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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:糸数城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ糸数城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

詳細は不明のようですが、糸数按司の城で、伝承によれば玉城按司の三男が糸数按司の祖とされます。

グスクの西と南は断崖で北から東にかけて石積を設けた大きなグスクです。
石積は大部分が野面積みですが、大手門などには切石が用いられています。
ここでは石積を堪能します。
攻城時間は45分くらいでした。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:南山城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ南山城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

13世紀に築かれ、歴代南山王の拠点として栄華を誇り、14世紀に最も栄えたといわれています。

南山神社の辺りに築かれていたようで、南山神社から北西の糸満市立高嶺小学校の辺りまでが城域とされてまます。
南山神社付近に積まれている切石による石垣はグスクの遺構ではなく、小学校や神社建立時の後世のものだそうです。
当時の石積みとしては神社の北東側に野面積みの石塁が残されています。
攻城当日は、糸満市立高嶺小学校でマラソン大会?が行われていました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:具志川城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ具志川城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

詳細は不明のようですが、久米島具志川グスクの二代目按司真金声(まかにくい)が戦いに敗れて沖縄本島に逃れてきて築いたとの伝承があるようです。

沖縄本島の最南端にほど近い崖の上に、南北二郭で石積が築かれています。
正面入ったところが二の郭で、その先の梅に飛び出すように一の郭が続いています。
二の郭中央付近にあるヒーフーチミーと呼ばれる「火吹き穴」があります。
この穴は東のガケ下にある横穴とこの竪穴が繋がっており、船からの荷揚げ用の穴などの諸説があるようです。現在は草ぼうぼうでよく見えません。
一の郭の石積は断崖絶壁に築かれていますが、どうやって築いたのでしょうか?

ツアーは大型バスなので付近に駐車する場所はありませんが、普通車なら入口付近に2~3台は駐車できそうです。
ツアーでは駐車場所から20分くらい歩いて入口付近に着きました。途中途中に案内表示もあり真っ直ぐ進めばいいので迷うことはありません。
攻城時間は20分くらいでした。

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詠狸庵

焼失前の正殿、北殿、奉神門などのライトアップ (2016/03/05 訪問)

数年前の画像を整理していたら出てきたものです。
沖縄県立芸術大のキャンパスから円覚寺跡、円鑑池を隔てて眺めた正殿、北殿、奉神門など。つまり北側からの眺めです。廣福門は工事中でした。
復旧を心待ちにしています。

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にのまる

筆山公園 (2023/01/03 訪問)

高知城をあとにし、日没までのタイムリミットが迫るなか、向かいました。筆山の坂道には初もうでの自動車がずらーっと並んでいましたが、その道ではなく、麓の筆山公園登り口から入りました。かなりショートカットになったはずですが、登山道はずっと墓所の中。史跡案内図にある18基だけではなく古色蒼然としたお墓がたくさんあります。急ぎ足で通り過ぎることに何だか申しわけなさを感じながら樹木の生い茂る中を登りました。足元は整備されていて登りやすかったです。
途中から左の山道に入りダダダーっと登っていくと車道、そして駐車場に出ました。眺望がひらけ、深い山並みに抱かれた土佐の街と鏡川、それから高知城天守もはっきりと捉えることができました。夕焼け色に染まりゆく景色がとても美しかったです。
しかし、ここは多分まだゴールじゃない。
獣道のようなところがあったので入ってみました。それっぽい石積みもあります。猫もいます。でも……ここでもない。
戻ってあたりを見ると、左手にハイキングコースが続いていました。その先数分で志鵬台展望所。城碑などはありませんでしたが先達の皆様に倣いゴールイン。
山頂の削平地を囲むのは帯郭のような雰囲気もありましたが果たして。日没までに下山したかったのでここまでとし、それ以上の探索はしませんでしたが、この場所、この見晴らしが城の主要な要素のかなりの部分を占めているのではと思いました。

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トク

⑲【関ケ原の26人 】(10)竹中重門 (竹中陣屋・菩提山・五明神社) (2022/11/29 訪問)

(10人目)は「竹中重門」です。
菩提山城の麓にある「竹中陣屋」を訪れてきました。

竹中重門の父は、あの有名な軍師「竹中半兵衛」です。亡き半兵衛は背後に見える菩提山城を居城としていました(写真④の背後の山の頂上)。そしてこの関ケ原一帯は実は竹中氏の領地でした。

重門は当初は西軍に加わり犬山城を守ります。しかし黒田長政に説得されて東軍に寝返り、長政と共に石田三成と戦いました。

黒田長政は幼少(松寿丸)の頃、父の黒田官兵衛が荒木村重の三木城から帰らぬのを(実は三木城で幽閉されたのを)織田信長は謀反と勘違いし、信長は秀吉に「松寿丸を殺せ!」と命じます。しかし、秀吉は殺す事はできず半兵衛が密かに匿います。その匿ったとされる五明神社が陣屋から300m南の地にありました(写真⑦⑧⑨)。ここで幼少の頃の重門と長政は出会っていて、次第に気心の知れた仲になったと思われます。よって長政からすれば重門をこの時から弟のように思っていたのでしょう。岐阜城が落ち、犬山城の戦いが始まってから徳川に寝返ったのでは遅い! 何としても重門を死なせるわけにはいかない! と急ぎ説得したようです。そして、自分の陣(岡山烽火場)に招き入れ、一緒に西軍と戦ったという既成事実を作って家康を納得させようとしたものと思われます。

そして重門は伊吹山中に逃げる小西行長を捕らえるという功績を上げ、これで家康からも認められました。さらに戦後、家康の命により、東塚と西塚を造り、戦死者を東軍西軍分け隔てなく弔いました。そして農民には当面年貢を免除し、家康からもらったお金を領民に分け与え、戦で荒れ果てた田畑の復興に尽力しました。

関ケ原から後、重門は菩提山から麓の現在の場所に陣屋を構えます。そして旗本となり幕末まで竹中家は続きました(写真①)。重門が建てた陣屋にもかかわらず、なぜか?半兵衛の銅像がありました(写真②)。駅前にも半兵衛の銅像が?(写真⑩) 地元への貢献度は重門の方がはるかに上だと思うのですが・・・、半兵衛の方が垂井の人々にとってはスーパースターなのでしょうか?(重門がちょっとかわいそう・・😩)

〈アクセス情報〉
垂井駅前(半兵衛銅像前)の観光案内所で自転車を500円でレンタルすることができます。また同じく駅前から1時間毎に、菩提山方面行や南宮山方面行のコミュニティバスが走っているので便利です(1回100円先払い:いずれも写真⑩の場所)。私は雨だったのでバスを利用し菩提山(竹中陣屋)や南宮山(吉川広家陣跡)を訪れました。

次は、(11人目)へ続きます。
 

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浦上氏の城 (2023/02/08 訪問)

 備前地方でも屈指の輪郭式山城とパンフレットに記載されていました。主郭を中心に主に西側および南北に階段状に曲輪が展開して、その下は崖となっています。東側は尾根となっていて堀切と出丸で守られています。堀切、土塁、石積みを見ることができます。

 備前片上駅から徒歩約10分で登城口に行くことができます。登城路も城址もよく整備されていて歩きやすい。主要な曲輪を散策後、大手筋から下りてみたいと思いましたが、犬走りの所で下へ続く道らしき地形を見つけましたが、トラロープで遮られていました。

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ぴーかる

太鼓丸城編 (2023/01/21 訪問)

【太鼓丸城】
<駐車場他>和気美しい森に駐車
<交通手段>車

<見所>堀切・巨石・石門・石積み跡
<感想>太鼓丸城の築城は室町時代以前に日笠青山城主の日笠氏によって築城されました。戦国時代に兄と対立した浦上宗景が太鼓丸城に入城し独立対抗します。宗景が太鼓丸城の北西位置に天神山城を築城後は東の出丸の役割をします。天神山城の戦いで落城後は宇喜多氏に使用されたかもしれません。
 2022年12月に美作・備中の旅の際に2日目降雨で断念したので今回は好天を狙い日帰りで十分に攻めました。和気美しい森のキャンプ場は城跡来訪者も自由に入れます。入口の網をくぐってすぐキャンプ場内に城跡の鳥瞰図があります。真っすぐ奥にゲートがあり中に入ります。ゲート手前にも土塁の看板がありキャンプ場も城跡の一部だったようです。ゲート内側からも削平地が続き、左手に根小屋跡、右手にも広い削平地があり加工したような四角い石が所々に落ちています。広い削平地から左にカーブして先が尾根曲輪になります。堀切や腰曲輪、石門のある巨石・軍用石を通過して主郭に至ります。主郭はかつて石垣囲みで東側の虎口面と反対側の西面には石垣が一部残されています。南と北側には巨石があり眺望が良いです。かつて1つの城だっただけにここだけでも十分な見応えでした。天神山城編につづく。

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POYO58

石垣、枡形虎口 (2023/01/29 訪問)

吉田城は石垣の縄張りがすごいですね。特にすごいのが本丸です。
本丸は石垣から熟慮すると多聞櫓に囲まれ4つの櫓がたち、3つ門が設けられていたことがわかります。また大堀切が本丸への行手を阻んでいるため、なかなか本丸に辿り着けませんね。さらに三河のお城に多いのですが、堀切底から登りにくくするため石垣が用いられています。
石垣の縄張りとして特にすごいと思ったのが北側ですね。豊川に面する方ですが、まず川沿いに建っていた川手櫓で豊川から攻める敵を撃退でき、ここを越えられても跡ちょっとで本丸なのに北多門の枡形によって圧倒的に撃退されてしまうんですね。またここを通らずに本丸へいく方法はないですね。腰曲輪の石垣と二の丸と本丸を繋ぐ堀切がうまく邪魔しています。
また南側も強いですよ。南多門の枡形虎口は石垣が高く敵が丸見えに。さらに内枡形なので結構手強いですね。

なかなかの難攻不落度です。初めての方でも行きやすく、櫓台と門跡がしっかり残っているので城らしさが感じられると思います。

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チェブ

脳トレ説明板。 (2023/01/03 訪問)

「小谷城」と言っても浅井三姉妹がいない、栃木県の「小谷城」です。「こや城」と読みます。

県道174号沿いに石碑と説明板があります。その前に、車が1台 停められるスペースがありました。
奥に『神明宮』があります。

平安時代末期~鎌倉時代初期に、小谷 三郎俊影が築城しました。「小山城」の支城にもなっているようです。小谷さんと小山さんが争ったのかな?
「小谷城」は「小山城」と共に廃城しました。
んー、説明板がビリビリで残念な状態になっています。
破けてる部分と、小谷・小山でこんがらがってきます。

城びとのイベント、【城×説明板】があったら確実に「小谷城」でエントリーします。

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朝田 辰兵衛

加茂城(新潟県加茂市) (2023/01/21 訪問)

【かも じょう】標高:104m,比高:約84m。中世青海荘は,現在の加茂市を中心として展開されたと考えられています。その加茂市中心部を監視できる要害が,加茂城となります。JR加茂駅の南東,加茂川の南に位置し,加茂山公園として市民に親しまれています。散策道も整備されています。
本丸の西側に3条の堀切を経て,物見用の剣ヶ峰砦がありますので,見落とし注意です。
当時の登城道とされる本丸南側ルートは未整備で,冬場でも危険を伴うと判断して散策を断念しました。名物と思われる手書きのパネルは無残な姿となっていました…。

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イオ

紀州東照宮と和歌浦 (2023/01/21 訪問)

大河ドラマにあわせて…でもないんですが、仕事ついでに紀州東照宮と和歌浦を訪れました。紀州東照宮は、紀州徳川家初代・頼宜が父・家康を祀るため万葉集にもうたわれた景勝地・和歌浦に創建した神社で、例大祭「和歌祭」は昨年に創始四百年を迎え、松平健さんが徳川吉宗公(暴れん坊将軍)として渡御行列に参列されました(観に行きたかった…)。

紀州東照宮の駐車場に車を駐めると、係員が車まで来るので駐車料金(1時間300円)を支払います。一応は有料ですが、社務所で駐車券を示すと1名分の拝観料(大人300円)が無料になるので、実質的にはタダです。
鳥居をくぐって参道を進むと、両脇に紀州藩士が奉納した石灯篭が立ち並んでおり、創建時からの石灯篭も見られました。参道の石橋を渡った先には壁のような急斜面に侍坂と呼ばれる石段が続いています。その名のとおり頼宜の指揮のもと藩士が一段一段積み上げて築いたもので、108段の石段を上りきることで全ての煩悩を落として参拝できるんだとか。侍坂の上には楼門が建ち、楼門の両脇には祭神の家康・頼宜父子と思しき木像が祀られています。
境内は広くはないものの、朱塗りの唐門と権現造の社殿が目にも鮮やかです。神域のため撮影禁止でしたが、本殿は左甚五郎の彫刻や狩野探幽の壁画で華やかに装飾されていて、関西の日光と呼ばれるのも納得です(さすがに日光東照宮には遠く及びませんが)。境内をひとめぐりして楼門を出ようとすると、楼門越しに和歌浦が一望できました。和歌浦の景観は往時からずいぶん変わっているんでしょうけど、頼宜がこの地に東照宮を創建したのは亡き父にこの景色を見せたかったからだ、とするブラタモリ説にも頷くところのある情景でした。

また、紀州東照宮が頼宜が亡父を祀った神社なら、東照宮から南東に約1km、和歌浦に浮かぶ妹背山と呼ばれる小島には、頼宜が亡母・養珠院を弔うために建てた海禅院の多宝塔が現存しています。多宝塔下の石室の調査では、家康の三十三回忌供養として養珠院が埋納した多数の経石に加えて、養珠院のものと思われる遺髪が発見されているようです。妹背山には頼宜が築造した県内最古の石橋とされる三断橋が続いており、紀州青石(和歌山城の石垣にも用いられている緑色片岩)が敷き詰められています。
三断橋から南西に徒歩2分には東照宮和歌祭の御成道として幕末期に架けられた不老橋があり、九州以外では珍しい江戸期のアーチ型石橋で、和歌浦の名所のひとつになっています。

# 位置的には雑賀城が最寄ですが、紀州徳川家ゆかりの史跡なので和歌山城の周辺観光で投稿します。
 

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)2日目:中城城 (2023/02/04 訪問)

「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で中城城に行って来ました。
中城城は2回目の攻城になります。
1回目は、「クラブツーリズム沖縄の名城5つを全てめぐる2日間」で2019/1/28に攻城しました。

前回攻城した際は裏門から入城しましたが、今回は正門からの入城です。
攻城ルートは、駐車場➡カンジャーガマ(鍛冶屋跡)➡南の郭➡一の郭➡二の郭➡西の郭と北の郭を経由して、三の郭➡ウフガー➡裏門➡記念運動場➡駐車場に戻りました。
幕末に来航したペリー提督が、調査し称賛した城門アーチ門は裏門のようです。
三の郭の城壁も素晴らしいですが、個人的には記念運動場から見る中城城の南側の城壁の景観が好きです。
攻城時間は50分くらいでした。本日の攻城はここで終り、宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)2日目:今帰仁城 (2023/02/04 訪問)

「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で今帰仁城に行って来ました。
今帰仁城は2回目の攻城になります。
1回目は、「クラブツーリズム沖縄の名城5つを全てめぐる2日間」で2019/1/27に攻城しました。

曲輪を囲む城壁はきれいな曲線を描いていて、中国の「万里の長城」ほどではありませんが見ごたえはあります。
主郭から先の志慶真門郭(しじまじょうかく)は、前回攻城した際は見学できませんでしたが、志慶真門郭から主郭の城壁が見上げることができます。
前回攻城時も桜の時期でしたが、今帰仁城はカンヒザクラとのセットが映えます。
観光客が多く、人物をはずしての写真撮影に苦労しました。
攻城時間は90分くらいでした。

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にのまる

100名城スタンプ85個目・現存天守10個目 (2023/01/03 訪問)

年末年始の城旅後半は四国に上陸しました。
真っ先に向かったのが高知城です。
土塀の物見窓、石樋、忍び返し、高欄の擬宝珠など、見たいものがたくさんあったのでそれらを見つけるたびにうれしくなりました。
三の丸から搦手にまわり御台所屋敷跡から黒鉄門を潜って本丸へという邪道をしてしまったのですが、おかげでどこがどうなっているのかさっぱりつかめず、でもその状況にあることがとても楽しかったです。
スケールや距離感、高低差などがイメージと違っているところもあって、こういうことなのか!の連続でした。

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キンヤ

徳川四天王 榊原康政生誕の地 (2023/02/05 訪問)

豊田市上郷町は徳川四天王の一人である榊原康政生誕の地とされます。

上野上村城 (上野城)は1400年代半ば頃に戸田宗光が築城したと伝わります。
戸田氏が渥美半島に移った後、阿部氏、桜井松平氏、酒井氏と城主が代わりました。
1563年の三河一向一揆の時、城主の酒井忠尚は一揆勢として戦いましたが、家康方に攻められ落城したといわれます。

説明板の諸国古城之図を見ますと、本丸は堀で囲まれ、西・南側は曲輪が配され、北・東側は深田であったようです。
現在、本丸は上郷区民会館・護国神社となってますが、上郷区民会館の西側に遺構として櫓台跡の分厚い土塁が残っており、その上に城山稲荷とお社が鎮座しています。
西三河の平城は遺構が残らない所が多いので、一部でも残っていて嬉しいです。
諸国古城之図で本丸の南西部に描かれた黒の四角が、今残る櫓台跡の土塁のようです。
本丸北側の護国神社には上野城跡無縁佛供養塔があり、大東亜戦争 従軍之碑は土塁状の上に建てられています。
本丸の北東・東側を流れる川が堀の名残と思われます。

榊原康政生誕之地の石碑が建てられていますが、上野上村城から南へ約300 mの位置にある上野下村城(会下城)が生誕の地ともされます。

上野下村城は内藤清長が築城したと云われますが、榊原清長(榊原康政の祖父)が城主であったともされ、会下山という台地に築かれましたが、今は平地化され住宅地となっており遺構は残っていません。

上野上村城から南西へ約300mの位置にある天道院の前にも、榊原康政誕生地の石碑があります。

2ヶ所に生誕地の石碑がありますが、互いに近いですし、上野上村城と上野下村城があった上郷町で生まれた事は確かなようです。

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侍ホリタン

特別公開「乾小天守、イ・ロ・ハの渡櫓、東小天守」 (2022/07/15 訪問)

普段は公開されていない「乾小天守、イ・ロ・ハの渡櫓、東小天守」の内部が期間限定(2022年7月15〜8月31日)で公開されました。三の丸広場の反対側、お城の北側から見える小天守、渡櫓の内部公開になります。

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カズサン

【三河・登屋ヶ根城】愛知県豊川市 深い喰違空堀が見所⁉ (2023/02/04 訪問)

 香川画伯の岩略寺城俯瞰図に描かれてる登屋ヶ根城も岩略寺城、長沢城と周辺、巨勢陣屋を探訪し歩き疲れ足裏が痛み出したので車を駐めた誓林寺へ戻り登屋ヶ根城へ向かいました。
 ガイド情報は城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。

 住所:愛知県豊川市長沢町番場37
 駐車場:在りません、閉館ホテルの入口スロープへ縦列路駐
 登城経路:国道1号線の関谷交差点から西に100m先に吉川塗装手前の細い道を南は入る道なりに約300m程に閉館ホテル入口

 登城:北側のホテル入口から少し戻ると竹林中に白い城名標柱が有ります、標柱が竹林樹々に囲まれて横の解説文は確認できず、標柱からさらに戻って深く大きい空掘りが有ります、1郭の北東角の土塁が高切岸で立派に残って居ます、空堀の東側2郭の登城路を登り空堀を上から望む、2郭は畑の様です、あまり入り込めないので降りて南側へ西先端を回り込み南側から眺めると東に2郭へ登る登城路有り、南側の空堀も有るが樹木で覆われている、登ると北側空堀と南側空堀が喰違い、土橋と成って居る、2郭は現在畑の様、1郭と西先端は閉館ホテルの敷地の様、覗ける所から確認してあまり深くは入りませんでした。
 見所は1郭と2郭間の食違い空堀でしょうか?、1郭の北東角の高土塁と深い空堀も見ものです。
 (1郭、2郭は余湖図コレクションさん俯瞰図の名称に由ります)

 また、南側に20,30mの所に江戸期に造られた長沢「フロノ下」の猪垣が有ります、猪、鹿を防ぐ石垣だそうです見事な造りです。

 歴史:現場の城名標柱の案内が確認出来ませんでしたので、城郭放浪記さんの内容によると今川氏により造られ、桶狭間合戦の後、家康に備えて今川の家臣を城番に置き、永禄4年(1561年)家康が攻略した。
 詳細は城郭放浪記さんを見て下さい。
 

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)2日目:首里城(玉陵(世界遺産)) (2023/02/04 訪問)

「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で玉陵(世界遺産)に行って来ました。
ここはグスクではありませんが、ツアーの見学に含まれていたので首里城の周辺観光として投稿します。

首里城の守礼門から、徒歩6分450m西方向の首里城前交差点先に玉陵(たまうどん)があります。
首里城公園のパンフレットにも玉陵の記載があります。
玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は3つに分かれ、東室は王様と王妃がねむる部屋、中室は洗骨前の遺体を安置する部屋、西室は王子や王女がねむる部屋です。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)2日目:首里城(円覚寺跡&第32軍司令部壕) (2023/02/04 訪問)

「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で円覚寺跡に行って来ました。
ここはグスクではありませんが、ツアーの見学に含まれていたので首里城の周辺観光として投稿します。

首里城の久慶門から徒歩2分140mくらいで円覚寺の総門前に着きます。
首里城公園のパンフレットにも円覚寺総門の記載があります。
円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、屋号を天徳山と称したようです。
第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院だったそうですが、大戦によって破壊されました。
総門は復元、放生橋は修復されたもののようです。

円覚寺の総門前から徒歩2分170mくらいで第32軍司令部壕に着きます。
第32軍司令部壕は首里城公園のパンフレットには記載がありませんが、円覚寺の総門前から歩くと世界遺産の「園比屋武御獄石門」手前に案内板があります。
第32軍司令部は1944年(昭和19年)3月、南西諸島の防衛を目的に創設されました。
1945年(昭和20年)3月、空爆が激しくなると、第32軍司令部は地下壕に移動し、米軍との決戦に備えたそうです。
現在、坑口は塞がれ中に入ることはできません。
見学時間は円覚寺跡&第32軍司令部壕を併せて15分くらいでした。

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