しばむらじんや

芝村陣屋

奈良県桜井市


旧国名 : 大和

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①慶多寺に移築された陣屋南門
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:芝村陣屋 (2024/09/30 訪問)

三輪駅から徒歩15分ちょっとで、慶多寺(34.534572、135.839164)に着き、その後、織田小学校石垣土塀前(34.535403、135.843720)に向かいました。

1615年(元和元年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ10,000石を分知して隠居しました。
この長政を祖とするのが戒重藩(後の芝村藩)で、始め戒重陣屋を居城としました。
1704年(宝永元年)四代織田長清のとき、陣屋を戒重から岩田村(1713年(正徳3年)幕命により芝村に改名)へ移すため幕府の許可を得ましたが、完成したのは1744年(延享元年で織田輔宜の代であったそうです。
以後芝村陣屋を居城として芝村藩となり、代々織田氏が続き十一代織田長易のとき明治に至ります。

芝村陣屋は現在の織田小学校一帯に築かれていました。
最初に織田氏の菩提寺である慶田寺に行って、移築された陣屋門を確認しました。
その後、織田小学校に移動して石垣と土塀を確認しました。織田小学校の南側の正門脇に陣屋の案内板が建っています。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず三輪駅から王寺駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出した後、大阪府の羽衣駅に向かいました。
大阪府の羽衣駅に向かう途中、新今宮駅で551蓬莱の豚まんを購入しました。

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織田小学校 (2024/06/29 訪問)

 芝村藩は織田信長の弟である織田有楽斎の四男織田長政が開いたことに始まる藩です。以前は戒重に陣屋がありましたが1745年、第7代藩主織田輔宜の時に芝へと陣屋を移しました。桜井市立織田小学校周辺が跡地です。校門の脇に説明板があります。小学校から徒歩10分くらいの場所にある慶田寺に移築門があります。

 JR巻向駅より徒歩で箸墓古墳の横を通り約15分で行くことができます。

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しんちゃん

織田有楽斎の四男の陣屋。石垣が残る。 (2023/07/16 訪問)

芝村陣屋は織田長益の四男長政が元和元年(1615)に1万石を分知され陣屋を構えたのが始まりと
されています。
今は桜井市立織田小学校の敷地となっていますが、学校の周囲を囲む壁として
石垣が活用されているようです。
西側へ数百mほど行った先の慶田寺の山門として
陣屋南門が移築されているようです。

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ぴーかる

芝村陣屋 (2023/06/17 訪問)

【芝村陣屋】【箸墓古墳】
<駐車場他>ひみこの庭駐車場(無料)を利用
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅7城目。織田有楽斎が関ヶ原後に隠居するのに3万石のうち1万石は隠居料、四男長政に1万石(戒重藩を立藩)、五男尚長に1万石(柳本藩を立藩)を分与します。戒重藩は1745年7代藩主織田輔宜の時に立地が不便なことから芝村に移転し芝村陣屋となります。芝村藩はその後幕府領9万石以上を預かり地として任せられる事になりますが、年貢増徴収政策で農民一揆が起こり預かり地は召し上げとなります。芝村藩は明治維新まで存続しますが藩の借財はかなりあったようです。

 上記駐車場に駐車してまず箸墓古墳を周辺を散策しました。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかとする学説もある前方後円墳ですが、大市古墳:第7代孝霊天皇皇女の陵墓として宮内庁管理で中に入ることはできません。周辺散策と拝所に行きました。
 次に慶田寺の山門に芝村陣屋の移築長屋門があるのでそこに行って、陣屋跡の織田小学校に行きました。南側一線と東西の一部に石垣が残されています。南西の通りは昔ながらの街並みが残ります。南の堀跡は見落としました。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 織田輔宜
築城年 延享2年(1745)
主な城主 織田氏
遺構 石垣、移築南門(慶田寺)
再建造物 説明板
住所 奈良県桜井市芝(織田小学校)