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トク

57【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と大坂城) (2022/07/20 訪問)

(22人目)「毛利輝元」の続きです。
輝元が関ケ原直前に入った「大坂城」を訪れてきました。
三成から要請を受けた輝元は、1600年7月17日西軍総大将として大坂城へ入ります。

9月15日関ケ原で敗戦が決した時、毛利輝元と毛利本隊はまだ大坂城に残っていました。そして南宮山にいた子の毛利秀元の軍とともに無傷でした。これに大坂に戻った立花宗茂・毛利元康・長宗我部盛親の軍勢を合わせれば総勢約6~8万、東軍とまだ互角の大軍勢とそれに何といっても大坂城には豊臣秀頼がいました。もし、このまま籠城し、再度決戦したらどうなっていたでしょうか? 東軍はほとんどが豊臣恩顧の大名、よって秀頼に弓を引く事はできません。さすれば勝機もあったかも? いや少なくとも有利な条件で和睦には持ち込めたはずです。

この時、本多忠勝と井伊直政が「輝元の本領は安堵する」書かれた家康の起請文を持ってきます。それを見た輝元は安易にそれを信じ、大坂城で再度決戦を叫ぶこれらの諸将を抑え何と広島に戻ってしまいました。

すると家康はそぐにその起請文を反故(ほご)にし、毛利120万石を召し上げ、周防長門36万石を吉川広家に与えようとします。家康にだまされたと気づいた広家はこれに驚き、自分に代わり周防長門は輝元に与え毛利家を存続させてほしいと嘆願、家康はそれを受け入れました。そして最終的に輝元は何も抵抗せずこの36万石への大減封を受け入れてしまいました。それはいったいなぜだったのでしょうか? これには諸説がありますが、真相はいまだ謎のままです。

私は大坂城の天守に立ち考えてみました(写真⑤)。家康には豊臣恩顧の大名が多く加わりました。それに比べ、自分には重臣であるはずの毛利の両川(吉川広家・小早川秀秋)からも裏切られてしまいました。本当はこの求心力の違いに、失望してしまっていたのではないでしょうか?・・・

次は、関ケ原後の居城「萩城」へ続きます。


【余談】大阪と串かつ
夜の道頓堀に出て見ました。しかしなぜか居酒屋という看板が見当たりません(おや🤔?)。不思議に思いましたが、よく見ると大阪ではどうも「串かつ屋=居酒屋」なのかもしれません。右も左も串かつ屋の看板だらけでした。そこである有名な串かつ屋に入ってみました。「二度付け禁止!」の人形がとてもおもしろかったです😊(写真⑨⑩)。
 

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しんちゃん

映画「忍びの国」で有名になった城。 (2023/07/15 訪問)

かつて伊賀の国人衆が織田信雄の築城途中の丸山城を攻めたことが天正伊賀の乱の
発端となり、織田信長の伊賀平定のきっかけとなりました。
最近では「忍びの国」という嵐の大野くん主演の映画にも出てきましたね。
北からも登城できるようなのですが、南からのルートが一番安全そうなので
南から攻めました。その際、近くにある公民館の駐車所を使用させていただいています。
南口から入ってすぐに、小さな神社のある郭のような場所があり、ここから北上すると
すぐに主郭にたどり着きます。主郭の中心は天守台になっているらしく
大きな城址碑が建っているのですが、ひどいヤブでまったく周囲の状況が判別できません。
足元も定かでなく危ないので、尾根上の郭を通過しながら西の下山口を目指します。
途中、堀切や土塁の遺構を目にしたのですが、それほど大きなものでもないようです。
西の丸の端が給水施設になっているようで、そこから道沿いに下山していきます。
下山途中、いくつか兵を駐屯できそうな扁平地がありました。
主郭部以外はそれほどヤブ化しておらず歩きやすいのですが
肝心の主郭があの状態なのは残念な所です。
自治体が草刈りをしてくれると助かるのですが‥



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しんちゃん

季節が良ければ最高の気分で散策できる城。 (2023/07/15 訪問)

采女城は三重郡地頭職、後藤氏の城で、後藤采女正藤勝の時に織田信長の軍勢に
攻められ城主は討死、千奈美姫も井戸に身投げして父の後を追ったと伝わります‥
そんな可哀そうな伝説の残る采女城ですが
整備の良く行き届いている、素晴らしい山城(平山城)で、各郭の間は堀切で仕切られ
各郭には土塁が残っています。
季節が良ければ散策していて最高の気分を味わえるのですが、今回訪問したのが7月半ば
しかも記録的な猛暑とあって、なかなかきっつい‥
主郭を中心に各郭が配置してあって、南東に八郭、北側に二郭と三郭と続き
それぞれの郭はかなり大きな堀切で仕切られていますが
木橋がかけられていたりして移動にはそれほど苦労しません。
三の郭から四郭に移動できるのですが、その道中の北側には土塁が配されています。
主郭に戻って南西部の五郭に向かいますが周囲にロープが張ってあって
立ち入りを制限しています。
その中に入り込んで南西に向かえば六郭、七郭に至るはずなのですが
今回は五の郭までで探索を終了しました。

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しんちゃん

主郭部の鵜森神社の周辺に土塁が残る (2023/07/15 訪問)

浜田城は現在、鵜の森公園となっていて、東側にある鵜森神社の周辺には
土塁が残っていて冠木門が備え付けてあります。
南側にある池はかつての堀の名残で、南西部には茶室・泗翠庵
北西部には土塁のような土盛があります。

かつては、田原忠秀によって築かれ、二代 田原元綱の時に、織田信長家臣
滝川一益によって攻められ、浜田城は落城、元綱は討死し
その息子の重綱は生き延び、織田信雄に仕えましたが
小牧・長久手の戦いで討死して田原家は滅んだとされます。

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しんちゃん

線路越しに土盛と看板が見える。 (2023/07/15 訪問)

久々の登録になります。先日、奈良、大阪など4日間の近畿遠征をしてきたのですが
予想外の猛暑で、奈良、三重の山城めぐりと大阪城を2時間ほど散策したのとで
体力をかなり削りました。
後半は大阪市街のポチ城(すぐに回れて、簡単にポチれるのでポチ城)が多かったので
なんとか乗り切れましたが、この時期の山城めぐりはちょっと厳しいですね。

茂福城は線路の南側に土塁らしき土盛が残り城址碑や石碑が立っています。
この部分は主郭の北西角にあたり、中心部は宅地になっているようです。

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イオ

とことん江戸城(JR飯田橋駅) (2023/06/09 訪問)

この日は日帰り出張。雨予報でもあり、前週(6月2日)のような豪雨で新幹線が遅れても困るので、1時間ほど早めに家を出たら定刻通りに着いてしまい、その分、飯田橋駅周辺を散策しました。

前回、牛込門を訪れたのは早朝で、開館時間前だったためJR飯田橋駅西口の史跡展望テラスには上がれず、総武線ホームにある外堀の堰の説明板なども未確認でしたので、今回はその辺を見てやろうとJR飯田橋駅に降り立つと、目の前にそびえる牛込門枡形の石垣!  地上から見ても大きく感じましたが、外堀跡を走る総武線のホームから見ると倍以上の高さがあります。飯田橋駅なんてこれまでに数え切れないくらい通過しているはずなんですが…意識していないと気付かないものですね。ホームの北側からは北隅の枡形石垣の下部分も覗いています。また、ホームの移設工事に伴う発掘調査では、牛込濠の水位を調整する堰の一部とされる石敷が確認されています。石敷はホームの下に埋め戻されていますが、ホームの舗装の色を変えて石敷の位置がわかるよう表示されています(説明板もあります)。

ホームから改札を出て、西口2階の史跡展望テラスへ。あいにくの雨で眺望はききませんでしたが、説明板と見比べながら牛込門を上から見ることで枡形の構造がよくわかるようになっています。また、北隅の枡形石垣からのびる土塁も上から眺められますが、まだ整備工事中のようでした。ただ、昨年よりは工事は進んでいる様子なので、いずれ開放されるのが楽しみです。

…と、前回に見学した西口1階駅前広場の江戸城外堀跡の解説コーナーとあわせて、JR飯田橋駅だけでもなかなか見どころがありますので、ちょっとした時間ができた方にはおすすめです。
 

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todo94

リベンジその2 (2023/06/11 訪問)

目黒学院前の道は一度歩いたことはあるのですが、まさかここが目黒氏館だったとは。標柱なり説明板なり何らかの表示があればよかったのですが。学校の門扉の上の金色の飾りは槍先を模しているようにも感じられました。

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chiroru

三階櫓以外は至近距離で楽しめます (2023/07/22 訪問)

失礼なタイトルですみません(;^_^A

T字形の屋根と三匹の鯱は魅力的ですよねー、今回は観光ガイドボランティアさんをお願いし新発田城をじっくりと楽しめました。

300年前に造られた門を通れるなんて嬉しいに決まってます!その二階の石落としを覗くのもワクワクしたし、逆に櫓の下に居れば、「どんどん」って二回からの足音も聞こえます。門の乳金物や装飾もザラザラとして趣も感じられるし、これからも大切に保存をしてもらいたいなと切に願います。石垣がなんとも丁寧できれい。ほんとに至近距離で見れるし触ることもできるしで・・・テンションが上がりっぱなし。復元の辰巳櫓の屋根、瓦葺で一枚だけ当時の丸瓦(写真中央部:手前から2番目の白く模様のある瓦)を使ってると案内して見させてもらいました。
旧二の丸隅櫓では耐震のための構造を丁寧に説明いただき、これから登城するであろう場所では確認事項に入りそう(笑)
たくさんの遺構が残っているわけではないのですが、本当に一つ一つに趣があるし貴重なんだなと思います。

道路を挟んで反対側の広場には堀部安兵衛さんの銅像があります。ルーツや功績などを改めて確認。ガイドさんも小さい頃から食べていたと言われた「アイスもなか」を安兵衛茶屋で購入し美味しく頂きました。もなかの皮の中にはややシャーベット状のアイスです。
胃袋も心も満腹です!

観光ガイドさんの案内ももちろん良かったです、ぜひともお願いされると新たな発見あると思います。

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はたけ

玉藻公園 (2023/07/06 訪問)

天守閣が再現されるといいですね

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城好きのメガネ

「田原城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆☆
田原城は、1480年頃に戸田氏中興の祖と称えられる戸田宗光が築いたとされる。今川氏の傘下に入るが、桶狭間の戦いの後は今川氏から独立した徳川家康によって攻略され、東三河の旗頭として吉田城を与えられた酒井忠次の指揮下に入る。1590年、徳川家康が関東へと移封する、吉田城に入封した池田輝政の傘下に入る。田原城には重臣の伊木忠次が城主となる。池田氏の統治期に、石垣の修築や城下町の整備などが行われた。1664年に徳川譜代の家臣である三宅氏が入封、幕末まで治める。戊辰戦争では家臣らの説得に応じて新政府軍に恭順する。現在、曲輪、石垣、土塁、横堀等が遺されている。

<アクセス>
豊橋鉄道渥美線 三河田原駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「牛久保城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
牛久保城は、牧野成勝が築城したとされる。今川氏の支配下に入っていたが、後に徳川家康に服属する。1590年、牧野康成が徳川家康の関東移封に従って、上野国勢多郡大胡に移る。牛久保城は吉田城(続日本100名城)に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久が城主となる。関ヶ原の戦いの後は、天領となり1700年頃に廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR牛久保駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「上野上村城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
上野上村城は、戸田宗光が築城したとされる。戸田宗光は、室町幕府・政所執事 伊勢貞親の被官。渥美郡の田原城や仁連木を築城し、両城の初代城主となる。戸田氏中興の祖と称えられる。戸田宗光が渥美半島に移った後は、酒井忠尚が城主をつとめる。三河一向一揆では酒井忠尚が一向宗側についたため、徳川家康に攻め落とされ、廃城となる。また、徳川四天王・榊原康政の生誕地ともされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
愛知環状鉄道線 三河上郷駅 徒歩10分

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くらのり

仁保城 (2023/07/16 訪問)

15世紀末、広島湾頭では安芸国守護武田氏と周防の大内氏の勢力が声選していた。当時は広島湾に浮かぶ島で、仁保島と呼ばれていたことから仁保島城ともいい、広島湾頭に浮かぶ要塞の山城であった。
明応4年(1459)武田氏はその警固を府中城主白井氏に命じており、大内勢の侵攻のあったことも知られている。
武田氏が滅びた後、毛利氏の勢力がここにも及んで、弘治元年(1555)厳島合戦に先立っておこなわれた「仁保島合戦」では陶方の三浦房清の攻撃を香川光景が撃退しています。
城址には遺構は存在しないが、公園になっている三の丸周辺に石積み跡があります。

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くらのり

杵築城 (2023/06/12 訪問)

三方を海に囲まれた海城で、戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、また「関ケ原の戦い」の際には当時、丹後宮津城主の細川忠興に飛び地として与えられていた杵築城は旧領の回復を計画する大友勢の吉弘統幸によって攻められますが、黒田官兵衛によって救援されています。
現在、山上は城山公園として整備されており、石垣が一部残っています。
また模擬天守(資料館)が建てられ、中では甲冑を着る体験もできます。杵築城の最大の魅力はその城下町で、武家屋敷群、職人町寺町など、当時の風情が色濃く残っています。

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くらのり

日出城 (2023/06/12 訪問)

豊臣秀吉の正室・ねねの甥にあたる木下延俊が、義兄であった細川忠興の支援を受けて築いた城です。
別府湾に面して築かれた海城で、天守台から眺める光景は見事に。1874年(明治7年)に廃城令によって破却されましたが、穴太積みの石垣が現存しています。
現在、本丸跡には日出小学校があり、石垣以外にも堀の一部時鐘が残っています。また、2010年(平成22年)に裏門櫓が、2013年(平成25年)には鬼門櫓がそれぞれ二の丸に移築復元されています。
ちなみに大分県の特産品「城下カレイ」は日出城城下の海岸近くで漁獲されることから名づけられました。

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くらのり

大分府内城 (2023/06/11 訪問)

大分市街の中心に位置する大分府内城は平城であり、安土桃山時代後期に府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城しました。
しかし福原氏は改易され、関ヶ原の戦い後に竹中重利が完成させたと言われています。
また、大分府内城は海城でもあります。豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名の多くは海城を居城とすることが多かったそうです。
現在城跡は、大分城跡公園となっており、本丸跡に二重櫓と、西丸に宗門櫓が現存しています。石垣、土堀、堀とともに史跡に指定されています。

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AJ

Coedo (2016/07/24 訪問)

江戸の衛星城下だった川越(埼玉県川越市)。徳川治世も家光の頃になると出世に必要なのは武功よりもむしろ官僚としての民政能力(とりわけ治水事業)だったとか。5代藩主・松平信綱はその代表格とされる人物で、舟運整備や新田開発で幕領発展のモデルケースを示したそうです。

官職「伊豆守」にかけて「知恵伊豆」(知恵出ず)と呼ばれた老中。一方で、茶の湯、歌、碁のすべてを好まない真面目な性格のためか「才あれど徳なし」のレッテルを貼られたというから少し驚きます。もちろん、こういったオーソドックスな官僚こそが2世紀以上にわたる「パクス・トクガワーナ」の時代を支えたという側面はあるのかもしれません。

川越城は19世紀中ごろに建てられた本丸御殿の一部が現存。かつての城域の大半は博物館や美術館、高校などになっています。もとは15世紀後半、扇谷上杉氏が古河公方に対抗するために築城したと伝わります。一方、先日紹介した鉢形城(埼玉県寄居町。こちらも100名城)に拠った山内上杉氏との抗争も有名で、双方をセットで訪れるとその距離感や事の実相が掴みやすくなりそうです。

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ランフランコ

#28 霞ヶ城 (2023/07/22 訪問)

お濠もなくなり山の上でもないので、拝観するのはすごく楽チンでした。当日は灼熱でしたが天守の中は風が吹き抜け快適でした。

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城好きのメガネ

「井田城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
井田城は、岡崎城(日本100名城)と大樹寺を結ぶ直線上に位置している。酒井氏五代の居城とされ、徳川四天王・筆頭 酒井忠次の出生地とされる。1535年、森山崩れの後、尾張の織田信秀が井田野へ攻め込んだ時、酒井氏は井田城から尾張勢を迎え討つため出陣したと伝わる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
愛知環状鉄道線 北岡崎駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「拳母城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
拳母城は徳川譜代の家臣が代々藩主をつとめた。戦国時代には今川氏が治めていたが、桶狭間の戦い後に織田氏の傘下に入る。江戸時代には、三宅康貞が1万石で入封。三宅氏が4代、鳥山氏(幕府天領)、本多氏3代、内藤氏7代が治めた。内藤氏は、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため童子山に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」と呼ばれた。戊辰戦争では新政府軍に恭順する。現在、曲輪等が遺される。

<アクセス>
愛知環状鉄道線 新上挙母駅 徒歩15分

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