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ぴーかる

横尾八幡城 (2023/11/25 訪問)

【横尾八幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。登城口の道路脇に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>主郭
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目10城目。現地説明板によると横尾八幡城は大永年間(1521~1528年)に尻高三河守によって築城された伝えられます。後に塩原源太左衛門が城代となり、1580年真田昌幸の吾妻進出によって富沢豊前守が配置されました。武田氏滅亡・本能寺の変後は北条氏が進出してくるようになり、真田昌幸は利根・吾妻の2郡を長子真田信幸に任せます。信幸は吾妻の武士たちをこの城の番衆として守らせます。1589年北条氏邦が攻めてきますがこれをよく守り撃退しています。
 城跡へは登城口から案内版矢印に従って行けば主郭背後の帯曲輪に入り主郭に着けます。城跡は主郭とその下段に副郭の大きく2つの曲輪があり主郭に帯曲輪が取り巻き、主郭は土塁囲みになっています。土塁が高く主郭内、主郭の帯曲輪から見上げるとまあまあ迫力があります。主郭東側の副郭のさらに東側の奥が急峻な崖になっていて土塁も何もなく落ちたらヤバイ状態になっており珍しい構造、後年崩れたものかもしれません。城跡内は雑草化していますが登城口から城跡内まで舗装道なので簡単に攻められる山城です。

<満足度>◆◆◇

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ゆい

初めてのぼっち城! (2024/01/05 訪問)

初投稿です( *´꒳`*)
実は三雲城跡から駐車場への帰り道に偶然このサイトを見つけて、すぐ登録しました✨

ダイエット中なので、運動も兼ねて1人でやって来ました。
駐車場にたどり着くまでの住宅街は狭かったのでハイエースやハイラックスなどの大きな車で行くのはお勧めしません。。。

三雲城は初めてなので、Googleに案内された、
三雲城址・八丈岩駐車場に停めていきました。

土日は駐車場にある売店?が開いているようでそこで御城印やグッズが購入出来るようです。
平日は近くの長谷商店さんで購入できます♪
私は長谷商店さんの自販機で購入しました!

平日だからかとにかく人が少なく、登っている時も出会ったのは2〜3人でした。
冬で寒いですが、登っている時はじんわり汗ばみました。
行く時は着込むより脱ぎ着できる服装がオススメです。
弾丸だったのでスリッポンで行きましたが、登れます。
ただ、紐のついた靴の方が絶対にいいです。

あと、駐車場より上に登っていくと2、3台停められるスペースがあるのであまり混んでない時に行くならそこに停めるのがおすすめです。
そのスペースに行くまでの坂道がかなり急勾配でキツかったです💦

登城口から先の林道は、小学生くらいなら登れるかなぁという感じです。
道無き道を登る訳ではなく、所々急な階段を登っていきます。
過去にドラマの撮影現場にもなっていたそうですよ( °Д° )
しかも時代劇とかじゃない…

上まで1人で登って思ったことは、あまりにも誰にも出会わないので心細い、です。
八幡山城をひとりで登るのとは訳が違います。

でも、絶景に出会えて、いい汗かけるのでおすすめです!

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イオ

水攻めと清水宗治 (2023/10/15 訪問)

戦国期に三村氏に仕えた石川氏が足守川東岸の沼沢地に築いた城で、三村氏が毛利氏に滅ぼされると清水宗治が城主となり、羽柴秀吉の中国攻めでは水攻めの舞台となりました。本能寺の変を受けて宗治の切腹を条件に秀吉と毛利方が和睦すると、宇喜多氏の城として花房正成が入り、関ケ原の戦いの後は花房職之が交代寄合旗本として城主となりました。江戸初期に一国一城令により廃城となりましたが、廃城後も花房氏がこの地を領し、本丸跡に陣屋を構えて明治まで続いています。

南側の駐車場から登城開始。駐車場のあたりは三の丸跡で、駐車場から南に徒歩2分には南手口の外濠に舟を並べて橋とした舟橋跡に説明板が立てられています。駐車場北西の髙松城址公園には蓮池が広がり、水攻図案内盤、水攻め築堤跡高さ表示板、水攻音頭など大いに水攻め推しです。4か月前にリニューアルオープンしたばかりの備中高松城址資料館を見学し、続100名城のスタンプを押したら「高松城水攻め」パンフレットを片手に城めぐり再開。資料館の裏手に説明板があり、説明板の奥の田畑が二の丸跡のようです。資料館は城外だったんですね。二の丸跡西側に復元された蓮池に自生する蓮は宗治蓮と呼ばれ、400年前から地中に眠っていたもののようです。

宗治蓮を眺めながら橋を渡って本丸へ。本丸には清水宗治の首塚があり、辞世の句碑も立てられています。また、本丸から北西に徒歩2分の住宅地(家中屋敷跡)には胴塚が、南側の駐車場から東に徒歩1分の妙玄寺(花房氏の菩提寺)は清水宗治自刃の地として供養塔があり、妙玄寺すぐ南のごうやぶ遺跡は宗治の家臣らが殉死した地と伝わります。

続100名城ながら明瞭な遺構はほとんど見られませんが、水攻めと清水宗治関連の史跡だけでもなかなか見どころがありました。せっかくなので、周辺の水攻め関連遺跡にも行ってみるとしましょう(続く)。
 

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チェブ

天下布武は年中無休。 (2024/01/03 訪問)

2024年の最初のお城攻めは「岐阜城」。
年中無休と言うことで、『日本100名城』のスタンプが押せます。
岐阜県の他の100名城・続100名城は正月三が日はお休みです。
ロープウェイで山頂に向かいました。
斎藤家の『二頭立波』の幟旗がたくさんあり、 斎藤 道三さんの人気もうかがえます。

ロープウェイから少し上がった所にトイレがあります。こちらからの眺めが最高でした。

1月1日の能登半島地震。
被災された皆様と、その家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
東京の端っこも緊急地震警報が流れました。
遠い石川県の、地震の影響が届く程の揺れです。現地の方々は、恐怖だった事と思います。

朝田 辰兵衛さん、越後の地も被害が出ているとの報道を見て心配してました。
投稿が届き、ホッとしました。
*朝田さんの「足柄城」の投稿が1月1日の16時12分だったので、違う意味でビックリしましたが、、、。
どの方も、楽しく お城巡りができる日が、 1日でも早く来ますように。

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くうくう

甲斐国守護代跡部景家終焉の地

「甲斐国志」に「安田遠江守ノ要害ナリ」と記され、平安末期に活躍した甲斐源氏安田義定の居城だった。現在小田野山標高883mには中世山城の様相が見られ、室町期守護代跡部景家によるものと考えられる。三方尾根には遺構が連なり、南の段郭、北の堀切や竪堀、東の尾根には雄雌の竜石など探索が楽しめる。登城口は普門寺西奥にある。晩秋での登城で落ち葉が多く斜面が滑り苦戦した。

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くうくう

信虎築城、信玄出生の標高780mに築かれた武田氏の詰城

武田信虎が永正17年(1520)躑躅が崎の武田氏館の詰城として築城。東郷平八郎書による「武田信玄公誕生之地」碑もある。主郭は土塁がめぐり、大手方面の西は階段状に曲輪が展開、搦手方面の東は大きな堀切が何本か確認できる。石塁や虎口が石積みで固められてたり、背後の堀切などには石積みが見られたり、と堅牢に防御されている。南東尾根の支城熊城とともに戦国期の武田氏山城の迫力を余すことなく伝えている。

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todo94

城カードゲット (2023/12/09 訪問)

コインパーキングに駐車し、水戸駅の観光案内所にて城カードを購入してから攻城に取り掛かりました。水戸学の道・慶喜(将軍)ルートに従って、三の丸空堀、大手門、二の丸展示館、二の丸角櫓、杉山門、薬医門、柵町坂下門と水戸城を堪能させていただきました。

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朝田 辰兵衛

足柄城より徒歩で👣 (2023/12/17 訪問)

足柄城より徒歩で転戦しました。武田と北条が奪い合った城ですが,巨大な三日月堀を目の当たりにすると,武田の執念をひしひしと感じました。ここの三日月堀のRは,諏訪原城より大きいんじゃないかな…と。あくまでも,個人的な主観ですが。
ちょっと離れた大雲院に大手門が移築されています。見落とし注意です。

そうそう,1月1日に発生した能登半島地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。我が家は,少し歪みましたが,鏡が1枚割れただけで済みました。液状化の影響も受けておらず,ライフラインは問題ナシです。通信レスポンスも改善に向かっております。
羽田の航空機事故に巻き込まれた方はいなかったのかなぁ…。スタンプ帳等は燃えてしまってますね。
どちらにおいても,思い出の品々が一瞬のうちに消失するという出来事…。

『思い出は,まずしっかりと心に刻むこと』を肝に銘じたいと感じた年頭となりました。

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小城小次郎

小原越防衛線の一角を担ったのだろう (2023/04/22 訪問)

一向一揆衆の城との見方もあるようだが付近の堅田館と同時期の13世紀と、更に16世紀には盛土による大規模造成がなされたことが発掘でわかっている。普通に考えれば小原越を睨んだ前田家による防衛線の一環としてのお城だろう。

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くうくう

七つの尾根に広がる戦国山城の威容が髣髴される名城

能登守護畠山満慶が正長年間(1428-29)に築く。最初は砦程度のものであったが政庁も移され天宮と称される程の威容を誇る拠点城郭となった。今では日本五大山城に数えられる。天正5年(1577)上杉謙信により落城。畠山氏の治世は終わり、その後織田信長の侵攻により、前田利家が入城するも、小丸山城築城により廃城した。曲輪・石垣など遺構は良好。散策コースが整備され、調度丸、遊佐屋敷、本丸、桜馬場、二の丸、温井屋敷、九尺石、三の丸、安寧寺、沓掛場、とよの水、寺屋敷、と主要部を見学できる。眺望も素晴らしい。七尾の市街と能登島が正面に見える。

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くうくう

巨石が混じる石垣と堀に郷土博物館の模擬天守が映える

天文12年(1453)神保長職が築く。最近の発掘調査では室町前期の遺構が見つかり創建は更に古いと考えられている。北陸街道と飛騨街道が交わる要衝の地で神通川を守りに利用した浮城だった。江戸期は加賀藩前田氏の分家が10万石で領した。
現在の天守は本丸鉄門跡の石垣上に複合連結式望楼型3重4階で昭和29年(1952)富山産業大博覧会時に建てられた模擬天守。郷土博物館として利用されている。また東側には移築されてきた現存の千歳御門がある。

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御殿場跡 東砦 (2024/01/04 訪問)

 山麓の御殿場跡は主に三段の曲輪からなり、伝大手門付近などに石垣が残っています。東砦には曲輪跡や堀切がみられますが、発掘調査が行われていないため詳細は不明とのことです。

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搦手方面、大手方面 (2024/01/04 訪問)

 今回は前回行っていない堀切、搦手道方面へ行くことが目的でした。堀切へ降りて行く道がなく難渋しましたが、堀切は大きく迫力がありました。大きくて自分のカメラでは収まりきれません。堀切を確認したら戻るつもりでしたが、ふと見ると搦手道の案内表示があました。導かれるように登って行くと小曲輪、また広い踊場と記載された案内板がある削平地がありました。この周辺が遺構なのか否かが記載されているものは見つけられなかったのですが、曲輪の跡なのでしょうか。道は荒れています。
 大手道は道も整備され歩きやすいです。

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小里光忠 (2024/01/04 訪問)

 久しぶりの登城です。小里光忠により築城されたともされていますが、「信長公記」によると武田氏が明知城を包囲した際に、織田信長の命により普請し池田恒興を番手としたと伝わっています。
 登城路は整備されていて案内標識もあり迷うことなく御殿場跡から大手道を通って本丸へ行くことができます。石垣が多く残されていて本丸にある天守台が目につきますが、そこ以外にも各所に残っていて楽しませてくれます。二の丸にある石垣もよかったですが、観るためには少し崖を降りる必要があります。

 瑞浪駅から東鉄バスに乗り山の田バス停にて下車。徒歩5分くらいで奥矢作さくら街道沿いにある登城口に行くことができます。

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肉球

住宅街の中の城址 (2023/12/25 訪問)

平安時代末期に加治氏によって築かれたようです。
その後新田義貞の家臣畑氏、管領上杉氏や北条氏に属した斎藤氏が
城主となっていたようですが滝川一益によって落城。
徳川家康が関東入府時に川窪信俊が陣屋を築き
元禄の頃まで使用していたようです。
城址中心部には金窪城公園があり車も止められます。
現地案内板には土塁が4箇所確認できるとされてますが
どれがそれにあたるのかは分かりません。

川窪信俊は武田信玄の甥で養母であった信玄夫人を
近くの陽雲寺に住まわせたようです。
陽雲寺には土塁らしきものとお墓が残っています。

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もも吉

櫓の内装仕上げが畳というビックリ仕上げ (2023/12/23 訪問)

ご自分の娘婿の為に作った櫓が再現されており、その内装が畳仕上げというビックリなお城でした。
建造した当時の城主の背景やその後の変遷を知って非常に関心をしたお城でした。

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イオ

沼沢地の沼城・其の弐 (2023/10/15 訪問)

戦国後期に宇喜多氏への備えとして三村家親が築いた城で、東隣の庭瀬城と一体として機能したとされます。羽柴秀吉の備中高松城水攻めでは毛利方の備中境目七城のひとつに数えられるも落城し、宇喜多氏の城となりました。関ケ原の戦いの功により戸川達安が入ると、庭瀬城跡に陣屋を構え撫川城は廃城となりました。江戸前期に戸川氏が無嗣断絶すると、弟の戸川逵冨が交代寄合旗本として5千石を知行し、撫川城跡に撫川陣屋を構えて明治まで8代続いています。

庭瀬城から徒歩で登城。四周を水堀に囲まれた主郭は撫川城址公園として整備され、南側からの土橋を渡ったところに撫川知行地の総門が移築されています。総門をくぐった先には撫川城跡の説明板があり、石組みの井戸跡が見られます。主郭の東半分は土塁で囲まれ、中央奥には三神社が鎮座しています。西半分には宇喜多期に岡利勝が改修したと伝わる野面積みの石垣が状態良く遺っており、北西隅には櫓台と思しき石垣の張出部が見られます。

主郭をひとめぐりすると、西側に回り込んで水堀越しに西辺の石垣を眺めつつ、北側に回り込もうとしましたが、外堀跡と思しき小川に架かる太鼓橋を渡ったところで、撫川城から離れつつあることに気付いて引き返しました。水堀がめぐらされて思うように進めない沼城を思いがけず体感した撫川城でした。
 

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如意ヶ嶽城 (2024/01/03 訪問)

ここ数年、三が日の恒例にしている、東山〜比叡山越え(滋賀県大津市→京都市)は、今年は、琵琶湖疎水沿いから、山科毘沙門堂辺りで、登山道に入り、如意ヶ嶽城へ。15時頃から雨の予報でもあり、Ⅰ郭にある、展望所の人は少なめでした。
Ⅱ郭、Ⅲ郭がある南東側及び北東側は緩斜面であり、土塁、堀が特にしっかり作り込まれています。Ⅱ郭の竪堀の一部が登山道になっているのが面白いです。
下りは、真西の鹿ヶ谷 霊鑑寺への道を降りました。谷筋の道です。途中に、俊寛僧都忠誠の碑や楼門の滝があり、そこから少し下ったところに、谷を塞ぐ土塁と虎口らしき造作に気がつきました(写真6)。

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todo94

学校を守る空堀 (2023/12/09 訪問)

実は、2021年11月に説明板はチェックしていたのですが、勝倉小学校周りの空堀を見ていなかったので、投稿は差し控えておりました。改めて確認してみましたが、しっかりと掘り込まれた立派な空堀でした。しかし手入れが施されていないため、写真撮影はしにくく見栄えの良くない空堀でした。空堀の外は延々とフェンスで囲まれており無理やり空堀内に立ち入ることも困難です。学校を不審者から守る装置としてはかなり優秀な空堀だと思いました。

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天守無しがアツい

一ノ堀のみ見学 (2024/01/02 訪問)

三島駅から8kmのところに山中城跡という史跡があり、今回はそこを訪問。まず駐車場内にある売店へ。店自体は(年末年始ということで)閉まっていたのですが、予め用意されてる小さいジップロックに名前と住所と電話番号と枚数と合計金額と訪問日を書いて、枚数分と送料の合計金額を袋の中に入れて、専用ポストに投函するシステム

私の場合は(1枚なので)300+(送料)200=500円を中に入れて投函。袋の表面にボールペンで必要な情報を書く際、インクが薄くて書きづらいという不便もありましたが、おそらく大丈夫と見なせる程度に書き上げ、何度も確認してから投函しました📮

画像1枚目はここの概要について紹介した案内板。紹介文をコピペすると…

山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸(だいさきでまる)等の整備、増築を行ないました。

しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。


2枚目は「史跡 山中城址」と彫られた石柱。こういうのを見ると文字から与えられる印象として、「ああ…やはり自分は山中城にいるんだな🏯」という気分にさせられますね

画像3枚目は出丸御馬場跡。漢字だけではイメージしづらいですが、画像から見えるその深い堀と急角度な坂…つまりここは敵軍の侵入を防ぐための強力なトラップと考えればいいと思います。一度堀に落ちたらなかなか這い上がれない…そして敵兵の矢を受けてジ・エンド💀…そういう姿が容易に想像できます

4枚目も同じく敵軍を防ぐための堀。3枚目の前にこの堀が存在しているため、ここを突破しても更にまた別の堀が待ち構えてるわけ。私が今まで見てきた城跡は、堀らしきものはあっても草木に埋もれていてあまりよく分からない…という場所が多かったので、これほど堀の深さと凄さが分かるのは初めてだと思えました🫢

5枚目は城跡の地図。御城印購入の手続きをした後、この地図を目にした時は(エリア全部を巡るのは無理そうなので)本丸だけにしようと思ったのですが、あまり時間に余裕が無かったので、サクッと行けそうな一ノ堀…つまり地図の左側だけを巡ることにしたのです

その行程で撮影したのが1枚目〜4枚目までの画像。30分程度でサクッと巡れる範囲でしたが、そこを見るだけでもこの城の防御力の高さ、攻略の難しさが伺えました

深い堀と急な坂…おそらくその上からは北条軍の矢の雨が敵軍を襲い、そこは修羅場と化した…それを秀吉は大軍を動員しての力攻め…ひたすら数で押してこの城を陥落させた…北条軍は防御側有利を活かして必死に奮戦するも、じわじわと突破され次々に兵士が倒されて、そして全滅…という姿が目に浮かびました😌

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