南北朝時代に紀伊守護山名氏が築城したとされ、南北朝合一後は紀伊守護畠山氏の本拠になったとされます。
1460〜1466年頃に畠山政長が守護本拠を広城へ移したと伝えられますが、その後も畠山氏が1568年まで使用したともされます。
東ノ城と西ノ城から成る一城別郭の大規模な山城で、東西に長い尾根上に築かれています。
まずは東ノ城を投稿させて頂きます。
東側の本城は、3段の曲輪で整備されており、1番上の主郭に城址碑が建てられています。
ここは発掘調査がされており、礎石・石列等が検出され、出土遺物は土師器の皿等が出土したそうです。
北西下に堀切があります。
その西側下の曲輪群は、中ノ曲輪とも呼ばれ、東側と中央の二つの堀切で区切られています。
堀切の間の曲輪の北側には土塁があり、南下の厩の段では石積が見られました。
中ノ曲輪の中央の堀切は大野城の中で最も大きく、南下へ竪堀が長く続き圧巻です。
その竪堀から西へ向けた中ノ曲輪の南斜面で、大小8条程の竪堀が連続しています。
和歌山県北部では珍しい畝状竪堀群で1番の見所と思います。
この南斜面で石積を4箇所で見つけることができました。
中には自然や後世のように見える箇所もありますが、事前リサーチより多くの石積があり驚きました。
中ノ曲輪は、本城よりも堅固な造りで、思っていた以上に見応えありました。
最後に本城の東側下の曲輪に行き、竪堀が1条、尾根に長い土塁がありました。
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