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やま

残念な城跡 (2022/02/02 訪問)

敏満寺城は天台宗寺院が城塞化した城郭寺院だそうです。城址は名神高速の多賀サービスエリア(上り線)内にあります。浅井長政や織田信長に攻められ坊舎のほとんどが焼かれ寺領も取り上げられたとのことです。江戸時代、彦根城築城のために城址に残った礎石も運び去られたため、遺構はほとんど残ってませんが、多賀サービスエリア東側にある公園に土塁や櫓台跡がわずかに確認できます。案内板がほとんどないのでわかりにくいですが、サービスエリアの案内所で聞けば場所は教えてくれます。下り線のサービスエリアからは歩道橋で移動することができます。

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ばばよ

真田への愛を感じた (2021/11/28 訪問)

遺構は一部の土塁や堀や石垣とややさびしめ。
しかし真田人気と地元の頑張りで資料館の復元模型や無料パンフレット、お土産などは充実。
観光客も名胡桃や岩櫃よりもずっと多かったです。
沼田市の中でも小高いところにあり、さぞ立派なお城だったのでしょう。

名胡桃城は積雪がありましたが、沼田まで降りてくれば雪はなし。
逆に考えれば、沼田で積雪があれば名胡桃は相当なはずので、充分な準備が必要です。

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あきつ猫

お得感あり (2022/02/10 訪問)

茶室は入場料で,お抹茶と和菓子を頂けるのですごくお得な感じ。
椅子席なので、和室でも膝が悪くても大丈夫です。

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ぎりょう

堀も曲輪もチューリップ満開!!春を待つ城 (2022/02/19 訪問)

谷地小屋要害跡地から新地城を目指す。新地駅前から西へ、国道6号線への交差点を右折して間も無く左に「新地城跡」の案内看板が有り大きく左折、すぐ右折して西へ1km程で右側に大きな案内看板が。駅から2km(6分ほど)城の最高所本丸・東館まで車で登ることができる。仙臺古城記(仙臺叢書第4巻)には宇多郡谷地小屋村の項に「山 一 谷地小屋城 東西五十間 南北五十間 城主杉目八郎左衛門 義胤家来 没落之後。大町三河 被差置 天正年中迄居住。後略」と有り、永禄9年(1566)頃に相馬盛胤・義胤により築城された。最初門馬雅楽助を、後に泉田甲斐を城代に、西館には杉目三河を置く。天正17年5月に伊達政宗の攻撃により落城すると政宗から亘理重宗に与えられ坂本三河が城代だったが慶長初期には大町三河が城代となった。
城は標高50mの丘陵上最高所の本丸を中心に、東館・北屋形・西館を配し、南側は3段の帯曲輪で囲む中世山城。本丸の北側から西側は堀跡の遺構がしっかり残る。本丸西虎口から西館側に続く土橋は後世に作業用に作られたものではなかろうか。伊達・相馬攻防の歴史を今に物語る貴重な城館跡である。
城跡は公園化され、春には曲輪跡や堀跡にチューリップが咲き乱れ、地元の皆さんの目を楽しませているとのこと。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその25 (2022/02/23 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその25

蔓延防止措置が出ているため、県外に出る事を控え、県内のお城を自家用車で攻めました。

駐車場は車がすれ違えないほど狭い道の先にあり、地面は泥だらけの荒地でした。

本丸とその周辺は、倒木や伐採した木の置き場となっていて残念な感じでした。

御城印は、以前千葉ポートタワーを訪れた時に購入しておいたものに日付を入れました。

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宗春

大草城 (2022/01/02 訪問)

お正月限定の御城印を頂いて来ました。

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宗春

名古屋城 (2022/01/02 訪問)

お正月限定の御城印を頂いて来ました。
偶々、東南角櫓の内部公開が行われていたので、列に並んで見て来ました。

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あきつ猫

天守閣からの眺め (2021/11/21 訪問)

天守閣の眺めを見て、濃尾平野一望。築城に必須の川も近い。これは取りたいお城だわ。信長の気持ちわかる。ふもとの岐阜城歴史博物館の再現CG画像で、何故か懐かしさを感じて,やっぱりあの時代にここにいたかも?的な気持ちがした。(笑)

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ぎりょう

仙台藩二十一要害を訪ねて(その六)谷地小屋要害 (2022/02/19 訪問)

昨年から仙台藩の二十一要害を訪ねているが、今回は仙台藩領南部を訪問することに。まずは相馬藩と境を接する谷地小屋要害跡(福島県新地町 城びと未登録)へ。ここの主は亘理要害を拝領している亘理伊達家(御一門24,850石)で、代官を配して対相馬の防衛と地域支配の拠点としていた。
そもそも城館の起こりは永禄年間(1558~1570)に相馬盛胤・義胤父子が亘理氏への加勢で出陣した折、盛胤が新地に泊り、東側の谷地にこの城を築いたという。この地は伊達・相馬攻防の地、平地城館で守りに難があるため、西へ2.5km程行った丘陵に新たに新地城(蓑首城)を築城した。その後この谷地小屋の城館は廃されたのか、戦国期を通して併存していたのかは不明だ。
要害のあった場所はJR新地駅から200mほど西の田んぼの中に、少しばかり樹木を残した空地となって残る。遺構は何も残っていない。東日本大震災の際、新地町も津波により大きな被害を受けた。2016年10月に新地駅が旧地から西に移って営業再開したため、駅前の道から要害跡地を望むことができる。
藩政期の要害の姿は仙台領内要害絵図(宮城県図書館所蔵)を見ると、東西に長い方形の主曲輪と南側に付属するニノ曲輪で構成され、主曲輪の東西北は二重に、ニノ曲輪も全周を水掘で囲んでいる。また主曲輪南側中央に門。土塁が巡り、西側中央と南側は門の左右に横矢掛かりが見える。ニノ曲輪は南側中央と東側の北に外舛形を構えた門、主曲輪側以外の三方を土塁が巡り、横矢掛かりが二ヶ所見える。
要害の南側には東西に長く下中屋敷(家中屋敷)が描かれ、更にその南側にこれも東西に町屋敷が続く。
新地町をはじめて訪問した私には震災前の街並みがどのようであったのか知る術もないが、津波被害からの復興で要害跡を含めかつての館下町の有様も大きく改変されているものと考える。

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カズサン

山本勘助の縄張を仙谷秀久が織豊系に大改修 (2010/09/26 訪問)

 武田信玄が天正12年(1543年)侵攻し山本勘助が縄張し築城、小田原征伐後戦功により豊臣政権の仙谷秀久が城主と成り、織豊系城郭に大改修、素朴な織豊系前期の野面積石垣が見所の一つでもある、三重の天守閣が建っていたとの事。
 浅間山火砕流堆積台地の侵食渓谷を上手く利用し二重三重に掘られた大堀割も見所の一つであり、西の守り千曲川も景観と共に藤村も吟じた景勝地でも有ります。

 今回は近年に、明治初めに民間に払い下げられていた大手瓦門が元の位置に修復再建されたとの前情報も有り、近くの龍岡城五稜郭を初登城した後12年前の平成22年9月下旬久しぶりの登城をしました。
 車は小諸城北側の専用大駐車場を利用、そこから歩いて三の門までは直ぐ近くです。

 目的の三の丸大手瓦門は後にして、三の門懐古園の額が架かってる、二の丸二の門跡、二の丸虎口、南の丸虎口、北の丸跡、黒門橋、同堀切、黒門跡、本丸をぐるっと回り、内部に、天守台に登る、本丸は天守台が北西隅に在り野面積の扇の勾配素朴で風情が有ります、周囲は石塁で囲んでる、本丸は台形で北谷、南谷、西谷、千曲川で守られ、東は黒門の堀切で守られている、侵食渓谷の様な大堀割は素晴らしく他に類を見ない圧巻絶景です。
 今回目的の大手瓦門を二ノ丸、三の丸間の大堀切底を通ってるしなの鉄道地下道を通り抜けて公園に成ってる三の丸大手瓦門を観察見学撮影、二階櫓門で立派な門で、四の門とも言われてる。左右石垣に挟まれ民間に払い下げられた大手門は一部改築されて居ましたが、部材を用いて往年の大手門が復興再建されました、往時の佇まいを見られるようになり大変ありがたい事です。

 

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小荷駄

大高城 (2022/02/22 訪問)

丸根砦と鷲津砦 を合わせて散策してきました。住宅地にある城跡なのに横堀はかなり大きく残っていました。ちょうど発掘調査説明会をしていました。

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赤い城

バンブー! (2022/02/13 訪問)

駐車場は無く萬歳自然公園の前のスペースに駐めました。
少し歩いて金毘羅大神のところから脇道に入り少し進んだ先の畦道(写真10枚め参照)から登城しました。
案内板などはありません。
少し登って藪を越えると少し開けた削平地に出ました。
そこからまた登って行くと主郭に出ます。
主郭は土塁に囲まれていて土塁から尾根道を進んで行きました。
途中、浅くなった堀切状の部分もあります。
主郭北東側には堀切がありますが倒竹で埋められていました。
東側の曲輪は段になっていて近世には上代陣屋が置かれていました。
千葉胤頼の築城とされるも詳細は不明。
里見氏に攻められて落城しました。
整備されたらなかなか良さそうな城なんですけどね。

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小城小次郎

綺麗にクリーニングされていた (2021/10/23 訪問)

数年ぶりに訪ねた周山城は一部の石垣が綺麗にクリーニングされていた。「天守台」について現地で考えていたのだがこれはもしや天守台ではなくて二つ並んだ神社だったりしやしないかと思ってしまった。根拠はないが。

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カズサン

幕末築城の龍岡城は五稜郭 (2010/09/26 訪問)

 日本で海から遠い地信州佐久の田野口へ幕末、三河大給松平奥殿藩が飛地への本領移転を願い出て、洋式稜保の五稜郭龍岡城を築城、設計は藩主松平乗謨自ら行い、その形状から龍岡五稜郭と呼ばれてる。

 龍岡城へはまだ登城して無く12年前平成22年9月下旬、車を飛ばして日帰り初登城。
 車は表門の近くに「五稜郭であいの館」が有り、同駐車場を利用。

 表門橋、表門跡から周囲の星形に成ってる水堀と腰巻石垣をぐるっと廻る、通用門跡、通用門より現存建物台所櫓が見える、校庭を通って観察撮影、裏埋め門跡、水堀と空堀の境界、水堀の水位調整箇所、一ヶ所砲台の跡が有る情報を得て居たのですが小学校内ですので余り詮索出来ず確認せず、黒門跡、黒門から空堀から水堀に代わり表門まで続く。
 五稜郭であいの館で展示資料を閲覧、一部撮影、帰り北方向約300~400mの所に龍岡城大手門桝形跡が石垣と案内板、城名石碑が道沿いに在り観察見学、車は路駐。

 幕末の慌ただしい中、欧米の圧迫感を感じ、三河の奥殿から信州奥に本領築城し、現在もう一つの五稜郭として現物遺跡を見る事が出来るのは大変ありがたい事です。
 東側の山稜に田口城が在り田口城からの眺望で龍岡城の五稜郭形状を確認出来るそうですが当時山城に登るという選択肢がなく城郭放浪記さんなどの写真館の写真を眺めて居りました。

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イオ

安宅勝山城(和歌山県西牟婁郡白浜町塩野) (2022/02/06 訪問)

(続き)

安宅勝山城の主郭は四方を土塁で囲み、北辺の土塁上からは安宅荘と日置川を一望することができます。ここからだと安宅本城と支城群の位置関係が一目で把握でき、昨年に安宅氏城館群をめぐっているだけに実に見応えがありました。主郭から東下の帯曲輪(東辺に石積みあり)に下り、安宅勝山城最大の見どころの東尾根の五重堀切に向かうと……なんじゃこりゃあ! 岩盤を開削した堀切だというのは承知していましたが、その際に出た石が堀切の内外に積まれていて、さながら総石垣の堀切が連続しています。東尾根は両側が急斜面の細尾根で、一番内側の堀切は深さも幅もあり、東尾根に対する徹底的な防御意識が感じられました。

南尾根の巨大な三重堀切に始まり、武者隠しの土塁と畝状空堀群、副郭の土塁に施された石積みと雁木、主郭からの眺望…。これらだけでも十分に満足でしたが、この石積みされた五重堀切はこれまでに見たことのない圧巻の光景で、直登と藪漕ぎの苦労が何倍にもなって報われました。

さて、五重堀切を越えて東尾根の先の古武之森城を訪れ、また戻ってきて南尾根から下山します。来る時に見掛けた案内表示から西斜面に降りて行くと、整備された登城道が続き、あっという間に山麓の梅園の北東最上部に着きました。直登するしかない思い込んでいたので登るときは登城道を探そうともしませんでしたが、国史跡の追加指定を目指して近年に整備されたのかな? などと、のんきなことを考えていられたのもここまで。梅園から下は道が無くなり、目印のピンクリボンはあちこちに見られるものの、とても踏み込めないような藪の中だったりで、どちらに進むべきか途方に暮れてしまいました。それでも斜面を直降しつつ、最後は倒竹を踏み砕きながら竹藪の立体迷路を突破して何とか下山しましたが、精も根も尽き果てました。やれやれ…。

…ということで、安宅勝山城の遺構は本当に素晴らしく山城好きなら間違いなく満足できると思いますが、登城道が中腹からしか整備されておらず直登・直降と藪漕ぎの覚悟が必要なため、なかなか安易にはおすすめしづらい、もったいない城でもあります。梅園の北東最上部までたどり着ければ後は問題ないんですが、どう行くのが正解なんでしょうね。あるいは国史跡に追加指定されたら登城道も整備されるのかなぁ…。
 

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ばばよ

山であり城、城であり山 (2021/10/31 訪問)

地形的にはがっつり山ですが、空堀や虎口、曲輪は明確に城の構造をを呈しています。
地形を利用しつつ計画的に城を作ったことがよく伝わってきます。

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todo94

物見櫓跡 (2022/01/02 訪問)

物見櫓跡にたつ説明板をチェックしたのみです。国済寺の土塁、いつか確認したいと思います。

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赤い城

雷神社の背後に (2022/02/13 訪問)

雷神社の拝殿前にパンフレットが置いてあります。
駐車場も神社のものを利用し、案内板に従って進むとまずは大きな空堀があります。
この堀は未整備ですが大きく深いことはわかります。
そのすぐ先に鳥居があり、登ると主郭に。
土塁が囲んでいて土塁上に石碑が建っています。
主郭は細長くなっていてその先一段下がると二郭に。
二郭には物見台も設置されています。
二郭の先から下ると門のような感じの遺構が残ります。
さらに降りると民家の敷地っぽいので引き返しました。
島田氏の居城でしたが正木氏の攻撃により落城しました。
規模は大きくないのですが地元の方により整備されて歩きやすくなっていました。

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カズサン

黄金色下見板張天守が良いですね! (2010/09/20 訪問)

 昭和45年に古写真そっくりに鉄筋コンクリート造り復興天守閣が建てられました、諏訪に出張、社内旅行、プライベート旅行と良く訪ねて居る所ですがデジタルデーターでの写真は撮って無く12年前の平成22年9月、諏訪市高島城へ日帰り登城しました。行きは東名、東海環状、中央道。帰りはナビの指示で中央道、甲府から地道の身延街道、清水から東名のワンループ走行でした。

 車は天守閣東直下の無料駐車場を利用。諏訪市役所も西近ですので利用可能。

 先ずは写真撮り映えのする水堀側へ、天守閣、土塀、隅櫓、冠木門の下見板張りの色が黄金色と言うかブラウン系で遠目で見ると黄金色に見えて他の城郭に無い景観です、杉板の真新しい感じでしょうか?
 本丸周囲を廻り、内部に入り隅櫓、土塀の副柱側の支柱が入った部分を観察、天守台、小天守台、天守閣に登閣、立体模型を観察、最上階より周囲を俯瞰、諏訪湖も見渡せます、往時は湖が天守台近くまで来ていたそうで浮城とも呼ばれていた。
 降りて城下を散策、三の丸跡の看板、当時は三の丸全て家老屋敷だったそうです。

 近世城郭としては日根野高吉が築城貢献し、高吉が関ヶ原の年に病没、子の吉明が若年により転封、代わりに諏訪氏が故郷の諏訪に入封し高島藩として10代続き明治を迎える。

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トク

(謎) 福岡城には天守があった? (2022/02/20 訪問)

福岡城にはこれまで天守はなかったとされてきましたが、近年の資料で1620年に細川忠興が息子の忠利にあてた手紙に「長政公は天守を壊すと語った」と書いてありました。
もしこれが本当だとすれば、福岡城には天守が建っていたという事になります。気になってさっそく福岡城天守台を見に行ってきました。

これに関して、これまで有識者の方などから様々な意見があり、失礼とは思いますが私の意見想像を少し。
福岡城は1601年に築城開始、1607年にほぼ完成しました。1646年の正保の絵図には、大中小の天守台はありますが天守は描かれていません。(小中天守には矢蔵跡の記述あり)
もし大天守があったとしたら、天守台の大きさからして五重六階ほどのものが建つそうです(確かにデカイ天守台です)。

【ここからは私の想像ですが】
その頃、豊臣とその恩顧の大名に次々と悲劇が起こります。加藤清正は、名古屋城普請や家康と秀頼の会見を成功させた直後の1611年に謎の病死(徳川からの毒殺説あり)。1615年には大坂の陣で豊臣秀頼が滅ぼされます。1619年には福島正則は広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、謀反の疑いをかけられ改易。 長政からすれば、次は間違えなく自分が狙われる番だと思ったでしょう。そこで、当時まだ大天守はなかったが、小中天守の矢蔵を取り壊し、その廃材を1620年から始まった徳川大坂城の普請に差し出し、天守は建てないと表明して徳川幕府に忠誠心を見せる事で、黒田家の安泰を図ったのではないかと思います。(そして安堵したのでしょうか、その直後の1623年長政はこの世を去ります)

しかし、私としては大天守があったという夢は持ち続けたいので、これからも密かにそうしたいと思います。(以上、大変失礼しました)

[福岡城へのアクセス]:JR博多駅より、市営地下鉄で赤坂門または大濠公園下車徒歩5分または西鉄バス3番系統福岡城鴻臚館前下車徒歩1分です。

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