まるやまじょう

丸山城

三重県伊賀市


旧国名 : 伊賀

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①城址碑
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:丸山城 (2024/09/27 訪問)

上林駅から徒歩10分くらいで、登り口標識(34.699699、136.161504)に着きました。

築城年代は定かではないようです。1578年(天正6年)北畠信雄は伊賀の領国化を図り、家臣の滝川三郎兵衛に丸山城の修築を命じたが、完成する前に伊賀国衆らによって攻められ落城しました。
その後、織田氏の大軍によって伊賀を制圧、三郡は信雄に与えられ、これによって信雄は家臣滝川三郎兵衛雄親に再び丸山城を築かせたと考えられているようです。

丸山城の主郭まで見学路が設けられています。
丸山城山頂主郭には一段小高く方形の土壇があり、この上に丸山城の石碑が建てられています。
主郭の西側面には横堀、北東側に虎口、南にも桝形虎口が見られます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く投稿に耐えられません。よって、駅や電車の写真も投稿させていただきました。
攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず上林駅から松阪駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、奈良県の新王寺駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=25891歩、攻城距離=18.12Kmでした。

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しんちゃん

映画「忍びの国」で有名になった城。 (2023/07/15 訪問)

かつて伊賀の国人衆が織田信雄の築城途中の丸山城を攻めたことが天正伊賀の乱の
発端となり、織田信長の伊賀平定のきっかけとなりました。
最近では「忍びの国」という嵐の大野くん主演の映画にも出てきましたね。
北からも登城できるようなのですが、南からのルートが一番安全そうなので
南から攻めました。その際、近くにある公民館の駐車所を使用させていただいています。
南口から入ってすぐに、小さな神社のある郭のような場所があり、ここから北上すると
すぐに主郭にたどり着きます。主郭の中心は天守台になっているらしく
大きな城址碑が建っているのですが、ひどいヤブでまったく周囲の状況が判別できません。
足元も定かでなく危ないので、尾根上の郭を通過しながら西の下山口を目指します。
途中、堀切や土塁の遺構を目にしたのですが、それほど大きなものでもないようです。
西の丸の端が給水施設になっているようで、そこから道沿いに下山していきます。
下山途中、いくつか兵を駐屯できそうな扁平地がありました。
主郭部以外はそれほどヤブ化しておらず歩きやすいのですが
肝心の主郭があの状態なのは残念な所です。
自治体が草刈りをしてくれると助かるのですが‥



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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅤ 伊賀の乱主要城郭 (2021/04/11 訪問)

 千賀地氏城を終えて東に約6km程の丸山城を目指す、天正伊賀の乱1次2次と火付け役舞台となった山城なので登城して観たいと思って居りNHKBSプレミアムで英雄たちの選択で放映され今回の伊勢・伊賀未踏の城廻りで期待していた城の一つ。
 情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん古城盛衰記さんに依る、登城ルートは城郭放浪記さんの丸山集会所、南からの登城。

 駐車場:丸山集会所駐車場(N35°41'59" E136°09'41")
 
 概要案内:集会所前の道から案内指示板が有り指示に従い民家横の南側登城口、案内指示標柱、緩やかな坂道を登って行く、左右には曲輪の跡を思わせる地形、最初の広い曲輪に出る北側に祠が祀って有る出丸かな?、北に向かって緩やかな尾根道を登る、道筋には曲輪のような地形、急な坂道に成り粘土質の土と落ち葉で滑りやすい、虎口を二ヶ所通り本丸へ、虎口の左右には曲輪群小竹藪状態で突入できず、本丸内も小竹藪状態入れない、天守台に城名石碑が建ってる、南下に小曲輪何か祀ってる宝篋印塔、堀底道を南降り西尾根曲輪群へ縄張図も無く途中まで行き引き返す、広い曲輪、縊れた処には土橋と左右に竪堀、来た登城路を駐車場に戻る。
 古城盛衰記さんは西からの登城路で西の丸、西尾根、本丸のルートを案内されてる、城郭放浪記さんは南から登城路で南尾根、北尾根本丸、西尾根を周回探訪されてる。
 全山を城郭に築き上げた大城郭です、登城路は歩けますが道以外は小竹藪潅木状態でちょっと入り込めません、天守台、宝篋印塔の有る曲輪は整備されてますがせめて本丸の藪は整備頂けるとありがたいのですが?

 歴史:北畠氏の養子となった織田信長次男信雄が伊勢を掌握し伊賀を狙い天正6年(1578年)家臣滝川雄利に丸山城を修築を命じた。壮大な城郭で有る事を知った伊賀の土豪衆は完成までに攻撃すべしと総攻撃を仕掛けた、不意を突かれた滝川氏は混乱敗走。
 翌天正7年(1579年)信雄は8千の兵で伊賀を三方から攻めるが伊賀土豪衆の抗戦に敗走。(第一次天正伊賀の乱)
 激怒した信長は天正9年(1581年)信雄を総大将に5万の兵で伊賀を侵攻し1週間ほどで伊賀の国を制圧。(第二次天正伊賀の乱)

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イオ

天正伊賀の乱の引金 (2019/12/01 訪問)

伊勢の実権を握った北畠(織田)信雄が、伊賀侵攻のため北畠具教の隠居城を滝川雄利に修築させた城で、大規模な築城を警戒した伊賀衆の攻撃を受けて完成前に落城。「天正伊賀の乱」の引き金となりました。織田軍により伊賀衆が制圧されると滝川雄利が城主となりましたが、伊勢・松ヶ島城に移ったのを機に廃城となったようです。

三方を川が取り巻く丘陵地一帯に築かれた城で、頂部に主郭、主郭から北、西、南に伸びる尾根沿いに曲輪群が配されており、主郭には城址碑の建つ天守台のほか、土塁や櫓台がある……はずなんですが、草が生い茂っていて何が何やらわかりません。それでも人の踏み跡らしきあたりを藪をかき分けながら進んで行くと、主郭東部の虎口付近には二重横堀と土塁が残っていました。また、主郭北部には土塁が、その先の北曲輪群との間には堀切が設けられています。西側尾根の曲輪群には、古墳を利用した櫓台と尾根道を断ち切る堀切があり、南側尾根の金毘羅社がある曲輪には、南側に土塁が見られます。
周辺の丘陵にも出曲輪があったようなので、西之丸から谷をはさんだ向かいの秋之丸にも行ってみましたが、登城路はなく、斜面を直登して草木の中に曲輪の形状が確認できたくらいでした。

丸山集会所の隣に登城者用駐車場があり、その近くの案内標識をたどれば迷わず登城口に行けるなどよく整備されていますし、なかなかの規模の城でもあるので、主郭周辺の藪をどうにかできれば、もっと見応えがあると思うんですけどね。

…ということで、新年あけましておめでとうございます。今年もみなさまの投稿を参考にさせていただければと存じますので、よろしくお願いいたします。
 

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城、丘城
天守構造 複合式?[3重?/1578年頃築/破却]
築城主 北畠具教
築城年 天正4年(1576)
主な改修者 滝川雄利
主な城主 滝川氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 曲輪、天守台、櫓台、土塁、堀切
再建造物 石碑
住所 三重県伊賀市枅川
問い合わせ先 伊賀流忍者博物館
問い合わせ先電話番号 0595-23-0311