(22人目)「毛利輝元」の続きです。
輝元が関ケ原直前に入った「大坂城」を訪れてきました。
三成から要請を受けた輝元は、1600年7月17日西軍総大将として大坂城へ入ります。
9月15日関ケ原で敗戦が決した時、毛利輝元と毛利本隊はまだ大坂城に残っていました。そして南宮山にいた子の毛利秀元の軍とともに無傷でした。これに大坂に戻った立花宗茂・毛利元康・長宗我部盛親の軍勢を合わせれば総勢約6~8万、東軍とまだ互角の大軍勢とそれに何といっても大坂城には豊臣秀頼がいました。もし、このまま籠城し、再度決戦したらどうなっていたでしょうか? 東軍はほとんどが豊臣恩顧の大名、よって秀頼に弓を引く事はできません。さすれば勝機もあったかも? いや少なくとも有利な条件で和睦には持ち込めたはずです。
この時、本多忠勝と井伊直政が「輝元の本領は安堵する」書かれた家康の起請文を持ってきます。それを見た輝元は安易にそれを信じ、大坂城で再度決戦を叫ぶこれらの諸将を抑え何と広島に戻ってしまいました。
すると家康はそぐにその起請文を反故(ほご)にし、毛利120万石を召し上げ、周防長門36万石を吉川広家に与えようとします。家康にだまされたと気づいた広家はこれに驚き、自分に代わり周防長門は輝元に与え毛利家を存続させてほしいと嘆願、家康はそれを受け入れました。そして最終的に輝元は何も抵抗せずこの36万石への大減封を受け入れてしまいました。それはいったいなぜだったのでしょうか? これには諸説がありますが、真相はいまだ謎のままです。
私は大坂城の天守に立ち考えてみました(写真⑤)。家康には豊臣恩顧の大名が多く加わりました。それに比べ、自分には重臣であるはずの毛利の両川(吉川広家・小早川秀秋)からも裏切られてしまいました。本当はこの求心力の違いに、失望してしまっていたのではないでしょうか?・・・
次は、関ケ原後の居城「萩城」へ続きます。
【余談】大阪と串かつ
夜の道頓堀に出て見ました。しかしなぜか居酒屋という看板が見当たりません(おや🤔?)。不思議に思いましたが、よく見ると大阪ではどうも「串かつ屋=居酒屋」なのかもしれません。右も左も串かつ屋の看板だらけでした。そこである有名な串かつ屋に入ってみました。「二度付け禁止!」の人形がとてもおもしろかったです😊(写真⑨⑩)。
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