(22人目)は「毛利輝元」です。
まずは関ケ原当時の居城「広島城」を訪れてきました。
広島城は、毛利輝元により1589年に築城開始し、関ケ原の前年1599年に完成した城です。1588年に秀吉に京に招かれ、その時に見た聚楽亭を参考にしたようです。
輝元は自ら戦の先頭に立つ意欲は無かったとよく言われていますが、実際はそうではなかったように私は思います。家康が関東の上杉征伐に出陣するやいなや、大坂から広島に戻り出陣の準備を始めています。そして石田三成が挙兵すると、何とわずか2日間で広島城から大坂城へ海路を使い移動しています。また吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊と養子の毛利秀元にも先行して出陣し大坂城と伏見城の占拠を命じています。またその間、伊予の東軍諸将(藤堂高虎や加藤嘉明)の諸城を落とし、九州では豊後の旧領復帰を願う大友義統(宗麟の子)を支援しています。本当はかなりやる気満々だったのではないでしょうか? そして秀頼を奉じて出陣する気もあったのかもしれません。
父の隆元が早くに死んだためわずか10才で家督を継いだ輝元、これまで戦のほとんどは叔父の吉川元春・小早川隆景が行っていました。その二人の叔父も関ケ原の前に亡くなります。家康は三成襲撃事件にに対し、三成をかばった輝元に、自分の弟分になるよう起請文を書かせ、秀元の領地問題にも口をはさむなど、輝元にとっては家康へのストレスがかなり溜っていったようです。その輝元も48才になり迎えた関ケ原!
広島城に戻ってからつかの間、石田三成と三奉行から家康が亡き秀吉との約束を反故(ほご)にしているという「内府ちがひの条々」、そしてさらに「西軍総大将」要請の書状が届きます。
私は広島城の天守に立ち考えてみました。これらの書状を読んだ輝元は、いったいどんな気持ちでこの天守から広島の町を眺め考えていたのでしょうか? そしてその後、三成挙兵の報を受けるやいなや、何故わずか2日間という超スピードでまた大坂城へ移動したのでしょうか?
輝元自身は、本当は家康と雌雄を決するというより、今までのくやしさからか、西は毛利・東は徳川と対等に物が言える立場になりたいと思っていたのかもしれません(家康250万石:輝元120万石この差を埋めて対等になりたい)。
しかしその反面、一度は西軍の先頭に立ち、自分がどれほどのの器(うつわ)なのか? 知ってみたいとも思ったのではないでしょうか・・・
次は(大坂城)に続きます。
【余談1】宿泊したホテル
広島城の向かいにある、バスセンターの上にあるホテルに宿泊しました。部屋に入りカーテンを開けると、何とビックリ!😲 広島城の全景が一望でき、とても感動しました(写真⑨)。
【余談2】広島市民球場とカープ
広島城の天守から眺めていると(写真⑩)、眼下にかつて広島市民球場があったのを思い出しました(現在は広島駅横のマツダスタジアムに移転)。その右側は乙斐(こい)という地名で、堀に鯉が泳いでいたせいか、乙斐城がだんだん鯉城と呼ばれるようになり、戦後その埋め立てられた堀に市民球場が建てられて球団ができたので、その球団名が広島カープ(Carp=鯉)になったのかな🤔?(勝手な推測です) 山本浩二とトランペット隊の応援が懐かしい・・・(そういえば街はマツダの車が多い・・・)。
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