崎市立第二中学校の西側にあったとされ、石碑が田畑の中に残っています。
さらに西に行った先の名和小学校にも石碑と案内板がありますが、いずれも遺構は残っていません。
城主の那波氏は大江広元の子、政広を祖としています。この那波氏とは別に藤原秀郷系の那波氏が佐波郡玉村町に
いるようです。永禄3年(1560)上杉政虎が那波城を攻め降して、北条高広を置いたとされます。
那波宗元は嫡男次郎を人質として本領を安堵、まもなく亡くなり、次郎顕宗が継ぎ、高広の妹が室になったと言います。
天正6年(1578)顕宗は北条氏(小田原)に従い北条高広の攻撃をうけますが、これを撃退します。
天正15年安芸、原因は不明ですが那波城は小田原北条氏に占拠され、顕宗は上杉景勝を頼り、天正18年奥州九戸で討ち死にしたと
有ります。後に那波城城代、大和晴親は小田原攻めに際し、秀吉軍に降伏しています。後に関東に入封した徳川家康によって
松平家乗が一万石で入りますが、慶長6年(1601)廃城となりました。
※参考資料・日本城郭大系・第四巻
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2023/08/31 21:07
安威弥四郎 (2023/08/31 訪問)
天王文庫の前に石碑と説明板がありました。土塁や井戸が残っているとのことですが、確認していません。
阪急茨木駅よりバスがあり安威南バス停がもよりのバス停です。
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2023/08/31 20:57
国際文化公園都市 (2023/08/31 訪問)
歴史的には不明なことも多い城址ですが、発掘調査から16世紀半ばの山城と判明しているとのことです。ぴーかるさんの投稿を見て残念な状態になっていることは承知していましたが、石碑が残っているとの情報があり行って来ました。栗栖山砦と彫られた石碑を見つけましたが砦の文字は少し土に埋もれていました。昔は説明板もあったようですが、今はありませんね。
大阪モノレール彩都西駅からバスがあり馬場バス停がもよりのバス停です。阪急茨木駅かもバスがあるようです。
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2023/08/31 20:43
高さ4mの土塁は圧巻。 (2023/05/01 訪問)
赤堀城は西の粕川と東の鏑木川に囲まれた自然地形を利用し、東西約170m、南北約350mの
範囲に築かれた平城で、本丸の周囲を高さ4mの土塁で囲み、その周囲、北東南を二の丸が囲みますが
東側は鏑木川の氾濫で失われています。本丸は一辺80mの方形で北と南の虎口は食い違い虎口になっていて
二の丸は南と北に堀跡と土塁が残っているようです。
南北朝の時代、赤堀氏は足利尊氏のもとで功績をあげて旧領を回復し、戦国期の永禄・天正のころは上杉謙信に
従っていましたが、謙信の死後は北条氏に従っています。赤堀城には小田原から派遣された小菅摂津守が入っていましたが
天正18年に廃城となったようです。
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2023/08/31 15:26
姫路城2023夏の特別公開 (2023/08/21 訪問)
期間2023年8/11(金)〜9/24(日)
時間9時〜17時最終受付まで
入城料1,000円の他に別途特別公開観覧券500円が必要です。
兵庫デスティネーションキャンペーン(自治体と観光業者、JRグループが一体となって行なっている大型観光キャンペーン)の開催を記念した
非公開エリア
「東小天守」、
「イの渡櫓」、
「ロの渡櫓」、
「乾小天守」、
「ハの渡櫓」、
「折廻り櫓」の計6棟の公開です。
6棟のうち「折廻り櫓」以外は2022年の夏季特別公開時に見学済みですので「折廻り櫓」目当てで見学して来ました。
今回の観覧券は昭和9年頃に使用されていた復刻品となって記念になります。
折廻り櫓は、天守台東側の石垣に接した2階構造の櫓です。
1階は倉庫、2階西側には居室としての3室があり、東側は備前門に繋がる防衛拠点としての役割を担っていました。
令和4年度に改修工事を終えたばかりなので外観、内部共に綺麗でした。
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2023/08/31 12:30
カズサンさんからの宿題を果たしに (2023/08/28 訪問)
鳥取西部の城をものいろしていると、2020年12月のカズサンさん投稿「公園広場が有る、ここが城跡かと思い打ち切りましたが、案内板と今回ガイドの古城盛衰記さんをよく理解すると更に200m程下に城跡、石垣、曲輪、櫓台が有るそうです。雨の中注意散漫で重要遺跡を見落としました。次投稿の方に宜しくお願いいたします」を発見。二番槍をつけるべく、行って参りました。
進入経路はカズサンさんと同じく城域南の山の中腹を走る農免道路から。河口城の説明板脇から、散策道を下って行きます。散策道は、いのししが掘り返した痕がたくさん😥鬱蒼とした中を進むと、河口城の標柱がありました。階段を登ると、本丸に。南端に、整った石垣の櫓台がありました。本丸の周りを囲むように小さめの曲輪を配置し、その外側は、南以外は切り立っています。特に北側は断崖。南側は、背後の山に続いていくので、広い堀切で遮断しています。
上述の農免道路は、分かりにくいのと、あまり使われて無さそうで、木が道路に覆い被さってきてます。泊駅に駐車して、国道9号線から攻めるのが良いかも。
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