【丸山城】
<駐車場他>丸山集会所
<交通手段>車
<見所>切岸・櫓台・天守台
<感想>日帰り伊賀攻めの旅3城目。丸山城は1576年に伊勢国司の北畠具教が隠居城として築城を開始したが、織田信長と不和になり三瀬館に移った為に途中放棄となっていた。1578年に北畠信意(織田信雄)は伊賀攻めの拠点として滝川雄利に修築を命じ開始します。危機感を感じた伊賀郷士達は同年、修築途中の丸山城を攻撃して滝川雄利達を退去させます。翌年の1579年に北畠信意が軍を率いて伊賀に攻め込む第一次天正伊賀の乱が起きます。丸山城の廃城年は定かではないようで、伊賀郷士達が攻めた時とその後織田信雄が丸山城を滝川雄利に与えて1584年に滝川雄利が伊勢松ヶ島城に転封となるまであったとする説があるようです。
城跡は山城扱いとなってはいますが比高が100mないであろう丘城といった感じです。山全体に曲輪群を配した規模の大きな城郭で登城口に入ってすぐ曲輪群が見られます。城跡は主郭を中心におおむね南の登城路、北尾根の曲輪群、西尾根の曲輪群と3方向に分かれています。南側のピークに祠のある出丸のような曲輪があります。祠がある所が櫓台だったようにも感じます。北尾根の曲輪群は2郭を中心に横堀が走り広い削平地を取っています。西尾根の曲輪群は一番尾根が長く、真ん中辺りに古墳を利用した櫓台、西端に配水池に改変された櫓台があります。西尾根は尾根下段にも曲輪群があり見応えがあります。
主郭は北西に天守台があり、周辺に礫石が沢山落ちているので現地説明板の通り当時は石垣造りであったことが分かります。藪化していましたが天守台の周囲を1周しましたが石垣は全く残されていなく、全部崩落したようです。主郭は広い削平地で北に土居があります。主郭も藪が酷くて少し残念な感じでした。
甲賀・伊賀地方のスタンダードの単郭方形高土塁の城郭構造ではなく、山の地形に沿って大小不定形な曲輪群を備えた城跡でしたので伊賀ではない縄張りだということがよく分かる構造でした。
<満足度>◆◆◇
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