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能勢頼則 (2023/07/22 訪問)

JR高槻駅から徒歩約10分と少しで城址碑に行くことができます。遺構はないと思われます。

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bono

大河効果か駐車場が満車でした

昔近くの町で仕事をしていた頃から何度か来ていますが、今まで見たことのない人の多さで驚きました。
最後の画像はお土産です。グッズが出来ていました。

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チェブ

曲輪は畑。 (2023/07/04 訪問)

東名高速道路に平行して側道があり、「松田城→」を見つけ、かなりグネ~っと何度か曲がった所に「松田城」の説明板がありました。運転してる最中、対向車が来ませんようにと、祈るような道。
駐車場には、まさかの先客。NEXCO中日本の道路巡回車でした。出発するようで駐車場を譲っていただきました。
写真②が駐車場です。眼下に東名高速。奥には相模湾が見えました。
北条家の筆頭家老の松田氏の「松田城」です。
すでに目の前が曲輪なのですが、雑草がのびのびしてます。写真③のような道が続き、曲輪はみかん畑や葡萄棚があり、針金の柵が巡ってます。『さわるな。キケン』と書いてあるので違う恐さが、、、。
奥に行くと、土橋(皆さんの投稿で知りました)があり、畑小屋が何件かありました。この土橋も、下からの雑草の高さが土橋まで届きキケンです。
畑小屋から先は、行きませんでした。

「松田城」は北条家家臣 松田 憲秀さんの弟さんのお城です。
秀吉さんの小田原征伐で、松田 憲秀さんは秀吉さんに寝返ろうとしましたが、不忠者として切腹させられてしまいました。
いやいや、私は北条家存続の為に密かに交渉していたと、考えたいのです。
現在、静かな「松田城」は、雑草で遺構の確認が難しいですが、季節ごとに美味しい作物を育てるお城になったようです。

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カズサン

鏡石と巨石散歩 (2023/07/19 訪問)

 暑さと夏草の茂りで城廻に城探訪も儘なりませんが、例年の賀茂真淵記念館主催夏期講座2「堀尾期~江戸時代の浜松城の姿」と題して日本城郭協会理事加藤理文氏の講座を聴講し、その後に3月末以来久しぶりに浜松城を訪ねました。
 
 浜松城の石垣は小田原征伐後の家康公関東転封の後に東海地方が秀吉公の配下の武将に与えられて、浜松城は堀尾吉晴公へ、土の城から石垣の城へ大改修され天守閣も造られました。
 その時代から天守門左右に巨石を使った鏡石が控え威厳を保っています、石材は浜名湖西岸、舘山寺当たりの珪岩が使われており、天守台の東面、付櫓台、天守曲輪下段の野面積石垣などに巨石が散見されます。
 何度も見ており今回の登城の、登り降りに気楽に見学撮影しました、16時過ぎですがまだまだ暑い盛りでした。
 

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トク

56【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と広島城) (2023/07/18 訪問)

(22人目)は「毛利輝元」です。
まずは関ケ原当時の居城「広島城」を訪れてきました。

広島城は、毛利輝元により1589年に築城開始し、関ケ原の前年1599年に完成した城です。1588年に秀吉に京に招かれ、その時に見た聚楽亭を参考にしたようです。

輝元は自ら戦の先頭に立つ意欲は無かったとよく言われていますが、実際はそうではなかったように私は思います。家康が関東の上杉征伐に出陣するやいなや、大坂から広島に戻り出陣の準備を始めています。そして石田三成が挙兵すると、何とわずか2日間で広島城から大坂城へ海路を使い移動しています。また吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊と養子の毛利秀元にも先行して出陣し大坂城と伏見城の占拠を命じています。またその間、伊予の東軍諸将(藤堂高虎や加藤嘉明)の諸城を落とし、九州では豊後の旧領復帰を願う大友義統(宗麟の子)を支援しています。本当はかなりやる気満々だったのではないでしょうか? そして秀頼を奉じて出陣する気もあったのかもしれません。

父の隆元が早くに死んだためわずか10才で家督を継いだ輝元、これまで戦のほとんどは叔父の吉川元春・小早川隆景が行っていました。その二人の叔父も関ケ原の前に亡くなります。家康は三成襲撃事件にに対し、三成をかばった輝元に、自分の弟分になるよう起請文を書かせ、秀元の領地問題にも口をはさむなど、輝元にとっては家康へのストレスがかなり溜っていったようです。その輝元も48才になり迎えた関ケ原!

広島城に戻ってからつかの間、石田三成と三奉行から家康が亡き秀吉との約束を反故(ほご)にしているという「内府ちがひの条々」、そしてさらに「西軍総大将」要請の書状が届きます。

私は広島城の天守に立ち考えてみました。これらの書状を読んだ輝元は、いったいどんな気持ちでこの天守から広島の町を眺め考えていたのでしょうか? そしてその後、三成挙兵の報を受けるやいなや、何故わずか2日間という超スピードでまた大坂城へ移動したのでしょうか?

輝元自身は、本当は家康と雌雄を決するというより、今までのくやしさからか、西は毛利・東は徳川と対等に物が言える立場になりたいと思っていたのかもしれません(家康250万石:輝元120万石この差を埋めて対等になりたい)。

しかしその反面、一度は西軍の先頭に立ち、自分がどれほどのの器(うつわ)なのか? 知ってみたいとも思ったのではないでしょうか・・・

次は(大坂城)に続きます。


【余談1】宿泊したホテル
広島城の向かいにある、バスセンターの上にあるホテルに宿泊しました。部屋に入りカーテンを開けると、何とビックリ!😲 広島城の全景が一望でき、とても感動しました(写真⑨)。

【余談2】広島市民球場とカープ
広島城の天守から眺めていると(写真⑩)、眼下にかつて広島市民球場があったのを思い出しました(現在は広島駅横のマツダスタジアムに移転)。その右側は乙斐(こい)という地名で、堀に鯉が泳いでいたせいか、乙斐城がだんだん鯉城と呼ばれるようになり、戦後その埋め立てられた堀に市民球場が建てられて球団ができたので、その球団名が広島カープ(Carp=鯉)になったのかな🤔?(勝手な推測です) 山本浩二とトランペット隊の応援が懐かしい・・・(そういえば街はマツダの車が多い・・・)。
 

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にのまる

④本丸 (2023/05/27 訪問)

本丸下段には大きな井戸がありました。直径3.8m、本丸唯一の井戸で、井戸丸と呼ばれていたそうです。
坂の右側に残る石垣は本丸にいたる最後の門、暗り門の石垣です。
<かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。>
と説明にあります。
現在は見晴らしのよい本丸広場が目前に広がっていますが、かつては石垣で視界が遮られ、曲がり角に覆いかぶさるように渡櫓があった。台所櫓へとつながる石段は今はこの足元、地面の下に……と、写真や絵図の力を借りながらかつての様子を思い描いてみます。目の前の“何もないところ”にその姿を想像再建できた瞬間のうれしさといったら!
来てよかったー!の一言に尽きます。

そしていよいよ本丸へ。
肱川を渡るときから天守はチラチラと見えていたけれど、最後にくるっとまわって対面した時の嬉しさは格別でした。早朝に家を出てからひたすら陸路で10時間。(この長さがまた良いのです。)
台所櫓・復元天守・高欄櫓の揃った壮麗さは唯一無二の宝物。奇跡の復活と言えるのではないかと感じました。
台所櫓から中に入ります。現存の渋さと重みがあります。
天守は後まわしにして高欄櫓へ。こちらは二階へ上がれました。時代を感じる木組みの露わな姿を見ながら、木造建築だから解体修理も移築も可能で、百数十年経た現在でも見ることができるのだと今さらながら気づきました。木造復元は過去を現代によみがえらせるだけではなく、生きた歴史史料を未来へ伝える大切な役割を持っているのだなぁと。
キャッスルステイで一躍有名になった復元天守内は吹き抜けの開放感が印象的で、階段も当然急傾斜。木造天守の醍醐味を十分に堪能しました。

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イオ

とことん江戸城(皇居東御苑) (2023/05/31 訪問)

(続き)

皇居一般参観を終えて、まだ少し時間があったので皇居東御苑へ。桜田巽櫓を左に眺めながら大手門に向かおうとして、交差点に目をやると皇居を退出して東京駅に向かう中国大使の馬車列が見えました。皇居内ならまだしも、街なかで馬車列を見かけるのは何とも非日常的な光景ですね。

大手門から改めて入城して、まずは二の丸庭園に向かいます。昨年は菖蒲田は時季を過ぎていましたが、今回はまさに見ごろで、多くの人々が散策しカメラ(スマホ)を構えていました。その二の丸庭園の北東奥で、二の丸東三重櫓付近のものと思しき石垣に遭遇。立入禁止の柵越しながら見事な石垣が見られました。

二の丸から汐見坂を上って本丸へ。前回見落とした石室は、抜け穴説や御金蔵説もありますが、大奥の貴重品を納めた富士見御宝蔵と考えられているようです。石室から天守台に向かう途中の竹林は上皇さまのお考えにより整備されたもので、13種類の竹や笹の中にヤダケが含まれているのが城らしいな、などと。…たぶんそういった意図ではないんでしょうけど。今回は天守台には上らず、周囲をひとめぐり。西桔橋門は通れないにしても、せめて様子だけでも、とも思いましたが、近付くこともできませんでした。やはり一般参賀しかないか…。昨年は天守台を独り占めの時間があったくらいでしたが、今回は人の姿が絶えることはありません。やはりインバウンドの復活は間違いなさそうです。そして、矢穴跡を探したりしながら天守台を回り込んで、北桔橋門から皇居東御苑を退出しました。

今回は時間の都合もあって前回の取りこぼし中心でしたが、帰宅してから窓明館で買った「皇居東御苑セルフガイドブック」を眺めていると、ガイドブックを片手に皇居東御苑の各所に設置されたガイドポストをたどりながら、またじっくりと時間をかけてめぐりたくなりました。

# todo94さん
江戸城36見附めぐり、楽しいですよね~。明治以降150年を経た東京の街なかに江戸城の痕跡がこんなにも遺ってるんだなぁ、と驚かされます。それにしても、赤坂見附から町田まで献血に行かれるとは…。さすがですね。
 

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todo94

リベンジその1 (2023/06/11 訪問)

雨の日曜なので無理はしません。仙石山森タワー付近を徘徊したことはあるのですが、「仙石山 町会防護団」の石碑を見つけることはできませんでした。今回、無事、発見することができて感慨無量です。

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AJ

うっとり (2017/07/18 訪問)

美しい近世城郭だけを見て満足してたらもったいないーー。そんなことを感じさせてくれるのが鉢形城址(埼玉県寄居町。2017年7月)。荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘に建つ連郭式の平山城で、その縄張の巧緻さは散策しながらため息が出るほど。

遺構景観の整備が素晴らしい。川に削られた断崖の最高所に本丸。そこから西に深い堀切を何重も行った上で複数の曲輪を造成、連結して空堀と土塁で仕切っています。関東の中世城でありながら、石垣も見られます。これは近隣の近世城郭でもあまりない現象だそうです。

山内上杉家の家宰を務めた長尾景春が1476年に築城しますが、太田道灌に敗れて秩父に敗走。その後、河越夜戦(1546)の勢いそのままに北条氏康が上杉勢を追討して奪取すると、四男・氏邦が整備拡張して小田原を支える北の要衝となります。秀吉東征(1590)では前田、上杉、真田らに包囲されながら1ヶ月持ちこたえ、堅固さが証明されたといいます。

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松永氏と筒井氏の攻防 (2023/07/20 訪問)

 近鉄大和西大寺駅より徒歩15分くらいで行くことができます。いい感じの空堀が残っています。北側から登城しようとしました。空堀までは何とか入りましたが、竹藪がひどく倒れた竹も前進を阻んでいました。よい遺構がありそうでしたが、藪蚊の襲撃もあり奥まで行くことなく撤退しました。

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木津城址公園 (2023/07/20 訪問)

 JR木津駅から徒歩約15分、木津城址公園に行くことができます。土塁、土橋、空堀等が残っています。

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山城一揆 (2023/07/20 訪問)

山城一揆の中心的役割を担ったとされる城で、後には松永久秀が治めたこともあるとされています。稲八妻城の場所はいくつか説があるようです。京都府埋蔵文化財情報を見ると①植田②北稲八間③南稲八妻が比定地とされています。城びとでは南稲八妻が城址となっています。かなり大規模な城であったという説もあります。京奈和自動車道の跨道橋を渡った所が登城口らしいのですが、ネットの情報で立ち入り禁止になっているとのことでした。行ってみるとやはり柵がありましたので無理をしないで撤退しました。それなりの興味を持っていたので少し残念でしたが、仕方ありませんね。他の候補地である北稲八間城山に案内板があるとのことで写真に収めて帰って来ました。精華町教育委員会が作成している案内板を見ると城山説が有力となっています。

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咋岡神社 (2023/07/20 訪問)

近鉄京都線興戸駅から徒歩約15分、咋岡神社境内一帯が跡地です。石碑があり土塁、水堀の一部が残っています。

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イオ

とことん江戸城(皇居一般参観) (2023/05/31 訪問)

(続き)

出張2日目の仕事は午後からなので、上野の山に続いては念願の皇居一般参観に参加しました。出張が決まってすぐに事前申請しようとするも満員だったため、当日受付の整理券配布(午前9時から)の少し前に皇居桔梗門前に行きましたが、すでに結構な長さの列ができていて、当日受付140人中110番台で何とか間に合いました。危ない危ない…。集合時間まで少し時間があったので、少し戻って和田倉休憩所へ。前回登城時は工事中だった噴水公園は綺麗に整備されていました。厳選24城スタンプラリーのスタンプを押し、時間まで休憩してから集合場所に戻ると、順番に並んで城内に案内されました。いよいよ入城です。

皇居一般参観の入門は桔梗門(内桜田門)。大手門が正門なら桔梗門は通用門にあたり、城門は関東大震災後の復元ですが、土橋を渡り高麗門をくぐると右手に櫓門が立ちふさがる枡形門で、枡形の西辺には石垣はなく濠越しに攻撃を受ける外桜田門と同じ造りになっています。桔梗門を抜けると、窓明館(休所)で日本語はもとより英語、スペイン語、中国語、韓国語での注意事項の説明があり、手荷物をコインロッカー(100円返却式)に預けて各語のガイドさんの案内で出発する…んですが、この日はキルギスと中国の大使の信任状捧呈式があるため、出発を少し遅らせコースも一部変更になるとのこと。日本語ガイドの参加者は40数名で全体240数名の2割未満。英語が半数以上で、インバウンドの復活を実感します。出発までの待ち時間に売店でお土産を見繕ったりしてから出発しました。

窓明館を出ると右手が旧枢密院庁舎、左手が桔梗門です。桔梗門脇の石垣には刻印があちこちに見られました。進行方向には本丸の石垣が聳え、進んで行くと石垣の上に富士見櫓が見えてきました。石垣の高さと相まって麓から見上げるとかなりの迫力です。…そうそう、これが見たかったんだよ! 八方正面と呼ばれた富士見櫓を東~南~西といろんな角度から堪能し(北は前回本丸から見ています)、坂を上った正面が宮内庁庁舎、左手下には坂下門が建っています。本当に坂の下にある門なんだなぁ、とか、前回皇宮警察に警戒されて近付けなかった坂下門の内側に入ってやったぜ、などと妙な感慨を抱きながら宮殿東庭への坂を上る途中、ガイドさんに言われて振り返ってみると……ああ、ここかぁ! にのまるさんの36見附めぐりの写真で特に印象的だった、高層ビル群を背景にした富士見櫓はここから見られるんですね。時代の最先端と400年前が融合した景観であり、規模では及ばずとも存在感では全く引けを取らない富士見櫓…。いや、良いものを見せていただきました。

宮殿東庭に入ったところでガイドさんが無線で何やらやり取りしたかと思うと、キルギス大使が信任状捧呈式を終えて退出されるとのことで、しばしここで待機することに。そういえば宮内庁前に馬車が駐まっていたな、と思っていると、皇宮警察騎馬隊に先導された儀装馬車が宮殿の正面玄関にあたる長和殿南車寄前に整列。長和殿を北から渡ってきた大使が馬車に乗り込み、馬車列が走り去るまでを見学することができました。大使や公使の新任時の皇居への移動には馬車か自動車を選べるが、ほとんどは馬車を選ぶと聞いたことはありましたが、まさかその馬車列を目の当たりにできようとは! 皇室の馬車だけあって車体は漆塗に金高蒔絵の菊花紋章が施され、馬車を引く馬のブリンカー(目隠し)にも菊花紋章があしらわれていました。

馬車列を見送ってから参観再開。馬車列が走り去った西の丸御書院門の石垣には見事なまでのはつりと江戸切りが施されています。江戸城のみならず皇居の玄関口として、各国の大使を迎えるに相応しい石垣と云えるでしょうか。西の丸御書院門を抜けると正門鉄橋(いわゆる二重橋)です。東下には正門石橋と西の丸大手門(皇居正門)、西上には伏見櫓を望み、前回に二重橋前から見上げた景色の中に自分が立っていることを実感します。より近くから仰ぐ伏見櫓(と続櫓)は、鉢巻腰巻石垣の上に端正に佇んでいました。

正門鉄橋で引き返した宮殿東庭で今度は中国大使の馬車列の到着を見学した後、通常の順路の山下通りには行かずにまっすぐ窓明館に戻ったことから、蓮池濠越しに高石垣の上の富士見多聞(御休息所前多聞)を仰ぐことは叶いませんでしたが(半分ほどは見えました)、儀装馬車列という思いもしなかったものが見られたので、むしろこちらのほうが得がたい経験だったかな、とも。

それにしても、桔梗門にはじまり富士見櫓、西の丸御書院門、伏見櫓に加えて儀装馬車列と、皇居一般参観は大変に見応えがありましたが、見逃した蓮池濠沿いだけでなく、正門石橋も渡ってみたいし、西桔橋門も通ってみたい…となると、新年か天皇誕生日の一般参賀に訪れるしかなさそうです。いつかきっと…。

さて、窓明館で手荷物を回収し桔梗門から退出した後は、皇居東御苑に向かいます(続く)。
 

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todo94

江戸城36見附 (2023/06/10 訪問)

三井記念美術館の大河ドラマ特別展を楽しんだ後、昨年のにのまるさん、イオさんの投稿に倣って私も江戸城36見附にチャレンジすることにいたしました。とりあえず昼食をはさんでのおよそ半日で、浅草橋見附、筋違見附、小石川見附、牛込見附、市谷見附、四谷見附、喰違見附、赤坂見附まで。東京メトロの一日乗車券を利用しましたが、可能な範囲で徒歩での散策も。赤坂見附からは15時に予約を入れてあるまちだ献血ルームcomfyへ向かいました。この日の都内の他の献血ルームはすべて予約が埋まっていたので。

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初芽

土塁の高さすご! (2023/07/16 訪問)

桜と三重櫓の景色が素晴らしいと聞いていましたが、紫陽花と三重櫓もよく映えて綺麗でした。

土塁が予想以上に高い!
石垣じゃなくて土を積み上げてもこんなに堂々と威厳のあるものになるんだな〜!

展示にあった城復元図を見て、薬研堀+多聞櫓のあの景色を是非生で見てみたかった😌
土塁も削らなかったり堀を埋めなかったら、現代ではどんな感じに残ったんだろう。
櫓から出た後もしばらく景色を妄想していました🏯👏

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初芽

山と一体の城! (2023/07/16 訪問)

ついに念願の春日山城へ!

石垣が無くとも山の地形、構造を生かした山城の迫力にただただ圧倒。
本丸近くの毘沙門堂、護摩堂など謙信公の「戦に勝ちたい」という祈りの気持ちの強さを感じました。

面白かったのが地図に「お花畑」と書いてあり、ちゃんとその場所に御花畑趾の碑が🌼
当時献上用の花や薬草を育てていたらしい?
家族と「謙信さんや家臣ってロマンチックな方ね〜」と話していました(多分?)

景勝公や景虎公の屋敷跡も見ることができ、2人がどんな思いを抱えて過ごしたのかなあ…としんみりしました。

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にのまる

③本丸への道 (2023/05/27 訪問)

左手に御殿跡(一部工事中)を見ながら本丸へ向かいます。
本丸石垣は除草作業をしてくださっている最中でした(写真①)。写真②は帰りに撮ったものです。美しい石垣を見せてくださってありがたいです。

石垣の上にはためく幟と天守群が見えますが(写真③)、先に二の丸へまわりました。
④北東隅・鉄炮櫓跡
⑤西隅・玉櫓跡
など、二の丸の役目を果たした痕跡を見ることができました。

ですが、いちばん印象に残ったのは⑥のお手洗いです。
景観への配慮が素晴らしいです。
天守を背にする絶好のフォトスポット。外観もこだわらないわけにはいかなかったのでしょう。
石垣と天守の景観を邪魔しないどころか、お見事!と言わせてくれる見た目に、普段であればお手洗いなどはなるべく写り込まないようにと思うのですが、ここは寧ろ櫓っぽくかっこよく撮りたい、などと思ってしまいました(^^)

……せっかくなので、大洲城のお手洗いの写真をUPします(・∀・)/ 

⑦昨日の投稿で二の丸大手門の説明板があると載せた市民会館駐車場のお手洗いを正面から。石垣一体型で、鉄砲撃てそうな格子窓付きです。右側のOをよく見ると🙂を描いたような跡が?
⑧二の丸へ向かう坂を登ったところのお手洗い。白漆喰に下見板張りのモダンな天守を意識した外観です(多分)。♿︎付き。自動販売機も設置。
⑨↑のすぐそば。これはお手洗いではなくて倉庫のようでした。
⑩本丸下段にありました。最初、何なのかよくわからなかったのですが、よく見ると「大洲市トイレCAR」と。この日はイベントもあったので来ていたのかも知れませんが、移動式は災害時などでも便利そうでいいなぁと思いました。

以上、大洲城お手洗いコレクションでした。

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ふゆづき

初夏の九戸城 (2023/06/30 訪問)

豊臣秀吉に最後まで抵抗した九戸政実の九戸城を訪問しました。
九戸という名前ですので、青森県かと誤解しやすいですが、所在は岩手県二戸市になります。
最寄り駅は、東北新幹線・青い森鉄道の二戸駅で、新幹線の改札内には、九戸政実のねぶた飾りが置いてあります。
二戸駅からは、JR.バスので最寄りバス停(呑香稲荷神社前)から徒歩5分程度または駅から徒歩約25分というところであり、バス通りから少し中に入った小高い丘の上に城は築かれています。
旧三の丸にはビジターセンターが設置されておりますので、そこで九戸城の情報を頂くことができます。
ビジターセンターから二の丸、本丸方面へアクセスしますが、橋を渡って左手方面は遺跡発掘のため、立ち入りが規制されておりますので、右手に進み、大手門経由で二の丸及び本丸に向かうことになります。
遺構は、本丸周辺の空堀と石垣(九戸政実の乱が終わった後で蒲生氏郷の時に積んだようです。本丸南側)及び虎口(二カ所)が見受けられます。
本丸や二の丸を見ると小高い丘の上に築かれており、それなりの規模を持った城であることはわかりますが、天下の軍勢である豊臣家を相手に長期間にわたる籠城戦を交えることのできるような堅固さは無いように思いました(史実では、和解により呼び出された九戸政実は斬首されますが)。
攻城時間は約1時間というところかと。

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城とマスク

真夏の白石城(海の日) (2023/07/17 訪問)

前回白石城に行った時は真冬で今回は真夏に訪れました。

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