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2021年7月4日の高松城攻城 (2021/07/04 訪問)

高松城は、かつて「城が見えます波の上」と謡われたように、瀬戸内海に面して築かれており、日本3大水城のひとつに数えられております。
高松城は、1587年に讃岐一国の領主になった生駒親正によって1588年に築城が開始された城郭で有ります。
かなり長期間をかけて城郭が整備されていったと考えられております。
北は瀬戸内海に面して、残りの三方を3重のお堀で囲まれたいわゆる海城で有ります。
生駒氏後に、1642年に徳川御三家の水戸藩主徳川頼房の息子の松平頼重が常陸下館5万石から12万石で領主となりました。
松平頼重は、1644年から城の改修に取り掛かっており、1670年にはそれまでの3重の天守を3重5階に改修しています。
1671年から北の丸、東の丸を新しく増設を開始し、それを引き継いだ松平頼常によって1976年に月見櫓(着見櫓)を上棟、1677年に艮櫓を完成させました。
これに伴って、桜の馬場南面にあった大手の木橋が撤去され、新たに桜の馬場東面に造られた門が大手門としての機能を担うようになり、1700年には三の丸に御殿を完成させました。
その後、大幅な縄張り改変はなく、松平氏が明治維新まで続くので有ります。
明治維新後は、1884年には天守も取り壊されました。
その天守の復元が高松市民の念願になっております。
高松城の城郭構成としては、天守台がある本丸、本丸の北側に位置し、鞘橋で本丸と連結する二の丸、披雲閣や披雲閣庭園がある三の丸、三の丸の南側に広がる桜の馬場、月見櫓(着見櫓]や渡櫓、水手御門が位置していました。
また、かつては瀬戸内海に面していた北の丸、その東側には石垣のみが史跡となっている東の丸、各曲輪を区画して海水をたたえるお堀などが挙げられますね。
水手御門は、瀬戸内海に直接面していて海城特有の門で、現存するのは高松城だけで有ります。
この水手御門がどのように使われていたか分かりますか?
この水手御門は、参勤交代の時にのみ使われておりました。
即ち、海の御門なんですね。
参勤交代の時に、藩主は水手御門で小舟に乗り、御座船に乗り換えて江戸に向かったのですね。
水手御門のそばに月見櫓がありますが、名前の由来は知っていますか?
月見櫓は着見櫓と書きます。
月見をする為の櫓ではありません。
高松城に近づいてくる船に見張る為の櫓だったのですよ。
着見櫓の内部に入ると分かるのですが、内部から瀬戸内海だけでなく遥か本州の岡山まで一望できるのです。
豊臣秀吉の配下の生駒親正は、毛利輝元や島津義久の動きを警戒する必要があったのですね。
海の交通の要衝だったのです。
当時は、高松もかなり井戸が多かったのです。
それに、海の近くにあるのに井戸には海水が含まれておらず真水なのです。
城下町から海に向かって緩やかな扇状地になっているのですね。
扇状地とは、川の流れで運ばれてきた石や砂が扇状に堆積した地形のことです。
しかし、高松は扇状の形にはならなくて舌状の形になっているのが特徴なのです。
どうしてなのかはよくわからないのですが、川が大きな洪水で埋められてこのような土地が出来てしまったと考えられております。
このような扇状地が出来たおかげで、真水が得られるようになったのです。
井戸が多いのは、かめ井戸から木樋を通して真水を城下町の井戸に送っていたのです。
高松では、上水道が玉川上水よりもかなり早くから整備されていたんですね。
かめ井戸は、東西18m、南北40mもあったのです。
歴代の高松城主が100年位をかけて完成させた栗林公園の大名庭園には、むかし香東川だったと云われている細長い池があります。
香東川を西側に一本化して洪水を防いだので、東側は川は無くなったのですが、栗林公園の付近には池となって治水の痕跡が残ったのです。
また、屋島には古代城郭の屋島城があり、今は復元された石垣が見事に残っておりますが、その屋島城も海城だったのです。
江戸時代までは屋島は島でした。
高松城は、軍事的な拠点や海の交通の要衝として、巨大な海城が築かれて城下町が発展していったと思います。


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ばばよ

城址公園外にも見どころあり (2022/02/23 訪問)

世田谷城址公園自体は広くありませんが、城そのものは豪徳寺含めた一帯だったようです。
豪徳寺は開発されて城跡の名残はありませんが、公園近くの住宅街の隙間に郭(D)、豪徳寺側から公園を眺めたところに郭(A)の土塁も確認できます。
豪徳寺自体も立派な建築物と井伊氏にまつわるエピソードの案内板など見どころあります。
公園だけで終わりにするともったいないので、周辺探索までしてみてはいかがでしょうか。

新型コロナまん延対策のために県境を越えず都内だけにしている昨今、特に23区内はせいぜい案内板だけで遺構がないところが非常に多いため、貴重な存在です。

●アクセス
東急世田谷線宮の坂駅 徒歩5分

駅に城址公園の方角を示す矢印が書かれ、駅前の城山通りをまっすぐ進むだけで着けます。

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小城小次郎

恐らく真剣そのものだったのだろう (2021/10/24 訪問)

「万一の折に天皇を護る」として幕末期に築城を許された経緯は一見荒唐無稽の感があるが、天皇への敬愛の念が人一倍強かったとされる丹波ならではの事情を考えると恐らく真剣そのものだったのだろうと思い至った。

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設楽氏が築城 (2022/02/26 訪問)

 鎌倉時代に設楽氏によって築かれたとされる城です。蛇行した大地瀬川を利用した地形で天然の堀となっています。堀切、竪堀、土塁等が残っています。竪堀の表示が各所にありますが、藪になっていたり浅くなっていたりして確認しにくいとところもあります。概ね整備されていて歩きやすい城址です。
山の中腹まで車で行くことができ駐車スペースがあります。

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徳川信康初陣の城 (2022/02/26 訪問)

徳川信康が初陣で攻め落としたと伝わる城です。現地の案内板には山岡荘八の小説「徳川家康」にそのときの様子が詳しく書かれているとありましたが、昔読んだのですが全く覚えていません。時間があれば読み直したいと思います。また武田勝頼が長篠の戦いで敗れ甲斐へ帰る途中に立ち寄った城としても伝わっています。
道の駅「どんぐりの里いなぶ」から武節城の看板が見えます。上の方まで車で行けますが、歩いても5分くらいで城域に入れます。本丸と外曲輪の間の堀切(空堀と表示されています)が見どころです。どこまで当時ののかわかりませんが曲輪と思える削平地があります。

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天下布武 (2022/02/25 訪問)

 山の上に見える模擬天守は岐阜城の象徴といっていい存在ですが、私は山頂周辺にある石垣が好きです。織田信長の時代か、それより前から山頂には石垣があったようで、実際にはどのような石垣で、そのような建築物があったのか興味のあるところです。
 昔は徒歩で登城したこともありますが、今では迷わずにロープウェイを利用しています。中学生のころ徒歩で裏から下山して、知らない民家の裏へ下りてしまったこともありました。

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堂洞合戦 (2022/02/24 訪問)

 織田信長が美濃を攻略した時の堂洞合戦の舞台となった城です。ゴルフ場のど真ん中にある城址ですが、ゴルフ場を経由しないで行くことができます。西側から行くと標識があり、細い道を登って行くと登城口である貯水タンク前まで行くことができました。主郭までは5分くらいで行くことができます。主郭には比較的新しい案内板があります。すぐ下にはゴルフ場が見えます。削平地が段々にあり曲輪と思われますが、正しいか否かはわかりません。そのまま下りて行くとゴルフコースに出てしまいそうでしたのでやめました。八畳岩近くには古い「堂洞城由来」と書かれた字が見にくくなっている案内板がありました。

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堂洞合戦 (2022/02/24 訪問)

 織田信長が美濃を攻略したときの堂洞合戦の舞台となった城です。城址は概ね整備されていて堀切や竪堀等を見ることができます。竪堀1~竪堀4まで表示がありますが、浅くなっていて確認しにくいものあります。竪堀1の場所がわからず、少しだけ苦労しました。古くから美濃と飛騨を結び交通の要衝として加治田の村は栄えていたようです。
中腹にある清水寺より舗装されていない林道を少し行くと狭いですが駐車スペースがあります。

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外堀 (2022/02/23 訪問)

 1976年(昭和51年)まで外堀の中を名鉄瀬戸線が走っていました。中学生のころ友人と乗った記憶があります。今でも外堀の中には瀬戸電のホームへ下りる階段などの遺構があります。それはともかく外堀を見るだけでも名古屋城は楽しめます。

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水堀 (2022/02/23 訪問)

 名城公園側から見る水堀越しの石垣と天守閣が好きです。最近では来ると、まず水堀越しに回ってから中に入ります。今、天守閣は耐震性に問題があり入場できませんが、石垣や復元された本丸御殿等を見て回るだけでも十分楽しめます。
小学校のときに親に連れられて来た初めての城で、その後何度も来ています。そのときは城というより堀の中の鹿を見てはしゃいでいたことを記憶しています。もっと昔は多くいたと思うのですが、今は2頭しかいませんね。昔は50頭以上いたらしいです。

 

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金城小学校 (2022/02/23 訪問)

 地下鉄黒川駅より徒歩にて登城しました。
金城小学校周辺が城址ですが、祭日で校門も閉まっていましたので校門と田幡公園の写真を撮って退却しました。

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豊公一夜堀 (2022/02/23 訪問)

JR大曽根駅からガイドウェイバスゆとりーとラインに乗り竜泉寺口にて下車して登城しました。模擬天守(天守風宝物館)以外なにもないかと思っていましたが、ネットで空堀が残っていることを知りました。「シニアハウス竜泉寺」という施設の方からしか行けないと思います。わかりにくいのですが道があり、宝物館東側下に「豊公一夜堀」の碑と空堀を見ることができます。
この日は祝日でしたので宝物殿に入ることができました。

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牛若丸

海賊の城に相応しい (2022/02/24 訪問)

周囲を峻険な山に囲われ、海賊が潜むのに相応しい城だなと思いました。
よく見ると、堀は北条系の城郭の特徴である畝状堀が確認できます。

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牛若丸

狩野城 (2022/02/24 訪問)

キレイに整備してありました。遺構も郭や土塁、堀などが残っています。
1周30分程度で見て回れ、車も20台くらいは停められます。

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ぴーかる

大姫路城 (2022/02/11 訪問)

<感想後半>
いよいよ内郭群内部へ。三の丸跡から千姫ぼたん園へ行き西の丸南面の石垣を鑑賞した後スタンプを押印し料金所ゲートへ。先に西の丸を堪能した後は順路通りに巡りました。売店で御城印、公式ガイドブック等の土産を購入し、天守礎石→黒田官兵衛築造の上山里南石垣→姫路城最高石垣である帯の櫓東側の石垣を堪能して終了。門の一番の見所の菱の門が改修中で、との四門からの搦手側が立入禁止で見られないのが残念だったが、おそらくすごく空いていた時期でしょう写真を撮るのもスムーズに鑑賞するのもじっくりできて大満足に味合わせていただきました。これにて百・続百名城の兵庫県制覇。

<満足度>★★★★★

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ぴーかる

中濠・中曲輪の門跡 (2022/02/11 訪問)

【百名城61城目】
<駐車場他>大手門駐車場1日900円
<交通手段>車

<見所>全て
<感想前半>姫路城は距離的には自宅から一番近い現存天守の残る城でしかも日本一の城。どのタイミングで行こうか、とっておきに百名城の一番最後に行くべきか、なんて思ったりもしたのですが、結局このご時世あり年間の最閑散期を狙いました。姫路城は約30年ぶりの訪城、覚えているはずもなく新鮮、気合を入れ1泊し姫路城と赤松氏の攻城の続きをしました。姫路城の投稿は2つに分けさせていただきます。
 開城前の朝7:00に到着し姫チャリというレンタサイクルを借りて2時間ちょっとかけて中濠を時計まわりに1周して中濠にある各門跡を全て巡りました。一つ一つ記述すると超長文になるので少しだけ。中濠の南西角にある埋門は門跡の上に登り易いので登れます。櫓門の礎石が見られます。中濠西にある久長門の石垣は切込接の乱積みで美しい積み方で見惚れました。中濠の石垣と門跡だけでも十分な見応えの中、自転車を返却して内濠の西側を半周して三の丸櫓台石垣と西の丸西側の石垣を堪能、いよいよ大手門内側へ。
つづく・・・

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カズサン

庵原山城初探訪 (2022/02/24 訪問)

 城びと登録で未踏の城で県外の方々が探訪投稿されてるのに県内の私が訪ねて無いとは申し訳ないと、武漢コロナウイルスオミクロン株感染拡大で静岡県も蔓延防止規制措置中、再延長3月上旬まで? 県境を越えての城廻りは自粛中、未踏の庵原山城を探訪に出掛けました。
 庵原山城の上を通ってる新東名と東名の清水連絡路は何回か通りこの下が庵原山城との体験はしてるのですが下からの探訪は初めて、浜松から国道1号線バイパスを使い道の駅で休憩し静清バイパスを抜けるのに時間が掛り地道を90kmほどを約3時間で目的の場所に到着。
 目的の場所は古城盛衰記さん案内に駐車スペースと有る所(35°03'03.8"N 138°29'09.6"E)で山切川をしろやま橋を渡ってふるさと農道に入った所で大乗寺北の石垣沿い辺りです。

 路駐した処から大乗寺北側の石垣下に朽ち果てた庵原山城の案内板が斜めに置かれて居ました、清水連絡路架橋下に庵原山城が南東に向かって、三の丸二ノ丸先端が本丸と連郭式、登れる所を探すが高速道NEXCO中日本管理フェンスで囲まれて入れない、保全管理用の階段が有る、ぐるっと待って山切川沿いの高速道管理で無い階段が上まで通ってるが階段まで枯れ草が茂って居り、階段上部は矢竹の竹笹が茂って居り、藪漕ぎしてまで登る元気も無く断念、遠望と望遠レンズで撮影のみ。
 古城盛衰記さんのガイドで北側のルート、山切川しろやま橋から北にもう一本の橋が有りそれを渡り北から南に登る道から攻めるほうが行き易いと記載されて居ましたので念のため。

 ふるさと農道を北方向に登り途中途中に庵原山城を遠望、三池平古墳に登り庵原山城を遠望する、同古墳も探訪しました、墳丘68m、三段墳丘の前方後円墳で清水港を見下ろしています、サッカーの清水ナショナルトレーニングセンターJに隣接しています。三池平古墳には駐車場とトイレ完備。トレーニングセンターにも駐車可能です。

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にのまる

36見附めぐり㉚~西の丸大手門(皇居正門)~

正門石橋の左手に見えるのが皇居正門、かつての西の丸大手門です。
タイミングが合えば皇宮護衛官の正門儀仗交代式が見られます。かっこいいです!
大手門→正門と大きくその役割を変えていない、どこよりも頑丈で厳重な現役の門です。

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ぎりょう

仙台藩二十一要害(その八) 平澤村要害 (2022/02/20 訪問)

二十一要害八か所目は平澤要害。この地は古くから交通の要衝として戦国時代から重要視され城館が築かれていたのだが、築城年代や築城者は不明とのこと。慶長7年(1602)、伊達家家臣高野光兼が平澤領主となり家中屋敷が整備され、高野家(永代着座二番座1,650石)の要害屋敷として続いた。明治維新後は役割を終え放置されたが、大正期に珪藻土の採種場となり、その遺構はすべて失われてしまったという。(現地説明板の解説による)
現在城址は平沢地区公民館とグランドとなっている。貞享4年の刈田郡平澤村要害屋敷惣絵図(宮城県図書館所蔵)には南北に並ぶ二つの曲輪、北側はL字型で 一 居所 の記載、南側から登る大手道を受けた虎口、門が見える。南側は東西に長い方形で南側中央には南に降りる虎口が見え、その先は広い水堀が描かれている。その先、南側には家中屋敷が続き館下町が続く。周辺には寺屋敷や百姓屋敷は見えるが町屋敷は見られない。
城址最高所の公民館駐車場まで車で登ることが可能で、途中の街並みにかつての家中屋敷の成り立ちがイメージできる。

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ぎりょう

仙台藩二十一要害を訪ねて(その七)坂本要害 (2022/02/19 訪問)

谷地小屋要害、新地城を訪問後に国道6号線を北上して宮城県亘理郡山元町へ。道路右側JR坂元駅前に隣接する農水産物直売所「やまもと夢いちごの郷」を見つけて休憩する。この日も特産のいちごや地場産フルーツのスイーツを求める人たちで賑わっており、私もいちごとジャムを買い求め坂本要害にいざ出陣。ここは元亀3年(1572)に亘理氏家臣の坂本三河によって築城されたが、伊達政宗が元和2年(1616)に大條宗綱に知行地として与えると大條氏(御一家4,000石)の要害屋敷として明治維新まで続いた。
貞享4年の亘理郡坂本要害屋敷絵図(宮城県図書館蔵)を見ると、最高所(現在は坂元神社が鎮座)を 一居所(本丸)とし、北に一段低い二下中屋敷(二ノ丸 現小学校敷地)、さらに北に水掘で隔てた下中屋敷の曲輪(三ノ丸)が続く縄張。東側は広い沼地を天然の堀とし、西側は大規模な堀切で遮断している。三ノ丸を囲繞する下中屋敷とその東側の街道に沿って町屋敷が続く。
城址にある説明看板にはかつての要害屋敷絵図と現在の航空写真を並べて表示しているが往時の街並みがほとんどそのままに残されているのは驚きだ。もちろん今風の住宅建物や店舗ではあるのだが。また三ノ丸の虎口に有った大手門や板倉、茶室が現存していることも訪問者を楽しませてくれる。
JR坂元駅から徒歩15分(1.2km)、山元南スマートICから車で4分(2.4km)、三ノ丸跡と坂元神社に駐車場あり

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