(9人目)「宇喜多秀家」の続きです。
関ケ原の「宇喜多秀家陣跡」を訪れてきました。
宇喜多秀家は、西軍副将を務め、西軍最大勢力17,000の軍勢を有していました。そして先鋒として、東軍の先鋒「福島正則」と対峙します。東軍には井伊直政・松平忠吉が加わり、西軍には小西行長が加わり、一進一退を繰り広げます。しかし、背後の大谷吉継が崩れると、宇喜多隊・小西隊も総崩れとなりました。
宇喜多秀家は、伊吹山中から京都に隠れたあと、島津氏を頼り薩摩まで逃げ延びます。そして3年後、秀家が生きている事を知った家康と秀忠は身柄を要求。当時の当主の島津忠恒(義久から家督を継いだ義弘の子)は助命を条件に引き渡します。そして八丈島へ流罪となりました。なぜ死罪にならなかったのか不思議でしたが、よく考えてみればもうその時は関ケ原から3年も経ち、徳川政権も安定してきた矢先なので、今さら死罪にするのは返って徳川の印象を悪くしかねないと思い、このような寛大な措置をとったのかもしれません(逆に言えば秀家は逃げ延びた甲斐があったという事でしょうか?🤔)。
宇喜多秀家の陣は、南天満山の麓の杉木立の奥にある天満神社の中のひっそりとした所にありました。秀家の忠義心は、この時の豊臣家臣の中では群を抜いていたようです。よって、三成のためや自分の損得と言うような私利私欲はなく、むしろ「家康の好きにさせるは豊臣の為にあらず」という五大老としてのプライドと、「純粋に豊臣を守りたい」という思いの方が強かったように思います。
そして結局、秀家は流罪先の八丈島で84才まで長生きし、関ケ原の大名の中では最も長生きした大名になりました(何か皮肉なものですね~🤔)。 時はすでに5代将軍徳川綱吉の時代、元禄文化が栄え庶民は娯楽を楽しみ、江戸は最も平和な時を迎えていました。
次は、(10人目)へ続きます。
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